柴田翔の「されど我らが日々-」、以前に書いた「赤頭巾ちゃん気をつけて」「ライ麦畑で捕まえて」と合わせて、自分にとっては青春の通過儀礼的な本でしたが、改めて読んでみると、なんでこんな本にやられちゃったのか良く分かりません。(あくまで今の自分がそう思ったということで、もしこの本が好きな方がいたらごめんなさい。)
そもそも、内容をほぼ忘れていました。「赤頭巾ちゃん」はほとんど覚えていたので、実は小説そのものにはそれほどやられていなかったのかもしれません。じゃ、何にやられちゃったのかというと、著者の名前かなー。翔って字、今でこそ桜井クンとか風早クンとか、結構普通だけど、その頃は珍しくって、柴田翔だってよ、すげー、って思っちゃったのかも。
語り手の私は東大の大学院生、好き放題をした挙句に語学教師という平凡な職を得て、節子という親に薦められた遠縁の婚約者もいる。彼の周囲で、佐野という元共産党員、元セフレの優子が自殺をし、また婚約者の節子までが大怪我をしてしまうのだが、その理由が噴飯モノ。
佐野はデモの時機動隊に恐怖を感じ逃げ出したことで自分を裏切者と責め続けた。普通の企業の幹部候補生となった後も、「自分は裏切り者だ」という思いが離れず、生きるのが面倒と自殺してしまう、ってワケ分かんねーし。
彼にとって大事なことは、自分が完璧な共産党員であり革命戦士であること。革命って、民衆を解放する手段であって、佐野の目的は共産主義を通じて人々を幸せにすることのはず。それが、いつのまにか自分の純粋さ、完璧さを証明するものさしとして共産党がある、みたいな感じになっている。
共産党を無誤謬の絶対的なものって信じきっちゃっているのも変。共産主義にしろ、イスラム原理主義にしろ、オウム真理教にしろ、日本国憲法にしろ、崇め奉まつり、批判を許さない純粋まっすぐな奴は実に気持悪い。こんな奴がいるからテロが起きるんだろうな。
優子も、恋愛感情もなく、自分から誘って関係を持っておきながら、堕胎は女にとって屈辱って、でも明らかに自分のまいた種じゃん。
そのことを男に告げずに、男に後悔させてやるって自殺しちゃうなんて、そんなことをしたら自分の母親がどんなに悲しむかということを気がついていながら、それでも自殺する、そこまで自分を粗末にするって、どんだけ馬鹿って思う。
節子も節子で、随分と難しいことをいろいろと言ってるけど、要するに「安穏な生活ではなく、自分のやりたいことに挑戦してみたい。でも文男さんがもっと本気でかまってくれたらそのまま結婚しても良かったんだけど。」ってことか?
そんなん、わざわざ死にかけなくても出来るだろう。1歳違いの幼馴染の婚約者なんだから、敬語なんて使ってないで本気でぶつかればいい。
何より違和感を感じたのは、登場人物はほとんど東大生、頭脳明晰なエリートのはずなのに、自分が裏切り者だとか、空虚だとか、全部自分のことばかり。家族のこととか、社会の役に立とうとか、そういう発想が全く出てこない人たちの集まり。
明晰な頭脳を持つだけでなく、「私」を省みず「公」のために自分の力をささげるのがエリートであり、最高学府の国立大学はそういう人材を養成するのが使命だと思うのですが、それがこんな自分のことばかりでは、これはもう戦後民主主義教育の失敗、敗北と思っちゃいました。
何かに打ち込んで輝いていた学生時代、それをあきらめて平穏、平凡な人生を諦観のうちに送る、それが出来ない純粋な奴は自殺するみたいな論理のようですが、冗談じゃねーぞ、学生時代のほうがモラトリアム期間で、社会へ出れば純粋だ完璧だなんて言っている暇もなく、七転八倒、東奔西走、それこそ波乱万丈の人生があるわけで、高々学生の分際で「挫折ごっこ」やって燃え尽きてんじゃねーよ。
なんて言えるのも、自分が大人になったということなのでしょうか。
それにしても、どうしてこう自虐的になれるんでしょうね。
駄目な自分を「裏切り者め」というと、言った自分は免罪符をもらったような気になるんでしょうか。
自分なんて、欠点だらけの今の自分が結構好きですけど。
そう言えるのも、自分が成長したということかもしれません。
そもそも、内容をほぼ忘れていました。「赤頭巾ちゃん」はほとんど覚えていたので、実は小説そのものにはそれほどやられていなかったのかもしれません。じゃ、何にやられちゃったのかというと、著者の名前かなー。翔って字、今でこそ桜井クンとか風早クンとか、結構普通だけど、その頃は珍しくって、柴田翔だってよ、すげー、って思っちゃったのかも。
語り手の私は東大の大学院生、好き放題をした挙句に語学教師という平凡な職を得て、節子という親に薦められた遠縁の婚約者もいる。彼の周囲で、佐野という元共産党員、元セフレの優子が自殺をし、また婚約者の節子までが大怪我をしてしまうのだが、その理由が噴飯モノ。
佐野はデモの時機動隊に恐怖を感じ逃げ出したことで自分を裏切者と責め続けた。普通の企業の幹部候補生となった後も、「自分は裏切り者だ」という思いが離れず、生きるのが面倒と自殺してしまう、ってワケ分かんねーし。
彼にとって大事なことは、自分が完璧な共産党員であり革命戦士であること。革命って、民衆を解放する手段であって、佐野の目的は共産主義を通じて人々を幸せにすることのはず。それが、いつのまにか自分の純粋さ、完璧さを証明するものさしとして共産党がある、みたいな感じになっている。
共産党を無誤謬の絶対的なものって信じきっちゃっているのも変。共産主義にしろ、イスラム原理主義にしろ、オウム真理教にしろ、日本国憲法にしろ、崇め奉まつり、批判を許さない純粋まっすぐな奴は実に気持悪い。こんな奴がいるからテロが起きるんだろうな。
優子も、恋愛感情もなく、自分から誘って関係を持っておきながら、堕胎は女にとって屈辱って、でも明らかに自分のまいた種じゃん。
そのことを男に告げずに、男に後悔させてやるって自殺しちゃうなんて、そんなことをしたら自分の母親がどんなに悲しむかということを気がついていながら、それでも自殺する、そこまで自分を粗末にするって、どんだけ馬鹿って思う。
節子も節子で、随分と難しいことをいろいろと言ってるけど、要するに「安穏な生活ではなく、自分のやりたいことに挑戦してみたい。でも文男さんがもっと本気でかまってくれたらそのまま結婚しても良かったんだけど。」ってことか?
そんなん、わざわざ死にかけなくても出来るだろう。1歳違いの幼馴染の婚約者なんだから、敬語なんて使ってないで本気でぶつかればいい。
何より違和感を感じたのは、登場人物はほとんど東大生、頭脳明晰なエリートのはずなのに、自分が裏切り者だとか、空虚だとか、全部自分のことばかり。家族のこととか、社会の役に立とうとか、そういう発想が全く出てこない人たちの集まり。
明晰な頭脳を持つだけでなく、「私」を省みず「公」のために自分の力をささげるのがエリートであり、最高学府の国立大学はそういう人材を養成するのが使命だと思うのですが、それがこんな自分のことばかりでは、これはもう戦後民主主義教育の失敗、敗北と思っちゃいました。
何かに打ち込んで輝いていた学生時代、それをあきらめて平穏、平凡な人生を諦観のうちに送る、それが出来ない純粋な奴は自殺するみたいな論理のようですが、冗談じゃねーぞ、学生時代のほうがモラトリアム期間で、社会へ出れば純粋だ完璧だなんて言っている暇もなく、七転八倒、東奔西走、それこそ波乱万丈の人生があるわけで、高々学生の分際で「挫折ごっこ」やって燃え尽きてんじゃねーよ。
なんて言えるのも、自分が大人になったということなのでしょうか。
それにしても、どうしてこう自虐的になれるんでしょうね。
駄目な自分を「裏切り者め」というと、言った自分は免罪符をもらったような気になるんでしょうか。
自分なんて、欠点だらけの今の自分が結構好きですけど。
そう言えるのも、自分が成長したということかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます