想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

雨の中の小鳥

2009-05-19 08:25:33 | Weblog
ちょっと小降りになった合間に小鳥がやってきた。
庭先の植木の枝から枝へ、芝生の上へ、空中旋回して飛んでいる虫を
キャッチしたり。
それにしても体重が軽いのだなあ。
風で吹き飛ばされあちこちに落ちた小枝の上でもじょうずに留まる。
根っこがないから不安定だろうに。

ふと小鳥の体重ってどのくらいなんだろう?
文鳥を飼っていた頃、手のひらに乗せたり肩に留ったり
キーボードの上をちょこちょこしたりしていたのに、
意識しなかった。
何グラムくらいなのかなあ。
今思い出してみて、ほんとに軽くて柔らかくて壊れそうだった。

人が自分の肉体を意識するのは痛みやつきすぎた脂肪や、何か不具合が
あった時である。一生かけても自分を支え存在させている肉体のことを
じゅうぶんに知ることのないままに老いて、あるいは病んで死ぬ。
自分のことさえそうなのだから、自分以外の外界の生き物について
よく知っているかというと、きっかけがなければ関心を持たない。
何も知らずとも都合よくいっているうちは考えないのである。



小鳥を眺めながら考えていたら、目の前を蝶が横切った。
蝶の羽の鱗粉のナノ構造を解明して塗料が開発されたそうな、
そんな話をカメに聴いたことを思い出した。
あのキラキラ光る羽の美しい色がどうやってできているのか、光を反射する
しくみを学んだわけだ。車などに用いられている塗料がそうらしい。
飛行機の翼が鳥のそれと同じ形状くらいしか考えた事のなかったわたしも
森にいるとふだん見過ごすものを注視する。

基礎研究の世界は地味であるが、その地味なことに惹かれる研究者の気持ちが
少しだけわかる気がする。がぜん理科系に興味がわいてくる。
子どもの頃にそのことを知ることができれば、幸いだがなあ。
もっともこの歳になってさまざまに新しい知見に出会ううさこだが、
それはそれで、今だからわかることだ。

知は頭の中だけでは単なる情報の段階であるから、
フィールドワーク、経験が伴ってこそ本当にわかってくるのだなあ。
座して世界を見ていると言った稲垣足穂を、若い頃には憧れたりした。
その意味は文字通り座しているわけではなく、
稲垣足穂然り、ボルヘス然り、膨大な知が織りなす想像力を駆使せよと
いうことなのだろう。

経験も想像力も欠けているうさこは、ちょちょちょっと慌てて、
自然に驚き、凝視しているのである。





コメント
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