りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

To be contnued・・・

2023-12-30 | 家族
2023年、最後の日記です。



          ◆



今年になって、長年やりたくても出来なかった〈あること〉に、ワタシは着手した。

それは父も作りたいと思っていたモノで、生前、本人からその思いを実際に聞いたことがあった。
しかし、当時のワタシはまだ30歳になるかならないかという頃で、結婚はしていたものの、まだまだ自分のことしか眼中になく、とてもそのために時間と労力を注ぐ気にはなれなかった。

それから20年以上の年月が過ぎ、父も5年前に亡くなり、ワタシも今年銀婚式を迎え、2人の子どもも成人し、少しずつではあるが、それぞれの道を歩きはじめた。

今なら、作れるかも知れない。
直感的にそう思い、重かった腰を上げた。



          ◆



別にそれは、わざわざ作らなくていいモノなのかも知れない。
実際、世の中の大半の人々は、おそらくそんなモノは意識をせずに毎日を生きている。

しかし、作ることができるのならば、それが完璧でなくても作っておいた方が良いのではないか、仮に今すぐに役に立たなくても、作れる人間が作っておけば、いつかそれが役に立つ時も訪れるのではないか・・・50代になり、父が亡くなったことで家系のトップランカーになった長男のワタシは、そう思ったのだ。

ワタシが作ろうと決めたモノ。






それは、家系図。






いったいどこまで遡れるのか、それ以前に、手がかりとなる情報や資料をどれだけ集められるのかも分からない。

しかし当たり前のことだが、指を咥えたままでは何も作ることは出来ないので、とりあえず何かしらの情報や資料を手に入れられそうな場所・・・役所、図書館、菩提寺、お墓、ルーツのある島やその島の寺社などへ出向いたり、また昔のことを覚えている親戚に連絡をしたり直接会ったりして、とにかく手がかりとなるモノを片っ端からかき集めた。

そして先週、どーにかこーにか、家系図としての体裁を整えることができた ↓





具体的な名前については、健在の方も多々いらっしゃるので(特に半分より下部分)、アミダくじのような枠と線だけでご了承ください🙇‍♂️

不確実な箇所やどうやっても確認できない箇所もあったのだが、それでも現時点で分かる事柄は全て網羅した。

確実に実在したご先祖様では、江戸時代の〈天保(1830年代)生まれ〉まで遡ることができた。

天保といえば、大塩平八郎の乱があった頃だ。
家系図を作ろうと決めた時、願わくば明治維新くらいまでに遡れたら・・・と思っていたのだが、まさか黒船来航以前の人物を家系図に記入できるとは想像すらしていなかった。

手がかりをまとめている過程で、興味深い事柄も多々見つかった。

役所で戸籍謄本を取れたのはワタシの曽祖父までだったのだが、曽祖父の戸籍に記されていた高祖父の没年月日からはじまる各世代の生年月日、結婚離婚の年月日、没年月日・・・そういった事柄を時系列で並べるだけでも、幕末から昭和初期にかけての怒涛のような時代を生き抜いた先祖の人生が否応にも浮かび上がってきた。

例えば、曽祖父は絵に描いたような破天荒な人物だったようで、きっと今のような時代ではまともに生きてはいけない人だったこととか、そんな曽祖父を父親に持った祖父も、若い頃は何とかひと旗あげようとして、軍港時代の呉や、満州時代の大連や、日本のマンチェスターと呼ばれていた頃の大阪といった、当時経済的に沸騰していた街を転々としていたことや、そしてワタシの父は、若い頃は自衛官になりたくてなりたくてなりたくて18歳で自衛隊の門を叩いたものの、規定の身長に届いておらず、泣く泣く自衛官の道を諦めたこと・・・そんなことがあらためて分かった。

そして最もよく分かったのは、そんな波瀾万丈の人生を生き切った先達の人々の先に、今のワタシが存在している、ということ。

そのことを、あらためて実感できた気がしている。



          ◆



今回作ったこの家系図の最下部・・・つまり、ワタシの子どもや甥や姪の世代の枠の中にだけは、今現在の彼らの年齢を記し、そしてその下に英語で、〈to be continued・・・〉と添えた。

家系図の大枠が出来上がった時に一度娘に見せてみた。
すると案の定、家系図の中で唯一の英語表記であるこの部分を指摘された。

たしかに違和感がないと言えば嘘になる。

しかしその一方で、この言葉がないのとあるのとでは、この家系図の質がずいぶん変わってくるような気もしている。

この言葉は、今回様々なルートを通じて資料をかき集め、それを家系図として形作ってゆく過程で、〈書き入れよう〉と自然に思うようになった言葉だった。

一度も会ったことがない曽祖父や高祖父といったご先祖がいったいどのような人物だったのかを、少しでも知りたい。

そんな理由と動機で作りはじめた家系図だったが、もしかしたらその家系図にワタシが最も記したかった事柄は、実はそんなご先祖の詳細な生き様ではなく、最下部に載せた、この祈りにも似た言葉だったのかも知れない。

家系図がほぼ出来上がった今では、そう思うようになった。



          ◆


〈余談〉
今回、家系図を作るにあたって、ワタシ以上に情報収集や資料集めに奔走してくれたのが、ワタシの妻だった。
歴史好きということを差し引いても、嫁ぎ先の家の歴史のためにここまでやってくれるのかと、本当に頭の下がる思い。
ありがとう。
感謝しています。



          ◆



今年もこのブログに訪問いただき、ありがとうございました。
皆様にとって、来年が素晴らしい年になりますように。
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クリスマスだから、というわけじゃないけど。

2023-12-23 | 短編小説




明日は、クリスマス・イブですね。

別にこれといった予定はなく、今決まっているのは、おそらく夜に「M-1グランプリ」を見ることぐらい(笑)


          🎄


ところで、このひとつ前の日記で、ワタシのブログを紹介してくださった方のことを書いたのだけど、その方が、以前アップした、とあるワタシの日記を褒めてくださっていた。

その方はブロガーとしてけっこうなフォロワー数がいらっしゃる影響だからか、この数週間、その日記の閲覧数が以前に比べて異常に上昇していた。

その日記は、今から15年ほど前に書いた〈作品〉を載せたもの。

このブログは文章の鍛錬のために続けているのだけど、そういった文章の最高峰は、やはり小説なのではないか?と当時のワタシは思っていて、だったら、ちょっと挑んでみるか・・・と書いてみたもの。

で、書き上げたらその直後のテンションの高さと勢いで、とある文学賞に応募してみた。

そしたら、何の間違いか、佳作を受賞してしまった(笑)

しかし、オリンピックで言えば銅メダルのようなものだったので、大々的に世間に披露されることもなく、以降、執筆した本人でさえもほとんど忘れ去った存在になっていた。

それからずいぶん時間が過ぎて、ふいにこの作品を思い出す出来事があり、このまま闇に葬ってしまうことが忍び難くなり、今から2年前にこのブログにアップした次第。
(ちなみに、受賞した文学賞の事務局には著作権的にはOKとの承諾済み)


          🎄


しかし、アップした後も自分で読み返すことはあまりなかったのだが、先日、ひろひろさんというブロガーの方が紹介してくださったことを契機に、久しぶりに読み返してみた。
で、あらためて自分で読み返した印象は・・・


よく書いたな、こんなの(笑)


表現や構成が拙い箇所は多々あるのだけど、何かモノを創るために大切なのは、技術や知識ではなく、勢いと勘違いとハッタリなのだということがよく分かる(笑)


          🎄


奇しくも、明日はクリスマス・イブ。

そんな時期に、クリスマスがキーワードのひとつであるこの作品が、また少しだけ注目してもらえたのも何かの縁なのかも。

1989年。
貴方はどこで何をしていましたか?

よろしければお読みください↓
エミリー - りきる徒然草。

エミリー - りきる徒然草。

【プロローグ】郊外に建つコンビニエンスストアにとって真夜中という時間帯は、ただ〈開いているだけ〉でよかった。店員はカウンターの中で立っているか、次々とトラックで...

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波状攻撃。

2023-12-16 | Weblog




先日、とある方のブログを読んでいたら、ありがたいことに、ワタシのこのブログを紹介してくださっていた ↓
思い出ジュークボックス♪ の始まり始まり! (知ってる人もいるかも) - 思い出ジュークボックス

思い出ジュークボックス♪ の始まり始まり! (知ってる人もいるかも) - 思い出ジュークボックス

ご訪問頂き有難うございます😊思い出ジュークボックス🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈黒字私赤字裏方さん🌈🌈 ...

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文章の鍛錬に・・・と、このブログを始めて、今年で15年。

最初の頃はほぼ毎日のように更新していたが、最近は、1ヶ月に1〜2度程度の更新にまで落ち着いた。

始めた当時は、他のSNSをまだそれほど能動的に使っておらず、また、それらは今ほど市民権を得ていなかったような記憶がある。

だから、自己の発信手段としては、ブログが一番手っ取り早かったし、何よりも、自身の文章表現の手段としては、ブログが一番肌に合っているように思えたのだ。

そしてそれは、たぶん正解だったのだろう。

以来、自身やその周囲で起こったことを、硬軟織り交ぜながら、このブログに書いてきた。

時が流れ、最近は確かに更新頻度は落ちたけれど、そのぶん、最初期の取るに足りない内容のブログよりはギュッと濃縮した内容になっているのではないか・・・と、誰も言ってくれないので自分で言っておく(笑)

今回、ワタシのブログを紹介してくださったブログ主のひろひろさん。

リンクを貼ったブログにも書いてくださっているように、10年近く前に書いた〈大阪市大正区鶴町。〉という日記で、ワタシのブログの存在を知ってくださったそうだ。

さらに嬉しいことに、それをきっかけにご自身でもブログを始められたとのこと。
ひろひろさんは数年前に脳の病気をされたそうで、ブログを始められた理由としては、そのリハビリの一環ということもあるそうだ。

以来、ワタシも更新の通知が届くたびにひろひろさんのブログを拝読していたのだが、内容を読んでいて気になることがひとつあった。

それは、ブログのネタ、文体、掲載する昔の写真・・・etc.
そういったブログの端々に、ことごとく同世代の匂いがすること(笑)

先日、思い切ってコメントで尋ねたところ、同世代どころか、全くの同い年だと判明した。

ひろひろさんのブログは、写真を多用されていて、文章の構成や言葉の使い方も個性的。
いわば、最近のブログの主流のスタイルに近いのかも知れない。
読んでいると、“あぁ、こういう表現の仕方もあるんだなぁ”と感心させられることもしばしば。

文章に重きを置いたスタンスのワタシのブログは、どちらかと言えば、今ではもう古い、ひと昔前のスタイルなのかも。

でも、目的が違えば手段も変わるように、様々なカタチがあってよいのも事実。

まぁ、ワタシはワタシのスタイルで、これからも細々と続けていこうと思います。

大阪在住で、同い年で、病気を乗り越える手段としてブログを活用されているひろひろさん。

ワタシも息子が大阪の大学に進学して以来、以前よりも頻繁に大阪に行くようになったし、一度お会いしてみたいものです。

・・・ということで、今回はワタシのこのブログを紹介していただいたお返しに、ひろひろさんのブログをご紹介させていただきました。

それぞれのブログを紹介しあったということで、これで互いの訪問者数が上がれば・・・。

いわば、ブログの波状攻撃ですな(笑)


コメント (3)
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