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映画・演劇のレビュー

『耳をすませば』

2022-10-28 14:46:05 | 映画

昨日『20世紀のキミ』の感想を書いていて、なんだかがっかりしたのは、あの素敵な映画の素晴らしかったわけがまるでうまく書けないな、と苦戦したことだ。あの映画のダメなところならいくらでも書ける、なのにいいところを文章にして伝えることができないのだ。その理由は明白だ。

あの作品が言葉にはできない気分や想いをちゃんと描いていたからだ。あまりの定番ストーリーに乗っ取っているにもかかわらず、そんなことを承知の上で、だからこそ可能な世界を自由自在に描き切ったことによる。突っ込みどころは満載なのに、作り手は敢えてその轍を踏もうとしている、あれはそんな絶対の自信に裏打ちされた映画だと思う。だから、悔しいが何も言えないのだ。ただただ、あの世界を堪能するしかない。実にあっぱれだった。レビューとしては完敗だが、あの映画には乾杯だ。

女同士、また男同士のそれぞれのふたりの友情。相手を思う気持ちが大きければ大きいほど、うまく言えない。伝えきれない想いの丈があそこには誠実に描かれていた。そこに共感する。彼がいきなりオーストラリアに帰ることになるという展開すら受け入れられるのは、そこに象徴された儚さが普遍的なものだからだ。どれだけ素敵な時間にでもやがて終わりは来る。素敵すぎると反対に早く来るのかもしれない。高校時代の3年間はあっという間の出来事だ。彼のように突然去ることにならなくても3年経つと必ず卒業は来る。その後の時間はそれまでの時間ではない。そんな当たり前のことを僕たちはもう知っているから、この映画の別れも受け入れられる。

さて、ここからが本題だ。今日、『耳をすませば』を見ながら、これはないなぁ、と思った。同じよう甘い映画で、同じように初恋を描きながらも、『20世紀のキミ』とは違いこれはなんだか嘘くさいと思ったのだ。その違いは何なのか? それは明らかだ。この映画が夢の時間をちゃんと夢として描き切れてないからだ。

ジブリによるアニメ版の前作はかわいい映画だった。中学生の幼い初恋をさりげなく描いた。映画としてはあっさりしすぎていていささか物足りないけど、悪くはない。だが、それを実写で見せると、とたんに嘘くさくなる。15歳の雫を演じた安原琉那のオーバーアクトも気になったが、10年後の清野菜名による大人の描写もリアリティに欠ける。原作が漫画だからというのは言い訳にしかならない。

17歳とその20年後を描いた『20世紀のキミ』と、15歳とその10年後を描いた本作には共通項は多い。だが、決定的に違うのは過去に対する姿勢の違いだ。この映画は、10年という時間の痛みが描けていない。彼がイタリアに旅立ち(去り)、遠距離恋愛になって10年になる。だが、その間の時間の積み重ねがまるで描けていないのだ。だから25歳になり、大人になった雫はリアルじゃない。ここでも15歳の時と同じで「おままごと」の域を出ない。これは現実の過酷さと向き合う映画ではないのだと言われたらそれまでだが、ただ甘いだけでは説得力はない。


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