2週間、出ずっぱりの日々を終えて、一昨日は遅めの夕食を済ませると、デスク周りの整理もほどほどに深い眠りにつきました。気がつけば秋の陽が部屋の奥にまで差し込む、そんな時間に目が覚めました。ふだんの倍の時間、そう10時間は眠っていたことになります。
今年も、11月を迎えて、あと2か月となりました。でも、年内に片づけておかなければならないことは山ほどあります。1日の早さ、1週間の早さ、1か月、1年の何と早いことか。昨日、ひょっこりやってきた孫君も、1歳の誕生日を過ぎて、自分の意思表示ができるようになりました。何もかもが動いています。成長しています。時間は止まってはくれません。
ところで、ご愛用の「超整理手帳2009年版」も、来週から使い始めになります。いま書店に行けば、手帳の特設コーナーが花盛りですが、昔ながらの手帳からシステム手帳まで実に様々で、それぞれに作者の思いと知恵が込められています。その中で超整理手帳を愛用するのは、やはり「一覧性」でしょうか。日々の事柄に目が行きすぎて前が見えなくなったとき、蛇腹を広げて8週間を鳥瞰する。裏表で16週間を鳥瞰する。そこには本人自筆の文字が並ぶ。けっして上手くはないけれども、理屈ではない自分自身の「思い」、人間臭さのようなものがそこにはあります。
最近は、デジタル文字に若干の違和感があって、再び「情報カード」を使い始めました。B6の白いカードです。ただ、それだけです。ご愛用の万年筆を使って、その時々のテーマについて自分の思いを書き出していきます。極太のブルーの文字が真白い紙のうえに散らばります。紛れもなく「私」の字なのです。格好よく言えば私なりの暗黙知の形式知化の作業でもあります。
同じことはパソコンを使えばもっと楽にできます。切ったり貼ったりしながら効率的に構想をまとめていくことができます。きちんと記録に残すことができますし、後で簡単に検索もできます。でも、何かしっくりこないのです。デジタルの記号たる所以でしょうか。思い違いかもしれませんが、パソコンに向かっていると、なぜか論理の世界で右往左往している自分に気づくことがあります。
パソコンの普及によって私たちは何かに急き立てられているような気がしないではありません。何か前のめりになっている自分に気づきます。そんな自分の、立ち位置を鳥瞰する術を失いつつあります。とは言っても、パソコンにはパソコンなりの利点はあります。超整理手帳や情報カードは、いったん役目が終わると、スキャナでデジタルに変換して記録しておきますから、パソコンを全面的に否定しているわけでもありません。自らの立ち位置を見つめながら、しかし、どのように「時代」を読みとっていくべきか。これは案外、永遠のテーマかもしれません。
ちなみに、広辞苑によれば、デジタルとは「ある量またはデータを、有限桁の数字列(例えば2進数)として表現すること」。これに対してアナログとは「ある量またはデータを、連続的に変化しうる物理量(電圧・電流など)で表現すること。比喩的に、物事を割り切って考えないこと」とあります。蘊蓄のある言葉です。
きょうは、グレン・グールドのLPレコードの中からバッハの「平均律クラヴィーア曲集(第1巻)」を聴きながらのブログ更新でありました。いまの時代にグールドが生きていたら、おそらくデジタル音源に興味津々だろうと思います。
今年も、11月を迎えて、あと2か月となりました。でも、年内に片づけておかなければならないことは山ほどあります。1日の早さ、1週間の早さ、1か月、1年の何と早いことか。昨日、ひょっこりやってきた孫君も、1歳の誕生日を過ぎて、自分の意思表示ができるようになりました。何もかもが動いています。成長しています。時間は止まってはくれません。
ところで、ご愛用の「超整理手帳2009年版」も、来週から使い始めになります。いま書店に行けば、手帳の特設コーナーが花盛りですが、昔ながらの手帳からシステム手帳まで実に様々で、それぞれに作者の思いと知恵が込められています。その中で超整理手帳を愛用するのは、やはり「一覧性」でしょうか。日々の事柄に目が行きすぎて前が見えなくなったとき、蛇腹を広げて8週間を鳥瞰する。裏表で16週間を鳥瞰する。そこには本人自筆の文字が並ぶ。けっして上手くはないけれども、理屈ではない自分自身の「思い」、人間臭さのようなものがそこにはあります。
最近は、デジタル文字に若干の違和感があって、再び「情報カード」を使い始めました。B6の白いカードです。ただ、それだけです。ご愛用の万年筆を使って、その時々のテーマについて自分の思いを書き出していきます。極太のブルーの文字が真白い紙のうえに散らばります。紛れもなく「私」の字なのです。格好よく言えば私なりの暗黙知の形式知化の作業でもあります。
同じことはパソコンを使えばもっと楽にできます。切ったり貼ったりしながら効率的に構想をまとめていくことができます。きちんと記録に残すことができますし、後で簡単に検索もできます。でも、何かしっくりこないのです。デジタルの記号たる所以でしょうか。思い違いかもしれませんが、パソコンに向かっていると、なぜか論理の世界で右往左往している自分に気づくことがあります。
パソコンの普及によって私たちは何かに急き立てられているような気がしないではありません。何か前のめりになっている自分に気づきます。そんな自分の、立ち位置を鳥瞰する術を失いつつあります。とは言っても、パソコンにはパソコンなりの利点はあります。超整理手帳や情報カードは、いったん役目が終わると、スキャナでデジタルに変換して記録しておきますから、パソコンを全面的に否定しているわけでもありません。自らの立ち位置を見つめながら、しかし、どのように「時代」を読みとっていくべきか。これは案外、永遠のテーマかもしれません。
ちなみに、広辞苑によれば、デジタルとは「ある量またはデータを、有限桁の数字列(例えば2進数)として表現すること」。これに対してアナログとは「ある量またはデータを、連続的に変化しうる物理量(電圧・電流など)で表現すること。比喩的に、物事を割り切って考えないこと」とあります。蘊蓄のある言葉です。
きょうは、グレン・グールドのLPレコードの中からバッハの「平均律クラヴィーア曲集(第1巻)」を聴きながらのブログ更新でありました。いまの時代にグールドが生きていたら、おそらくデジタル音源に興味津々だろうと思います。