想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

なんだ坂こんな坂

2008-08-12 13:17:55 | Weblog
      なんだ坂、こんだ坂、はーアチーったらないね。



    ほーっと、昇りきりましたっと。



  なんか、ちょーだいーー。



    彼の人生(犬生か、どっちでもいいや)、坂道もまた楽し、昇っても降りても
    楽し。寄る年波も、イマイチなお腹の調子も、なんのことはない、って感じで
    ほぼ悟りの境地である。
    見習うことにしよう。

    特に腹だたしい夜などは、ベイビー、ありがとさんです。
    それらを胸にしまって、あれこれは削除して、こちらをアップするぜ。
    ここは風の谷のブログだかんな、親分の笑顔が基本だぜ。

    結局、ベイビーは笑い、うさこは怒っている。
    これが現実であるよ。
   
    

    
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神様に聞いてみよ

2008-08-11 01:11:02 | Weblog

   親分は信仰心に篤い。
   右か左か、どちらが先にオイラにアイスクリームをよこすか?
   神様に聞いてみよー。という熱い眼差しである。
   
   こどものときに、迷うと指さしながら、
   ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な。
   と声に出して言っていたような気がする。
   親分の視線はさっきから右左右左と泳いでいるが、
   アタマの中では言っているにちがいない。
 


   とりあえず、こっちからにしよーと決めた。
   理由は、早く減りそうだから今のうちに。
   って、神様に聞いてないじゃん!

   ※ 山ん中は激しい雷雨の後、電話回線が故障、復旧に手間取り
    ネットがつながらないのでした。
    山を降りてネット環境のある場所まで行くにはちょっと忙しかったので
    更新が遅くなりました、無事に生きてはおりますです。

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門番乙2号‥

2008-08-08 00:52:24 | 
  いったい何を考えているのか、年季の入った門番ですが
  君はいったいどこの子よ?
  ここんちの子でないことは確かなようで
  ニャーゴと他の猫がわめいたら、すたこらさっさ、塀をつたい向こう側へ
  消えました。

  猫の境界はどこにあるのか? 

  人は国土(領土)というものを定め、ああ、その前にまず国家というのを
  定めているので、こっちからこっちがうちでそっちがそっちでと
  ややこしいことで常にもめていますね。

  すたこらさっさと立ち去った君はまたいつのまにか、ここにきて
  通りを眺めるのだろう、砦の王のような風情で。

  わめいたアンタ(黒猫、まだ若そうな)も、いったいどこの子よ?
  知ってるよ、君んちなら。さっき庭から出てきたんでしょ。
  え、あそこではない? そうか、庭も通りも一続きの通り道にすぎないか。

  「異邦人とは何か」をテーマに綴られた本を読んでいる最中、
  猫にとっての境界は?とふと思ったりした。
  本の内容とは全然関係ありませーん。



  『異邦人のまなざし』 現代書館刊 小坂井敏晶著
   在パリ社会心理学者の遊学記

  小坂井敏晶氏の本業の著書、「虚構」シリーズが面白いので
  この異邦人~も手にとったが、そういうことかと合点がいった。
  研究室と教室、学会内でしかものを考えない学者の本にはまずない視点と
  学際的な柔軟性が、作家ではない現役学者なのにと思っていたので。
  学業に悩める我が甥っ子が読んだらさぞかし喜ぶだろう内容であった。

  人は順調とか予定調和を欲しがるばかりで、人それぞれの本流がある
  ことには気づきにくい。
  本流にいると思い込み、こんなはずじゃなかったと激流に放り出される
  人のほうがよほど多いのではないだろうか。
  流れに乗ることは意外に難しいのである。

  始めから降りている感じ、だからこそ見えるものがあるようだ。
  これは? と思う直感的疑問をつきつめ言語化していく快感、
  それを思い出させる本でもある。
    


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オヤゴコロ

2008-08-07 00:58:52 | Weblog

   泳ぐのは上手である。
   でもすぐに戻ってくる、ちょっとビビリーである。
   そこが、うさこと気の合うところで、なんの問題もない。
   親のひいき目、この子はカシコイから危ないことはしないのよと考える。
   行って戻って、往復5メートルほどの距離を見守る。



   縁側からすぐの場所で、枯れた木の根もとから新しい芽が出て数年たち、
   少し木の形になってきた。
   子供が成長するのもこんな感じで、放っておいても人の顔かたちを持ってくる。
   人間は食物の栄養事情より心の事情で育ち具合に差が出てくるが
   木と風や光、水の関係は動かない存在である木にとって、人の言う幸不幸の運命より
   よほどシビアである。
   ここだと先々ヤバそうだから、もちょっと奥へ移ろうというわけにはいかない。

   この木は運がいいのだろうか、それとも‥
   うさこの眼に止まったという一つの条件が、今後どう左右するか、それは定かではない。
   この桜のように軒にかかると困ると、
   大きくなったら伐られてしまう憂き目に会わないとは
   かぎらないわけである。

   だから、こんなにがんばって育ちましたよ、の記念写真を証拠にとっておこう。
   この幼い頃のおいらを思い出してくだせえ、がんばって伸びてきましたぜ、風にも負けず
   大雨にもめげず、と育ちきった木の声が、いつかするかもしれないから。
     
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ある日の食卓

2008-08-05 10:11:39 | Weblog
   「学道の人、衣食を貪るなかれ」また
   「齋食(さいじき)などをととのえて食することなかれ」
             道元の弟子、懐奨編「正法眼蔵随聞記」より

   まあ、そうは言っても
   食いたい、着たい、ほどつつしみがたいものはないね。

   だから、うさこも草衣の心を求めてはいるが
   来客に、「ここじゃ十六穀入り玄米かゆ、だけんね」とは
   いいにくいのであった。客というほどのこともなく、また
   もてなしというほどのこともしないが。

   しょうがないので、ちょっと高カロリーのおいなりさん。
   あぶらあげ、煮ます。
   人参、牛蒡、しいたけを細かく切って醤油で煮ます。
   甘く煮たのを酢飯に混ぜて、五目(に足りないけど)いなり。

   残り野菜でみそ汁。これでシメるわけ。
   
   翌日は、朝から土鍋にかゆを炊いて、しそ昆布と梅干しで
   いよいよ質素ヘルシー粗食を供しました。

   肉、肉、肉、それも揚げたやつがいい、できるならトンカツとか。
   と口々に言っていたはずが、
   言いませんでした。

   次にやってきたときも、肉の入らないカレーを作りました。
   ひよこ豆入り茄子のカレーね。
   粉を固めてナン生地をつくってフライパンで焼きました。
   でも、ちょっとご飯も炊いておきました。

   腹いっぱいだったようです。
   ちょっと、量が‥食べ過ぎです。

   肉、とは言いませんでした。
   なんにも言わずに平らげて、平穏な顔をしているのです。

   コーヒーも少し。
   スイーツなし。

   時間がゆっくりと過ぎるので、
   脂っこいものを欲しないのかもしれません。

   あってあたりまえのものを削って、減らしていく、そして本当に
   いるのかいらないのか、わかる。
   意味もわかる。
   贅沢な話です。
   すこしも、草衣ではないし。

   貪るなかれ、という言葉はけっこう耳に痛いものです。



   人は最初から捨てることはできない。
   得て、満足して、意味を味わうことができたら、
   ようやくそこから離れていけるのではないかと思います。
   外側に価値を付けるのではなく、内側に見出そうとし始めて
   やっと削ったり捨てたりする。
   それは別な意味で、選んでいるわけで、まだ捨ててるわけではないから。

   今、流行のエコな暮らしもカラダに優しい食生活も、贅沢なんだろう。
   本当の、とかつけないで言ってもらいたい。贅沢は贅沢の価値だから。
   恵まれた幸福を黙って受取るのがいい。ちょっと遠慮もしたりして。

   トーキョーから森へやってくる客人。
   そこんとこ、よろしくと言いながら、
   差し出された有名パティシエのロゴいり菓子箱に眼を奪れ、動揺するうさこ。
   それは、どーする?
   
   あい、いただきます。
   ありがとうございます。
   亡き父に、父のまた父と母に、父の兄弟姉妹に、
   母の亡き両親(会ったことないが)に、母の亡き兄弟姉妹に、
   知らないけどどこかでつながっている人に、
   ありがとうをこめて、おいしくいただきます。

   昔の人は、己の分を知る。自然を知る。
   よく知ることを厭わなかった。
   生き延びるため、それがあたりまえのことだったと思います。

   
   



   
   

      

  


   
   

   
   



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冷たい水と‥

2008-08-03 09:25:03 | Weblog

涼しげな沢の水と‥



   そして暑苦しいこの方。

   よだれ、糸ひいてるんですけど。
   水飲んでもまだ、はあはあ。
   ジョク暑なんだもの、まだ当分暑いわよ。

   夏モードの親分でさらに暑さを想像し、
   それよかこっちのほうが益しという比較幸福感でおしのぎください。

   本日ちょいと忙しいので、この辺で。
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ジャングル

2008-08-02 01:36:25 | Weblog
   緑のトンネルを初めて目にしたとき、
   うへぇーと言う者と、おおっと喜びの声をあげる者とに
   分かれた。
   森に侵食された道は岩石と雑草に埋まり、両脇から
   おおいかぶさるように伸びた木の枝が交差するその隙間から
   ところどころ陽が射し込んでいて、かろうじてそのあたりが道
   であろうことがわかった。
   地図を頼りに車で進入して行った先にあったのは、ジャングルの
   緑のトンネル。修復した道路と引き換えにもう見ることはなくなった。

   道を作ることから始めた森の生活。
   夏の葉が生い茂る景色を眺めていると、
   草いきれと湿気と蚊の襲撃のなかで我慢比べのような
   日を送っていたことを思い出す。

   道路の両端のユリは、昨年より増えた。
   まだ若いので来年、再来年と成長してしっかりとした
   百合根になるのを待っている、食い気の強いうさこである。
   美しいね、咲いたね、とか言いつつ、まだまだ食えないと
   腹の底では考えているのである。

   NHK、このところ深夜に放映されていた太平洋戦争の証言シリーズ。
   南方のジャングル地帯へ従軍し、飢えと恐怖の極限の地獄を生き延びた
   人々の言葉で当時を振り返る。

   司令部からほど遠い単なる一兵卒だった彼らは命とともに故郷へ帰った。
   その言葉は戦争を映像でしか知りようのない今のわたしたちに
   真実などという言葉を遥かに超越した無慙を伝えている。
   命の言葉だ。

   生きながら地獄へ堕とされた人々には始め何の因果もあろうはずがない。
   因果を作ったのは、戦地である。
   戦地へ誘ったのは国家である。

   心身に深い傷を残し、録音機の前で重い口を開いた老いた人は、
   かつてこの国のためと信じて戦った兵士。
   平成二十年の夏、「兵士」とつぶやいて虚しさと悲しみがわきあがる。

   怒りはないのか。
   どうする、おまえ、と自問する。
   
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