習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

May『ファンタズマゴリー』

2012-07-17 22:39:16 | 演劇
 この小さな一歩は、とても大事な始めの一歩となる。これまでどんどん加速するように大きな話を作り続けてきた金哲義が『ボクサー』で大河ドラマとしての自分史の完成形を極めた。そこで、「家族のこと、生野のこと、在日朝鮮人であること」といった自分を巡るいくつもの問題ととことん向き合い、それをドラマにしたのだが、今、とりあえずそこに一区切りを付けた後、ようやく新しい第1歩を踏み出したのが本作だ。

 日本人であるとか、朝鮮人であるとか、そういう問題ではなく、まず自分がひとりの人間であるということを見つめなおすこと。でも、それはありきたりな自分探しなんかではない。今、自分のいるところをしっかりと踏まえたうえでの話としてみせる。在日朝鮮人としての自分の出自からスタートした金哲義の挑戦は、ここから新たなステージを目指す。自分たちが弱者であることを認めたうえで、そのことを負い目に感じるのではなく、その事実をきっちり踏まえたところからの戦いを描くことだ。

 知的障害を抱える弟と暮らす姉。彼の介護のために、フルタイムでの仕事を断念した彼女が、彼のために、そして自分自身のために何ができるのかを見つめるための旅に出る。そこに小学3年になったばかりの甥っこもついてくる。さらにはスランプに陥った小説家の青年も同行して、引っ越してしまった弟の友達(彼も知的障害者だ)を捜しにいく小さな旅をする。

 今回の作品は2時間弱の(それでも2時間ある!)小品である。だが、ここで向き合う現実は決して小さなことではない。金哲義は、2人の少年の友情を描くドラマに見せかけて、彼らを巡る現実を家族の視点を通して立体的に見せていく。彼はこの作品の中で声高に現実の批判をしようとするのではない。それどころか、彼は何も言わない。

 社会的弱者に対して行政は手を差し伸べようとしないというのが、今の橋下市政を中心とする大人のやり方だが、目に見えるところばかりを気にして、本来必要なものをないがしろにしようとする。なのに、人々は彼の派手なパフォーマンスにだまされ踊らされているというのが現状だろう。体制批判のドラマは今までもたくさんあった。

 だが、この作品はそこにはいかない。そんなことよりも、この家族が抱える困難を、彼らが、自分たちの手でどうにかしていくための努力をしていく姿を丁寧に描くことに終始する。行政を含めた他人が助けてくれるのを待つのではない。自分の足で一歩踏み出していくための道のりを静かに描いていこうとする。声高に世の中や政治の在り方を非難するのではない。

 終盤の障害を抱えた春雄と真二郎が再会するシーンを感動的に盛り上げたりはしない。2人は再会のとき、きょとんとしている。そしてお互いに触れることで、再会を確認し、以前と同じようにじゃれあう。まるで、昨日の今日で会ったように、とてもふつうだ。現実はドラマチックではない。日常は静かに過ぎていく。ここに立ち、目の前の現実をしっかりとみつめて、僕らは生きていく。そんな覚悟が2人の再会シーンから感じられた。もちろん、当の本人たちはそんなこと何も考えていないのだろうけれども。

 在日であることの痛みが、これから先の若い世代の生きる世界では実感できなくなる時代がやがてやってくる。それは幸福なことなのか、というと、必ずしもそれだけではない。朝鮮語がしゃべれることがステータスになり、自分たちがバイリンガルであり、日本語しかしゃべれないような日本人なんかよりも、一段高い位置に立つことになっても、それは凄いことではない。

 これまでの歴史の先に見えてくる新しいもの、それとどう向き合うことになるのだろうか。いろんなことが簡単ではないように、金哲義が描く宇宙もまた単純ではない。この作品は、描くべきものはまだまだあることが、明確になる、そんな新しい一歩である。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« くじら企画『夜が掴む』 | トップ | 水見洋平『夏色のスクリーン』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。