ことしの春は駄々っ子のようですね。嬉しそうにダンスをしていると思ったら、急にご機嫌が悪くなってどこかに行ってしまう。なのに翌日には何事もなかったかのような澄まし顔をしてわたしの前に現れる。人間さまが振り回された一週間でした。
3日は全国各地で大荒れでした。窓の外は台風のような横殴りの雨風でした。夕方、窓の外を覗いてびっくりです。大阪湾に流れるはずの淀川の様子が変なのです。朝方まであった河川敷を水が覆い、川の流れは逆転して川上に向かって波打つように流れているではありませんか。満潮時と台風並みの風が水を押し上げているのです。大阪湾に大きな津波が襲ってきたら、恐らくこの何倍ものエネルギーで水が逆流するのでしょう。そして堤防が破壊する、....考えてみるとぞっとします。防災の重要性を思ったものでした。
翌4日は広島に向かいました。が、新大阪駅を出発して10分も経たないうちに新幹線が止まってしまいました。架線にたくさんのビニールテープが絡まっているとの車内放送です。これも強風のためでしょう。線路沿いに作業員の方々の姿が見えました。40分ほど停車しました。世界に誇る新幹線が薄っぺらいビニールテープで停まってしまうなんて近代技術も脆いものです。いやいや、そこまで安全意識が高いと思えば、40分程度の停車は気になりません。どこかのお国とは違います。
でもねえ、桜も咲こうというこの季節、新聞を読んでいて、どうなんだろう、と思うことがたくさんあります。政治の問題はもう論外ですが、気になるのは瓦礫処理のこと。放射能の数値が独り歩きしています。義援金という形で心は尽くすけれども、得体の知れない瓦礫はお断り。判らないわけではないけれど、狭い国土の中で被災地の方々はその瓦礫と一緒に暮らしている。それを安全という名のもとに忌み嫌う。複雑な思いがいたします。
先日、医療・福祉の現場で働く方々と食事を共にする機会がありました。病院で患者をどう呼ぶのかという話題。単なるサービス業ではないという考え方に立てば「患者」ということになります。顧客経営の視点からみると患者は顧客であり「患者様」になります。医療・福祉をサービスと考えるのか共生、共助と考えるのか。
こんな話もありました。最近、病院で患者を呼ぶのに番号を使う所が増えているらしいのです。社会保障・税の国民番号制が拍車をかけているようです。個人情報保護への配慮もあるでしょう。でも自分が番号で呼ばれるなんて悲しくなります。もし私が痴ほう症だったら、番号なんかで呼ばれたら、もう人を信じなくなるだろうなあと。つぎの瞬間から口と心を閉ざしてしまうだろうなあと、そんなことを思ったものです。
いずれの場合も、両論それぞれに思いがあり理屈があるはずですから、わたしのような素人が軽々に判断できる問題ではありません。しかし、こうした言葉の使い方ひとつで目の前にある様々な事柄の意味、人の関係性が変わり、景色が一変してしまうのも事実です。残念ながら政治の世界は、すでにそのベースとなるものを見失っているから始末が悪い。でも、医療・福祉の分野はまだまだこれからの頑張り次第でどうにでもなるような気もしますが、どうなんでしょう。
きのう帰宅途中に立ち寄った本屋さんで、NHK社会福祉セミナーのテキストを手にしました。4月のテーマは「私たちの暮らしと社会福祉」です。わたしにはまったくもって異分野のことですが、現代の人間の在り様を考えるヒントを与えてくれそうです。サービスを求めるだけでなく、権利と義務の重みに思いを致す、共生、そんな人の営みが問われているのであろうと思っています。
ところで、けさは愛犬ゴンタと観月公園を散歩しました。写真を撮ったら朝日を背に浴びたふたりの姿が映っていました。その途中、桜の花を眺めていると、3羽のメジロがやってきて桜の花の蜜をすっていました。まだ肌寒さは残るけれども、いよいよ春本番です。きょうはアルゲリッチ(p)とクレーメル(v)の演奏でベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」を聴きながらのブログ更新でした。
そして午後は、家内のお供で久しぶりに京都にお出かけです。上洛の目的は、長男君の長男の初節句、月末に産まれるであろう長女の次男の初節句、そのお祝いの品を探しに京都四条河原町の高島屋に行くのだそうです。ついでに御花見でもしてきましょう。いつのまにか、そんな季節になりました。