女はどうしてこんなダメ男のことを好きになるのだろうか。死をちらつかせる破滅型作家の人生の伴侶となってしまった女は、それでも彼から離れられない。愛してるから、とか、言わない。ただ、彼に寄り添う。
太宰治の同名短編の映画化なのだが、文豪太宰とかは関係なく、純粋にこの映画が見せる風景に心魅かれる。見事な美術(種田陽平)で再現されたいくつもの風景がすばらしい。2人が暮らす家。東京の繁華街、裏町、横町の居酒屋。この映画の主人公はこの美術ではないかとすら思う。映画は戦後すぐのそんな風景の中で、ある夫婦が生きていく姿をただ淡々と追いかけていくだけだ。そこにはなんの批評も、メッセージもない。こんな男と、こんな女がいたことを見せる。
女はただあるがままの彼を受け入れていく。お金を浪費し、家庭を顧みない。他の女と心中する。
なぜあんな男についていくのだろうか。理解に苦しむ、だなんて言わない。理屈ではないものがそこには確かにある。映画はそんな2人をただ淡々と見つめていく。
昔、彼女が万引きしたとき、彼が助けた。それが2人の出会いなのだが、その行為は彼の優しさではない。彼女の強引な理屈に心惹かれたからだ。自分は悪いことを今までしたことがない。今回だって自分のためではなく、好きな人のために襟巻きをどうしてもあげたかった。でもお金がなくて買えなかった。見ていたら自然と手を出していた。それって普通に万引きなのだが、本人はそこには断じて悪意はないと主張する。そりゃそうなのだが、それで許されるとはとても思えない。彼女は泣いたりしない。意志の強い視線で、警官に挑む。交番には人盛りが出来ている。そんな現場に彼は偶然に出合わせたのだ。この出逢いの後、大谷(浅野忠信)と佐知(松たか子)は結婚する。あの時、好きだった男(堤真一)は人盛りの中にいたにもかかわらず彼女を助けなかった。彼のために万引きをしたのに、彼は彼女から逃げた。
このお話は決してこの映画においてさして重要なエピソードではない。ここを起点にして話は始まっているのだが、映画はただの昔話として彼女の口から語られるだけだ。しかも、飲み屋の常連のお客で、彼女に惚れている純情そうな青年(妻不木聡)に話される。結果的には、彼女を愛する3人の男たちがこのエピソードには登場する。
夫と、かつて好きだった人、そして今彼女に心寄せる人。彼らが彼女を奪い合う、だなんて話ではない。夫は好き放題して余り家に寄り付かない。再会した昔の恋人は今では立派な弁護士になっているが、彼女を忘れられないと言いながらも、何もしない。純情な青年はやがて彼女から離れていく。もちろん彼らは彼女を愛さなくなったのではない。でも、彼らの思いは一方的で、彼女のことを考えたうえでの行為ではない。
彼女はそんな男たちの間で揺れるのではない。ただ一心に正面を向いている。夫である大谷と向き合う。彼だけを愛しているからではない。自分の運命や、人生について彼女は考えてない。ただ、目の前を一心に見つめている。だから、最初にも言ったように、これは理屈なんかではないのだ。僕たちは、彼女の視線に映るものをただひたすらみつめていくことになる。
行きつけの飲み屋からお金を盗んで逃走した夫の代わりに、飲み屋で働くことにすることも、そこで思いもかけない喜び(たくさんのチップを貰い、お客さんから歓迎される)を得ることも、さらには、夫が他の女と心中騒ぎを起こし、警察に捕まることも、ただあるがままに受け入れていく。
監督の根岸吉太郎と脚本家の田中陽造が作り上げた戦後すぐの東京で生きる破滅型の天才作家とその妻の物語は、太宰治だなんていう存在を無視して、とある特別な夫婦の物語として完結する。
不謹慎な話かもしれないが、貧乏がこんなにも、美しく描かれた映画はなかなかない。今の時代こんな風景はないし、戦後を舞台にしたからといっても、そうはなるまい。お金がないと生活は荒む。だが、彼女はずっと美しいままだ。それはこの映画が観念の世界を描いたからではない。彼女の心のまっすぐの純粋さが、ここに見えてくるからだ。
松たか子がすばらしい。強い意志というよりも、自分の身をそこに置いて、流されるように生きる。孤高の気高さがここにはある。対して、夫の浅野忠信は、誠実そうに対応する(2人が敬語で話し合うのがいい。両者の微妙な距離感がそこに描かれる)が、自分のことしか考えてないわがまま勝手な作家を見事に体現する。そんな中で無垢な自然を体現する。
太宰治の同名短編の映画化なのだが、文豪太宰とかは関係なく、純粋にこの映画が見せる風景に心魅かれる。見事な美術(種田陽平)で再現されたいくつもの風景がすばらしい。2人が暮らす家。東京の繁華街、裏町、横町の居酒屋。この映画の主人公はこの美術ではないかとすら思う。映画は戦後すぐのそんな風景の中で、ある夫婦が生きていく姿をただ淡々と追いかけていくだけだ。そこにはなんの批評も、メッセージもない。こんな男と、こんな女がいたことを見せる。
女はただあるがままの彼を受け入れていく。お金を浪費し、家庭を顧みない。他の女と心中する。
なぜあんな男についていくのだろうか。理解に苦しむ、だなんて言わない。理屈ではないものがそこには確かにある。映画はそんな2人をただ淡々と見つめていく。
昔、彼女が万引きしたとき、彼が助けた。それが2人の出会いなのだが、その行為は彼の優しさではない。彼女の強引な理屈に心惹かれたからだ。自分は悪いことを今までしたことがない。今回だって自分のためではなく、好きな人のために襟巻きをどうしてもあげたかった。でもお金がなくて買えなかった。見ていたら自然と手を出していた。それって普通に万引きなのだが、本人はそこには断じて悪意はないと主張する。そりゃそうなのだが、それで許されるとはとても思えない。彼女は泣いたりしない。意志の強い視線で、警官に挑む。交番には人盛りが出来ている。そんな現場に彼は偶然に出合わせたのだ。この出逢いの後、大谷(浅野忠信)と佐知(松たか子)は結婚する。あの時、好きだった男(堤真一)は人盛りの中にいたにもかかわらず彼女を助けなかった。彼のために万引きをしたのに、彼は彼女から逃げた。
このお話は決してこの映画においてさして重要なエピソードではない。ここを起点にして話は始まっているのだが、映画はただの昔話として彼女の口から語られるだけだ。しかも、飲み屋の常連のお客で、彼女に惚れている純情そうな青年(妻不木聡)に話される。結果的には、彼女を愛する3人の男たちがこのエピソードには登場する。
夫と、かつて好きだった人、そして今彼女に心寄せる人。彼らが彼女を奪い合う、だなんて話ではない。夫は好き放題して余り家に寄り付かない。再会した昔の恋人は今では立派な弁護士になっているが、彼女を忘れられないと言いながらも、何もしない。純情な青年はやがて彼女から離れていく。もちろん彼らは彼女を愛さなくなったのではない。でも、彼らの思いは一方的で、彼女のことを考えたうえでの行為ではない。
彼女はそんな男たちの間で揺れるのではない。ただ一心に正面を向いている。夫である大谷と向き合う。彼だけを愛しているからではない。自分の運命や、人生について彼女は考えてない。ただ、目の前を一心に見つめている。だから、最初にも言ったように、これは理屈なんかではないのだ。僕たちは、彼女の視線に映るものをただひたすらみつめていくことになる。
行きつけの飲み屋からお金を盗んで逃走した夫の代わりに、飲み屋で働くことにすることも、そこで思いもかけない喜び(たくさんのチップを貰い、お客さんから歓迎される)を得ることも、さらには、夫が他の女と心中騒ぎを起こし、警察に捕まることも、ただあるがままに受け入れていく。
監督の根岸吉太郎と脚本家の田中陽造が作り上げた戦後すぐの東京で生きる破滅型の天才作家とその妻の物語は、太宰治だなんていう存在を無視して、とある特別な夫婦の物語として完結する。
不謹慎な話かもしれないが、貧乏がこんなにも、美しく描かれた映画はなかなかない。今の時代こんな風景はないし、戦後を舞台にしたからといっても、そうはなるまい。お金がないと生活は荒む。だが、彼女はずっと美しいままだ。それはこの映画が観念の世界を描いたからではない。彼女の心のまっすぐの純粋さが、ここに見えてくるからだ。
松たか子がすばらしい。強い意志というよりも、自分の身をそこに置いて、流されるように生きる。孤高の気高さがここにはある。対して、夫の浅野忠信は、誠実そうに対応する(2人が敬語で話し合うのがいい。両者の微妙な距離感がそこに描かれる)が、自分のことしか考えてないわがまま勝手な作家を見事に体現する。そんな中で無垢な自然を体現する。