これは家族と家にまつわる物語。とてもシンプルでわかりやすいお話となっている。そういう意味ではあまり土橋さんらしくはない。社会的な背景とかは削除されてあくまでもこの家族の問題だけに終始する。でも、お話の作り方はいつもと同じで、だから、今回はいつものやり方で、それを個人的で小さな話としてまとめた、というだけのことだ。
だが、そのせいで先にも書いたようにとてもストレートな作品になった。ふたつの時間が交差する。現実の時間と、そうではない時間。でも、そのどちらが現実でどちらが、そうではないのか、なんてあまり意味を為さない。どんなこともあり得る。だから、どれが現実であるというふうに決めつける必要はない。17年前に父親が失踪した。母親は3人の子どもたちを育てた。兄は死んでしまい、弟とその下の娘が残った。
だが、芝居は死んでしまったはずの兄と妹の話から始まる。やがて、上の兄は死んでいることが明白になる。だが、芝居は、現実の話と、死んでしまった兄が生きている話とが並行して描かれる。そのうち、誰が生きていて誰が死んでいるのかも、どうでもよくなる。もちろん、話は整然と作られてあるから、そこで混乱することはないし、現実と、妄想が行き来するというわけではない。だが、ありえたかもしれない時間はとても鮮明に描かれていくから、別に誰が生きていて、誰が死んでいてもいいんじゃないか、とすら思えてくる。
兄が生きていた場合のお話では、彼がここに止まるから、この家は空き家にならない。そこでは、彼と恋人がここに住み、新しい家族を作るという話が展開する。本当ならそういう風にして、「家」は継がれていくはずだった。それが「家」のこれまでの歴史だった。だが、それは現実ではない。
現実は彼は死んでいてもうこの家に止まる人はいない。、そのことを、この家族の、この家の、不幸な出来事として描くのではない。では、このもしか、は何なのか。いくつもの可能性の先に、今あるこの現実があるのだ。だから今ある現実は、たまたまでしかない。いいとか、わるいとか、そんなことはどうでもいい。
ただ、はっきりしているのは、母親が若い恋人とこの家を出ていくという事実だ。それは、とてもハッピーなこととして、描かれる。若い恋人を演じた福山俊朗さんがとてもいい。この芝居に、というか、A級の芝居のカラーにまるで合わないところが、素晴らしい。こういうキャスティングができたことが今回の成功の大きな理由だ。母親を演じた条あけみさんとのコンビがとても浮いていて、素晴らしい。条さんは福山さんとの異世界も作りながら、家族とのいつものA級の芝居の世界にもなじむ。そのへんのバランスがとれているから、この作品は面白いものになった。
新しいお父さん(もちろん福山さんだ)の唐突な存在と、これまでこの家が醸し出していた雰囲気。そのぶつかり合いから、生まれるドラマが、本作の根幹をなす。
カナリアになって去って行ったもとの父親が(これはとても象徴的な言い方だが)本当にカナリアの姿になって(笑うしかない)自殺の名所の巡回をしているエピソードがこれも唐突に挟み込まれてくる。
このふたつの唐突の間で、彼ら家族の問題が描かれる。それはやがて、この家からみんないなくなる話となる。祖父母がいて、両親がいた。子どもたちは3人いて、3世代7人家族だった。芝居の冒頭近くで、そんな家族のテーブルの場面が描かれる。そこから、ひとりいなくなり、さらにひとり、と人が消えていく。やがてここにはもう誰も住まなくなる。これはそんな時間までのお話なのだ。
新しいお父さんとお母さんがハワイに移住する。家を離れていた弟と、妹は、ここにはもう戻らない。家だけが残る。ずっと続くはずだった。これまで、ずっとここで暮らしてきた。だが、家族は、一瞬で消えさる。その事実を悲しい話として、描くのではない。前向きで、未来に向けて、生きようとする彼らの姿とともに受け止める。何かの終わりであることは確かだ。家とともに家族は確かにここにあった、はずだ。だが、もう少しで、それは過去のものとなる。
田舎の旧家を舞台にして、やがて失われていくそんな風景を明るいタッチで切り取った。この21世紀の地方の家族の未来の物語が、やがて日本中を侵食していく時、この国はどうなっていくのだろうか。そんなことも視野に収めながら、でも、今回はこの社会の在り方にまでは、話を及ばさない。小さなパーソナルな話としてまとめたことが、反対に新鮮で、面白かった。
だが、そのせいで先にも書いたようにとてもストレートな作品になった。ふたつの時間が交差する。現実の時間と、そうではない時間。でも、そのどちらが現実でどちらが、そうではないのか、なんてあまり意味を為さない。どんなこともあり得る。だから、どれが現実であるというふうに決めつける必要はない。17年前に父親が失踪した。母親は3人の子どもたちを育てた。兄は死んでしまい、弟とその下の娘が残った。
だが、芝居は死んでしまったはずの兄と妹の話から始まる。やがて、上の兄は死んでいることが明白になる。だが、芝居は、現実の話と、死んでしまった兄が生きている話とが並行して描かれる。そのうち、誰が生きていて誰が死んでいるのかも、どうでもよくなる。もちろん、話は整然と作られてあるから、そこで混乱することはないし、現実と、妄想が行き来するというわけではない。だが、ありえたかもしれない時間はとても鮮明に描かれていくから、別に誰が生きていて、誰が死んでいてもいいんじゃないか、とすら思えてくる。
兄が生きていた場合のお話では、彼がここに止まるから、この家は空き家にならない。そこでは、彼と恋人がここに住み、新しい家族を作るという話が展開する。本当ならそういう風にして、「家」は継がれていくはずだった。それが「家」のこれまでの歴史だった。だが、それは現実ではない。
現実は彼は死んでいてもうこの家に止まる人はいない。、そのことを、この家族の、この家の、不幸な出来事として描くのではない。では、このもしか、は何なのか。いくつもの可能性の先に、今あるこの現実があるのだ。だから今ある現実は、たまたまでしかない。いいとか、わるいとか、そんなことはどうでもいい。
ただ、はっきりしているのは、母親が若い恋人とこの家を出ていくという事実だ。それは、とてもハッピーなこととして、描かれる。若い恋人を演じた福山俊朗さんがとてもいい。この芝居に、というか、A級の芝居のカラーにまるで合わないところが、素晴らしい。こういうキャスティングができたことが今回の成功の大きな理由だ。母親を演じた条あけみさんとのコンビがとても浮いていて、素晴らしい。条さんは福山さんとの異世界も作りながら、家族とのいつものA級の芝居の世界にもなじむ。そのへんのバランスがとれているから、この作品は面白いものになった。
新しいお父さん(もちろん福山さんだ)の唐突な存在と、これまでこの家が醸し出していた雰囲気。そのぶつかり合いから、生まれるドラマが、本作の根幹をなす。
カナリアになって去って行ったもとの父親が(これはとても象徴的な言い方だが)本当にカナリアの姿になって(笑うしかない)自殺の名所の巡回をしているエピソードがこれも唐突に挟み込まれてくる。
このふたつの唐突の間で、彼ら家族の問題が描かれる。それはやがて、この家からみんないなくなる話となる。祖父母がいて、両親がいた。子どもたちは3人いて、3世代7人家族だった。芝居の冒頭近くで、そんな家族のテーブルの場面が描かれる。そこから、ひとりいなくなり、さらにひとり、と人が消えていく。やがてここにはもう誰も住まなくなる。これはそんな時間までのお話なのだ。
新しいお父さんとお母さんがハワイに移住する。家を離れていた弟と、妹は、ここにはもう戻らない。家だけが残る。ずっと続くはずだった。これまで、ずっとここで暮らしてきた。だが、家族は、一瞬で消えさる。その事実を悲しい話として、描くのではない。前向きで、未来に向けて、生きようとする彼らの姿とともに受け止める。何かの終わりであることは確かだ。家とともに家族は確かにここにあった、はずだ。だが、もう少しで、それは過去のものとなる。
田舎の旧家を舞台にして、やがて失われていくそんな風景を明るいタッチで切り取った。この21世紀の地方の家族の未来の物語が、やがて日本中を侵食していく時、この国はどうなっていくのだろうか。そんなことも視野に収めながら、でも、今回はこの社会の在り方にまでは、話を及ばさない。小さなパーソナルな話としてまとめたことが、反対に新鮮で、面白かった。