想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

うさこの罪悪感

2009-05-12 02:26:18 | 
動的平衡(福岡伸一)という概念はあらためて説かれるまでもなく
昔の人は知っていたことであるし、守ってきたことである。
この親のいいつけにも似た自然界の掟をいったいどんな顔をしたヤツが
最初に破ったのか?

森にいて植樹したり新しい花苗を植えたりしながら、自分のしていることが
この森全体の環境に及ぼす影響をふと考えないではない。
たとえば、タンポポは年々増えているし、芝生の間に同じように黄色い小さな花が
根をつたって生えているのは見た目には美しい。
枯れ野のような冬の景色から一気に春、初夏へと移行する森の庭に彩りは嬉しい
ものであるが、君たちはいつからそこに現れたの? といぶかしむのである。



タンポポの犯人はわたしである。(そう、うさぎ好きのうさこが持ち込みました)
飼っていた《ぐみちゃん》といううさぎを森でしばらく飼ったあと放した。
東京に居たころは、ペットショップで買ったうさぎの餌を与えていて、
それに含まれていたタンポポやオオバコは糞として森の庭のあちこちに排出され
春が来て芽吹き、あとは風に乗って年々周辺へと広がって行ったのである。


タンポポは強い。
あまりに強く咲き誇り、玄関前には育ちすぎたタンポポが叢のような塊になって
いて少しも美しくはない。それに強者は魅力的ではないのであるね。
最初の数年は、茶色と緑しかない風景を明るくしてくれてよかったが、
こうも増えるとそのうち黄色い庭になってしまうのではないかと恐れ、
綿毛をつかまえることはできないし、ひたすら刈り取るが無駄な抵抗なのである。
昨年もずいぶん刈ったはずだが、あきらかに今年のほうが多くなっている。
道ばたにもずいぶん広がった。

人が住むということは、こういうことなのだとあらためて思う。
別荘地と偽り売地の看板を掲げ、だまされて買った人が建てる。
建て物は人が住まないのでカビだらけのまま放置され、周辺を草木が被い尽くす。
たまにやってきてあまりの惨状にまた足が遠のくようだが、だったら建物ごと
去ってほしいのだが。数年もたてばまたもとのように草木が生い茂り、実生から
育った木(たぶんどんぐり)で鳥の遊び場ができる。

この周辺でタンポポが生えている領域はうさこのテリトリーの印だといわんばかり。
罪悪感で、なんだかむかむかする黄色だがどうしたものだろう。
うさぎ一族は無事に家族を増やして生息しているので餌にはなるだろうが‥‥
草刈りのついでに刈り取るしかないかなあ。



生物の種が本来適応していた条件を人工的に改変、画一的な性格にして効率化を
はかると系そのものが脆弱化する。それによって予期せぬ陥穽(つまり狂牛病等)
が待ち受ける。それは補おうとする揺れ戻しの力(メカニズム)が働くからで、
これを福岡氏は動的平衡とよんでいる。
この概念はすべてのことに当てはまると思う。
たとえば、森本来の有り様にこちらが適応していく工夫をしないで、根こそぎ
入れ替えしようなどと甘い考えに釘を刺し、注意を促してくれる。

動植物人間いずれもみな生物は連鎖して存在し、競争と補完を繰り返している。
その浮き世のしくみをアホが取り違えてしまうが、必ずや大きな揺れ戻しが
起きるのが常である。起きる前に右へならへをしていた人は損をすることに
なって、だからといって被害者ヅラをしてはいけない。
理にさからって欲をかいたのは自身であることを忘れて、やれ政治が悪い、
銀行が、農協が、教育が、はたまたこんな世の中誰がした、と人のせいにしたがるが、
ご先祖さまの遺していった物事を古いとか言って打っちゃって大事にしなかった
自分が悪いのである。バチ当たりなだけである。
宗教や祭りは本来そういうことを伝えるためにあったはずだが、神官も坊さんも
信用なくなって形骸化し、福岡伸一氏のような科学者が伝道師みたいなことを
言っている変な時代になってしまった。ここにも当然揺れ戻しは働くはずであるが
たいていの人は生きているうちに遭遇することは難しい。
極端なことを言うと壊し滅びる側か、再生する側かどちらかである。
さしずめ現代は前者なので、ひたすら申し訳ないかぎりである。

現実には本を読んだからといって実践にはなかなか結びつかないところがイタい。
未来のオトナ、中高生にはちと難しいだろうし、カメのように噛み砕いて教えてくれる
ガッコの先生も少ないしなあ。
小説家の仕事かもしらんなあ。

さて、草刈りシーズン到来なので打倒タンポポ! 



コメント
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