りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

天満川

2024-03-07 | 短編小説


         【1】

 家路につく徹の背後には、カクテルライトに染まった初秋の薄暮が広がっていた。片手には赤いメガホン。祭りの後のあの独特な空気が彼を優しく包み込んでいた。
 二〇〇八年、広島市民球場の公式戦最終日。広島東洋カープは、感動的な勝利で市民球場の有終の美を飾った。
 今日は歩いて帰ろう。徹はそう決めた。
 いつもなら球場前の電停から路面電車に乗って帰るのだが、別に歩いて帰れない距離ではなかったし、何よりも三十路を控えて少し早めの中年太りがはじまった彼にとっては、むしろその距離は適度なウォーキングの距離だった。


 広島市中区小宮町。
 広島市民球場から西へ約一キロ。相生橋を渡り、本川町を横切り、繁雑とした土橋を越えると、細い路地で形成されたその町に辿り着く。その一角に徹の家はあった。家は車がなんとか擦れ違える程度の路地に面していて、玄関は路地に密接している。当然、玄関アプローチや庭といった優雅なものはない。寛ぎや安らぎとは無縁の、ただただ住むためだけのような家だ。古びた引き戸の玄関を開けると、段ボール箱とその中に入れる荷物たちが徹を出迎えた。
 「カープ、勝ったんね?」
 おかえりの代わりに、家の奥からそんな問いかけが耳に届いた。
 「ああ、六対三で勝ちじゃ」
 と徹は答えた。
 「ほぉね、そりゃあ、よかった」
 今度はそんな安堵の声が家の奥から届いた。   
 靴を脱ぎ、玄関から居間に入った。居間はさらに雑然としていた。衣類や毛布やバスタオルが、引越し業者の名前が印刷された数個の段ボール箱の周りに散らかっている。
 「全然、片付いてないのう」
 徹は居間の真ん中で仁王立ちになって、独り言のようにそう呟いた。
 「しょうがないわいねぇ、お母ちゃん一人で全部できるわけないじゃないの」
 徹の母は居間の隣の台所で食器棚を片付けていた。徹は居間をゆっくり見回すと、とりあえず足元の荷物を段ボール箱に入れはじめた。
 「綾さんも一緒に行けたらよかったのにねぇ、市民球場、今日が最後じゃったのに」
 しばらくして、食器を片付けながら独り言のように母が徹にそう話しかけた。
 「仕方がないわ。今日は夜勤明けなんじゃけぇ、無理は言えん」
 母は何も答えなかったが、徹の返事に微笑んでいるようだった。
 「なぁ、お母ちゃん・・・」
 「何ね?」
 「今さらこういう事を聞くのも何じゃけど・・・本当に大丈夫なんか?」
 タオルの束をまとめて段ボール箱に入れながら、徹は母にそう尋ねた。
 「ホンマに何を聞くんねぇ、この子わぁ」
 と、今度は声を出して母は笑った。
 「大丈夫よ」
 ひとしきり笑うと、母は明確な輪郭を持った口調でそう言い、徹に向かってこう続けた。
 「心配しんさんな。あんたは綾さんを幸せにする事だけを考えんさい」
 「でも家が変わって、俺も出ていって、それでお母ちゃん一人でお爺ちゃんの面倒を見るのは・・・」
 「家を出る言うても、別に遠くに行くわけじゃない、同じ市内じゃ。それに綾さんは看護師さんなんじゃけぇ、何かあったら助けてもらうわ。それに何じゃ言うても、新しい家は新築のマンションなんじゃけぇねぇ」
 母は一気にそこまで喋ると、イヒヒと意地悪そうに笑った。しかしそれは明らかに芝居じみた笑いだった。その笑いが、徹を余計に複雑な心境にさせる。
 結婚しても、一緒に住もう。
 そう提案したのは徹でも母でもなく、徹の婚約者の綾だった。
 「お義母さん一人だけでお爺ちゃんの世話をするのは・・・うちも手伝いますから」
 綾からの提案を、母はにべもなく断った。
 「結婚したらねぇ、色々あるんよ。じゃけぇ、あんたらはあんたらの生活を作ればええ。それに・・・新婚時代は、何かと気まずい事もあるじゃろうし」
 そう言うと、その時も母はイヒヒと笑った。徹は知っている。これは母の癖だ。自分の本心を隠す時、母は必ずこんな三文役者のような笑い方をするのだ。
 母は笑い終わると、もう一度「大丈夫じゃけぇ」と口にして、そして、いつもの口癖をその後に続けた。
 「なるように、なるけぇ」


         【2】

 小宮町に再開発の話が出たのは、今から五年ほど前だ。
 東の段原町、南の宇品と、広島市内の下町然とした町が次々と再開発の名の元に消えてゆく中、西の下町とでも言うべき小宮町にその波がやって来たのは、言わば必然的な事だった。長年小宮町に鎮座していた広大な鋳物工場の跡地を地元の大手不動産屋が買い上げ、そこに地上三十階建ての二棟のタワーマンションを建設する計画をブチあげた。周囲にはショッピングモールやホテルも作り、完成すれば紙屋町や八丁堀と肩を並べる新都心になると喧伝された。
 再開発地域は「リバーラ・コミヤ」と命名された。どこにでもある誰にでも付けられそうな安易なネーミングだったが、名前にリバーがついたのは、再開発地域のすぐ西隣に天満川が流れていたからだ。
 徹の家は鋳物工場跡地の裏手にあって、リバーラ・コミヤの一角に引っ掛かっていた。当時、バブルの後遺症から回復しつつあった不動産屋は、破格の立ち退き料を徹の家に提示した。長年、兎小屋以下の家で暮らしてきた徹の母は、この提示に何も躊躇う事なく乗った。
 だが、祖父は躊躇った。
 いや躊躇ったというよりも、立ち退き自体に反対しているように見えた。しかし祖父の想いを無視するかのように、小宮町の再開発計画は着々と進んでいった。母と徹は逡巡する祖父を粘り強く説得し続け、祖父も最後には何かを諦めたかのように 
 「わかった」
 と、ひと言漏らした。
 それによって徹の家は多額の立退料を手に入れ、母はこの際だから・・・と、雑然とした広島の中心部から離れる事を決め、リバーラ・コミヤを手掛ける不動産屋が販売する海が近い新築のマンションを購入したのだった。
 全てが円満に解決したように見えた。ある事だけを除いては。これをきっかけに、祖父の様子が変わりはじめた事だけを除いては。


 「今度の家は、窓から宮島も見えるんじゃけぇね。きれいな景色を毎日眺めていれば、お爺ちゃんもまた元気になるかもしれん・・・」
 母は大皿を梱包しながらそう言った。その言葉が、まるで祈りのように徹には聞こえた。
 祖父は温厚な人だった。無口で趣味らしい趣味もなく、定年退職するまで毎日、広島湾に突き出た工場へ天満川の河岸を自転車で通勤し続けた。定年後は、今度は毎朝、その天満川の河岸を散歩する事ぐらいが唯一の日課のような人だった。今年で九十二歳になる。
 「お爺ちゃんは?」
 徹が母に尋ねる。
 「自分の部屋におるよ」
 祖父は自分の部屋に、おる。確かに、おる。だが、“おる”だけだ。
 「ただいま」
 徹は祖父の部屋の襖を静かに開けた。
 子どもの頃から帰宅したら六畳間の祖父の部屋に顔を出すことが徹の習慣だった。それは単なる挨拶という意味だけではなく、父親を早く亡くした徹にとって父親代わりの存在だった祖父に対する愛情表現だったのかもしれない。
 だが、今は違う。
 祖父が変わりはじめてからの「ただいま」は、愛情表現というよりも、確認という意味合いの方が強い。
 襖を開けると案の定、祖父は饐えた匂いが染み付いた部屋の中で、介護ベッドに腰掛け、両手をだらんと下げ、虚空をみつめていた。寄れた白いワイシャツの裾が鼠色のズボンからはみ出ている。黒い靴下も片方だけ穿いている。身なりだけはいつもキチンと整えていた祖父の姿は、もうそこにはなかった。しかし、ちゃんとワイシャツの裾をズボンに入れ、靴下を両足に穿けば、その格好はかつて祖父が天満川を散策していた時の姿になる。そんな以前の面影が辛うじて残っている事が、徹にはたまらなく哀しかった。
 「お爺ちゃん、ただいま」
 徹はもう一度、祖父に声をかけた。しかしその言葉に反応はなかった。徹は静かに襖を閉め、浅いため息を落とすと、居間に戻った。
 マンションには来週引越す予定だ。
 本当ならば、半年後に引越す予定だったが、不動産屋から〈予定より早期に着工する事になった〉という全く体温を感じさせない連絡が突然届いたために、早めの引越しになってしまった。
 おかげで、引越しの翌週が徹と綾の結婚披露宴という事態になってしまい、実家の引越し、徹と綾の新居への引越し、そして結婚披露宴と、慶事といえども稀に見る慌ただしさが徹の家を覆っていたのだ。
 「お爺ちゃんの荷物は?」
 「明日やるわ。業者さんも手伝ってくれるし、荷物は少ないけぇね」
 「でも、あの部屋には親父やお婆ちゃんの物もあるんじゃろ?」
 徹がそう口にすると、母は黙り込んだ。


 母は徹が八歳の時に癌で夫を亡くして以来、女手ひとつで一人息子の徹を育てあげた。社交的な性格が幸いしてか、保険の外交員の仕事は母の天職のように見えていたし、実際に業績も優秀だったようで「今月は報奨金が出たけぇ」と言って、年に何度か徹と祖父を土橋の寿司屋へ連れて行ってくれた事もあった。
 定年退職を迎えた昨年、ささやかな宴を昔と同じ土橋の寿司屋で開いた。昔と違っていたのはお金を払ったのが母ではなく、徹と綾だったことだ。母は泣いた。二十年分、泣いた。徹が母の涙を見たのは、それが初めてだった。母が徹にしつこいほど「綾さんを幸せにしんさい」と言うのも、おそらく自身があまりにも早くに連れ合いを亡くしてしまった事も要因なのだろう、と徹は思っていた。きっと母の中では、息子の結婚に対して歓喜と寂寞の情が網の目のように絡まっているのだろう。


 「捨てようと思うとるんよ」
 母はため息まじりにそう言った。そして、全部じゃないけど、と前置きして話を続けた。
 「いつまでも持っといても仕方がない…お父ちゃんの物はともかく、お婆ちゃんの物なんて、ほとんど…いや、何もないんじゃし」
 母の話を聞きながら、徹はある事を思い出していた。徹は小学生だった。たまたま祖父の部屋にいた徹は、祖父にふと、祖母について尋ねた事があった。徹が生まれた時、祖母はすでに鬼籍に入っていた。祖父はしばらく思案した後、机の引出しの奥から古びた缶の箱を取り出し、蓋を開けた。中には黄ばんだボロボロの布切れが収まっていた。
 「お婆ちゃんじゃ」
 祖父は布切れを徹に見せながら、たったひと言、そう言った。


 「とにかく、こっちの事はええから、あんたは自分らの事を進めんさい。ええね?」
 母はそう言うと、台所の奥の洗面所へと消えていった。
 居間のタンスの上に薬箱のような仏壇があった。徹はその古びた小さな仏壇を、ため息を落とす代わりに力なくみつめた。


         【3】

 引越し前夜。
 徹たちは家の居間でささやかな宴を開いた。小宮町の家での最後の夕食だ。
 母と徹は迷うことなく土橋の寿司屋から出前を取った。がらんどうになった居間の畳の上に置いた丸い寿司桶を、母と祖父と徹、そして綾の四人で囲んだ。「ちゃんとした寿司屋のお寿司なんて、お義母さんの退職祝い以来じゃわぁ」と、綾は寿司桶を前にして戯けた。


 徹と綾は高校の同級生だった。三年前の同窓会で再会し、二年前に交際をはじめ、そして一年前に徹ではなく、綾の方から求婚した。
 徹と綾は好対照だった。電気工事会社で電気技師として働く徹は、祖父譲りなのか口数が少なく人付き合いも苦手だった。しかし綾は看護師という職業柄か、人付き合いが上手く、徹の母とも交際間もなくすぐに打ち解けた。
 気丈な母と屈託のない綾は見事に馬が合っていた。徹が仕事から帰宅すると、台所で母と綾が一緒に和やかに夕食の準備をしていたこともあったし、母は冗談と本気の境目のような口調で「うちは本当はこんな娘が欲しかったんよねぇ」と目を細めることもあった。
 様子が変わってしまった祖父と最も懇意だったのも、綾かもしれない。すっかり途絶えていた天満川の散歩に祖父を最初に誘ったのも綾だった。祖父は綾が誰だか分からないまま、ワイシャツの裾をズボンに入れ、靴下を穿き、綾と手をつないで、満開の桜の花びらが舞い散る天満川の河岸へ散歩に出かけた。
 綾はすでに徹の家の家族だった。だから二人の結婚は、もはやある意味、形式的な意味しか持っていなかった。


 「お爺ちゃんはお茶で我慢してね」
 と綾が紙コップにお茶を注いで祖父の前に置いた。
 「この家で暮らすのは今日が最後なんよ」
 「お爺ちゃんは、いっぱいいっぱい思い出があるもんねぇ」
 「六十年も住んでたんじゃもんねぇ」
 「でも、今度の家は海が近いけぇ、気持ちがええよ」
 「ホンマホンマ、うちらも遊びに行くけぇね」
 ・・・母と綾は交互に祖父に語りかけた。徹はそれを缶ビール片手に耳にしていた。徹が隣の祖父を一瞥すると、祖父は足元の寿司桶を眺めていたが、ゆっくりと頭を上げると、がらんどうになった居間の中空を、居間と同じがらんどうの眼で眺めていた。
 今日は酔いが回るのが早い。缶ビールを一本も空けないうちに、徹の頭は鈍くなりはじめた。仕方がなかった。実家と自分の引越し、そして結婚式の段取り。もちろん仕事はいつも通りだ。特にここ数日はそれらが折り重なって、全てが同時に徹に覆い被さってきていて、今までに経験がないほど心身ともに疲れ切っていた。
 母と綾は寿司を摘みながら話をしている。しかし睡魔が断片的に会話を遮断して、その内容が把握できない。二人の言葉の断片から推測するに、どうも祖父の介護についてのようだ。祖父を見る。取り皿の上に巻寿司がひとつ。箸をつけずに相変わらず中空を力なく眺めている。再び睡魔が襲う。記憶が途切れる。波が引くと「あんた、もう横になりんさい」と母が徹に呼び掛けていた。徹は右手を横に振った。綾が母に何かを尋ねる。母が答える。「昔は川の向こうに家があったらしいんじゃけど、お爺ちゃんがこっちに建て直したんよ。まぁ、それはうちも嫁いで来る前じゃけぇね、詳しい理由はよう知らんのんよ・・・」そう話すと、母は缶ビールを啜った。居間が回りはじめる。グルグルと回りはじめる。また睡魔が来る。波のようにやって来る。分かる。今度は本格的な睡魔だ。母の言った通り徹は少し横になろうとした。その時だった。


 「・・・ユキ・・・コ・・・」


 聞こえた。
 消え入るようなか細い声だったが、確かにそう聞こえた。だが、母と綾の耳には届かなかったようだ。二人は今度は新居の話をしている。徹は祖父へ顔を向けた。しかしそこには、相変わらずがらんどうの中空を眺める、がらんどうの祖父しかいなかった。


 小宮町の電停は、あまりにも道幅が狭いのでアスファルトの上に簡単な安全地帯が描かれてあるだけだ。そんな狭小な電停で、徹は綾を見送るために路面電車を待っていた。
 「この電停も、もっと綺麗になるんかねぇ?」 
 綾が足元の安全地帯を見つめてそう言った。  
 徹は「たぶんな」と答え、周囲を見回した。季節が変わろうとしていた。胸に吸い込む空気にも初秋の匂いがまじっている。
 小宮町の再開発は少しずつ進んでいた。鋳物工場跡地はすでに更地になり、その周辺にも少しずつ更地が広がりはじめている。徹の家とその周囲一帯の家が取り壊されれば、さらに広大な更地がうまれる。
 「この更地、どれくらいの広さなんじゃろ?」 
 綾が徹に尋ねる。
 「さぁ・・・市民球場くらいじゃないかのう」 
 と徹が無意識に答えると、綾が吹き出した。その姿を見て「どうしたんな?」と徹がふくれた。
 「だって、市民球場も更地になるんよ」
 「あ、そうか」
 「色んなものが、変わっていくんじゃね・・・」 
 電停に滑り込んで来た路面電車の軋む音が、綾の呟きをかき消した。綾が電車に乗り込む間際に、徹は明後日からは新居に泊まる事を綾に告げた。綾は微笑み、小さく頷いた。



 それは真夜中というよりも、もう朝が近い時間だった。
 枕元の携帯電話がけたたましく鳴った。寝ぼけ眼で徹が受話器のボタンを押すと、母の声が聞こえてきた。明らかに取り乱していた。どうしたんな?落ち着けや・・・という言葉を徹が口にしていると、一緒に新居に泊まり隣で眠っていた綾も眼を覚ました。そのうち母は徐々に落ち着きを取り戻し、あらためて徹に向かってこう言った。
 「お爺ちゃんが、おらんのんよ!」


 徹と綾は新居を飛び出した。
 車で祇園新道を一路、南へ走る。夜明け前のこの時間帯なら、徹と綾の新居がある安佐南区から母のマンションまで一時間もかからない。助手席で綾が携帯電話で母と話し続けている。しきりに「大丈夫」「もうすぐ」「落ち着いて」という言葉を繰り返している。雨が降っていた。細かく霧のような小糠雨だ。霧吹きで吹いたような微粒の雨がフロントガラスを濡らしてはワイパーが掠め取ってゆく。綾が電話を切った。
 「お義母さん、警察に電話するって…」
 綾はそう呟くと、深いため息とともに助手席のシートに沈み込んだ。
 母と祖父は、一昨日新しいマンションに引越した。その夜は荷物の片付けもあったので、徹もマンションに泊まった。マンションのエントランスは厳重なオートロック式だが、それは入る時だけであって、外出する時は比較的容易だ。きっと祖父は家のドアを開けると、当ても無いまま見知らぬ町へ彷徨い出たのだろう。
 徘徊。
 徹は頭の中で呟いた。胸が押し潰されるような感覚が徹を襲った。
 祇園新橋を渡り、牛田を抜け、白島北町の交差点で右折する。徹は太田川放水路を目指した。放水路に沿って延びる車道を河口に向って一気に南へ走れば、母と祖父が暮らすマンションまで一直線だ。その時だった。
 「小宮町へ、行こう」
 フロントガラスの先を真直ぐ見据えて、綾がそう言った。
 「たぶん、お爺ちゃん・・・いると思う」


         【4】

 小宮町も雨だった。
 家に向かった。だが家はすでに本物のがらんどうになっていた。周囲を見回す。大半が更地になり、以前の町並みがすっかり消えてしまった町の中には、動く者の姿は皆無だった。
 傘を忘れた徹と綾は濡れながら祖父を探した。霧雨が肌に染み込み、徐々に体温が奪われてゆく感覚に襲われる。
 それは自分が白い息を吐いている事に徹自身が気づいた直後だった。徹から指呼の距離にいた綾が、突然走り出した。何かを思い出したかのように更地を抜け、河沿いの道路を渡り、そして一気に天満川の河岸へ駆け上った。河岸に立った綾は周囲を見渡すと、にわかに対岸の一点に釘付けになった。
 綾の後を追って走って来た徹も、河岸に辿り着くと肩で息をしながら対岸を見つめた。立ちすくんだ綾が凝視している場所に眼を向けると、そこに、誰かがいた。誰かが対岸の土手でしゃがんで川面を覗き込んでいた。再び綾が走り出す。綾はすぐ傍の天満橋を渡り、対岸のその誰かの元へ向かって駆けてゆく。徹も追いかけた。徹が綾に遅れて天満橋の上を駆けている間に綾はその誰かの元へ辿り着き、そしてその途端、まるで全身の力が一気に抜けたかのように綾はその場にへたり込んだ。その光景を目にして、対岸の人がいったい誰なのか、徹にも分かった。


 祖父は、川面に向かって呼びかけていた。
 「のう、帰って来い・・・帰って来いや・・・ユキコ」
 ユキコ。忘れていた。そして、思い出した。その名前は徹の祖母の名前だった。あの家での最後の宴の時に鼓膜に届いた言葉は、やはり空耳ではなかったのだ。
 「あの時、お前と武を助けるのにわしは必死じゃった…ホンマに必死じゃった」
 武とは、徹の父の名前だ。父は物心つく前から、祖父の男手ひとつで育てられたという。
 「ぎょうさんの人が川の中におった・・・家も人も町も何もかんもが燃えて・・・わしも火傷しとった。でもわしは、お前と武だけは助けたかった。じゃけえ、お前と武と一緒に川の中に飛び込んだ・・・なのに、なんで・・・なんで、わしの手を離してしもうたんじゃ」
 祖父が、そこにいた。六十三年前の、二十九歳の、徹と同い年の祖父が、そこにいた。
 「気がついたら、この布切れがわしの肩にくっ付いとった。この布切れだけが・・・」
 祖父は片手に黄ばんだボロボロの布切れを握りしめていた。足元には古びた缶の箱が転がっていた。
 「あれから、わしはずっと探しょうたんじゃ。毎日毎日河岸を行ったり来たりしてのう・・・仕事の行き帰りも、毎日毎日毎日毎日・・・」
 その言葉に徹は心臓を鷲掴みにされ、呼吸が止まりそうになった。
 自転車通勤ではなかった。散歩ではなかった。


 祖父は、探していたのだ。


 天満川の河岸で、あの夏の朝、自分の手から離れてしまった祖母を、ずっとずっとずっと探し続けていたのだ。
 今、眼の前の祖父は、ワイシャツの裾をズボンに入れ、両足には黒い靴下を穿いていた。いつも河岸を散歩していた時の格好だ。そんな祖父の骨張った背中を、今にも泣き崩れそうな表情の綾がゆっくりと擦っている。
 「お前とはぐれたすぐ近くに家を建てた。無理矢理建てた。待っとったんじゃ、お前が帰って来るのを・・・。じゃが、その家ものうなる・・・探しとうても、もう、探せんようになる・・・」
 徹は対岸の小宮町に眼を向けた。
 瞬時に体が凍りついた。
 霧雨と近づく夜明けに浮かび上がる広大な更地となった小宮町は、まるで〈あの日〉の広島を想起させるような景色だった。


 その景色が、今、祖父の両眼にも映っている。


 「武も大きゅうなってのう・・・もうすぐ結婚するんじゃ。花嫁さんもベッピンさんでのう・・・よう気がつく優しい子なんじゃ」
 祖父は、徹を息子の武だと思い込んでいた。      
 それでいい。徹はそう思った。幼い頃、祖父は明らかに徹の父親代わりだった。色んな事を教えてくれた。色んな事で叱られた。しかし、誰よりも徹を可愛がってくれた。そうだ。俺は、祖父の息子だ。川面に向かって四つん這いになって語り続ける祖父を見つめながら、徹の胸は次第に熱くなっていった。
 「今度の家は高い場所にあるんじゃ。宮島が見えるんじゃ・・・一緒に行こう、また一緒に暮らそうや、のう、ユキコ・・・一緒に・・・」
 濃紺の天満川の川面に、現在の祖父と六十三年前の祖父が交錯する。九十二歳の祖父と二十九歳の祖父が交錯する。綾はいつの間にか祖父の背中を擦るのをやめ、両手で顔を覆って嗚咽していた。
 ふと、視界の端に赤色灯が見えた。徹が眼を向けると道端の大きな楠木の下にパトカーが停車していた。後部座席のドアが開くと、中から母が飛び出して来た。
 小糠雨は祖父を濡らした。
 母を濡らした。
 徹を濡らした。
 綾を濡らした。
 そして、天満川の川面をいつまでも濡らし続けた。


         【5】

 二本の線香に火を点けると、夫婦はその線香を川辺に刺し、そして静かに手を合わせた。
 「お爺ちゃん、お婆ちゃんに会えたかな」
 夫がそう呟くと、妻は緩やかに流れる川面をみつめながら、柔らかい表情で静かに頷いた。
 「だって、探して探してずっと探して、あの朝、やっとみつけたから、お爺ちゃんは安心して天国に逝ったんよ、きっと・・・」
 妻の言葉を耳にした後、夫はゆっくりと周囲を見回した。
 あれから二年の月日が過ぎていた。
 町はすっかり様変わりしてしまった。二棟の高層マンションは完成し、その周辺には多彩なショッピングモールが広がり、休日には数えきれない家族連れやカップルで賑わっている。夫の生家があった場所あたりは、シネマコンプレックスへ通じる通路になっていた。
 夫は振り返ると、もう一度、目の前の河岸に視線を移した。
 陽射しが反射して、川面が硝子の絨毯のようにキラキラと光っている。河岸の木立は、生命の悦びを謳歌するかのように日毎にその緑を濃くしてゆく。もう、夏が近い。
 「大丈夫か?」
 と夫が妻に問いかけると、妻は
 「うん」
 と頷いて、少し目立ちはじめたお腹に優しくそっと両手を添えた。
 「ねぇ、お義母さんに、何かお土産買っていかん?」
 「別にえかろうが。もうすぐ一緒に暮らすんじゃけぇ」
 「あそこのお寿司、買って行かん?きっと喜ぶよ」
 「でも、今日はそんなにお金持ってないで・・・財布がスッカラカンになるわ」
 夫が渋るようにそう言うと、つかさず妻は片手をパッと開いて、「大丈夫」と言ってこう続けた。
 「なるように、なるけぇ」


 二人は笑いながら河岸を降りると、土橋の寿司屋で寿司を買って、以前より広く綺麗になり屋根まで付いた小宮町の電停から、宮島口行きの路面電車に乗った。電停を出発した路面電車は、ガタンゴトンと、鉄橋を渡る音を川面に響かせながら川を渡って行った。
 夫婦が灯した二本の線香の煙は、二人が去った後も、まるで戯れるように天満川の川面の上をいつまでもゆっくりと漂っていた。
          
              〈終/2008年〉
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クリスマスだから、というわけじゃないけど。

2023-12-23 | 短編小説




明日は、クリスマス・イブですね。

別にこれといった予定はなく、今決まっているのは、おそらく夜に「M-1グランプリ」を見ることぐらい(笑)


          🎄


ところで、このひとつ前の日記で、ワタシのブログを紹介してくださった方のことを書いたのだけど、その方が、以前アップした、とあるワタシの日記を褒めてくださっていた。

その方はブロガーとしてけっこうなフォロワー数がいらっしゃる影響だからか、この数週間、その日記の閲覧数が以前に比べて異常に上昇していた。

その日記は、今から15年ほど前に書いた〈作品〉を載せたもの。

このブログは文章の鍛錬のために続けているのだけど、そういった文章の最高峰は、やはり小説なのではないか?と当時のワタシは思っていて、だったら、ちょっと挑んでみるか・・・と書いてみたもの。

で、書き上げたらその直後のテンションの高さと勢いで、とある文学賞に応募してみた。

そしたら、何の間違いか、佳作を受賞してしまった(笑)

しかし、オリンピックで言えば銅メダルのようなものだったので、大々的に世間に披露されることもなく、以降、執筆した本人でさえもほとんど忘れ去った存在になっていた。

それからずいぶん時間が過ぎて、ふいにこの作品を思い出す出来事があり、このまま闇に葬ってしまうことが忍び難くなり、今から2年前にこのブログにアップした次第。
(ちなみに、受賞した文学賞の事務局には著作権的にはOKとの承諾済み)


          🎄


しかし、アップした後も自分で読み返すことはあまりなかったのだが、先日、ひろひろさんというブロガーの方が紹介してくださったことを契機に、久しぶりに読み返してみた。
で、あらためて自分で読み返した印象は・・・


よく書いたな、こんなの(笑)


表現や構成が拙い箇所は多々あるのだけど、何かモノを創るために大切なのは、技術や知識ではなく、勢いと勘違いとハッタリなのだということがよく分かる(笑)


          🎄


奇しくも、明日はクリスマス・イブ。

そんな時期に、クリスマスがキーワードのひとつであるこの作品が、また少しだけ注目してもらえたのも何かの縁なのかも。

1989年。
貴方はどこで何をしていましたか?

よろしければお読みください↓
エミリー - りきる徒然草。

エミリー - りきる徒然草。

【プロローグ】郊外に建つコンビニエンスストアにとって真夜中という時間帯は、ただ〈開いているだけ〉でよかった。店員はカウンターの中で立っているか、次々とトラックで...

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エミリー

2021-06-01 | 短編小説


      【プロローグ】

 郊外に建つコンビニエンスストアにとって真夜中という時間帯は、ただ〈開いているだけ〉でよかった。
 店員はカウンターの中で立っているか、次々とトラックで配達される弁当や雑誌を手際よく陳列棚に並べるだけでいい。勤務時間は午前0時から午前8時まで。時給1,000円。日給8,000円。月給16万円弱。
 それだけではない。賞味期限の切れた弁当やパンは帳簿の上では破棄したことになっていたが、実際は、店員の胃袋に収まっていた。
 真夜中のコンビニのアルバイト。それは世間の底辺を這いずるように生きる人間にとって、あまりにもおいしすぎる仕事だったのだ。
 ろくに学校にも行かず、真夜中のコンビニのアルバイトに精を出している、見事に何もその手に持っていない、大学生という肩書きの二十歳のチンピラ。それが、僕だった。
 1989年。
 この国の元号が変わり、ドイツで壁が崩れ、天安門広場では僕らと同世代の学生が戦車と対峙していた。



       【熱帯魚】

 それは木曜日の深夜だった。平成最初の夏が終わろうとしていた。
 僕が働くコンビニは、大きな川に架かる橋のたもとにあった。地方都市の郊外の、しかも夜と朝に挟まれた谷折りのような時間帯の店内には、有線から泡沫の歌謡曲が流れるだけで、客は一人もいなかった。
 そんな店に、突然、彼女は現れた。
 ほろ酔いの千鳥足。歩く度に膝上のスカートの裾がひらひらと揺れる。その姿は、水槽の中を気ままに回遊する熱帯魚のように見えた。彼女はスナック菓子と缶ジュースと石鹸とシャンプーを一つずつ買い物籠に入れると、レジカウンターに立つ僕の元までやってきた。
 小さな女の子だった。
 華奢な身体つきと小麦色の肌。そして、ショートボブというヘアスタイルが、中学生の頃に好きだった同級生を、一瞬、僕に思い出させたが、それと同時に、彼女の身体から漂う噎せ返るような甘くぬるい香りが、明らかに彼女が僕と違う国籍なのだということを痛感させた。
 商品を入れた袋を手渡して、ありがとうございました、と僕が言うと、「アリガトウ・・・」と棒読みの小さな声で彼女は応え、そして俯いたまま、再び店外へ出て行った。
 彼女が出ていった後も、噎せる香りはしばらくの間、迷子のように店内を浮遊していた。その香りに背を向けるようにカウンターに凭れると、壁の時計をぼんやりと眺めた。
 午前3時過ぎ。
 時間を確認すると、僕は隣の控室に戻り、煙草の先端に火を点けた。

 近所にフィリピン人が住むアパートがあるらしい。
 そんな話を店の控室ではじめたのは、高校生の伊藤だった。彼は午後7時から午前0時までのシフトだ。入れ替わりに出勤した僕は、あ、そう、と伊藤の話に素っ気無く応えた。
「最近、引越してきたらしいんですけど、その女って、どう見てもジャパゆきにしか見えないんですって!」
 思春期まっただ中の伊藤は、興奮を抑え切れない様子でまくし立てた。
「もしそうだとしても、その女が自分で借りたわけじゃないだろう?その部屋は」
「え?・・・あ、まぁ・・・そうでしょうね」
 僕の冷静な一言で、伊藤の思春期の熱は一気に下がった。
「たぶん、コレが借り上げたんだと思います・・・」
 伊藤は少し声を落として、右手の人差し指で頬を切る仕草をした。
「先輩が働いてる時間には、来ませんか?」
「その女か?」
「はい。僕の時間帯には全く来ないんですよ。まだお店で働いてるみたいで・・・どうです?見たことあります?」
 伊藤の熱がまた上がりはじめる。
「いや・・・見たことないな」
「ホントですかぁ?」
「何だ? 俺が嘘でもついてるっていうのか?」
「いやいや、そういう意味じゃないですよぉ」
 伊藤は団扇のように手を振って、自分で自分の熱をまた下げた。
「あいつらって、いつも監視されてるんだ。だから、買い物も自由に出来ないらしいぞ」
 僕は適当な嘘をつくと、お疲れ、と伊藤の肩を軽く叩いて、カウンターの中に入った。
 今になって、思う。
 僕が伊藤に言ったことは、実は本当だったのではないか・・・と。自由を奪われた彼女にとって、唯一、あの時間だけが、特別に許された〈日常〉の時間だったのではないか・・・と。
 木曜日の午前3時過ぎ。
 あの日以降も、彼女は必ずその日、その時間になると店にやって来た。それ以外の曜日、時間には一切来なかった。来店した千鳥足の小さな熱帯魚は、毎回スナックコーナー→缶ジュースコーナー→生活雑貨コーナーを回遊し、そして最後に僕が待つカウンターにたどり着くと、強烈な異国の匂いを僕の鼻腔へと詰め込んだ。

 9月の下旬、〈おでんと肉まんのケースを所定の位置に出すように〉という連絡が本部から入った。
 僕はそれらの器具を控室の奥から引っ張り出すと、カウンターのコーナーに設置し、おでんの具材や肉まんやあんまんをケースに入れた。たったそれだけのディスプレイの変化で店内が冬の様相に一変したような気がした。
 しかし、おでんも肉まんもあんまんも全く売れなかった。つい先週まで半袖で過ごせたのだから、当然といえば当然のことだった。
 そんな冬を先取りしすぎた週の木曜日の午前3時過ぎにも、彼女は現れた。いつものように千鳥足で。スカートの裾を緩やかに揺らせて。コンビニという水槽の中を、小さな熱帯魚はゆっくりと回遊した。
 柔らかい景色だ。
 心の中でそう呟く。彼女が来店している間だけ、時間の流れも緩慢になっているように感じる。だがその一方で、大海から隔離されて小さな水槽の中でしか泳げない彼女への同情の種も、心の片隅に芽生える。
 その日も彼女はスナック菓子と缶ジュースと歯ブラシを購入した。僕は、彼女が財布から代金を出そうとしている隙に、ショーケースから肉まんを2個取り出し、紙袋に入れると、素早く彼女に手渡した。その途端、彼女の表情が変わり、紙袋と僕の顔を交互に眺めた。
「あげるよ」
 僕はそう言った。しかし彼女の顔から不審の表情は消えなかった。いや、それは不審の表情というよりも、戸惑いの表情といった方がよかった。
 これ、肉まんっていう饅頭。元々、中国の食べ物なんだけど、日本では冬に食べるんだ。これはもうすぐ賞味期限が切れるけど、まだ大丈夫だから君にあげるよ・・・ということを日本語で説明しても、おそらく彼女が理解できないことをその表情から察した僕は、彼女に向かって、
「プリーズ・フォー・ミー」
と言った。
 言い終わると、カウンターの上をおそろしく奇妙な沈黙が流れた。彼女はキョトンとした表情で、丸くクッキリと縁取られた二重の瞳を何度も瞬かせながら、僕を見ていた。
「・・・あ、間違えた!プリーズ・フォー・ユー!」
 僕が慌ててそう言い直した途端、彼女は相好を崩した。

「エミリー」

 袋を手にして、カウンターから離れる間際、彼女はそう口にした。

「ワタシ、エミリー」

 甘くぬるい香りと少し照れの混じった柔らかい微笑みを残して、彼女、エミリーは真夜中の店外へと出ていった。
 
 それからもエミリーは、必ず週に一度、毎週木曜日の午前3時過ぎに現れた。
 僕は、賞味期限が切れたばかりの肉まんやおでんを彼女にあげるのがお決まりになった。
「コレ、美味シイネ、好キ」
 彼女は殊の外、肉まんが気に入ったらしい。
 エミリーもすぐには帰らなくなった。買い物が終わった後も、彼女の時間が許す限り、カウンターを挟んで、カタコトの日本語とデタラメな英語で僕と言葉を交すようになった。
「名前・・・ハ?」「学生・・・カ?」「何歳・・・カ?」
 エミリーは判で押したような質問ばかりを僕に投げかけた。テープレコーダーのようだった。まるで誰かに吹き込まれたセリフをそのまま再生しているかのようだ。しかし、彼女が僕に語ってくれたことも片手で数えられる程度だった。名前は、エミリー。出身は、フィリピンのナントカカントカ島。家族は、タクサン。年齢は、アナタト、オナジ・・・・・以上。
 どうして日本に来たの?どうやって来たの?いつからいるの?・・・僕がそんな質問をしてみても、エミリーは不器用に作った微笑みを、その小さな顔に浮かべるだけだった。
 そんなふうにして、平成最初の秋は、少しずつ冬へと移りはじめていた。



      【水槽の中】

 それは、11月中旬の火曜日だった。
 僕は珍しく午後7時から出勤していた。高校生のアルバイトの一人が風邪で休んだのだ。僕はカウンターと商品の陳列棚を何度も何度も何度も往復し、深夜勤務では到底考えられない程の労働力を発揮した。
「忙しいでしょ?」
 一緒に働いている伊藤が接客の合間に小声で僕に訊く。僕はしかめっ面で肩をすくめた。
 確かに、忙しい。
 僕が働く深夜のコンビニと同じ店とは思えなかった。店の前にバス停があるので、バスが停まると、バスから吐き出された帰宅途中のサラリーマンやOLや学生が一斉に店に入ってくる。そして弁当やパンやカップラーメンを片手にカウンターに並ぶのだ。おでんや肉まんも飛ぶように売れた。いくら補充しても、次から次へと売れていった。「この店は、夜のラッシュでもっている」と、面接の時にオーナーが自慢気に僕にそう語っていたが、それは本当だったようだ。
 客の波がひと段落ついたのは、11時過ぎだった。それは見事にバスの最終便の時刻と呼応していた。店内には雑誌コーナーに立ち読みの客が二人ほど。僕は控室に戻って一服した。伊藤も客足が落ち着いたことを確かめると、控室に戻ってきた。
「少しは僕のこと見直しました?」
 伊藤は得意気に僕にそう訊いた。
「ああ、お前はスゴイよ、スゴイスゴイ」
 唇をすぼめて煙草の煙を細い筒のように吐いた後、僕はわざと棒読みの口調でそう答えた。それでも伊藤は僕の返事に満足したのか、嬉しそうにデスクに置いていた飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。
「先輩は、今日はこのまま朝までですか?」
「ああ、そうなるな」
 僕がそう答えると、伊藤はヒョエーと、わざとらしく戯けたような声を出して、缶コーヒーを飲み干した。
「何なら、変わってやってもいいんだぞ」
「えー、勘弁して下さいよぉ、期末試験が近いんスよ。勉強勉強。高校生は勉強が第一!」
「ったく・・・都合のいい時だけ、そんなこと言いやがって」
 そう言って僕が笑うと、伊藤も連られて笑い、そしてこう続けた。
「相変わらず、あのアパートの女は来ないんでしょ?」
 伊藤は僕が言ったことを信じていた。
「もし来るんなら、喜んで先輩と変わるんだけどなぁ」
 喉の奥にゴロリとした異物が詰まっていた。それが溶けるまで、僕は息が出来なかった。
 午前0時になった。
「お先でーす」とタイムカードを押すと、伊藤はさっさと帰っていった。すると店は、いつも僕が働いている、いつものコンビニへと、まるでグラデーションをかけたように戻っていった。
 午前1時過ぎ。
 店の自動ドアが静かに開き、一人の女性を迎え入れた。 
 エミリー、だった。
 だが、いつもと様子が違っていた。いや、それ以前に、今日は木曜日でもなければ、今は午前3時過ぎでもない。
 服装もひらひらと舞う膝上のスカートではなく、くたびれたグレーのスウェットだった。エミリーはいつものように緩やかに店内を回遊せず、俯いたまま、とあるコーナーへ小走りで向った。そして、そのコーナーの商品を素早くひとつ手に取るとすぐに踵を返し、僕の方へ一直線に向かって来て、そしてその商品を慌ただしくカウンターの上に置いた。


 避妊具、だった。


 エミリーは俯いていた。頬は紅潮し、何度も鼻を啜っていた。それは泣いた痕のようにも見えたし、見方によっては、誰かに思いっきり殴られた痕のようにも見えた。
 彼女のすぐ後ろに、中年の男が週刊誌を持って並んだ。彼女の香りが鼻を突いたのか、男は露骨に顔を歪め、そして明らかに侮蔑を込めた視線で、背後から彼女の全身を眺めた。
 冷静を装った僕が素早く商品を紙袋に入れると、それに呼応するように、即座にエミリーも避妊具の代金をカウンターの上に置いた。
 クシャクシャの、千円札だった。
 手に取ると、少し湿った感触が指先に伝わった。彼女はその千円札だけを手にして店へやって来た。クシャクシャになるほど強く握りしめていたために、きっと彼女の掌の汗が染みてしまったのだろう。
 いや、違う。
 指先に伝わったその淋しい感触に、僕はそう直感した。
 これは汗ではない。本来ならば、これは涙腺から流れるべき水分だったのだ。それが何かの間違いで、彼女の掌の汗腺から滲んでしまったのだ。


 これは、泪だ。エミリーの、泪だ。


 エミリーは会話どころか、一度も僕と目を合わさなかった。そして避妊具の入った紙袋を手にすると、再び俯いたまま、小走りで店の外へ出て行った。
 中年男の精算を済ませ、店内が無人になると、僕はカウンターから飛び出した。しかし、店外に出ようとした僕の足は、自動ドアの前で、床に貼り付いたようにピタリと止まった。 

 自動ドアの向こう。そこには、暗闇が広がっていた。

 全く灯りのない、漆黒の世界だった。そんな夜の闇に呑み込まれるように、エミリーは独りぼっちで避妊具を手にして消えていった。自動ドアには僕の顔が映っていた。青白く頬が痩せこけ、精気のカケラもない歪んだ顔。そしてその向こうには、エミリーを呑み込んだ暗闇。
 僕は気づいた。いや、気づかされてしまった。
 暗闇のど真ん中の、まるで忘れ物のようにポツンと存在するコンビニで、情けないほど貧相な顔をぶら下げて、僕はたった独りで生きていたことに。そして、小さな水槽の中に閉じ込められていたのは、エミリーだけではなかったことに。途端に怖くなった。悲しくなった。悔しくなった。虚しくなった。惨じめになった。
「エミリー・・・」
 視界に映る景色がぼやけてくる。右手が小刻みに震える。今まで何も手にしたことがなかった右の掌の中に、クシャクシャの千円札があった。エミリーの泪が染みた千円札。その泪に、僕の掌に滲んだ泪が重なってゆく。
「エミリィィィィーーーーーーーーーーー‼︎」
 身体中の総てのエネルギーを放出するかのように、僕は名前を呼んだ。しかし暗闇は、咆哮のようなその叫び声さえも、当たり前のように静かに呑み込んでいった。
 その週の木曜日の午前3時過ぎ。僕はエミリーを待った。
 しかし、彼女は現れなかった。次の週もその次の週も、エミリーは現れなかった。 



    【メリー・クリスマス】

 そのうち暦は12月になり、有線からはクリスマスソングが流れるようになった。
 カウンターの上には、クリスマスケーキの予約を承るチラシや、少し気が早いおせち料理の予約のチラシも並びはじめた。
 時間は確実に流れていた。
 未来は現在になり、そして過去になる。その繰り返しの中で僕は生きている。たとえそれが時間の止まったような真夜中のコンビニであっても、だ。
 エミリーは依然として店には現れなかった。止まった真夜中の時間を緩やかに動かせる彼女の不在が、僕に時間という概念を必要以上に意識させていたのかもしれない。 

 それは、クリスマスムードが最高潮に達していた12月中旬だった。
 木曜日の午前3時過ぎ。
 まるで忘れ物でも取りに来たかのように、ひょっこりと、エミリーが店に現れた。あの夜から1ヶ月が過ぎていた。
 エミリーは相変わらず膝上のスカートを穿いていたが、その細い脚は黒いストッキングに包まれ、上半身は黒のタートルネックのセーターを着て、その上に同じく黒のハーフコートを羽織っていた。
 似合っていた。しかし全身黒尽くめのその格好は、南国生まれの彼女には、ちょっと着心地が悪そうにも見えた。
 違っていたのは、服装だけではなかった。
 ひとつは、ほろ酔いの千鳥足ではなかったこと。そしてもうひとつは、三十歳くらいの厳つい体躯をした、一見しただけで堅気ではないと分かる男が一緒だったことだった。
 エミリーは今までと同じようにスナック菓子と缶ジュースを買い物籠に入れると、レジカウンターへやってきた。そして僕も今までと同じようにレジを弾いて、彼女から代金を受取り、商品を袋に入れて手渡そうとしたその時、彼女が僕にこう告げた。
「今日デ、来ルノ、最後」
 え?
「サヨナラ・・・」
 この時間帯には珍しく、エミリーの後ろに若い男の客が弁当を持って待っていた。僕は彼女に袋を渡すと、彼女の言葉にろくに返答もできないまま、次の客の応対をした。
 エミリーは、袋を持つとカウンターから一歩下がり、接客する僕を見ていた。
 柔らかな微笑みを浮かべていた。
 その表情は、僕が初めて彼女に肉まんをあげた、あの夜の笑顔に変わりそうにも見えたし、避妊具を購入しに来た、あの夜の泣き顔に変わりそうにも見えた。
 突然、雑誌コーナーから大仰な咳払いが聞こえた。
 それと同時に、エミリーの顔から微笑みが消え、こわばった表情で踵を返した。
 雑誌コーナーで咳払いをした男は、咳払い以上に大仰なガニ股で、店の外へ出て行こうとしていた。そして、その男に付き従うように、エミリーがその後ろをついてゆく。
 僕は、次の客のチキン南蛮弁当をレンジで温めている間に、カウンターのショーケースの扉を開け、急いで肉まんを2個取り出し、それを素早く紙袋に入れると「エミリー!」と、店の入口に向って声を投げた。小さな背中を僕に向けて店を出ようとしていたエミリーは、突然届いた僕の声に、自動ドアの前でにわかに振り返った。
 僕はカウンターを飛び出し、エミリーの元へ向った。自動ドアは先を歩いていた男をセンサーが感知し、既に開いていた。12月の乾いた冷気が全開の自動ドアから暖房の利いた店内に流れ込む。男は、突然エミリーを呼び止めて彼女に近づく僕を、開いた自動ドアの外側から鋭い眼光で睨んでいた。
「フォー・ユー・・・いや、プリーズ・フォー・ミー」
 肉まんの入った紙袋を差し出しながら、僕はエミリーにそう言った。
 僕が差し出した紙袋を目にして、エミリーは一瞬、戸惑いの表情を見せた。初めて肉まんをあげたあの時と同じように。だが、その後
「アリガトウ・・・」
 と、声にならないような小さな呟きと、相変わらず不器用な微笑みを僕に見せると、そっと紙袋を受け取り、店を出て行った。
 店の外には白いオンボロの商用ワゴンが停まっていた。男は運転席に乗り込み、エミリーは後部座席に乗り込んだ。スライド式のドアが全開になった時、車内にエミリーと同じような異国の女性の顔がいくつも見えた。 
 エンジンが、かかる。
 濁声のような排気音を店頭の駐車場にまき散らしながら、エミリーを乗せたワゴンは、まるで全てを振り切るかのように橋に向かって猛スピードで走り出した。そして橋を渡り切ると、瞬く間に暗闇に呑み込まれ、消えてしまった。
 それが、最後だった。
 その夜を最後に、エミリーが現れることは、もう二度となかった。

 12月24日。
 僕はいつもどおり店にいた。そして午前3時過ぎになったら、無人の店内から外へ出た。
「コノ街ハ、雪、降ル?」
 以前、エミリーが僕にそう訊いたことがあった。たしか11月上旬の木曜日だった。その数日前、この街はこの秋一番の寒さを記録していた。僕は頷いて「Sometimes」と答えた。
「クリスマス・・・ハ?」
 今度は僕は首を横を傾げて「Maybe・・・」と答えた。エミリーは僕の答えに何かを期待したのか、とても嬉しそうな表情を浮かべた。
「やっぱり雪、降らなかったよ・・・」
 クリスマス・イヴの真っ暗な夜空を見上げて、僕は独り言のようにそう呟いた。
 メリー・クリスマス。
 こうして、僕の1989年は終わりを告げた。


      【エピローグ】

 その店は影も形もなくなり、代わりにマンションが建っていた。
 二十年という年月が長いのか短いのかは分からないが、少なからず、一軒の小さなコンビニエンスストアを鉄筋7階建てのマンションに変えてしまうだけの長さなのだということは、僕にもよく分かった。
 一階は英会話教室になっていた。僕はマンションを見上げながら、右手を軽く握りしめた。握った掌の中にもうひとつ、小さな掌があった。
「ここで働いてたの?」
 小さな掌の主が僕にそう尋ねた。
「いや、ここにあったお店で働いてたんだ」
「そのお店は、どうしたの?」
「なくなっちゃったみたいだね」
「どうして?」
「さぁ・・・それはお父さんにも分からないよ」
 僕と息子はマンションを見上げたまま、そんな会話を交していた。
「・・・何カ、ゴ用デスカ?」
 その声に振り向くと、女性が立っていた。
 異国の人だった。
 二十代半ばだろうか。淡いグリーンのスーツに身を包み、その毅然とした佇まいがやけに印象的だった。きっとこの英会話教室の講師だ。
「すみません。昔、ここにあったコンビニエンスストアで働いていたんです」
 と僕が英語で答えると、女性は目を丸くした。
「てっきり入校したいのかと思ったわ。でも、そんなに流暢な英語を喋れるなら、生徒じゃなくて講師の方が向いてるわね」
 と女性も英語で応え、そして、笑った。
「二十一歳の時に大学を辞めてアメリカに渡ったんです。ニューヨークで暮らしていました。ずっと暮らしていくつもりだったけど、8年前に帰って来たんです。摩天楼に飛行機が突っ込んだ直後に・・・」
 僕の話に、女性は顔を曇らせ小さく頷いた。
「今は遠くの街で暮らしているんですが、たまたま用事でこちらに来ることになって・・・で、昔働いていた店に寄ってみたんです。せっかくだから息子を連れてね。だけど、あの小さな店の跡地に、まさかこんな大きなマンションが建っているだなんて・・・想像すらしていなかった」
 そう話すと、僕はもう一度マンションを見上げ、そして、隣にいる息子へと顔を向けた。
「How old are you?」
 女性は両膝を曲げて視線を落とすと、息子にそう尋ねた。息子は僕の後ろに隠れるようにして、僕と女性の異様な言語のやりとりを不安そうに見ていた。
「“何歳ですか?”だって・・・ほら」
 僕がそう促すと、息子は僕の後ろから恐る恐る指を四本突き出した。
 女性は、フフフと微笑みながら「早くお父さんのように話せるようになれたらいいわね」と息子に優しく語った後、両膝を元に戻すと、僕に会釈し、英会話教室の中へ入って行こうとした。
 その時、だった。
 女性の後ろ姿を眼にした僕の脳裏に、ふと、ある一人の、まったく別の女性の姿が蘇った。その瞬間、僕は思わず反射的に、教室に入りかけた女性に向かって「失礼ですが」と、英語で問いかけていた。
「貴女は・・・貴女は、どちらのご出身ですか?」

「Philippines」

 女性は振り返り、僕の目を真直ぐみつめて、そう答えた。その口調は力強く、言葉には誇りが溢れていた。
 僕は礼を言うと、黙って女性を見送った。

「さっきの人、誰?」
 バス停でバスを待っている時、息子が僕にそう尋ねた。バスがやって来る方向と、目の前の英会話教室を交互に眺めながら。
「あの学校の先生だよ」
 僕は顎をしゃくりながら、目の前に建つマンションの一階を左手で指差した。
「ふーん・・・名前は?ねぇ、先生の名前は何て言うの?」
 息子の予想外の質問に、僕は答えに窮した。だが、しばらく考えて、こう答えた。
「エミリーって、いうんだ」
 
 空港に着いたら売店に行こう。
 橋の向こうから、空港行きのリムジンバスが近づいて来るのをみつめながら、僕はそう思った。
 東京で待っている妻への土産を買って、搭乗手続きを終えたら、この街を離れる前に、ホカホカの肉まんを買って、息子と一緒に食べよう。
 心の中でそう決めると、僕は息子の小さな手を、右の掌で優しく握りしめた。

(終) 〈2009年作〉
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2018-11-28 | 短編小説


(2003年作・第35回中国短編文学賞 最終候補作)


【親父の死】

 厄介な電話というものは、受話器を取る前から大体分かるものだ。
「先輩と同じ名字の人からなんスけど」
 と出社早々、入社一年目の後輩が取次いだその電話もその類いの電話だった。不審な表情を浮かべて俺が出ると、
「朝からすまんな」
 と籠った男の声が受話器から聞こえてきた。それが兄貴だとは、すぐには気づかなかった。
「珍しいな、何かあったのか?」
 肉親からの突然の電話に、俺は奇妙な違和感を感じていた。
「親父が、死んだ」
 兄貴の口から出たその言葉を耳にした後も、俺の中の奇妙な違和感は消えなかった。

「先輩の親父さんって、いくつだったんスか?」
 と後輩は片手でハンドルを廻しながらそう言った。
 朝が始まってまだ間もないというのに、駅へと続く幹線道路はすでに渋滞がはじまっていた。四方をバスやトラックにガッチリ囲まれた会社のポンコツ営業車は減速する度に、プスンプスン、と頼りない排気音を響かせて車体を細かく震わせた。
「たしか、七十四・・・いや、五かな」
 と後輩の問いに俺が答えると、後輩は、エエッッ!!!と、ポンコツの屋根が吹き飛ぶかと思うほどの大声を上げた。
「・・・っるせぇなぁ、何だよ?」
 俺は大袈裟に右耳に人指し指を突っ込んで後輩を睨んだ。
「だって、先輩って、まだ三十前でしょ?」
「ああ、晩婚だったからな、たしか、結婚した時は四十を過ぎてたはずだよ、俺は、親父が四十九の時の子だから」
「へぇ・・・あ、だったら、親父さん、七十七歳じゃないっスか、先輩、今、二十八でしょ?」
 と、紛いなりにも四流ながら理系大学卒の後輩は、即座に親父の年齢の算出した。
「あ、そうか・・・」
「しかし親父さん、どうしてその年まで結婚しなかったんスか?仕事一筋っスか?」
「さあな、あんまり昔のことは話さなかったからな・・・大人しいし、病弱だったから」
「病気だったんスか?」
「ああ、原爆に遭ってるからな」
「へぇ、そうなんスかぁ」
 原爆という言葉を口にしたのに、後輩は普通の合の手を入れるだけだった。後輩を一瞥した後、俺は渋滞の列に視線を移した。
「だから身体が弱くてな、死因は聞いてないけど、たぶんそれだろう」
 親父が死んだことに対して、俺は自分でも驚くほど動揺はしていなかった。
 理由は、解っていた。
 それは今の俺が、家族というモノから遠く離れて生きているからだ。フロントガラス越しの風景を眺めながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。
 十八歳で家を出た俺は、生まれた場所から遠く離れ、十年もの間、このいつまでたっても実体が掴めない、途方もなく巨大な街で生きてきた。しかし振り返ると、その年月はまるでこの街と呼応しているかのように実体を伴わない、単に一年という時間を十回繰り返しただけの、怠惰な時間の滞積に過ぎなかった。
 仕事も、変わった。
 最初に就いた仕事は、中堅の水道工事会社だった。
 作業服を着て、毎日毎日あらゆる形のバルブを締めたり緩めたりし続けた。そして気がつくと、まるで風に漂う鳥の羽のように俺は転職を繰り返し、十年が過ぎた今では、社員が十人にも満たない小さな印刷会社の営業社員に収まり、毎日毎日安物のネクタイで頸を締め、今にも潰れそうな小さなスーパーや個人商店のチラシの印刷受注に奔走していた。
 ポリシーもプライドも、ない。
 ふと自分の経歴を振り返る時、そのあまりの一貫性の無さに、俺は自身を嘲笑してしまう。そして、そんな毎日をこの街で過ごしていれば、誰だって、故郷とか家族といった存在は、おのずと稀薄になってゆく。
 だから、いつもの日常の中で突然、父親の死を告げられても、俺の中に胸が潰れるような悲痛な切迫感はカケラさえも生まれるわけがなく、ただただ奇妙な違和感だけが靄のように身体の周りを纏わり漂うだけだった。そしてそれは、この巨大すぎる街の中で、突然〈原爆〉という言葉を耳にしても、何も現実感を掴めない後輩と、きっと同じようなものなのだろう。だから正直に今の本心を吐露すれば、仕事を放り投げてまで帰りたいとは思っていなかった。
「彼女は、連れて帰らないんスか?」
 前方をみつめたまま、後輩がそう尋ねた。連れて帰らない、と俺は答えた。
「いいんスか?お腹に子どもがいるのに」
「お前、何で知ってるんだ?」
「何、言ってるんスか、この前飲みに行った時、そう言ってたじゃないっスか、いやだなぁ、憶えてないんスか?」
 まったく、憶えてなかった。
 しかし後輩の言っていることは事実だった。俺は呆然と後輩の顔を眺めるしかなかった。
「まあ、先輩もかなり酔っぱらってたしなぁ、親になる自信がないとか、まだ自由でいたいんだとか、こんなご時世にどうやって養うんだとか・・・半分泣いてましたよ、先輩」
 数日前の出来事だった。
 部屋にやって来た彼女は、俺に妊娠を告げた。それはまるで予定されていた出来事を報告するかのような、奇妙な冷静さに包まれた口調だった。
 しかし、俺は違った。突然つきつけられたその事実に狼狽し、気がつくと俺は《中絶》という言葉を口にしていた。その言葉を耳にした彼女は、まるで汚物でも見るような侮蔑の視線を俺に向けた。それ以降、空虚な空気が俺と彼女の間を流れはじめていた。
 離別。頭の中にその二文字が浮かんでは消えていた。
「誰にも言うなよ」
「言いませんよ、こんなカッコ悪いこと、三十前の男が泣いただなんて」
「バカ、そっちのことじゃない!」
 駅前で車を降りると後輩は「土産はもみじ饅頭でいいっスからぁ〜」と脳天気な台詞を残して会社へ戻って行った。
 ホームへ上がると、携帯電話を取り出した。メール機能に切り替え、父の死と、それに伴って数日間帰郷する旨を、無表情な文章で入力し、そしてしばらくその画面をみつめた後、俺は、送信ボタンを彼女に向けて、押した。



【帰郷】

 黄金山に屹立するテレビ塔が視界に入ると、それを合図にタクシーは静かに停車した。
 久しぶりに眼にした広島は、やけに田舎臭く感じた。タクシーの車窓を流れる街並みを眺めながら、いったいこれが何年ぶりの帰郷になるのかを思い出そうとしたが、六年前の記憶まで遡ったところで面倒になってやめた。
 実家は、吹き出してしまうほど何ら変わっていない風景の中に佇んでいた。そこには、おそらく日常とまったく同じと思われる、生温い空気が漂っていた。
 静かだ。
 市街地からさほど離れているわけではないのに、穏やかな初夏の陽射しの中、聞こえてくるのは、名も知らぬ小鳥たちの柔らかい鳴き声ぐらいだ。深呼吸をすると、微かに新緑の噎せる匂いを含んだ空気が、両の肺に満ちていった。
〈騙されてんじゃないだろうな?〉
 一瞬、そんな疑念が身体の中を流れた。
 俺は眼の前の古びた家屋を怪訝そうに見回すと、何かに導かれるように静かに玄関へ向った。
「おじゃまします」
 玄関で靴を脱ぐ時、そう口にしていた。自分の口から出たその言葉に、俺は思わず苦笑した。
 懐かしさなんて、なかった。
 故郷に対するそんな感情は、パソコンのデスクトップのゴミ箱に投棄してしまったかのように、俺の中から完全に削除されていた。
 玄関から続く廊下を進み、客間に入ると、兄貴とお袋と見知らぬ初老の男が輪になって座っていて、その横に白い布で顔を覆った人物が横たわっていた。
「おう」
 俺に気づいた兄貴はたった一言そう言った。まるで昨日も会ったかのような口調だった。
 初老の男と話し込んでいたお袋も、兄貴の声で俺の存在に気づいた。お袋は例えようのない表情で俺を見上げた。
「いつだ?」
「今朝早くだ、突然だった」
 まあ座れ、と言う兄貴に促されて、俺は眼前に横たわる人物の前に座った。
 しばらく見ない間に、兄貴は老け込んでいた。
 公務員という職業はそれほどまでに激務なのだろうか。兄貴は三十を越えてまだ間もないはずだ。しかし今眼の前にいる兄貴は不惑の年を越えたような風貌だった。白髪が増え、眼尻はどす黒く変色し、安物の白いワイシャツが、中年太りがはじまったようなその体躯に哀しいほど似合っていた。
 兄貴は俺の横に座り、横たわる人物の顔を覆っていた白い布を静かに捲った。すると、そこに一人の老人の死顔が現れた。
 親父には見えなかった。
 眼窩は深く落ち込み、頬はこけ、固く閉じられた口は、まるで彫刻刀で彫った浅い溝のように俺の眼には映った。血色の失せた肌は、死人のそれ特有の黄ばんだ鑞のようだ。
 今朝の・・・と背後でお袋が語りはじめた。
「今朝の六時ぐらいじゃったかねぇ、手洗いの方から、ガタン、っていう音がしたけぇ、行ってみたら、お父ちゃんが倒れてたんよ」
 その後を兄貴が続けた。
「すぐに救急車を呼んだが、遅かった、臨終は、午前七時十二分だ」
「死因は?」
 親父の顔をみつめたまま、俺は尋ねた。
「分からん」
「分からん?」
 ぶっきらぼうな兄貴の返答に、俺は思わず兄貴の方へ顔を向けた。鸚鵡返しだったが、久しぶりに広島弁を口にしていた。
「一応、心不全ということになっとるが、実のところは先生にも分からんそうだ、解剖すれば分かるかも知れん、と言われたが……」
 その後を、今度はお袋が続けた。
「断ったんよ、お父ちゃんは身体のことでは苦労したけぇね……死んでからも痛い思いはさせとうなかったけぇ……」
 俺は合掌し、そして自らの手で、白い布を親父の顔の上へ戻した。
 弟です、と兄貴が男に俺を紹介した。初老の男は葬儀屋だった。
 葬儀屋は、俺が現れる前に三人で打ち合わせた内容を俺に説明した。事務的なロボットのような喋り方だった。その口調に、俺は少し苛立った。
「うちは親戚も少ないけぇ、通夜はやらんことにした、親父は大人しい人じゃったけぇ、静かに送ってやろうや」
 事務的な葬儀屋の説明に、兄貴はそう言って遺族の心情を補足した。
 その後、俺たちは葬儀の準備に取りかかった。時間が経つに連れて、数少ない親戚たちも駆けつけはじめ、家はにわかに騒がしくなっていった。
 客間のテーブルを裏の物置きに運び終えた時、お袋が俺を呼び止めた。少し背が丸くなったお袋は、「元気じゃったんじゃね」と眼を細めてそう言った。



【紫煙の向こう】

 事務的な葬儀屋のおかげで、翌日の葬儀は滞りなく終わった。
 夕刻、小さな箱になった親父とともに、俺たちは帰宅した。客間に入ると祭壇が設けられていて、俺はその上に親父の骨壷を静かに置いた。
 お世話になったけぇ、と兄貴は町内会長の家へ出かけて行った。俺が一緒に行こうとすると、「これから家に来る人がおるかも知れん」と兄貴は言い、家に居るよう俺に命じた。
 しかし来客はなかった。家の外はすでに夕暮れの薄紫に支配されはじめていた。黄金山に聳えるテレビ塔の赤いランプが、この街の人々に夜の訪れを告げている。
「疲れたじゃろう」
 そう言って、お袋が湯呑みに緑茶を注いで俺に差し出した。眼尻に無数の細かい皺が刻まれたお袋の両眼は、力なく瞬きを繰り返していた。
 お袋と二人きりになったのは、何年ぶりだろうか。ぎこちない空気が二人を包み、それが煩わしかった。しかし、それはお袋も同じだったようだ。お袋は向こうでの食事や仕事の事を俺に尋ね、俺はその都度、適当な返事を繰り返した。煩わしさが増す気がした俺は、話題をすり替えた。
「兄貴の仕事は忙しいの?相当疲れてるみたいだけど」
「どうなんじゃろうねぇ、家では、ほとんど仕事の話はせんけぇね」
 この二日間、俺は兄貴の傍にいて、奇妙な違和感を兄貴に感じていた。
 そこには、かつて俺が慕っていた快活で優しい「お兄ちゃん」はいなかった。そこにいるのは、すべてのモノを醒めた眼で見ているような男だった。燃料計の針がエンプティを指しているかのように、人間のエネルギーというものが、兄貴からはまったく感じられなかった。エネルギーがなければ、老け込むのは当然だ。リタイア寸前のような兄貴を眼にした俺の中の違和感は、気づかぬうちに嫌悪感へと変わりはじめていた。
「あんた…お兄ちゃんのこと、嫌い?」
 突然、お袋がそう尋ねた。とっさに俺は嘘をついた。すると、
「嘘は言いんさんな、顔を見れば分かるよ」
 と言葉とは裏腹に、お袋はそう言って笑った。それは、帰郷して初めて眼にしたお袋の笑顔だった。
「誰だろうと、疲れた人間を見るのは、嫌だ」
 俺は俯いてそう答え、湯呑みを口にした。口の中に緑茶の味が広がった。それは昔のままの暖かく柔らかい味だった。でもね、とお袋は言葉を続けた。
「お兄ちゃんも、あんたも、一緒よ」
「一緒?」
 お袋は頷いた。
「昨日からお兄ちゃんとあんたを見ようて思うたんよ、ああ、やっぱり兄弟じゃなって・・・あんたはどう思うとるか知らんが、お兄ちゃんとあんたはよう似とる、性格も仕草も笑い顔も、それに、疲れた顔も」
「何を言ようるんよ・・・」
 俺は返答に困ってそう言った。それは帰郷後、はじめて能動的に発した故郷の言葉だった。俺はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「あんたも、向こうで色々あったんね?」
 お袋のその問いに、俺は答えなかった。
 紫煙とともに奇妙な沈黙が漂いはじめた事を察した俺は、その狭間を埋めるように、頭の中で引っ掛かっていたことをお袋に尋ねたた。
「親父の死因、元を質せば、やっぱり原爆なのかな?」
「さあ・・・どうかねぇ、お父ちゃんは身体がボロボロじゃたけぇ・・・もうどれが原爆で、どれがそうじゃないんか、自分でも分からんかったみたいじゃったけぇね」
「親父が原爆に遭ったことは知ってるけど、俺、詳しい話は聞いた事ないんだよ」
 そう言うと、途端にお袋の顔が曇った。
「やっぱり、他の被爆者と一緒で、話したくなかったのかな?」
 お袋は俺の問いには答えなかった。ただ、皺の増えた両の掌で手元の湯のみを包み込むようにしたまま、じっと視線を落としているだけだった。そして、そのまま俺もその後の言葉を紡がなかったために、瞬く間に俺とお袋の間の空気は黙り込み、その間を俺の吐き出す煙草の煙だけがゆらゆらと彷徨った。
「・・・そうじゃないんよ・・・」
 しばらく続いたその沈黙を破るようにお袋はそう呟いた。紫煙の向こうに見えるその顔には、明らかに何かしらの意志が感じられた。
「話したくなかったんじゃのうて、話さない、って決めたんよ」
「話さない?」
 お袋は静かに頷いた。そしてしばらく思案の表情を浮かべた後、ゆっくり視線を移して、
「少しだけ、この子に話してもええかね?」
 と俺の背後の遺影に問いかけると、一息置いて、静かに話しはじめた。



【お前はワシの子】

「あの日、たしかにお父ちゃんは原爆に遭うた・・・そりゃあ惨い、この世とは思えん地獄を見たそうじゃ・・・でも、その事は・・・原爆の事は、もう話さんって、お父ちゃんは決めたんよ」
「じゃけぇ、何で?」
 自然に広島弁を口にしていた。
「それは、お兄ちゃんとあんたが、生まれたけぇよ」
 俺を真直ぐにみつめて、お袋はそう言った。
「俺らが?・・・俺らがどういう関係があるん?」
 湯呑みに一度口をつけ、お袋は続けた。
「原爆に遭うてから、お父ちゃんは本当に苦労した・・・家族も親類もみんな死んで、助かったいうても、お父ちゃんも身体がおかしゅうなって・・・すぐだるうなったり、あちこちが痛んだり・・・ずっとそんな調子じゃけぇ、心もおかしくなって・・・何にもやる気が起きんなって・・・何とか学校を出たけど、若いのに働きもせんと、ゴロゴロゴロゴロしとったそうじゃ・・・」
 社会見学ではじめて原爆資料館へ行った日、小学生だった俺は、その事を無邪気に食卓で話題にした。親父はしばらくして箸を置き、
「お父ちゃんも、原爆に遭うたんど」
 と告白した。笑顔だったが、その眼は笑っていなかった。自分の父親が被爆者だと知ったのは、この時だった。
「肉親が死んで、身体を壊されて、お金ものうて・・・苦しみながら、悩みながら、お父ちゃんは生きとったんよ・・・《自分には生きる資格はない》・・・お父ちゃんはずっとそう思いながら、生きとったそうじゃ・・・じゃけえ、ずっと結婚もせんかったんよ」
 物心がつきはじめた頃、親父はすでに初老だった。どうして、お父ちゃんは“おじいさん”なんだろう・・・そんな素朴な疑問が俺の中には常に存在していた。しかしその疑問を親父にぶつけることはなかった。
 《言ってはいけない》
 幼い俺は、なぜかそう直感していたのだ。
「縁があったんかねぇ・・・お父ちゃんが四十四歳の時、お母ちゃんは、お父ちゃんと一緒になった・・・そして一年後に、お兄ちゃんが生まれ・・・四年後に、あんたが生まれた」
 十代になると、親父は俺の中で劣等感へと変質した。高齢で、身体が弱く、物静かな親父は、俺にとっては侮蔑の対象以外の何ものでもなかった。
 《こんな男には、絶対になりたくない》
 心の中でそう呟き続け、高校を卒業すると同時に、俺は躊躇する事なく、家を捨てた。
「お兄ちゃんが生まれた時に、お父ちゃん、“こんなワシにも、生きる資格があるんじゃのう”って言うて、涙をこぼしてね・・・」
 お袋は涙声になった。
「そして、あんたが生まれた時、お父ちゃんこう言うたんよ、“ワシは原爆に遭うた・・・それは事実じゃ、忘れる事はできん、忘れられるわけがない・・・じゃけど、もうワシは誰にも話さん、誰に何を聞かれても、ワシの口から話すことはせん・・・ワシは・・・ワシは、二人も子どもを授かった・・・これは神さんが、《生きろ》と、ワシに言うとるような気がするんじゃ・・・原爆に遭うて、ワシの人生はワヤになった、普通に生きる資格なんかないと思うとった・・・じゃが、《女房や子ども達と、もう一度人生をやり直せ》と・・・神さんがのう、ワシにそう言うとるような気がするんじゃ・・・こんなワシでも、もういっぺん・・・じゃけえ、ワシはもう、原爆の事は誰にも、誰にも話さん”って・・・」
 話し終えると、お袋は涙を拭い、腰を上げた。そして、奥の居間から小さな箱を手にして戻ってきた。
「落ちついたら、渡そうと思っとったんじゃけど」
 と言うと、掌に乗るほどのその箱を俺に手渡した。蓋を開けると、中には黒く歪な数個の物体が転がっていた。見憶えはあったが、頭の中で上手く像を結べなかった。
「何か、分かる?」
 俺は首を傾げた。
「お父ちゃんの…」
 お袋のその言葉が、瞬時に像を結んだ。
 それは、親父の爪だった。
 親父の右手の、薬指の爪だ。褐色で、異常にぶ厚く、緩やかに彎曲しているその爪は、いわゆる一般的な人間の爪とはあまりにも程遠い姿をしていた。
 肉体から離れ、小さな箱の中に転がるその物体を瞬時に爪と認識するのは難しい。腐った竹細工のようにも見えるし、古生物の化石のようにも見える。
 親父の薬指から生え続けたその爪は、ぶ厚く硬質な為に爪切りを受け付けなかった。その為、数年の間伸びるままに放っておくと、やがて根元に亀裂が入り、ポロッと自然に指先から落ちた。しかし、爪が取れた指先からは、まるで当たり前のように、クローンのような異形の爪が、再び生えてきたのだった。
 幼い頃、親父にその爪の理由を尋ねた事があった。穏やかな昼下がりの縁側で、親父は新聞を読んでいた。「これはのう、昔、仕事で怪我をしてからこうなったんよ」と親父はその指先を摩りながら優しくそう答えた。
「これが・・・親父の・・・この爪が・・・?」
 お袋の意図が分からなかった。
 俺は眉間に皺をよせ、爪とお袋の顔を交互に眺めるしかなかった。そしてお袋は、そんな俺を憐れむような表情でみつめながら、ゆっくりとその口を開いた。
「“ワシが死んだら、原爆の話の代わりに、この爪を子どもらにやってくれ”って…」
 お袋のその言葉が、頭の片隅に微かに残存していたある記憶を、突然蘇らせた。
 それは、原爆資料館を訪れた小学生の時の記憶だった。俺は、とある展示物の前でその足を止めた。それを眼にした小学生の俺は、そのあまりの醜さに思わず息を飲み、その異形の展示物を網膜に焼き付けた。
 その展示物。
 それは、指先に突き刺さったガラス片によって爪の細胞組織が破壊されたという、被爆者の爪だった。
 その爪は異常に彎曲し、黒と灰色が混濁していて、とても人間の身体の一部には見えず、まるで鷲の嘴のように俺の眼には映った。そこには、当たり前のモノが、ある日突然、当たり前ではなくなるという、剥き出しの恐怖が存在していた。

 嘘、だった。

 仕事の怪我の痕なんかではなかったのだ。あの、親父の薬指から生え続け、そして今は小さな箱の中に転がる、この異形の爪は、親父が八月六日に体験した、剥き出しの恐怖の痕だったのだ。
 親父はその一切を隠し、ひたすら子供たちの前では親父なりに普通の父親であろうとした。それは年老いた彼にとって、再び自分の手元に人生を取り戻すための、たったひとつだけ残された最後の手段だったのだろう。

 知らなかった。

 親父の爪をみつめながら俺はそう痛感した。
 後輩は俺の親父の過去に興味を示さなかった。しかしそんな後輩を侮蔑する資格など、俺自身もどこにも有していなかったのだ。
 箱の中からひとつ、爪を手に取ると、俺は掌の中で何度か軽く転がしてみた。歪な爪は、幼児が覚えたての“でんぐりがえし”をするように、俺の掌の中で不器用に横転した。
 何度か転がすと、俺は爪を軽く握り、そして無意識にズボンのポケットに仕舞い込んだ。
 すると、ふいにあの日の縁側の光景が蘇ってきた。朧げな記憶の中の親父は、幼い俺を膝に乗せて、こう言っていた。

 ・・・この爪は変じゃけど、他の爪は綺麗じゃろうが?・・・見てみいや、お前の爪と形がそっくりじゃ・・・お前は、ワシの子じゃけぇのう・・・。

 日付けが変わる頃、昔の自分の部屋に布団を敷き、窓の外の夜景を眺めていると、「煙草あるか?」と、突然、兄貴が襖を開けて入ってきた。
 煙草を差し出すと、兄貴は持っていたライターで火を点け、そして俺と同じように窓の外の夜景に眼を向けた。
「こんなに明るかったかな?俺たちがガキの頃は、もっと暗かったような気がするけど」
 夜景を眺めながら独り言のように俺はそう言った。しかし、本当に独り言だと思ったのか、兄貴はそれには答えなかった。
 横目で兄貴を一瞥して、俺も煙草を取り出し口にくわえた。すると兄貴が持っていたライターで、煙草の先端に火を灯してくれた。俺は手を上げて兄貴に応えた。
「一度、お袋と遊びに来いよ、はとバスツアーも捨てたもんじゃない」
 最初の煙を吐き出すのとほぼ同時に、俺は兄貴にそう言った。すると、兄貴は口許を微かに緩めた。それに、と俺は続けた。
「ええ女が、ぎょうさんおるで」
 そう言うと、兄貴は声を出して笑った。その笑顔は、かつて俺が大好きだった「お兄ちゃん」の顔だった。気がつくと、俺も連られて笑っていた。
「明日も頼む」という言葉を残して兄貴が部屋を出ていった後、俺は携帯電話を取り出し、電話をかけた。
 彼女は、家にいた。
 明日いっぱい葬儀の後片付けをし、明後日には帰る旨を、ぎこちない彼女に向って告げ、そして深呼吸一回分の間を置いて、再び受話器に向かって話しはじめた。
「明日、朝一番の新幹線でこっちへ来ないか?」
 返事はなかった。
「お袋と兄貴、それに死んじまったけど、親父にも会ってくれないか?」
 彼女は答えない。気にしないふりをして、俺は続けた。
「お袋にとっては初孫だ、孫を抱かせる前に姑と顔を合わせておくのが、筋だろ?」
 そう言い終えると俺は返事を待った。しかし返事は一向に耳元に届かず、その代わりに、消え入るような小さな嗚咽が、受話器から漏れてきた。
 受話器から漏れるその声に少し困惑した俺は、手持ち無沙汰から無意識に片手をズボンのポケットに突っ込んだ。すると、チクッと小さな痛みが指先に走った。それは親父の爪だった。その痛みが、まるで親父からの祝福のように俺は感じた。
(終)
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バスルームから愛をこめて〈3〉 〜佐々木ヨシエさん〜

2018-11-24 | 短編小説


最近。
 娘と一緒に風呂に入る事は、皆無になった。だから、風呂は息子と二人きりで一緒に入っている。 

 ある日。 
息 子「どうして、お姉ちゃん、一緒に入らないの?」 
ワタシ「さぁ・・・恥ずかしいんだろうな」 
息 子「何が?」 
ワタシ「何がって・・・一緒に入るのがだよ」 
息 子「何で一緒に入るのが恥ずかしいの?」 
ワタシ「う〜ん・・・裸になるのが恥ずかしいのかもしれないな」 
息 子「何で?だって、お姉ちゃん、おチンチンないじゃん」 
ワタシ「いや・・・おチンチンがあるとかないとかじゃないんだよ」 
息 子「おチンチンがないのに、何で恥ずかしいのかな」

 子どもっていう生き物はどうして・・・・。
 しかし、ここで調子にのってコイツの言動にノッてはいけない。 例えば、ここでバカ正直にワタシが・・・ 
「それはな、女の子はおチンチンの代わりに・・・」 
・・・なんて答えようものなら、先に上がった息子が妻に風呂での話を事細かく喋ってしまい、何も知らずに風呂から上がったワタシには、脱衣場で地獄が待っている。 
「とにかく、お姉ちゃんは一人で入るからいいんだよ!」 
 ワタシは強引にこの話を、止めた。その後、しばらくの間、バスタブに無言の空気が流れる。しかし、その空気を破ったのも、息子だった。 

息 子「ねぇ、お父さん」 
ワタシ「あ?」 
息 子「前から気になってたんだけど、アレ、何?」 
 息子はそう言って、バスタブの前方を指さした。息子の指の先には、壁に付けられた給湯器のリモコンがあった。 
ワタシ「何って、お前、あれでお湯を沸かしてるんだよ。最初から付いてただろ」 
息 子「いや、そうじゃなくて・・・あの機械、喋るでしょう?アレ、誰?」 
 何度も書くが、まったく、子どもって・・・。どうして、こうもニッチェ的な疑問を真正面からストレートに大人にぶつけてくるのだろう?しかも、仕事や色んなことで疲れている時に限って・・・。 
ワタシ「それはな、あれはコンピュータで作られていて、ボタンを押したらその声が出るようにインプットされていて・・・」 
 ・・・という感じで、子どもにも分かるように説明する気力は、もう僕の中にはほとんどなかった。 
ワタシ「お前の通ってる幼稚園のすぐ近くに散髪屋があるだろ?」 
息 子「うん」 
ワタシ「あの散髪屋の裏に佐々木さんていう家があってな。そこのオバさんが喋ってくれてるんだよ」 
息 子「え〜〜?ウソだぁ〜!?」 
ワタシ「ホントだって。佐々木ヨシエさんっていうオバさん」 
息 子「ホントにぃ〜?」 
ワタシ「ああ。今年五十三歳。去年までヤクルトも配ってた」
息 子「へぇ〜〜」 

 信じはじめやがった。 
 そうなると、逆にヤバい。本来、妄想大好きなのワタシの勝手気ままなストーリーは止まらなくなる。 

息 子「でも、どうやって佐々木さんが喋ってくれるの?」 
ワタシ「ここ(リモコン)から線が出てて、佐々木さんの家までつながってるんだよ。で、リモコンのボタンを押したら、佐々木さんの家に付けた鈴がなるようになってるんだよ。チリンチリンって。そしたら、佐々木さんがマイクの前で喋るようになってる。“オ風呂ガ、沸キマシタ”、とかな」 
 ダメだ・・・自分で喋りながらも笑いを抑えるのに必死なるワタシ。 
息 子「じゃあ、佐々木さんは毎日喋ってくれてるの?」
ワタシ「そうだよ。ちゃんとお金を払ってるもん。一日20円」 
息 子「ふ〜〜ん・・・佐々木さん、すごいねぇ」 
ワタシ「ああ、毎日毎日な・・・そうだ、お前、佐々木さんに“ありがとう”って言っておけ」 
息 子「どうやって?」 
ワタシ「リモコンに向かって。たぶん、佐々木さんに聞こえるから」 
 半信半疑の表情でゆっくりと給湯器リモコンに近づく息子。バスタブの中を給湯器の前まで移動すると、ワタシと給湯器を交互に見ながら、口を近づけ、そして意を決したように給湯器に向かってこう言った。
息 子「佐々木さん、ありがとう〜〜〜!!」 
 し、し、死にそう・・・笑い死にそうだ。もう、ダメ。限界。 
ワタシ「なぁ・・・もういいから、お前、あがれ」 
息 子「うん」 
 息子が上がったあと、ワタシは声を殺して笑った。息子に悪いことしたなぁ。 
 でももっと悪いことをしたのは、幼稚園の裏で暮らす架空の人物・佐々木ヨシエさんだ。 
 しばらくして、ワタシも風呂から上がった。 
 脱衣場から出てリビングに行くと、妻が呆れたような顔でワタシを見てこう言った。 
「もう・・・なにバカなことを教えてるのよ!!」 

 ・・・結局、どうやっても、風呂上がりに怒られるんじゃねぇか。

(終)〈2007年作〉
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バスルームから愛をこめて〈2〉 〜ナイチンゲール〜

2018-11-24 | 短編小説


先日。 
息 子「ねぇ、お父さん」 
ワタシ「ん?何だ?」 
息 子「何でボクにはおチンチンがあって、お姉ちゃんにはおチンチンがないの?」 
 まただよ・・・またはじまった。
 ここで良いパパぶって「それはな、子どもを産むためなんだよ」とかなんとか言って、直球勝負の答えを返してはいけない。ゼッタイに。
そんなことをした日には、息子の好奇心に思いっきり火を点けてしまい、かつての“注射器事件”の二の舞になってしまう。
 そこでワタシの口から出た答え。 
「だからぁ〜、それはお前が男で、お姉ちゃんは女だからだよ」 
 ・・・我ながら情けないほど、見事に何の答えにもなっていない。
 今、最も好奇心旺盛な時期を迎えている四歳の息子が、こんな低能な答えで納得するわけがないじゃないか。 
息 子「ふ〜〜ん。そうか」 
 納得しやがった。 
 しかし、これはまだプロローグに過ぎなかった。この直後・・・ 
息 子「ねぇ、ねぇ、お父さん」 
ワタシ「あん?(もういい加減にしてくれよ)」 
ワタシは少し面倒くさそうに答えた。すると息子は、間髪入れずに僕に向かって発射した。 
息 子「男の子はおチンチンって言うけど、女の子はおチンチンないけど、何て言うの?」 
ワタシ「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
息子が発射した質問は、明らかに核弾頭だった。この例えはちょっと不謹慎だっただろうか。ならば、例えを変えよう。 息子が発射した質問は、明らかに関東直下型の大地震だった。いや、この例えも不謹慎か?・・・・いやいや、最も不謹慎なのは、息子よ、お前のその質問だっ!!
 何も言葉が、出て来ない。 
 風呂の中で、石になる。 
 風呂に入っているのになぜか汗が大量に流れはじめているのが、分かる。 
 そりゃあ、ワタシだってもうすぐ四十路だもの。当然、〈その言葉〉は知っている。 
 友達と居酒屋に行ってビール二〜三杯でも飲んでほどよく酔えば、メロディー付きで連呼している。(それはそれで考えモノだが) 
 だけど当然の当然の当然だが、その言葉を子どもに教えるわけにはいかない。 そんなことをした日にゃ、息子が風呂から上がって妻に報告したとたん、 ワタシは、全裸のまま勝手口から放り出されるのは必至だ。 
ワタシ「う〜〜〜ん、何て言うのかなぁ・・・」 
 ワタシはとぼけたフリをした。 
 この時の僕の芝居を見れば、きっと今は亡き浅利慶太も“ぜひ、劇団四季に入ってくれ”とワタシに懇願したことだろう。 
息 子「ねぇ、何て言うの?」 
 こういう場面で“知らない”とは言えないし、言ってはいけない。ワタシはそう思っている。 
 子どもにとって、親に質問をして“知らない”と言われた時ほど失望することはないからだ。 
 ワタシが、そうだった。 
 子どもの頃、ワタシも素朴な疑問をよく親にぶつけた。しかしその度に、親は“よく分からない”と言って、ワタシの質問をよく誤摩化した。 
 息子は、明らかにそんなワタシのDNAを受け継いでいる。だから、なおさら“知らない”とは口にできない。でも、悲しいかな、何も言葉が出て来ない。 
 息子は、ワタシは中々答えないことに痺れを切らしたのか、湯船に立ってシャボン玉に興じていた娘の方を向いて「ここ、ここ」と指差した。 
 こら、こら、お姉ちゃんの股間を指差すんじゃない!

「・・・ナイチンゲール・・・」 

 無意識に自分の口から出たその言葉に、ワタシは自分で自分の耳を疑った。 
「ナイチンゲールぅぅ〜〜???」 
 息子は声をひっくり返して僕が言った言葉を繰り返した。息子の“ナイチンゲールぅぅ〜〜???”が、気持ちがいいほど浴室に響き渡る。 
 その言葉に、今度は娘がシャボン玉を中断して反応した。
「ナイチンゲール、知ってるよ。看護婦さんよね?」 
 さすがワタシの愛娘だ。娘は格好の助け舟を出してくれた。その言動にワタシは淡い期待を抱いた。ここで話題の方向が変わるかもしれない。 
ワタシ「お、おぉ、そうそう、よく知ってるな。どうして知ってるんだ?」 
愛 娘「学校の図書室に本があった」 
ワタシ「へぇ〜、お前、読んだの?」 
愛 娘「うん、少しだけ。でも、おチンチンの話じゃないよ」 
 娘の助け舟には穴が開いていたらしく、あっという間に浴槽に沈没した。 
 しかし、それでワタシの疑問も氷解した。
 ワタシも小学生の時、男女の身体の違いを表現する時に、ただただ“ナイチンゲール”という語感が面白いというだけで、そう言っていたのだ。そのナイチンゲールが白衣の天使だったことをワタシが知ったのも、娘と同じように学校の図書室の本だった。その時の記憶が、とっさに思い浮かんだのだ。たぶん。 
「お父さんが子どもの頃、そう言ってたような気がする」 
 ワタシはこの期におよんで、まだ少しとぼけた。この時のワタシの芝居を見れば、佐藤B作ならば東京ボードビルショーに入れてくれたかもしれない。 
「でも、でも、でも、ナイチンゲールって看護婦さんなのに、なんでおチンチンの女なの?」 
 息子は少し興奮して支離滅裂な尋ね方をしたが、息子が言いたいことはよく分かった。 
「うん・・・まぁ、でも、それでいいんだよ」
ワタシはそう言いながら、心の中で、クリミア戦争で負傷した兵士を必死に看護した看護師の鑑であるナイチンゲールに、平身低頭で謝った。まさか、ナイチンゲールもこんなカタチで約三十年ぶりに僕と再会するとは、予想だにしていなかっただろう。 
 他にも、子どもに説明する適切な表現はあったと思う。実際に、それが教育の現場でも課題になっていることはおぼろげに知っている。 
 しかし、僕にはもう限界だった。早く湯船から上がりたかった。のぼせる寸前、すでにゆでダコ状態だったのだ。
 いつもと同じように、息子、娘、僕の順番で風呂から上がった。きっと息子は風呂から上がると、いつものように素っ裸のまま、浴室での出来事を妻に報告しているはずだ。 
 僕も風呂から上がった。脱衣場でバスタオルで身体を拭いていると、リビングから息子の甲“高い声が聞こえて来た。
「お母さん、女の子はねぇ〜、ナイチンチンゲールなんだよ!」 

 ・・・・・・勝手にアレンジするんじゃねぇよ。

(終)〈2007年作〉

●バスルームから愛をこめて〈3〉 〜佐々木ヨシエさん〜 → https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/63b4f1478cb9ef07dd16d09a5d056963
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バスルームから愛をこめて〈1〉 〜注射器〜

2018-11-24 | 短編小説


「ねぇ、お父さん、これ、何?」
 と息子が突然、 自分の股間を指差しながらそう訊いてきた。
 ある日の夜。僕は八才の娘と四才の息子の三人で入浴していた。
 はぁ?こいつ、今さら何を尋ねてんだ?
僕「何って、おチンチンだよ」
息「違うよ、おチンチンじゃないよ、その後ろに
あるコレ」
僕「あ・・・こっちか」
 息子の言葉で気づいた。そういえば、そっちは今まで説明してなかったな。
息「ねぇ、何、コレ?何?」
僕「これはなぁ・・・玉が二つ入ってるんだ」
息「ふうん」
ここで、やめておけばよかったのだ。
僕「でな、お前が大人になったら、ここに小さい
小さい“子どもの種”が生まれるんだ」
 このひと言だった。
 このひと言に息子だけでなく、娘まで反応してしまった。
娘「違うよ、子どもは女が産むんだよ。男は産ま
れないよ」
僕「あ・・・うん・・・そうだね・・・」
息「ねぇ、僕も子ども産むの?産んじゃうの?
ねぇここで産むの?」
 僕と娘の言葉に、袋を指差しながら動揺する息子。
僕「いや、だからね・・・その・・・あの
ね・・・あげるんだよ」
息「あげる?」
僕「そう、男の人からあげるんだよ、女の人に」
 自分で自分の言葉に、少し安堵した。
息「何を?」
僕のささやかな安堵は、息子の質問で秒殺された。そりゃ、そうだ、当たり前の疑問だ。 
僕「いや・・・だからぁ・・・なんつーのか
な・・・」
 言葉が詰まる僕の視界に、ポンプ式のシャンプーが目に入る。 あれを押して“こんなの”って言えたら、どんなに楽だろう。
僕「だから、“子どもの種”だよ」
 結局、開き直った。
娘「じゃあ、どうやって?どうやってもらうの?」
 今度は、そうきたか・・・。
息「うん、どうやってもらうの?」
僕「お前はもらわないよっ!お前はあげるんだよ
っ!」
息「じゃあ、どうやって?」
 オレ、自分で自分のクビ締めてるよ・・・
僕「だから・・・そのな・・・」
息「(お湯の入った洗面器を持って)これで?」
僕「バカッ!そんなのにいっぱい入れてどうする!死んじゃうよ!」
息「死ぬって、誰が?お父さんが?」
僕「え、あ・・・そうね、お父さんっていうか、
小さいお父さんというか・・・まぁ、 いろん
なものがな・・・」
 ここで僕の頭の中に、突然電球が灯った。
僕「注射器だよ、注射器!」
娘&息「注射器ぃ?」
僕「そう、注射器であげるんだよ」
 うん、これはいい例えだぞ!僕は心の中で自画自賛した・・・が、話がそんなに上手く進むわけがなかった。
娘「私、注射器でもらうの?」
僕「・・・」
娘「いつ?」
僕「いつって・・・そんなの分からないよ・・・」
娘「私、イヤ!痛いのイヤ、怖いからイヤ!」
僕「うん。お父さんも、イヤ(別の意味で)」
息「ねぇ、僕は誰にあげるの?」
 まだ、こっちの坊主がいた。
息「誰?」
僕「誰って、それも分からないよ」
息「何で?」
僕「そりゃあ、大きくなってお前が好きな人に出
会ったら分かるよ」
 いいねぇ、これが理想の親子のお風呂での会話じゃん。 
息「好きな人?」
僕「そう、好きな人」
息「じゃあ、お姉ちゃんにあげてもいいの?」
僕「ダメダメ!お姉ちゃんは姉弟だからダメだって!」
息「じゃあ、バァバは?」
僕「ギャハハハハ!それもダメダメ!ワハハハ
ハ!」
 親を飛び越えるなよ。跳び箱じゃないんだから。 
息「何で、そんなに笑うの?」
僕「いや・・・お前、面白いからだよー」
息「じゃあ、お父さんは、お母さんに注射した
の?」
 きた。いきなりの核心。
僕「うーーん・・・まぁ・・・そうねぇ、そうな
んだろうねぇ」
息「いつ?」
僕「いつって・・・憶えてないよぉ」
 もう勘弁してくれ・・・。 再び、僕の視界にポンプ式のシャンプーが入りやがる。
僕「もういいから、2人とも先に上がりなさい」
娘&息「はぁーい」
 子どもが上がった後、 脱衣場からリビングに向けて息子の大声が響く。
「お母さぁーん、お父さんに注射されたのぉ?」
 その質問を耳にした瞬間、 風呂の栓を抜いて、お湯と一緒に流れようかと思った。

(終)〈2007年作〉

●バスルームから愛をこめて〈2〉 〜ナイチンゲール〜 → https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/f201955b23159190cf0dcfffdb60f913
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うつ病893〈待合室編〉

2018-11-13 | 短編小説


〈2008年作〉

 月に一度の割合で、心療内科に通院している。
 別に重度の精神障害を患っているわけではない。仕事でストレスや疲れが溜まって、判断力や気力が萎え “ あれ?俺、ちょっとヤバイかも・・・”と感じると、とりあえず通院して先生のカウンセリングを受けて、相応の薬を1ヶ月分処方してもらっているのだ。そうなると、必然のように1ヶ月に一度の通院というリズムが出来上がってしまった。そんな感じで、僕はここ三年くらいを過ごしている。
 その病院は先月から診療システムが変わった。完全予約制になったのだ。裏を返せば、完全予約制でないとさばけないほど、精神的な理由で来院する人が増えたということなのだろう。
 僕も先月から事前に予約するようになり、今回も予約した時間の10分ほど前に訪れたのだが、完全予約制になってからというもの、アポなしの急患がいなくなって、以前なら受診待ちの患者でひしめき合っていた待合室は、驚くほど閑散としていた。


 そんな待合室に、二人の先客がいた。


 一人は、ソファーに座った五十代半ばぐらいの男。もう一人は、その横で直立不動の二十代とおぼしき男。待合室に入り、その二人の姿が視界に入った瞬間、僕は凍った。
 たとえば、街で100人に“この二人の職業は何でしょう?”とアンケートを取ったら、きっと100人中150人が"や●ざ!"と答えるほど、見事な893様だったからである。
 僕は、待合室の受付に診察券を提出すると、本棚から適当な雑誌を選んで、ちょっとその二人から離れた椅子に座った。
 ここだけ一足先に冬がやってきたのか?と錯覚するほど待合室は、寒く、そして静かな、本当に静かな空気が漂っていた。


 待合室に男三人。


“俺の次の患者、早く来い、早く来い”と僕は念仏を唱えるように心の中で繰り返しながら、本棚から持ってきた3ヶ月前の週刊誌という、今さら読んでもまったく意味も価値もない雑誌の記事を必死に読んでいるフリをした。


「あんちゃん!あんちゃん!」


 そんな掛け声が、冷たい待合室に響き、僕の鼓膜を突き破った。 〈日本の景気はどんどん回復する!〉という3ヶ月前の能天気を通り越えてもはや哀愁さえ漂っている記事を真面目に読んでいるフリをしていた僕は、恐る恐る顔をあげてその声が聞こえて来た先客の方に目を向けた。するとソファーの御仁は、僕の顔を見るや否や、"オウ!"とオットセイのような声をひと声上げて、手招きをした。
 僕はその言動を見て、とっさに、「さっきから、俺のことを“あんちゃん”って呼んでたみたいだけど、俺には親からもらったちゃんとした名前があるんだ、失礼じゃないか!それに初対面で手招きをするなんてどういうことだ!普通ならば、用事があるべき貴男の方から俺の元へ来るのが礼儀だろう、君の方から来なさい!」
 ・・・とは口が裂けても言うわけがなく、ちょっと目を丸くして "へ?あっしのことで?"というような表情をすると、
「ほうよ、他に誰がおるんなら」
 と、床を這うような野太いダミ声と天使のようなしわくちゃの笑顔で僕にそうおっしゃったので、僕は即座にソファーの御仁の横のイスにスライドした。 移動するや否や、御仁は僕に尋ねた。
「あんちゃんは、どこが悪いんな?」
「僕は、ストレスをためやすい性格なんです。だからちょっと心身に変調を感じたら、酷くなる前にこうやって通院をして先生に診てもらって予防しているんです。酷くなったら、仕事はおろか、私生活もまともに過ごせなくなりますからね。そうなると、とても厄介ですから」
 ・・・ということを滑舌よく喋られるはずもなく、
「ええ・・・まぁ、これで・・・」
 と僕は、精一杯の作り笑顔で、ブレイクダンスの下手なウェーブのように片手を上下させただけだった。
「ほうか・・・大変じゃのう・・・」
 とソファーの御仁は、僕の動作を見て、明らかに理解できない表情を浮かべながらも納得したフリをした。
 生まれてこのかた、こんなに低能なコミュニケーションの取り方を僕はしたことがない。この時点で、確実に一年ほど寿命が短縮。
「あんちゃんは結婚しとるんか?」
 御仁は二発目のミサイルを僕に発射した。
 これは別に答えに窮することもない。僕は「はい」と答えた。
「ほおか・・・そりゃあ、たいそうベッピンさんなんじゃろうのう」
「いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ・・・」
僕は、手のひらが団扇になるくらいの勢いで手を振り、そして一生分の“いえいえ”をここで使い果たした。
 でも御仁の言葉にちょっと嬉しかったのも事実だから、タチが悪い。 この時点で、2ヶ月ほど寿命が回復。
「子どもは、おるんか?」
 寿命が回復したところで、つかさず三発目を放つ御仁。
「はい」
 と答えると、
「何人な?」
 と御仁。
「二人です」
 と答えると、
「ほうか・・・可愛いんじゃろうのう」
 と御仁は口にした。
 しかし僕は子どもの数は言ったけど、年齢も性別も言っていない。 何で可愛いって分かるんだ?あんた、千里眼でもあるのか?それともエスパー893なのか?・・・なんて、これまた尋ねることなどできるわけがなく、
「あ、ありぐろてれっす」
 という絶対に広辞苑に載っていない言葉で感謝の意を伝えた。
 妻の時は否定して、子どもの時は肯定する。
 世の中、必要なのは何事もバランス感覚なのだと、この時知った。
「わしはのぉ・・・」
 どうも僕への興味が尽きたらしい御仁は、今度は自分の話をはじめた。そして待合室全体に響き渡るような声でこう言った。
「あんちゃん、わしはうつ病になってしもうてのう」
 その言葉を聞いた僕は、思わず手にしていた週刊誌を落としそうになった。
 そして、
「オッサンよぉ、うつ病ってのは、人と話したり、日常生活ができなくなったり、酷い時には記憶力もなくなるほど辛い病気なんだぞ、僕も前に罹ったことがあったけど、二度とあんな症状はごめんだって思うほど嫌な病気なんだ!あんたみたいに初対面の俺と堂々と喋れる人間のどこがうつ病 なんだよ?全国の本当のうつ病患者に、今すぐ土下座して謝れっ!」
 ・・・という言葉を真正面からぶつけられるわけもなく、
「そ、そうなんですか・・・それは大変で・・・」
 と同情するような言葉を口にした。できれば涙の一滴でもこぼしてやろうかと思ったが、さすがに泣けなかった。涙腺は正直である。
「食欲ものうなってしもうてのぅ・・・じゃけぇ、最近は顔色もすぐれん」
 と、松崎しげると見間違えるほどの褐色の頬を指差しながら、御仁はそう言った。
「Aさぁ~ん」
 そうこうしているうちに、看護師が診察室から名前を呼んだ。僕の名前ではなかった。
 しかしその名前は耳にした御仁は“オウ!”とまたまたオットセイの声をあげると、スクッと立ち上がり、僕と御仁が話している間、ずっと直立したままだった若い男性を引き連れて、診察室に入っていった。


 しばらくすると、分厚い扉で仕切られていて、普段なら、絶対に中の声も音も聴こえないはずの診察室から “・・・わしはうつ・・・”とか、“顔色・・・なんじゃ!” という御仁の声が漏れ聞こえてきた。
 診察は15分ほどで終わり、御仁たちは診察室から出てきた。入れ替わるように僕の名前が呼ばれ、診察室に入ると、いつもの先生が診察室のデスクに座っていた。 真っ青な顔をして。
 うつ病かと思った。 〈待合室編につづく〉

●うつ病い893〈待合室編〉→ https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/9630437aa8fd56d4cc5f9fb68d756b45

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うつ病893〈薬局編〉

2018-11-13 | 短編小説


〈2008年作〉

 うつ病さながらの表情になった先生の診察が終わり、受付で診察料金を払うと、僕は病院を出て、至近のいつもの薬局へ向った。
 その薬局に行くと、案の定、御仁一行もいた。
「おう、あんちゃん、また会うたのう」
 薬局に入ってきた僕に気づくと、自称・うつ病患者のその御仁は、"元気ハツラツ"な声で、僕に向ってそう声をかけた。
「また会ったも何も、同じ病院で受診したんだから、同じ薬局で薬をもらうのが当たり前でしょう。それが一般人の常識ってやつですよ・・・そう、 いい機会だ、この際、極道のあなたもそういう事も少しは学習しときなさい」
 ・・・と、御仁に言える勇気があったならば、僕も心療内科に通う必要なんかない。それどころか、僕は御仁の言葉に対して 「はい」と答えるべきか、それとも「ええ」と答えるべきか、一瞬迷った挙げ句に、反射的に、


「ホエ。」


 という、まったく意味不明の言葉を口から飛び出させてしまい、大いに焦って、脇汗が大量発汗してしまった。誰か、制汗剤を貸してください・・・。
 
 薬局には周辺の他の病院からやって来た数人のお年寄りの患者が、整然と並んだ長イスに座っていて、カウンターの奥では、三人の薬剤師が薬の調合にせっせと動いていた。
 3年間、1ヶ月に一度の割合で通院している僕は、薬局にしてみれば常連の一人らしく、一番奥にいた同世代の薬剤師は、薬局に入ってきた僕に気づくと、笑顔で軽く会釈してくれた。でも、なぜかその笑顔は少し引きつっていた。
 僕は、処方せんを薬剤師に渡すと、二列三段の長イスの一番後ろに座り、名前を呼ばれるのを待った。
 御仁一行は、最前列の長イスを陣取り、足を大袈裟に組んで薬の調合を待っていた。 端から見ると、御仁一行が、必死になって動き続ける薬剤師の仕事っぷりを監視しているように見えないこともない。
「Aさ~ん」
 御仁の名前を薬剤師が呼んだのは、僕が本棚のタウン誌を手にして、イスに座り直したのとほぼ同時だった。
 名前を呼ばれた御仁は、“オウ”と、またオットセイの鳴き声をあげて立ち上がり、カウンターに向った。カウンターの向こうには、“今春、薬学部を卒業したばかりでぇ~す☆”といった感じの、若い女性の薬剤師が立ってた。ガッチガチの表情で。

 御仁は無言でカウンターの前に立ち止まると、その若い薬剤師を見下ろして、ゆっくりと首を左右に動かした。どうやらカウンターの上に並んだ数種類の薬を眺めているようだった。
 つかさず薬剤師が薬の説明をはじめた。だがその説明は、まるでどこかのマニュアルブックにでも書いてあるかのような棒読み全開の説明だった。
 感情がまるで入っていないのだ。早く終わらせたいという気持ちが、見え見えだった。
“やばいぞ、やばいぞ、やばいぞ、やばいぞ、やばいぞ・・・・” その薬剤師の説明を聞きながら、なぜか僕は心の中でそう唱えていた。いや~~な予感が、背中一面に覆い被さってきていた。


「おい、ちょっと待てや」


 予感は、的中した。
 御仁は、野太いダミ声でそう言って、薬剤師の説明を遮った。
「あ・・・はい・・・何でしょうか?」
 薬剤師が緊張した面持ちで、そう答えた。
 奥で他の薬の調合をしていた同世代の薬剤師も、御仁のその言葉に作業の手を止め、カウンターに立ちすくむ後輩を心配そうに見ている。長イスに座った、他の病院からやって来た年寄りの患者たちも、心配そうにその行く末を眺めていた。
「今、この薬は朝飯の後に飲めって言うたのう?お?」
「は、はい・・・」
「わしゃ、この30年、朝飯いうもんは食うてないんど、朝飯食わんのに、どうすりゃあ~ええんな?」


小学生の質問だった。


 この御仁、怖そうに見えるけど、案外純情な性格なのかもしれない・・・と僕は最後列のイスに座ったまま、少し表情を緩めた。そして“あ、だったら、無理して飲まなくてもいいですよ~”という薬剤師の軽やかな返答を予想していた・・・が、僕の予想は見事にはずれた。
「じゃあ薬は、こちらの薬を飲む時に一緒に飲んで下さい。朝じゃなくてもいいです。でも絶対に飲んでください。こちらの薬には胃酸を弱める効果がありますから、一緒に服用すれば朝でなくても構いませんから・・・・」
 と、御仁の想定外の質問に、完全にテンパった新米薬剤師は、まるで御仁の発言を打ち消すように、専門用語を交えながら必死になってそう説明した。いや、それは説明ではなく、説得に近い口調だった。しかもその口調は、話が進むに連れて、説得から命令口調へと変わりはじめていた。
 これは・・・・・マジで、やばい。


「○◆×☆◇・・・・よろしいですね!」
 薬剤師の命令口調の説明が終わると、薬局は、水を打ったように静まりかえった。
 “やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ・・・” 僕は、薬剤師の説明の最中、ず~~~~っと、その言葉を心の中で繰り返していた。
 御仁は仁王立ちのまま、まるで薬剤師の説明が終わるのを待っているようだった。表情はここからは見えないが、きっと顔は怒りで紅潮しているはずだ。
 カウンターを挟んで、対峙するやくざと薬剤師。カタカナで書けば、ヤクザとヤクザイシ。数字で書けば、893と89314
 似て非なる二人が今、カウンターを挟んで対峙していた。薬局内にいたすべての人間が、二人のやりとりを見つめていた。
 “やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ・・・”僕は相変わらず長イスの最後部で呪文のようにそう唱えていた。
「ねぇちゃん・・・おどりゃあ、わしの言うたことが聴こえんかったんか? わしはこの薬は飲めん言うとるんじゃ!なんで、おどれみたいな小娘に偉そうに説教されなぁ~いかんのならっ!おどれ、殺されたいんか⁉︎ コラッ!」
 ・・・気の毒だが、これぐらいの脅し文句を言われるのは覚悟しなければ・・・と僕は今にも泣きそうになっている若い薬剤師を眺めながらそう思った。長い人生、経験が必要だ。世の中にはどうやっても理解し合えない人もいるのだ。そういうことを早めに経験することは、むしろ良いことだと僕は思う。


「・・・まぁ、よう分からんが、ねぇちゃんが飲め言うんなら、飲むわい」


 御仁は純情なのではなく、本当に小学生だった。
 その後は、薬剤師が軽い問診をした。
「お身体の具合はどうなんですか?」
「いかんわ」
「いつ頃から?」
「ここ一年くらいかの・・・母ちゃんが愛想尽かして家を出て行ってからじゃ」
 御仁は冗談のつもりだったのかも知れないが、大声で言ったそのセリフには、見事に誰も反応しなかった。


 薬局に、ひとあし早く、冬が来た。


 そして問診の最後に御仁は、僕に言った時と同じように
「顔色がすぐれんけぇのう」
 と薬剤師にツヤツヤの肌の頬を指差した。小指のない手で。
 そして“それ、今どき、どこで売ってるんだよ?”とツッコミたくなるようなセカンドバッグの中に、もらった薬を無理矢理つめ込みながら、
「それにしても・・・薬も高こうなったのう、今日病院とここだけで、これだけ金を取られたど」
と御仁はそう言いながら、片手の手のひらをパッと広げた。きっと五千円を意味していたのだろうけれど、誰が見ても四千円だった。
「ねぇちゃん・・・・負けるわけにはいかんかいのう?」
 と、御仁は、突然、甘えたような丸く柔らかい声を出した。
「え?・・・は?」
 薬剤師は、意味が分からないような表情をして、うろたえ、そして一瞬後ろを振り返った。きっと、もはや彼女の限界点も近づいてきて、どうしようもなくなって、奥の先輩に助けを請うたのだ。
「冗談よ!のう、冗談じゃ!ガハハハハハッ!」
 薬剤師の態度を見た御仁はそう言って、薬局が揺れるかと思うほどの大声で笑った。薬の代金を真正面から値切った人物は、有史以来、きっとこの御仁が初めてのはずだ。
 あんたもある意味“クスリ屋”なんだから、値切れないことぐらい分かるだろう・・・なんてことは、この時、口が裂けても言えなかった。
 指定重要文化財のようなセカンドバッグに薬を詰め込み、お金を払い終えると、御仁は再び若い衆を連れて出ていった。出ていく時、最後列に座っている僕に再び気づいた御仁は、
「おう、あんちゃん、早う、治せよ!」
 と言って、僕の肩をポンッと叩いて出ていった。
 その途端、
 「大きなお世話だ、この野郎!見てみろ、みんな、お前の言動に迷惑してるだろう!謝れ謝れ!今すぐみんなに謝れ!!」
 ・・・もうすでにお分かりだと思うが、そんな事を口にするぐらいなら、自分で自分の舌を噛み切って自害した方がいいと思っている僕がそんなことを言うはずもなく、

「あ、ありがるしとれせ」

 と、またまた広辞苑に載っていない感謝の言葉で答えてしまった。ここでも涙を流してやろうかと思ったが、やはり泣けなかった。涙腺は、やはり正直者である。
 
 御仁一行が出ていった薬局は、一瞬で、いつもの薬局の風景に戻った。但し、応対していた若い薬剤師が、俯き加減の小走りで奥の控え室に向ったことを除いては。
 そして、薬局内の酸素の濃度が、御仁がいた時よりも上昇した感じがした。
 でも、何か、一抹の寂しさを感じる自分がいた。
 何だろう?これは。
 いつかどこかで感じたことのある空気・・・。
 思い出した。
 運動会の後の空気。文化祭の後の空気。
 祭りの後の空気だ。
 そんなことを考えていたら、同世代の薬剤師がカウンター越しに僕の名を読んだ。
「お待たせしました」
 と薬剤師は言い、そして薬の説明や問診をする前に、僕に慎重にこう尋ねた。
「さっきの方・・・・お知り合い・・・なんですか?」
 普段、あまり私語を話さない薬剤師が、いきなり僕にそう尋ねてきたので、僕は少し驚き、そして反射的にこう答えた。

「ホエ。」

(おしまい)
※この物語は、フィクションです(笑)

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