心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

鶴見曼荼羅との出会い

2009-03-08 10:25:30 | Weblog
 きょうは震度2の地震で目が覚めました。この時間帯の体感地震は、やはり一瞬にして大都会を崩壊させた阪神大震災のことを思い出させます。と同時に、人間の非力さもまた思います。
 ところで、先週触れた「鶴見和子の世界」(藤原書店)は、「コレクション鶴見和子曼荼羅」(全9巻)の完結を記念して1996年に刊行されたものです。多くの方々がお書きになった各巻の解説、月報その他を1冊にまとめてあり、鶴見さんの人となりを、共に歩んでこられた方々の目を通して表現されてあります。その数、実に63名に及びます。
 なぜこうも関心をいだくのか。ひとつには、この63名のなかには私が著書を通じて出会った方々が何名かいらっしゃること。そして何よりも、これまでなんとなくバラバラに読みすすんできた柳田國男、南方熊楠と鶴見和子の思想的な連関性。学生の頃よく読んだ政治学者の丸山真男、鶴見俊輔(和子さんの弟)らと協働された「思想の科学」グループの先見性と熱い思い。学者でもない私にとっては、学問としてではなく「人の生き方」を問うものとしての存在感が迫ってきます。
 川勝平太氏の「内発的発展論の可能性」と題する小論があります。通勤電車のなかで読みながら、なんとなく頭の中から離れなかった言葉に「他律」「自律」「無律」があります。鶴見さんのエッセーに登場する言葉なのですが、「鶴見が示した興味深い生命の三つの態様.....。他律の例として管理社会の組織人としての生き方があげられ、無律とは眠っているとき、ボーッとしているとき、あるいは夢を見ているときの状態....。他律には批判的ながら、無律には直観の働く世界としての価値を認めている....。自律の対概念は通常他律とされがちであり、自律と他律の対照をいうのはたやすいが、無律というコンセプトを出したのは鶴見の卓見」。私のような凡人には、その真意を知る由もありませんが、しかしながら、なぜか納得してしまう。そんな鶴見さんの世界に惹かれるのです。
 昨年の夏、ダニエル・レビンソンの「ライフスタイルの心理学」(講談社学術文庫・南博訳)を読みました。上下2巻で600頁近いものでした。読み終わって、私自身の60年近い歩みをエクセルに書き込んでみました。すると、仕事人生が大きなウエイトを占めている反面、意外と「児童期、青年期、そして成人への過渡期」が薄い。「老年への過渡期と老年期」への道筋が全く見えてこない。そこで私は折を見て、その表にもっと大きなスケールで時代状況を併記していきました。もちろん、生れる前に遡って。そして今回、鶴見さんの歩みを並べてみました。すると、1950年代の生活綴り方運動(この言葉はぼんやりと記憶があります)あたりで重なり、プリンストン大学で学位をおとりなった1966年以降は、私の学生時代、社会人時代と並行して様々な活動をされている時期が重なっていることが判りました。果たしてその時期に「私はいったい何を考え、何をしていたのか」。ずしんと迫ってくるものがあります。それは単なる回顧趣味ではありません。老年への過渡期を経て老年期に向かう現在の立ち位置にあって、私にある種の課題を問うものでありました。今のままではリタイアと同時に、私は生物的な老人になってしまう。そうじゃあないだろう、もっと人間としての「生き方」があるだろう。最近、そんなことを考えるようになりました。そう考えると、人生、なかなか捨てたものではありません。
 そんな次第で、今後数年をかけて「コレクション鶴見和子曼荼羅」全9巻を読破することにいたしました。先日、第1巻「基の巻(鶴見和子の仕事・入門)」をAmazonで購入しました。1冊が五千円から7千円もするので、中古品購入です。相当分厚い本ですから、気長に、年1~2冊のペースで読み考えていきたいと思っています。
 昨夜は、美味しい島美人のお湯割りをいただきながら、NHKドラマスペシャル「白洲次郎」第二話を見たあと、深い眠りにつきました。そして震度2の地震で目覚めた。何かの因縁かもしれません。
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