10月1日。久しぶりに雨の朝を迎えました。小降りになったところで傘をもって朝のお散歩にでかけました。街中がしっとりと濡れていて、なんとなく秋の気配を感じる一日の始まりでした。
そんななか、昨日はシニアの仲間たちと明石の「魚の棚」に蛸料理を食べに行ってきました。その前に、明石城を散策しました。内部公開中の「坤櫓」(ひつじさるやぐら)を見終わって外に出たところで、ボランティアガイドさんから北側の天守台に聳える「アベマキの木」を紹介されました。ブナ科コナラ属の落葉高木で、コルククヌギ、ワタクヌギとも言われます。聞けば、牧野富太郎が明石城を訪ねた際の記録に「アベマキ多し」と記録されていて、この樹の枝ぶりの良さに感嘆したのだとか。NHK朝ドラ「らんまん」が終わった直後だったので何となく感慨深いものを感じました。 話しは変わりますが、先日、実家の義姉から電話がありました。来年は、母の50回忌、父の33回忌、兄の13回忌があるので予定を確保しておいてほしいと。もうそんな年月が経つんだと改めて思ったものでした。
母が亡くなったのは社会人1年生の頃です。新規店舗の開店を前にバタバタしていたとき一報が入ったことを覚えています。お正月に帰省した際に言葉を交わしたのが最後でした。父も兄も、私は死に目に会うことなく逝っています。そういう後ろめたさが、ひょっとしたら四国遍路に向かう私の心の片隅にあるのかもしれません。
手許に、四国八十八カ所霊場第46番札所「浄瑠璃寺」でいただいた「魂の転生」と題するリーフレットがあります。人が亡くなってから、賽の河原や三途の河、六道の門(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)などを経て「仏界」に到達するという、果てしない道のりが綴られています。
「13年」(縁覚界)
大日如来の教化を受ける魂の浄化により総ての因縁を深く明らかに見通しこれによって自覚の境涯を楽しみ独覚の位に上る。
「33年」(菩薩界)
虚空蔵菩薩の教化を受け覚心堅く仏界において利他の行を求めて活動し守護の力を持ち菩薩の境界に入る。
「50年」(仏界)
常に大日如来の教化を受け、総ての行位を成満し、諸法自遊自在にして諸仏菩薩と共に密厳浄土に安住する。
ここで話題は急展開です。昨日、明石の帰りに何気なく立ち寄った紀伊国屋書店で、塩野七生著「ギリシア人の物語~民主政のはじまり」第1巻(新潮文庫)に出会いました。この夏に文庫本化されたようです。
塩野さんの作品には、「ローマ人の物語」(全43巻)を読み終えて以降遠ざかっていましたが、専制政治の台頭で民主制の在り様自体が問われている昨今です。と同時に、組織の大小問わず組織運営の在り方が問われています。何気なく手に取ってしまいました。「魂の転生」とは全くもって無関係と思いつつ、でも何かしら人間の営みと通底してはいないか。物事を難しく考える、私の悪い癖が頭をもたげています(笑)。 数年前に南イタリアはシチリア島を旅したとき、ギリシャの歴史を目の当たりにしたことがありました。文庫本には「古代ギリシャで民主政はいかにして生まれ、いかに有効活用され、見事に機能したのか?なぜ現代まで脈々と続く哲学や科学、芸術の起源となることができたのか?」「ギリシア人なくしてローマ人なし」とあります。
芸術、つまり西洋絵画やクラシック音楽、歌劇の中に登場するギリシャ神話のお話にもなんとなく興味を抱く私です。ギリシャが繁栄を極めた当時の時代精神、時代風景を感じながら、少し頭の中を整理したいと思います。問題は、今週から繁忙を極めそうな状況のなかで読書の時間をどうやって捻りだすことができるのかどうか。ひとまず今日は、ブログを更新したら文庫本に目を通すことになります。