心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

足にあった靴を履いて『歩く』

2016-08-27 10:07:58 | 愛犬ゴンタ

 迷走中の台風10号の動きが気になりますが、「処暑」を迎えて暑さもひと段落といったところでしょうか。早朝散歩にでかけると、ツクツクボウシが鳴いていました。愛犬ゴンタ爺さんの四十九日も終わり、今年の夏もそろそろ最終章に入ろうとしています。
 ところで、現役の頃は電車やバスやタクシーで移動することが多かったのですが、最近、極力「歩く」ことに努めています。最寄り駅へもよほどのことがない限り歩きます。電車もひと駅ぐらいなら歩いています。二本足で歩くことで、心身に爽快感が生まれます。地に足をつけて風景の中に身を置くことで新しい出会い、新しい発想に気づきます。
 最近、NHKテレビの番組「歩く旅をしよう~気ままにロングウォーク」(アンコール放送)を観ています。ここでも「歩く」ことの意味を学びます。スマホアプリの地図Google Mapや方位計「コンパス360Pro」をインストールすれば、どこにでも歩いて行けます。秋になったら、少し範囲を広げて歩き旅にでかけることにしましょう。

 「歩く」と言えば、須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」は、こんな文章で始まります。

『きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。』
 5年ほど前、ひょんなことで出会った須賀さんの作品を読み漁ったことがあります。この作品は、20世紀のフランスを代表する作家ユルスナールと自らを重ね合わせたエッセイですが、印象に残るプロローグでした。
 ところが私には歩き方に問題がありそうです。どんな靴を履いても1年も経つと踵の一方がすり減ってしまうのです。数ある靴のなかで唯一わたしの足にぴったりあう靴も、ご覧のとおり履き疲れて無残な姿になっています。いったんは処分しようと思いましたが捨てがたく、靴の修理屋さんで直してもらうことにしました。靴を診たお店の主人いわく、「もう少し早く持ってきてくれたらなんとかなったのに」と困り顔。「でも、やってみましょう」と。2時間ほど待って、出来上がったのが下の写真です。
「きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていける」。どんどん歩こう。これまでとは違う街の空気と風景、そして人に出会おう。
 そんな靴をはいて、先日、10年ぶりに大学時代の親友に会いに行きました。卒業後10年ごとに会っていますが、今回は素敵な奥様とご一緒に食事をしながら語り合いました。お昼から冷たいビールをいただき、4時間も話し込んでしまいました。
 親友のK君は、幼い頃に視覚障害を患い視力を失いました。そんなK君と、私は大学の学生食堂で隣り合わせになりました。それ以来の付き合いです。私は法学部、彼は英文科と学部は違いますが、いつもトップクラスの成績だったK君は頭脳明晰。語学堪能、冷徹なまでに確固とした時代認識にブレはなく、学ぶところ大でした。その後の私の人生に大きな影響を与えたのは言うまでもありません。
 そんなK君と、私はよく下宿でひと晩中語り明かしました。当時のことですからテーマはいつも政治のことでした。デモにも一緒に参加しました。よく呑みにも行きました。鴨川沿いの小さな居酒屋のカウンターで、学生に優しいお女将さんに並々とお酒を注いでもらいました。常連客だった単身赴任中のフランス人の先生とはカタコトの日本語で大いに議論したこともありました。今となっては良き思い出です。
 自分にぴったりあった靴。自分にぴったりあった思惟の世界。今週は、昨年参加した第1回京都こころ会議の講演録「<こころ>はどこから来て、どこへ行くのか」(岩波書店)を読みました。先行き不透明な時代環境の中で改めて課題の大きさを思いました。それを読み終わった頃、今秋の会議開催のご案内をいただきました。今回のテーマは「こころの内と外」なのだそうです。自分にぴったりあった靴を履いてでかけることにいたしましょう。
 

【番外編】謝罪会見について思ったこと
 きのう、息子の逮捕を受けた女優・高畑淳子さんの会見の模様をTVニュースで見ました。一人の母親として、あるいは一人の人間としての真摯な姿勢に感心しました。夫の逮捕を受けた女優・高島礼子さんの会見でも思ったのですが、お二人とも女優という意味で公人の立場にあって、真正面から事の重大さに思いをいたし謝罪の心を表現されていました。
 世の中、コンプライアンス違反でトップが部下を従え、あるいは弁護士を従えて頭を下げる場面は日常茶飯事です。個人と組織の違いはあっても「謝る」という根本のところは同じはずですが、組織の場合はどうも釈然としません。記者会見を無難に終えることに注力するきらいがあって、全員で頭を下げる図が形式的に見えてしまいます。
 ところが、このおふたりの謝罪会見は、ご自分の言葉でご自分の思いを素直に表現しようとされています。このあたりの真摯さが、これからの時代には求められるのではないか。私には男社会の終焉を象徴する画面に見えてしまいました。

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