朝夕の電車のなかで新入学生、新入社員の姿をみかけるようになりました。4月1日、そう、みんなが新しい生活に戸惑いながら、しかししっかりとした夢をもって歩きだした、そんな清々しさを感じさせる今日この頃です。もちろん、街の風景も、日に日に淡い緑の色が増します。少しひんやりはするけれども陽の光が眩しく温もりを感じる、4月最初の日曜日。バス停横のヤナギの樹は淡い緑に身を包んでいます。我が家のポポーの枝先には早くも花芽のお姿を確認しますが、どうなんでしょう、今年も結実は無理かもしれません。
さて、今朝は、辻井伸行君のCD「ヴァン・クライバーン国際コンクール」からショパンのピアノ曲を聴きながら、PCの前に座りました。窓の向こうは春の陽に庭の木々の緑が映える空間のなかで、きょうもブログを更新します。奇しくも今月の雑誌「ユリイカ」の特集は「現代ピアニスト列伝」です。表紙にはアルゲリッチ、内田光子、ブーニン、ポゴレリチ、辻井伸行の名前。アリス=沙良・オットーって誰?そんなことを思いながら、昨夜はリストの「超絶技巧練習曲」のCDを手にしてみる。そんな、ゆったりとした時間を過ごしました。
昨秋の後半から4月にかけての半年、4月から今秋にかけての半年、わたしの仕事上の緊張感には異質なものがあります。1日の辞令交付を終えて、やっと次のステージに向かう、その端境期にあって、むしょうに本を読みたくなるのが、この季節です。
2月の半ば、私の尊敬する先生から直々にご紹介をいただいた、坂本光司著「日本でいちばん大切にしたい会社」。それまで読み進んでいた須賀敦子さんの全集第7巻を横に置いて、読みました。経営戦略やらなにやら舶来言葉が飛び交うご時世のなかで、この本は、経営者の「こころ」に注目したものでした。ついつい時流に流されがちな私も考えさせられること大。この1月末に発売された2冊目「日本でいちばん大切にしたい会社2」まで一気に読みました。
でも、それですぐ須賀さんの本に戻ることはなく、前から気になっていた福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」に手を伸ばしました。そこでは、「動的平衡」という言葉が気になりました。分子は個々ばらばらに動いているけれども均衡を保ち続ける不思議。この書で福岡先生は、砂上の楼閣という表現をつかって門外漢にも判り易く説明されました。それは分子レベルの話ではなく、まさに人間行動にも当てはまるのではないか、そんなことを電車のつり革に身を委ねながら、ぼんやりと考えました。それにしても福岡先生の文章は美しい。なかでもエピローグは須賀さんのエッセイ―を想わせるものでした。
そんな遍歴を経て、きのう久しぶりに須賀さんの本に戻りました。その一節に「ゆうべTre anni ancora treだとか、insalata mattaなどを読んだが、みんな甘えていて幼稚でいやな作品と思った」(日記1971年3月28日)というくだりがありました。それが妙に心に残りました。「甘える」「幼稚」、私の最も恐れる言葉です。それで思ったこと、それはブログのことでした。2004年末にこのブログ「心の風景」を公開して以来、実に5年が経過しています。私のなかで、このブログはどういう位置づけにあるのか真剣に考えもせずに、ただ、だらだらと書き綴っていますが、須賀さんがこのブログをご覧になったら、即座に「読んだが、みんな甘えていて幼稚でいやな作品と思った」となるのでしょう。「それなら止めればいいのに」と、もうひとりの私がそっと耳打ちしてくれます。でも、もう一人の私はなぜかその忠告に耳を貸そうとしない。
いずれにしても、このブログも公開後5年を経過しました。貴重なお時間を割いていただくほどの内容では毛頭ないにもかかわらず、何度となくお越しいただきました皆さまには、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。
さて、今朝は、辻井伸行君のCD「ヴァン・クライバーン国際コンクール」からショパンのピアノ曲を聴きながら、PCの前に座りました。窓の向こうは春の陽に庭の木々の緑が映える空間のなかで、きょうもブログを更新します。奇しくも今月の雑誌「ユリイカ」の特集は「現代ピアニスト列伝」です。表紙にはアルゲリッチ、内田光子、ブーニン、ポゴレリチ、辻井伸行の名前。アリス=沙良・オットーって誰?そんなことを思いながら、昨夜はリストの「超絶技巧練習曲」のCDを手にしてみる。そんな、ゆったりとした時間を過ごしました。
昨秋の後半から4月にかけての半年、4月から今秋にかけての半年、わたしの仕事上の緊張感には異質なものがあります。1日の辞令交付を終えて、やっと次のステージに向かう、その端境期にあって、むしょうに本を読みたくなるのが、この季節です。
2月の半ば、私の尊敬する先生から直々にご紹介をいただいた、坂本光司著「日本でいちばん大切にしたい会社」。それまで読み進んでいた須賀敦子さんの全集第7巻を横に置いて、読みました。経営戦略やらなにやら舶来言葉が飛び交うご時世のなかで、この本は、経営者の「こころ」に注目したものでした。ついつい時流に流されがちな私も考えさせられること大。この1月末に発売された2冊目「日本でいちばん大切にしたい会社2」まで一気に読みました。
でも、それですぐ須賀さんの本に戻ることはなく、前から気になっていた福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」に手を伸ばしました。そこでは、「動的平衡」という言葉が気になりました。分子は個々ばらばらに動いているけれども均衡を保ち続ける不思議。この書で福岡先生は、砂上の楼閣という表現をつかって門外漢にも判り易く説明されました。それは分子レベルの話ではなく、まさに人間行動にも当てはまるのではないか、そんなことを電車のつり革に身を委ねながら、ぼんやりと考えました。それにしても福岡先生の文章は美しい。なかでもエピローグは須賀さんのエッセイ―を想わせるものでした。
そんな遍歴を経て、きのう久しぶりに須賀さんの本に戻りました。その一節に「ゆうべTre anni ancora treだとか、insalata mattaなどを読んだが、みんな甘えていて幼稚でいやな作品と思った」(日記1971年3月28日)というくだりがありました。それが妙に心に残りました。「甘える」「幼稚」、私の最も恐れる言葉です。それで思ったこと、それはブログのことでした。2004年末にこのブログ「心の風景」を公開して以来、実に5年が経過しています。私のなかで、このブログはどういう位置づけにあるのか真剣に考えもせずに、ただ、だらだらと書き綴っていますが、須賀さんがこのブログをご覧になったら、即座に「読んだが、みんな甘えていて幼稚でいやな作品と思った」となるのでしょう。「それなら止めればいいのに」と、もうひとりの私がそっと耳打ちしてくれます。でも、もう一人の私はなぜかその忠告に耳を貸そうとしない。
いずれにしても、このブログも公開後5年を経過しました。貴重なお時間を割いていただくほどの内容では毛頭ないにもかかわらず、何度となくお越しいただきました皆さまには、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。