心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

58歳の夏

2008-08-17 10:07:03 | Weblog
 今朝、愛犬ゴンタとお散歩していて気づいたのですが、お盆を過ぎて気候が少し爽やかになったと思うのは気のせいでしょか。昨夕は、孫をバス停まで見送った帰り際、カナカナと鳴くひぐらしの声を聞きました。暑かった夏も、そろそろ店じまいなのかもしれません。季節は右往左往しながら秋に向かって歩み出しました。
 この夏は遠出こそしなかったけれども、毎日どこかには出かけていました。あるときは、美味しい西瓜がたくさん採れたからと、奈良の遠縁にでかけました。麦藁帽子に短パンを履いて、いつもの通勤電車に乗ることの爽快感。大きな「でんすけ西瓜」を2個いただいて、大阪の環状線に乗った爽快感。大阪の街も夏一色でした。でも、帰る頃には両腕が痛くなりましたが....。
 お盆には、京都・知恩院にお参りをしました。菩提寺の総本山です。どうせ京都に行くならと、下鴨神社糺の森で開催中の「納涼古本まつり」にも立ち寄りました。暑い京都でありながら、さすがに糺の森。うっそうとした木立の下は涼しく、そこに40店舗ばかりの書店が自慢の古本を並べていました。出店でかき氷をいただきながら、1時間ほど見て回って、J.モノーの「偶然と必然」ほか数冊を買って帰りました。
 翌日は、急に思い立って徳島まで足を伸ばしました。阿波踊りの見物です。家内と二男が同行しました。適当な観覧場所を見つけて2時間ほど楽しみました。「連」という踊りグループが鳴り物(三味線・鉦・太鼓・横笛)入りで登場するのですが、、老若男女が一群をなして踊り歩く姿は壮観でした。一番印象深かったのは、踊りの「型」でした。5、6歳の子供から小中高生、大学生、社会人、ご老人に至るまで、踊りの「型」を身につけていらっしゃる。そこに日本の祭特有の鳴り物が加わると、まさに伝統芸能になるのです。ついさっきまでジーパンをはいて街を闊歩していた若者たちが着物に着替えて、掛声よろしく踊っている。まさに日本の祭りでありました。
 笛・太鼓・鉦の鳴り物が身体に充満するにつれて、ぼんやりと子供の頃の夏祭りの風景が浮かんできて、頭が朦朧とするなかで、ふとよぎったのが「守・破・離」(しゅ・は・り)という言葉でした。古くから伝わる言葉ですが、「守」は基本となる型を守ること、「破」は基本から抜け出し自分らしさを発見していくこと、そして「離」は基本から脱して新しい型を創造すること。阿波踊りという日本独特の踊りのなかに、それを感じました。あの独特の腰つきと手の動き。「型」を守りながら、それぞれの連が独自の踊りを披露する。伝統の真髄がそこにあります。
 わたしたちは案外、この「型」を軽視しがちなのかもしれません。場当たり的に物事をリセットしてしまうことに慣れきっていないかどうか。だから足元が見えなくなって浮草状態に陥ってはいないだろうか。58歳を迎えた今、改めて「守・破・離」の言葉の意味を噛みしめたものです。残された人生のなかで、どんな「離」を見出すことができるのだろうか。そんな思いに耽りながら、58歳の夏は、終わろうとしています。さあ、明日からはまた仕事です。
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