想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

怖い話つづき、GMO

2008-12-11 19:04:19 | Weblog

  うさこの好きな「でん六」の豆菓子にそっくりなまるで同じな豆菓子が
  隣同士に陳列されていて、似てるけどでん六ではない方が100円安い。
  これを不思議に思いつつ、何の気無しに安い方を買い一袋食べきりました。
  ふたたび、豆豆豆と思って買いにいき、お菓子コーナーをみてまわると、
  でん六はでん六のまま、むかしながらのたたずまいなのですが、売れ行きが
  いまひとつのようで、肩身の狭い感じで陳列され、代わってそっくりさんの
  豆菓子はその三倍以上の場所を確保して、100円安いせいか好調な売れ行き
  のようでした。
  うさこはまたしても、100円安いにひっかかり、家にもどり夜更けて
  そろそろ豆でもかじろうとお茶を煎れ、一袋目にかかりました。

  食べよ、食べよ、と三つぶほども食べたのですが、どうにも食べた気が
  いたしません。袋をじっとみて、おまえは誰だ? と豆に聞いたのでした。
  あまりにおいしくないことに気づいたのです。おまえはいつもの豆では
  ないな、と問いただし、一週間ほどもその豆菓子を放置しておいたのでした。
  放置しても味には変わりないことがわかると、スーパーへ出向きました。
  そしてまた菓子コーナーへ行き、今度こそ、でん六を手にとったのでした。
  家に帰って夜更けを待たずに、うさこは豆の袋を開けました。
  やあやあ、でん六。こどもの頃と同じ味のでん六の豆、母さんに食べ過ぎは
  だめとよく注意された豆の味は健在です。
  そっくりさんPB商品は気をつけるべしと学習し、安さの理由を考えたのでした。

  揚げた豆には衣がうすくついているし、豆そのものに味がついていたりして
  加工食品に属しますので、当然、遺伝子組み換えでない豆、という表示は
  ないのです。国産という表示が何に対してなのかも不明です。
  安いPB商品が売れ行き好調なようですが、もともとある売れ筋商品を自社企画
  としてコストを下げて製造して大量販売しようというもくろみは、なにかこう
  商売として邪道な気がします。
  競争とはいえども、オリジナルで創業した会社はかたなしですな。

  気になりますPB(ぷらいべーとぶらんど)商品、
  またの名をストアブランドとも言います。
  大手スーパーマーケット、たとえばジャスコやベイシア、コンビニなど
  に行くとこのごろ目立つのです。
  食品から家電まであらゆる商品を、大手小売業では自社で統一ブランド
  として開発製造し、仕入れコストを下げ、それは低価格で消費者に還元
  できるとしています。
  イオングループのジャスコはコスト面だけでなく、食品の安全管理にも役
  立てるという考えからグリーンアイという統一規格の野菜を扱うなどの
  取り組みをもうずいぶん前からやっていますね。
  バナナが三種類並んでいたら、グリーンアイのシールがついたバナナを
  選ぶという人もいるかもしれません。

  しかしながら‥‥、ほんとうにいいことだけなんでしょうか。
  経済誌には現在の動向と、企業側へのインタビューを元にした記事しか
  ありませんが。一消費者うさこの感想はまた別なのであります。

  遺伝子組換えではありません、と表示されたお豆腐。
  その文字を凝視するように見て、うんと納得してからかごに入れる日常
  なのですよ、この数年。

  豆腐や納豆は単一材料だから明記される。でも諸々の加工食品や調味料
  にはすべての材料を明記する義務がなく、そこに遺伝子組換えの大豆が
  たとえ使われたとしても知りようがないので、日々の努力がちと切ない。


  うちはお母さんの手づくりなんだもの、だいじょうぶ。といったにしても、
  このごろのお母さんが手に入れられる食材は、どこからやってきたものか、
  定かでないものも多々有るわけで‥‥。
  手づくりしてもヤバい感じから抜けられないね、と子どもに言われたら
  お母さんはかたなしです。どうしよう。

  かと言って百姓はいやだという若者、東京へ行くという若者、いまだ多し。
  農業では暮らしてはいけない国を、どうにか変えないといけないのである。
  でないと、アメリカの遺伝子組み換え食糧会社にどんどん種子を売りつけ
  られてしまうので、まずい豆菓子しか食べられなくなるのである。
  それはいやだなー。

  
    遠くからだと子熊みたいな親分、でも純粋血統のラブラドール。
    くんくん癖がなによりの証拠だな。

  純粋種が失われ、遺伝子組換えが流行り、大手をふってまかり通る未来。
  クローン化された動物、植物をあたりまえのように受け入れるなんて、
  オソロシイ。

  独立行政法人の作物研究所所長は
  「遺伝子組換え食物については議論の必要がある」と受容を前提にした発言を
  している。決して否定的ではないところが、脅威なのだ。
  マンモスも作れるなんて話もあるのだから、バカなことと済ませてしまうには、
  ちとオソロシすぎるのである。

  (※PB商品の食品はGMOである、というわけではありません)

 

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怖い話、GMO

2008-12-10 23:25:47 | 
  ジュラシック・パーク
    (マイクル・クライトン著/酒井昭伸訳)
   「原爆からわずか10年後、人類は遺伝子操作という
    新しい力を手にした。…この力をどうしたものだ
    ろう?それはまさに科学には答えられない問いかけ
    なのだ」

  映画ジュラシック・パークは観ていない。テレビでも
  なんどか放映されているが、パスしてきた。
  原作も読んでみたいと思いつつ、まだ読んでいない。
  読書中の数冊のなかに遺伝子組換作物(GMO)をテーマに
  したものがあって、色々考え中だったところへ、この新聞記事。
  12/3の朝日新聞文化欄のコラムはM・クライトン氏への追悼だった。
  「自然への畏敬 最後まで」詳細に興味のある方は新聞をご覧下さい。

  惜しい方は早々に立ち去る、世の常だなあ。魂をこめた著作を遺して。

  ところで、ある会合でムンバイの事件はイスラムとヒンズーの宗教戦争と
  述べた学者がいた。某有名国利津大センセなんだが、学生が気の毒なり。
  あまりにアホすぎな話を続けるのと退屈なのとで、我慢できずに中座した。
  その帰り、ストーン女史と代々木公園で憂さを晴らしたわけでありました。

  そのアホすぎると思った発言を列挙しますと、
  「インドのヒンズー儀式は現在は観光客の見せ物、モスクもヒンズー寺院も
  観光の目玉となっている。このように宗教と観光が結びつくのはいいんじゃ
  ないかと思う。実際にインド政府はチラシなんかつくってツアー客を案内
  してます。今は迷信的な信仰はないのでもっぱら観光になってます。
  ヒンズーの儀式は暴力的、だいたい宗教と暴力は結びつくのです」
  ネットで得たという写真を使用したレジメを読みながらの話でした。

  その中には、ムンバイ同時多発テロで炎を吹きだすタージ・マハールホテル
  の画像コピーもありました。
  
  俄かに注目されたムンバイ、インド。
  そのインドの農民は自国産の米籾をつかった米作りができません。
  米国籍の食糧会社が作物種子のDNA所有権を独占したからです。
  インドから始まって今ではアフリカでも、オーストラリアでも
  肥沃な大陸の農地は一握りの資本家の手にあり、植民地時代の復活
  みたいな様相です。
  でも、情報化社会のはずなのにあまり知られていないのはなぜ?
  高度に発達した資本主義社会では、情報を牛耳っているのもまた資本家
  だからでしょうね。

  遺伝子組換えとうもろこしは害虫に強く、農薬散布を減らすことが
  できてよいという話がありました。
  たしかに害虫がつかないのでよく実がつきましたが、その農地周辺には
  ミツバチも来なくなり、花が咲いて受粉して実をつける作物、たとえば
  ブルーベリーなどを作る農家は被害甚大でした。
  カナダ、北米産のブルーベリーは日本へ大量に輸入されています。
  純粋な食べ物は地球上から、どんどん姿を消していくようです。

  そのうち家庭菜園用の苗を買ったら、種がぜんぜんとれない野菜だった
  なんてことになるかもしれません。

  消費者も農業について考え知ろうとする機会が必要な時代になりました。

  

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ワープな感じですよ

2008-12-09 06:57:17 | Weblog
       昨日はここ、東京・代々木公園へ飛んでみました。
       木の太さが目立ちます。



       うさこがいつも眺めてるこの森の景色。
       ここからほんの一眠りの間に(新幹線ではね)、いまだ落葉の町へ。
       トンネルを抜けたら雪国だった、みたいな変わりようで。
       日本列島が南北に伸びているのを実感します。

       がらりと変わる景色に、無理なく気分転換できます。

       

       銀杏の葉があの独特の匂いを放っていて、長居は無用な感じであります。
       寒いことは寒い。けれどもダウンやファーがいるほどでもない。
       散歩しているというよりもついでに立ち寄った風な、通り抜けてます的な人
       しかいないのは、季節のせいでしょうか。それとも休日ではないから?

       一本の楓の前に、二三人集まってました。紅葉を撮ってるようです。
       なので、ではあたいも撮るかなと、撮っている人を撮りました。



       ケータイをかざして撮っている人はストーン女史。
       「ここをゆっくり歩いたことはなかったわ~」と喜んでいます。
       うさこが後ろから撮っていることに、まったく気づいていないね。
       うふふふふふ、写真より実物はもっとさらにスマートである(念のため)。
       念押すと意味ないじゃん、と苦情がきそうだが、そこはまあまあ‥‥

       東京には整備された公園がいくつもあって、その気になれば森林浴もどきを
       味わえるのに、その気にならないのはたぶん、忙しすぎるせいですね。
       なんのことはない、うさこたちも公園の近くで会合があったので、その帰り道、
       寄り道したのでした。
       いつもは急ぎ足で通りすぎるのに、だれか親しい人と一緒なら寄り道する気に
       もなるんだなあ、東京は公園もぶっそうだし一人歩きはご用心なのですよ。

       公園を出たら、心はすでに森へ向かい(ワープしたい)、歩き出し、
       表参道を下りはじめると、坂道の向こうまでぎっしりと、人、人、人の頭。
       今日も明日もお祭りだい的な人だかりが、ゆっくりとうごめいていて驚き。

       ストーン女史の情報によれば、なんとかいう安売り店が原宿にオープンして
       行列が出来ているそうな。安いからってたくさん買える、とか言うのね、
       だめねえ、そうねえ、もったいないわねえ、と二人ぶつぶつぶつ文句言いつつ
       「ね、この前着てたあのワンピース、いいね」
       「ええ、あれは作りました」
       「えええっ、作ったのー?うっそー」
       「わたしがじゃないよですよ、小母さんに作ってもらったの。渋谷の駅前で
        メーター幾らの生地買って。」
       「ああ、あの生地屋さん?」
       「そうそう。あそこ」
       「へー。いいねー、そりゃいいわ」
       「へへへ、いいでしょ。色違いで作りました」
       「ヘップバーンみたいなワンピースだったね、似合ってたよ」
       「ふふふふ、ショーウインドウで見て、いいなと思ったから似せて
        作ったのですよ。ヘップバーンぽいのが好きなの。うさこさんも
        作りますか」
       「作る作る、っていうか、作ってくれないかなあ、小母さん。
        古着物をほどくからそれ使って」
       「ああ、それもいいですね。オーケーですよ、たぶん」
        
       ふたりの共通点は、古いものが好きなこと。
       表参道の商業施設には新しいものがたくさんで物珍しいでしょう。
       でも何年もかかって育った樹々ほどには、癒してくれません。
       人の手をかけたものや時を超えてきたものほど、心になじむのだと
       思ったのでした。
       

       
       
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キャンドルありました! 

2008-12-07 10:36:20 | Weblog
   
   ある夜、遅く仕事場を出て歩いていると、おっと発見。
   建物内はパーティーのようで、喧噪が外に漏れ聞こえているけど。

   通りには誰もいなくて、静かです。



   ツリーも、キャンドルも、この瞬間、わたしのもの‥‥なんてなー。


   
   その人の愛は、とても静か。
   その人の愛は、ときに熱い。
   その人の愛は、消えることがなく。

   キャンドルの赤い炎は、それほど遠くを照らしはしないけど
   いまそこにいるわたしを
   わたしの心を あたためるのにじゅうぶん。

   その人の愛は、ときに大きく華やかなライトに隠れる。
   けれども、ほんとうはそばに灯っていて
   あたたかな光を放っている。

   キャンドルのような、あなた。

   なーんてなー、ふと思いました。
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猫が丸くなる季節

2008-12-06 09:05:27 | Weblog

   葉を落とした木立は寒々と見えますね。
   見えている通り、寒いです、はい。
   ボア付きの長靴など欲しいなあと思いながら、町では流行遅れの
   ウエストを絞っていないダウンパーカーを着て歩きます。
   だいじょうぶ、ここでは誰もウエストは気にしていないからね。   



   シマコは縁がわでまんまるです。
   白いポツポツは、レンズの汚れじゃなくて、雪なんですよ。
   晴れても曇っても、山から吹き下ろす雪が飛んできます。



   哀愁のシマコ、に見えますね~、
   え、見えませんか?

   バレてますかねえ、シマコが丸いのは食べ過ぎと、
   お腹の分身のせいです、この季節、シマコはひたすらまんまるに
   なってゆきます。
   もうじき二重あごです。
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青空と天使の羽

2008-12-05 01:02:33 | Weblog
    (仕事場でマッサージ機を独占、おいらのお気に入りだわさ)
   
    昨日の映画の話、わたしは救いようがないという言い方をしたことが
    気になって、今日もすこし考えていた。

    観ていない人のために物語に触れないようにおおまかに言うとして、
    幼女と老人の旅は、青い空を見に行くことだった。
    白い雲が浮かんだ青い空へ向かって、幼女が駆け出す。
    そして飛んだ‥。

    このシーンを思い出して、そうか! と思った。
    作者はここに救いを描こうとしたのだろうと。

    人間は翼がないので飛べやしない。たとえ天使の羽をつけていても。
    だってつくりものの羽なのだから。
    でも、飛べない羽で飛ぶ。
    それは祈りの姿ではないかと思うのだ。

    救いようがないことをどこへ持って行けばいいのかと人は苦悩する。
    救われないことのほうが現実である。
    そしてあきらめきれないことは、胸の奥底へしまいこまれて澱になる。

    ある日、怒りと悲しみは暴力や自傷行為となって顕われる。
    最近知ったことだが、虐待された経験のある人が成長し数十年を経た
    頃に神経を病むというケースが増えているという。
    フラッシュバックに襲われ、今現在という時間にぽっかりと突然穴が
    あいてしまう。そこへ落ち込んでしまうと、忘れたはずの恐怖を再生
    してしまうのだ。
    現実の生活に問題があるわけではなく、当事者にしかわからない記憶
    の産物である。

    しかし、すくいようのないことではないのだった。
    悲しみとは、人がこの世界に現れたときに連れてきたものなのだ。
    怒りもまた、人が人ゆえに感じるものだ。
    それをしずめるには、人の衣を脱いでいくことなのだ。

    重い身体を持ち上げて空へ駆け上るには、幼女のつけた羽では落ちて
    しまう。落ちて怪我をしてしまう。
    羽ごと捨てて衣を脱いで、人の形を脱いでしまうのだ。
    祈りのとき、あるのは心だけだ。魂だけだ。
    憎しみや怒りや悲しみを脱いで軽くした心は、生まれたときのまま。
    だから、祈りは、神様への手紙は、届きやすい。
     
     六根清浄 ろっこんしょうじょう
     あるいは、みなかの祓い
      結びの言葉は、願いとしてかなわざるということなし。    

    すくいようのないことだ、と考えるのはよそう。
    五感という感情が摩擦熱を帯びたとき、時間の穴を生じさせてしまう。
    それは己自身の変容、だから己そのものを殺してしまえばよい。
    虐待される己も消える。
    五感を滅す。
    そこに顕われるのは、青空。
        あるいは満天の星のきらめき。

    昔の人は、巡礼、遍路という方法を編み出した。
    青空のかわりに仏を求めて旅をしたのだった。
    仏の像に救われるわけではないが、歩きながら人は捨てて行く
    ことができるのだ。
    捨ててしまったところへ、光が射し込んでくる。
    温い光である。

    かような生きかたを覚えればなんとか狂い死を免れ、
    そして幸いにも、今では神さまと遊んでいる。    
    たとえ幼女だったわたしが現われても、羽を背負うことはないし
    開いた穴はパッと大跨ぎで通り過ぎてゆくことにしている。


    (すでに夜中なので寝こけてます)

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a long walk 長い散歩

2008-12-04 02:46:33 | Weblog
       (50度くらいはありそうな斜面、裏山へよじのぼる、親分と二人で)

    緒形拳主演の映画「長い散歩」、監督はくせの強い俳優、奥田瑛二。
    エンドクレジットに重なって流れるのはUAが歌う「傘がない」だった。
    井上陽水よりもっと切実に死にたがる時代を歌っていて、救いのなさを
    いやおうなく訴えてくる。

    そう、救いようのないことを、それでもどうにかしたいという感情は
    いったいどこへ持って行ったらいいのだろうか。
    いったいどう整理して始末をつけよというのだろうか。
    そんな主人公の苦悩を超え悲しみが絶望となっていくさまを
    描いている。
    奥田瑛二は死にゆく人を演じるのがうまいなあと思っていたが、
    絶望の淵をのぞいているような感覚を長丁場で延々と撮っているのだ。

    映画のものがたりはというと、児童虐待ネグレクトと人生に後悔している
    老人の旅。カンタンに言えばそういうことだけど、ネグレクト(育児放棄)
    も虐待の諸々も話に聞いてはいてもその痛さを切々と感じている人は
    少ないだろうと思う。
    だからこの映画をみて、天使の羽を背中にしょって歩く垢と汚れまみれの
    幼女にどのくらい感情移入できるかというと、それは不確かなことだが、
    一方の悔いたまま老いを生きる男(緒形拳)の目を通してみることによって
    なら、そのあいまいさを埋められるかもしれない。

    途中に現れる青年(松田優作の次男坊がいい味)も同様に生きる意味を
    見失っているが、かろうじて天使の羽をつけた幼女には心を開く。
    幼女連れ去り犯を追う刑事(奥田瑛二)、彼もまたしだいに老人に共感
    していく。
    作品中で幼女が踊り歌う、天使のパンツの歌の歌詞がかわいくて
    可笑しいのに、ちょっと救われる。救われたとたんに、またよけいに
    落ち込むしかけのようで、ガクンとくる。

    救いようのないことを、どうにか手を尽くし整理しおちつくところを見つけ
    ようとする行為は、むなしい結末しか今は見えていなくても、それでも
    なにもやらずにはいられないということか。


           (君はいいオッカサンだねえ、みかけによらず)

    とても痛ましいし、うろたえさせる作品であった。
    実は「緒形拳がとても上手いよ、まったく老人ってあの通りだよ
    力が入らなくて走れない、あの感じは若いとわかんないね」
    とねずみ師が言われたのを聞いて、観たのである。
    まあおっしゃる通りのパーフェクト演技であったけれどもさ。

    傷口に塩を塗られているような気がしてなんでこんなの観ちゃったのかと
    ぐったりした。火傷跡を治すには、熱い硫黄温泉に浸かるのは効果的だが、
    この映画の薬効について、まだ考える余裕がないというのが正直なところ。
    見終わったばかりだもの(と言い訳しておくわ)それだけ衝撃的。

    しかし私心を省いていえば、簡潔にして美しい映画であった。
    ストーリーに類似性などまったくないのだが中国の「初恋のきた道」
    (チャン・イーモウ監督、チャン・ツィイー主演)を思い出した。

    堂々と明るく生きている人よりも、悲しみにうちひしがれながら立つ人が
    美しいという意味において。
    

    
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想いは届きます

2008-12-03 01:32:00 | Weblog

    どうしているかな、と気にしていたら電話が‥
    という経験が一度くらいは誰にでもあるもの。

    あなたのこころが、想いの人へ届きます。
    夜空を飛んで。

    運んでくれるのは、風。
    でも寒い北風でも、生温く雨を降らせる南風でもないよ。
    神風なんて言葉も古くから日本にはあるけど、
    それは奇跡を起こすこと。
    想いを届ける風は、ただしくは気。

    気とは、神さまの乗り物。
    真心は神さまの分身だから、気に乗ります。
    そして、想いの人へ届くのです。



    真逆のこともありえます。
    憎しみや恨み、これ念という波動になって届きます。
    気に乗るのは同じですが、荒い荒い粒子の気。

    受け止めるがわが恨まれようのない純潔な衣にくるまれていたら
    反発した波動は発した方へ戻ってくるので、ご用心。

    よい話だけをしたいときもある、それが今。
    まごころは届くということだけでいいな。

    届くってのは、うさこが勝手に言ってるわけじゃないよ、
    旧事本紀の五鎮道「養気」のなかにちゃんと書いてあるのです。
                  (詳しくはふるごとじゅくで)

    そうこうしていたら、気にしていた誰かさんから電話。
    ちょっと元気がない様子、うーん、しょうがないから
    ちょっと分けてあげるべ。いつか返してよね。



    7年か8年かぶりに友だちに会った。
    友というより弟みたいな人でシャンソン歌手。
    十五周年リサイタルなんていうから、ずいぶん数えるなあと思ったが
    コンクールに出てからもうそんなにたったのか。早い、歳とったわけさ。

    がくちゃんとうさこは呼んでるけど(もちろん歌手名はちゃんと別にあり)
    コンサートホールは満員大盛況だったのでした。
    ファンクラブのおばちゃん軍団におののきつつ招待席で見せていただきました。
    もそっと上手になったくれんかの、と内心思ったりもしました。
    でも全体的によかったよかったという気持ちのほうが強い、だってあの
    がくちゃんだからなあ、知りすぎるほど知ってるからなあ、弱点。

    ずっと会わなかったけど、会わない間も気にしてて、祈ってて。
    突然会うことになったのは、ねずみ師をがくちゃんが招待したから。
    なんのことはない、うさこはおまけでついて行っただけのことであります。

    がくちゃんとはねずみ師のところで学びはじめたときの同期で、いつも
    一緒にたいへんたいへんと走り回ってたし、同じ釜のメシを喰った仲的な
    兄弟仁義的なそういう感じで、よくうさこは弟をひっぱたいてました。
    弟はよく泣いてましたなあ。あの頃、二人とも金がないのは同じだった。
    今夜のがくちゃんは、キラキラ衣装。トラック一杯くらいの花束をもらってて
    マネージャーとおぼしき女性が「差し入れなんかはこちらで~」と誘導してて。
    よしよし、とうなずいて後にしようとしたら、
    がくちゃんは、先生に気づいて「せんせー、どうもすいませーん、ありがと
    ございまーす」と周囲も気にせず叫んでました。
    あー、ぜんぜん変わってないわ。

    届いたのかな、届いたなの一件。
    ねずみについていったうさぎ、これが何の役にたつかというのは別問題。

    うさこの弟でがくちゃんと言ったら誰のことかわかる人がたくさんいると
    思うけど、がくちゃんは元気で歌ってまーす。
    来年はみんなで応援しよう!
   
コメント (2)
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がんばらないコツ

2008-12-02 00:47:53 | Weblog
    先日、エキサイトニュースに気になる記事があったので。 
      過度な緊張は病気の元だというのだ。

    医者の説明によると、
    たとえば、目覚まし時計がなる前に自ら目覚める。
    これは寝坊して慌てなくていいから良いことだと思って
    いる人が多いだろうが、医者が言うにはそうでもなく、
    過度の緊張によって身体が目覚めるのだそうだ。
    交感神経と副交感神経、つまり緊張からリラックスへの切り替えが
    うまくできていない状態だから浅い睡眠のまま目覚めるというのである。
    脳が起きたほうがいいと指令するわけだが、間違った命令ともいえる。

    わたしはこれまでの人生ほぼ夜型である。
    よって早起きなどムリムリと普段は言って早起きせねばならないことは
    遠ざけているのだが、どうしてもしかたがないこともままあって、
    そのような時、前夜はとても不安である。
    ふだんより寝つきもよくない、がしかし結果として寝坊はしない。
    それは結果オーライなのであったので、日中疲れていても、後で寝溜めして
    カバーするんだもん、と自分を励まして済ましてきた。
    寝溜めなどなかなかできるものではないので、結局のところ疲労が溜まる。

    ストレスだ、緊張だ、と自らのことを思いたくない性分の人はがんばる。
    


    がんばる人に二通りある気がする。
    がんばっていると周囲に吹聴しがちな人。これ多いけど、こういう人は
    自分で言うほど実はがんばっていないし、テキトウに疲れをとるべくサボりも
    上手である。
    もう一方はがんばることそのものを美徳とはしていないので、自分がそうだとは
    思いたくもないし、周囲にもそう見せないように気配りする。
    過緊張に陥る危険のあるのは、おそらく後者なのだろうと推測するが、
    はたして、あたいはどっちだい?

    目覚ましより早く起きるので、目覚ましはいらないかというとそうでもない。
    目覚ましいらなーい、と大胆に解除すると、そういうときはやはり寝坊する。
    なんてこった、である。

    緊張を強いすぎる、ストレスを溜める、それが健康を阻害するくらいのことは
    言われすぎてて誰でも知っているが、どの程度がストレスか、過度な緊張か
    その判断は、結果論になって、発病の原因として後追いしているのが現状である。
    だから冒頭のような医者の発言がニュースになり、注意を促しているのだろう。

    アドバイスとして寝る前に「ここちいい音楽を聴く」『薬酒を飲む」など
    があげられていたが、そのくらいでどうにかなるのはまだ良いほうではないか。
    睡眠不足という結果に対しての対症療法であり、原因となるものを自覚する
    ことがなければ、酒を飲めば深酒になり、音楽を聴く気分になれないという
    ことにもなろうかと思う。

    生きる日々に目的や目標がないと辛いだろう。
    強いられる生き方には、迷いが生じて当然だろう。
    ヒマすぎるのも、くだらないことにつまずくものである。
    消費生活に振り回され経済的に行き詰まるのは、目的がはっきりしない
    からである。意思だと思っているが、実は人まねにすぎない。
    
    なので、「考える力」が必要だということだ。
    無意識もすくいとって表れるものが言葉、聞き流さないで考える。
    受け流さないで、「それってどうなの」と考える。

    考えるとは、己の個性との戦いですと、小林秀雄が言ったそうだ。
    聞いたことはなかったが、小林秀雄の講演CDの宣伝文句に使って
    あった。すかさずわたしは、そう出たか、それってどうなの、と
    考え、記憶したわけでーす。(脱線脱線)

    考える習慣、うまくいってもいかなくても考えよ、である。
    考えてつきつめて、そこに「だからどうする」という結論が見えれば
    人はストレスの穴に落ち込むことはないのではないか。(戻ったね)

    ところが「考える力」がない人が増えている。
    考えないと、流されるのである。流れ流れて大海原へ、ではなく穴へ落ちる。
    カンサンジュン先生(東大だからか先生と呼ばれているね)が「悩む力」をヒット
    させましたが、あれはつまるところ、考えよ考えよ逃げずにということなのですね。
    (最後の一行はねずみ師の受け売りです、ごめんなすって)
    
                   ※「考える力」の続き、詳細はふるごとじゅくに。

    注:雪景色は今年の正月のもので根雪になった。
      今年はまだ根雪になるほどは降らないけど、新しい雪景色を撮ると出番がなくなる
      写真なので使いました、自分でいうのもなんだけど、ええ雰囲気やなあ。
      雪見酒~、ではなくこたつにみかん(と本)です。
    


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愛が実った日?

2008-12-01 09:38:50 | Weblog

    
    端と端に分かれて、シマコちゃんと親分が同時に座ってます。
    画期的!
    小さくて見えにくいけど、茶色いのが乗っかってるでしょ、奥に。

    シマコはこの森にいたシャム猫の子ども。どうして森にシャム猫が
    いたのかはわからない。誰かが捨てたのかと思うけれど‥。
    母猫ミャーはよく慣れて、触っても抱っこしてもだいじょうぶでした。

    でもシマコは野生のまま育って、ご飯だけ食べにくる食客で。
    縁側は親分がいないときをみはからってやってくる、シマコの指定席なのです。
    だんだん慣れると人がいても縁側から動かなくなってきたけど、親分と同席
    まではいきませんでした。
    どこからか見張ってるみたいに、親分が家に入るとやってきます。

    ところが、今日は親分がきても動かないので、おおおっ。
    親分の方がやや遠慮気味に、そわそわしてます。
    (そういう性格なんです、ベイビーは。
    もちろん、猫を追ったり吠えたりは最初からなしです)
    


    お尻がちょっとはみ出してます、親分。

    この後、シマコは半日居座って、親分が先に退散。
    親分の場所へシマコは移動して、へらへらとしてました。
    家猫になるつもりかい? と尋ねたら、
    「あい」と目を細めるので、ちょっとドキッとしました。



    このごろは、シマコと呼ぶと振り返り、戻ってきたりして
    なんともまあ「愛いヤツ」です。
    えーっと、もちろん担当はうさこではなく、ねずみ師。
    みつぐ君の愛のたまもの、三年越しに実った日、めでたいめでたい。

    

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