りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

CD。

2011-05-31 | Weblog
写真は、我が家のCDを入れている棚。

下の段が、僕のCD。
上の段が、妻のCD。

洋服や靴もそうだけど、我が家では
こういうモノも分けて整理している。

僕のCDは、100枚前後かな?
そのうち、だいたい6割くらいが
佐野元春&浜田省吾&サザン(^_^;)
その他にも色々持っているけど、
年代を分類すると、ほぼ8割が80'S(笑)
・・・まぁ、仕方ないわな。

一方、妻のCDは、そのほとんどが
スターダスト・レビュー、竹内まりや、原由子など。
まぁ、同世代の女性ですな。

妻はスタレビの大ファンでね。

僕も10代の頃から好きなバンドだったんだけど、
なぜかアルバムを買ったりレンタルする機会がなくて、
そのまんま結婚してしまったんだけど、
妻がスタレビのアルバムをほぼすべて持っていたので嬉しくってねぇ。
“この人と結婚して、本当によかった”って、その時は心から思った(爆)

でも、CDを聴くことは最近本当に少なくなった。

CDをコンポに入れてゆっくり聴く時間がなくなったこともあるけど、
それ以前に、所有しているCDのほぼすべてを、ウォークマンに
インストールしちゃったから。
クルマの中でも、カーコンポでCDを聴くよりも、もっぱらウォークマンで
聴いてるし・・・。

新しい歌も、最近はダウンロードすることがホントに多くなった。
ダウンロードも最初はどうも抵抗があったんだけど、人間は何でも慣れる
もんなんだと思った。

思い返せば、僕らは世代的にLPレコードのしっぽの世代なんだよね。
LPからCDに変わる瞬間を、まさに体験した世代。
あの時も、“アルバムジャケットがこんな小さくなったら価値観も
なくなるんじゃないか・・・”と思ったものだった。
でも、そんな心配や嘆きも、いつの間にか昇華したのか忘れたのか
分からないけど、どこかに行ってしまっていた。

近いうちに、CDというメディアも無くなる時が来るのだろう。
それでも、音楽自体が無くなるわけじゃないから。
どんなカタチであっても、僕はこれからも自分の好きな音楽を
聴き続けてゆくんだろうな。
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きっかけ。

2011-05-30 | Weblog
今月は、来月開催の個展に出品する絵を、自宅で描いていたが、
基本的に、僕は家では、まったくと言っていいほど絵を描かない。

別に特別な理由はない。
日中、“デザイン”という名目で、さんざん描いているから。

基本的に頭のチャンネルを換えることが僕は下手なので、
家でも同じような行為をしていると、気持ちの切り替えも
出来なくなるのだ。

DNAなのだろうか。
僕の子どもたちは、絵を描くのが好きだ。
娘は、将来の夢は漫画家で、息子は恐竜の絵を描かせたら
おそろしく巧い。

僕が仕事から帰宅すると、必ずと言っていいほど、
リビングのテーブルの上に鉛筆と紙を広げて、落書きなのか
清書なの分からないけど、何かしらの絵を描いている。

しかしラフな格好に着替えた僕は、そんな子どもたちの絵描き
には決して参加せず、集中して絵を描いている子どもたちを
横目に、テレビのニュース番組を見る・・・それが僕の家での
“絵”に対するスタンスだ。

しかし、昨日、珍しく子どもたちに混じって、絵を描いた。
一日中、雨が降っていて、外出もできず、することもなく、
暇の極致に陥ったからかもしれない(笑)

ドラえもんを描いた。

先日、あることを思い出した。
それは小学生の時の出来事だ。
僕は小学3年生くらいだったと思う。
教室の自分の机の上で、画用紙にドラえもんを描いていた。
たしか終業記念に自分の文集を創った際に、その表紙に
するための絵を描いていたのだ。
自分の文集の表紙だから何を描いてもよかった。
僕は、当時アニメがスタートしたばかりで、人気が爆発していた
ドラえもんを選んだのだった。

「すごいよりきるくん、すごいよ

夢中で絵を描いていた僕のすぐそばで、そんな驚嘆の声が聴こえた。
ハッと我に返ってその声の主の方へ目を向けると、そこには同級生の
女の子がいた。
おまけにその子は、僕の初恋の子だった。
彼女は、僕の描いているドラえもんを見てそう言ったのだ。
彼女の声に、自然と同級生たちが僕の机の周りに集まりはじめた。

「巧いねぇ」、「よく描けるねぇ」、「俺のも描いてよ」・・・etc.

僕が描くドラえもんを見ながら、同級生たちは様々な感想を口にしていた。
10歳足らずの子どもと言えども、僕も人間である。
やっぱり褒められれば、嬉しい。
おだてでもお世辞でも、好意的な言葉に乗って、筆がどんどん進む。

「前から絵が上手だと思っていたけど、やっぱり上手だね」

最後にとどめのひと言を発したのは、初恋の女の子だった。



「・・・だから、お前だぞ、俺がこの仕事をするようになった原因は」

今月の上旬、小学時代の同級生が集まって開いたプチ同窓会に参加した僕は、
同じくその席に参加していた初恋の彼女に、笑いながらそう言った。

当然だが、彼女はそんな出来事、全く憶えていなかった。
しかし、僕自身もずっと憶えていたわけではない。

その宴席で、いろんな話をしているうちに、紐で固く固く縛られ頭の最奥部に
仕舞っていた記憶が、自然と緩んで頭の表面に浮かんできたのだ。

もちろん、彼女に言った言葉は冗談だ。
他人の一言で自分の人生を決めるほど、僕は自分を単純だと思っていないし、
その他にも、今のこの仕事へ向かわせる要因になった出来事や種は、思い返せば、
いろんなところにあったような気がする。

ただ、頭の奥深くに仕舞ってあったといえども、今でも僕の脳みそのどこかに
その出来事がしっかりと残存していたということは、やはり、僕の人生にとって
重要な出来事だったことはまぎれもない事実なのだろう。

考えてもみれば、当然かもしれない。
10歳やそこらで、当時の自分の取り囲む世界のすべてと言ってもいいクラスメイトの
ほぼ全員が、自分の描いた絵を通して、自分の存在を肯定してくれたのだ。
これほどまでに気持ちのいいことは、大人になった今でもそうあるものではないだろう。

あれから35年。

久しぶりに描いたドラえもん。
断言できる。
小学生の時の方が巧い(笑)
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井上陽水。

2011-05-29 | Weblog
最近、井上陽水をよく聴く。

きっかけは、たまたまレンタルしたCDから。
その店は5枚借りれば、割引になるので、
たまたま後1枚借りれば5枚だった僕は、
アットランダムに、棚から1枚ピックアップした。
それが、偶然にも10年前に発表された
井上用陽水の「GOLDEN BEST」だった。

僕にとって「井上陽水」のイメージは、
ひと言でいえば、仙人(笑)
何を考えてるか、常人には理解不能の人。

パフィーのデビュー曲の「アジアの純真」の歌詞を
陽水が書いた時、“白のパンダ”という言葉に
ディレクターが引っかかったらしい。
そのことをディレクターが陽水に質したところ、
陽水曰く“だって、パンダは白いでしょう~~?”の
ひと言で終わったらしい(笑)

だから、というわけではないが、どうも僕には
今ひとつ、近寄りがたい音楽だった。
世代的にも、ひとつ上の世代のミュージシャンだったし。

でも、まったく知らないわけでもなかった。
代表曲の「リバーサイドホテル」は、ドラマの主題歌として
大ヒットしたけど、本来はその数年前に発表された
アルバムの中の1曲に過ぎなかった。
たまたま聴いていたFM番組から流れてきたその曲に、
僕の琴線は大いに揺れて、即座にラジカセでエアチェックした。
当時、僕は中学1年生だった。

「ジェラシー」という曲をちゃんと聴いたのは高校時代だった。

はまゆりが/咲いているところをみると/どうやら僕等は
海に来ているらしい・・・

この歌の歌詞の表現に、思わずのけ反りそうになった。
歌の歌詞なのに、まるで1本の良質な恋愛小説のような歌詞だ。

やっぱ、陽水、すげぇ!
でも、陽水、わかんねぇ!

ず~~~と、そんな感じだった(笑)

でもそんな僕も、やっと普通に彼の音楽を聴けるように
なりはじめたのかも。
夜、僕はウォークマンで陽水を聴きながらウォーキングしている。
メロディーが気持ちいい。言葉が沁み込む。歌声が心地よい。

最後に、YOU TUBEから1曲。
中森明菜もいいけど、彼のバージョンも良いです。
ちなみに、僕のカラオケの18番です(笑)

井上陽水「飾りじゃないのよ涙は」
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紺ブレ。

2011-05-28 | Weblog
今春から仕事の時、紺のブレザー、いわゆる「紺ブレ」に腕を通している。

数年間クローゼットの中で眠っていたのだが、久々に着てみると新鮮な感じ。
鏡に映った自分を見ると、少し誠実そうに見える気がする(笑)

紺ブレが大ブームになったのは、今からちょうど20年くらい前だっただろうか。

当時、僕は大学生で、周囲のみんなもこぞって紺ブレを着ていた。
あの頃は、ダブルで金ボタンの紺ブレが主流だった。
インナーに白いTシャツ、ジーンズ、靴はローファー、そして紺ブレ。
そんな格好をした連中が、数え切れないほどキャンパスの中を闊歩していた(笑)

僕が今持っている紺ブレは、シングルジャケットの鈍い銀色ボタン。
エリの幅が少し大きくて時代遅れっぽい感じがするけど、まぁ、いいかって感じ。
20年前の紺ブレブーム以降も、社会に出てから紺ブレは何回か購入したが、
ボタンに関しては金色ではなく、すべてシルバー系のボタンだった。
なぜか、そこだけは妙にこだわっているところがある。
たぶん、その方がどんな格好にも無難に似合うからだろう。
それに“ゴールド系”を僕が身につけると、風貌的に、あまりにも似合いすぎるからね(爆)

そういえば、昨日立ち寄った書店の男性ファッション誌で、「紺ブレ」の特集がしてあった。
別に流行なんかまったく意識せずに、僕は自分の好みだけで今春から着はじめたのだけど、
その妙な偶然に、ちょっと驚いた。

知らない間に、また、時代がひと回りしたのかも知れない。
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腑に落ちる。

2011-05-27 | Weblog
来月17日(金)~19日(日)に東京・原宿で開催される
awesome!主催の共同個展「ARIGATOU展」に出品する
ポスターのデザインがやっと完成。先日、メールで送った。

完成、と書いたが、それはあくまでも僕個人の気持ち。
もしかしたら、もっと時間をかければ、もっともっと良い
作品になったかもしれない。

でも、僕自身が“これでいいかな”と思ったのだから、
やっぱりその時点が「完成」なのだ。
別の言葉で表現した方が分かりやすいかもしれない。
「決める」、「納得する」、「腑に落ちる」・・・。

うん。
「腑に落ちる」という表現が最も適しているかも。

以前にも書いたが、今の僕の創作活動の基準は“直感”だ。
直感的に、“これでいい”と思ったら、創作からたった1週間でも
1日でも1時間でも、それは僕の中で「腑に落ちた」作品となる。
今回、出品する作品も、創作開始から20日余りで腑に落ちた。

先日、今回の共同個展に参加するクリエイターが発表された。
全国津々浦々、老若男女、有名無名・・・総勢22名。
そうそうたるクリエイタ―達の作品が、原宿の小さなギャラリーに集まる。

その中に僕の作品も飾られることになる。
はたして、壁に飾られた僕のポスターはどんな風に映るのだろうか?
風景に溶け込むような作品になるのか、それとも、風景から隔絶された
ような作品として存在するのか・・・。

今から楽しみだ。

「ARIGATOU展」→http://awesome.asm-shop.com/?eid=654888
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ドラッグ三昧。

2011-05-26 | Weblog
今週に入ってから、右目が何かおかしくて・・・。

腫れているような、重たいような・・・。
元々、近視&乱視だし、仕事柄疲れ目は毎日だし、
ついでに老眼の初期症状も出はじめた(笑)ので、
ちょっとやそっとの目の違和感は気にしていなかったんだけど、

今回は、どうも違う。
右目を開けておくことが辛くなるほどになったのだ。

一昨日、眼科に行って来た。
目を上下左右に動かして、よ~~く先生に診察してもらった。
そして、出た結論は・・・・

原因不明・・・(-_-;)

「どこもおかしくはないですねぇ~」と軽い口調で言われてしまった。
いや、おかしくないって言われても、本人は辛いんですけど・・・
せめて「過労から来る症状かも」とか「精神的な負担が原因かも」というように
“推測”でもいいから口にしてもらえたら、少しは軽い納得が出来て
重い気持ちの軽減もできるのに・・・。

診察の最後に先生は
「とりあえず、目薬出しておきます」と言われて、薬局で手にしたのは、
小さな目薬。
しかも「結膜炎用」(写真参照)

結膜炎って・・・・小学生じゃないんだから(笑)

それでも律儀に毎日点眼してたら、少しずつ楽になりはじめたような気がする。
まぁ、このまま快方に向かってくれたら、結果オーライだ

しかし、何かが良くなると、その一方で悪くなる部分もあってね。

ほとんど持病のようになっているストレス性のじんましんが、また出だした
薬が切れて、数日するとこの有様だ。
発症しても数時間すれば自然に治るから放っておいてもいいのだけど、悪化すると
全身に広がって発症中は痒くて痒くて、仕事や生活にも支障が出てくる。
だから今日、皮膚科の病院へ行ってきます。

しかし、今、俺、どれだけの薬を服用してるんだろう?

年齢も関係しているのかもしれないけど、ちょっとストレスを溜め過ぎてるのかも
知れないなぁ・・・。

みなさんもお気をつけください。
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80's三昧。

2011-05-25 | Weblog
先日、図書館でCDを借りた。

“図書館は本を借りる所”という、しょ~もない先入観を
持っていたので、今まで意識してなかったけど、図書館にも
それなりのCDやビデオやDVDが揃ってるんだね。



↑こんなCDを借りた。
「EMIレーベルのTHE 80's」
「シンディ・ローパー/ベスト」
「マイケル・ジャクソン/KING OF POP」

見事に、どっぷり、80'S(笑)
まぁ、僕には、ゴールデンエイジなので(^_^;

今回、一番の収穫は、「THE 80'S」に収録されていた
ザ・パワーステーションの「Some Like It Hot」を
久々に聴けたこと

ヒットしてたのは、高校へ入学した今から26年前。
季節はちょうど今ごろじゃなかったかな?

カッコよかった。

本当に久々に聴いたけど、相変わらずカッコいい
“ズバーンズバーン”と響く独特のドラム。
音楽評論家に言わせれば、この曲のそれ以前と以降で、
ドラムの音が一変したそうな。
たしかに、80年代独特の、あの重厚なドラム音は邦洋問わず
この曲のヒット以降、一気に増えたような気がする。
そういえば、このユニットのボーカルのロバート・パーマーも
もう今はいないんだよね・・・・。
亡くなるには、早すぎたよなぁ。

シンディ―は、「ハイスクールはダンステリア」や「タイム・アフター・
タイム」のような名曲もいいけど、一番聴きたかったのは、
デビューアルバムの1曲目に収録されていた「マネー・チェンジ・エブィリシング」。
乾いたギターが、カッコいいのなんのって。

マイケルのアルバムは、彼の死後に発表された企画アルバムですね。
やっぱ、いいです
カッコいいです。懐かしいです。青春です。
ただし、ウォーキングしている時に「ビリー・ジーン」や「ブラック&ホワイト」は
聴かない方がいいかも。
歩きながらも、無意識のうちに変な踊りをしている自分がいる(爆)

あと・・・こんなCDも借りた↓



柏原芳恵(爆)

彼女がアイドルとして全盛期だった頃、別にファンじゃなかった。
でも、なぜか最近、突然、好きになった(爆)

なぜだろう?

女性の好みが変わったのか?
それとも東京の友人のS氏が「仕事の休憩中にどうぞ」と
たまに僕の携帯に、彼女のセミヌードの写メを送ってくるからだろうか(笑)?

ザッと聴いてみたが、懐かしかった。
ファンじゃなくても憶えているもんだね。
彼女の代表曲は、やっぱり「春なのに」になるのかも知れないけど、
僕は「花梨(かりん)」が好きだったなぁ。
メロディがキレイだし、歌詞も純粋だし・・・。
今、聴いてもいい曲だと思う。
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日本語。

2011-05-24 | Weblog
東日本大震災から2ヶ月余り。

ふたつほど、気になっていること。




「福島第一原発で水素爆発」

震災直後から、もう数えきれないほど耳にしたこの言葉。

子どもの頃に習わなかったっけ?

原子が爆発するのが、「原爆」。

水素が爆発するのが、「水爆」だって。

「原爆」よりも強力なのが「水爆」だって。

なぜ、「水素爆発」って言い続けるの?

なぜ、略さないの?

あれだけ略すのが大好きな国民だったのに。




それから、「放射線」っていう言葉。

言葉だけ耳にすると、ものすごく繊細な弱々しいモノの

ように感じるのは、俺だけ?

・・・・でもね。

「放射線」って、「放射能」と同じ意味なんだよ。

放射能。

ほうしゃのう。

ホウシャノウ。

・・・・ほら、どうだい?

ピアノ線のような細い線ではなく、面がある、

立体的なモノに感じないやしないか?




言葉って、怖いね。

ちょっとした表現次第で、感じ方がまったく変わるんだ。




この国の偉い人たちよ。

国民を安心させようとしているのかどうかは、俺は知らない。

知りたくもない。

でも、誤魔化そうと思っても、そうそう簡単に騙されるほど、

俺たちは、バカじゃないぞ。




日本語は、美しい言葉だ。

しかしそれと同時に、恐ろしい言葉だ。

すべてを丸裸にするだけの力を持っている。

そのことを、よく憶えておいたほうがいい。
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運動会なのに、同窓会。

2011-05-23 | Weblog
昨日は、子どもたちの運動会だった。

特に上の娘は、小6なので今年が小学校最後の運動会。
今年だけはカメラやビデオを持たず、出来るだけ自分の目で娘のがんばる姿を
見てあげようと思って学校へ向かった。

運動会自体は、朝から小糠雨が降ったり止んだりの繰り返しで、濡れたテントの
貼り直しや掃除で開会前から大わらわ
しかし、なんとか1時間遅れで運動会は無事開会された。

自分の子どもたちの種目以外の時、僕はヒマつぶしに保護者のテントをぐるりと
回った。
すると、案の定というか、偶然というか、とにかくなじみの顔によく出くわし、
声をかけられ、立ち話をする。
それは仕事がらみとか、地域がらみの人もいるが、圧倒的に多いのは、小中学校
時代の同級生だ。

僕の子どもたちが通う小学校は、僕の母校ではないが、僕の母校の隣の学区の
小学校だ。
学区は違えど、同じ町内であり、中学校は同じ学区なので、生まれてずっと
この町で暮らしているヤツや、僕のように若い頃に実家を離れ、別の町で暮らし、
そこそこの年齢になって帰郷してきたヤツがチラホラいるのだ。
そんな連中が、昔のニックネームで、僕に声をかけてくる。

すると2人の立ち話が、いつの間にか3人、4人と増え、気がつくと子どもたちの
種目そっちのけで、運動会のテント裏でちょっとした同窓会が開かれていること
がある(笑)

生まれ育った街で暮らす僕にとって、実はそれが運動会にやってくるもうひとつの
楽しみのようなところがあることは否めない。

中学時代、小さかったヤツが僕より大きくなっていたり、とても手に負えなかった
不良が普通のオッサンになっていたり、地味で目立たない女の子だったのに、素敵
なお母さんになっていたり・・・。
話す内容も、仕事の話や景気の話、子どもの話・・・etc.
口調や目線はあの頃と同じでも、みんな、オジサンオバサンになったんだな、と
心の中で苦笑する。

そんな同窓会をしている僕の視界の中に、どこかで見たことのある男性が飛び込ん
できた。

保護者のテントのなかではなく、来賓席のテント。
校長先生をはじめ、PTA会長や地元選出の市議会議員さんたちが座っている、ちょっと
近寄りがたいテントだ。

その顔に、強烈に見覚えがあった僕は、何の躊躇もなく来賓のテントへと足を運んだ。
そしてその男性の前で、僕はこう口を開いた。

「先生。」

男性は振り向いた。
僕は被っていた帽子を取って、自分の名字を口にした。

「・・・おぉ~

その男性は、即座にそう答えた。
おそらく僕の名字は珍しいので、すぐに思い出すことができたのだろう。

その男性は、僕が中学1年生の時の担任の先生だった。
「仏のI」と呼ばれていた先生だったが、決してそれは“仏”のように優しいという
わけではなく、まったくの逆説的な意味で、皮肉と愛情をたっぷり込めたニックネーム
だったのだ。

つまり、猛烈に厳しい先生だったのである。

僕自身、中学時代、何度その先生から大目玉やゲンコツ、時にはビンタをくらったか
分からない。
今なら、即行でPTAの総会で問題になってしまうような行動だが、当時はそんなことは
当たり前の時代だったし、それ以前に、そんなことを先生にさせてしまうようなヤン
チャなところが僕にもあったのだろう(笑)
とにもかくにも、「良いことは良い、悪いことは悪い」ということを身体で教えてくれる
先生だった。

ひとつだけ、自信を持って言えることがある。

人間は死ぬまでの間に何人もの「先生」という肩書の人に教えてもらうが、烙印を押された
ように心に残る先生は、そういう先生だけだ。
だから、30年の時を経ても、僕は話しかけることができたのだ。

「お前、変わったなぁ~」
「そりゃあ、変わりますよ、僕も40越えましたもん」

そんな会話をした後、僕はこう尋ねた。

「先生・・・どうして、ここにいらっしゃるんですか?」

僕のそんな素朴な質問に、先生はこう答えた。

「4月から、そこの校長になったんだよ」

その言葉を耳にした瞬間、僕は軽い悲鳴を上げてしまった。

「え、ホントですかマジで本当に

「ウソを言ってどうする(笑)?本当だって。30年ぶりに、またあの中学だ」

感慨深かった。
僕が初めて中学で受け持ってくれた先生が、また母校の中学校に帰ってくる。
しかも校長先生として・・・・。
僕は、ちょっと興奮気味に話を続けた。

「先生、うちの娘、来年中学生になるんですよ。その時は、もし悪いことを
していたら、僕らの時みたいに、また遠慮なくぶん殴ってくださいよ」

僕がそう言うと、先生は笑いながら即座に手を横に振った。

「しないしない、というか、もうできないよ」

「でも僕らが中学生の時は、いっぱい怒られたじゃないですか」

「あの頃は僕も若かったからなぁ、今の君より若かったんだから・・・それに」
と先生は言うと、その後にこう言葉を続けた。

「それに、もう時代が違う」

そうか。
そうだよな・・・。

そう思いながら、もう一度先生の顔を眺めた。
あの頃と、全く変わっていないI先生の顔立ち。
でも心なしか、僕らが中学生の頃よりも目元辺りが優しくなったような気がする。

「まぁ、来年から娘をよろしくお願いします。じゃあ・・・失礼します」

僕はそう言葉短めに挨拶をして来賓席を離れた。
来賓席を離れ、また保護者の席へ戻る。
途中、また同級生たちに遭遇した。
他愛もない世間話をしながら、次の種目が始まろうとしていたグラウンドに目をやった。

プログラムを見ると、娘の小学校最後の徒競争がはじまろうとしていた。
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りきるアーカイブス〈4〉/中古家族

2011-05-21 | Weblog
小説を書く時、最初にタイトルが浮かぶことがあるんです。

まずタイトルが浮かんで、そこからストーリーを綴ってゆく・・・まるで本末転倒のような
創作の仕方ですが、そういう創り方をした作品が僕の小説には意外と多い。
実際、今はまだ執筆していないけど、タイトルだけは浮かんでいる作品が10作以上あります(笑)

この小説も、最初にタイトルが浮かびました。

タイトルが浮かんだのは、今から6年くらい前。
ちょうど今の家を購入して、生まれ育った町に帰ってきた頃。
30代半ばになり、「家族を持った自分」というのにも慣れて、中古ながら家も買った。
良し悪しにつけて、もう若くないんだな・・・ということを実感しはじめた頃です。

若くない→新しくない→新品ではない→中古

そんな安易な公式が、自然と頭の中で構築された(笑)
あぁ、俺も妻も家も車も、もうすべて“中古”なんだなぁ、と(笑)

でも、それに対して腐ったり落ち込んだりはしていなかったですよ。
むしろ、ものすごくアクティブでした。
公私を問わず、とにかくいろんな場所に出かけて、いろんな人に出会って、いろんな経験をして・・・と
いう感じで毎日を過ごしていましたね。
30代という、最も人生で脂が乗った世代を本当に謳歌していましたねぇ。
ところが、そんな年の終わりに、ある噂が突然、僕の耳に届いてきたんです。

僕が社会に出て初めて勤めた会社の先輩が亡くなったと・・・。

実力もキャリアも引き出しも何もない、ただただ根拠のないプライドだけしか持っていなかった
20歳そこそこの僕に、広告のデザインのいろはを、最初に教えてくださった先輩でした。
僕はその会社を3年足らずで退社したので、以降、その先輩とは音信不通になってしまったんですが、
この業界も狭いのか、風の噂で断片的に先輩の話は耳に届いていたんです。
会社を退社されて独立されたとか、結婚されたとか、郷里の徳島に帰られたとか・・・。

実は、訃報を聞いたときは、またその先輩と連絡をとれるような状態だったんです。
インターネットのおかげで。
某snsで先輩の奥様と偶然にもつながって。
ちなみに、先輩の奥様も、前の会社の先輩で。
可愛いくてキレイな女性でね。
広島・大阪・東京に事業所がある、社員200人前後のそれなりの会社だったんだけど、その中でも
1、2を争うほどの人気がある、まるでアイドル的な存在の女性でした。
そういう関係から、奥様経由で先輩にも僕が今でも広告業界で働いていることが耳には届いていたようです。
でも、そうやって再びつながりが持てるようになって1年も経たないうちに、悲しい知らせが届いてきて・・・。

徳島に、走りました。

12月の上旬だったと記憶しています。
皮肉にも、先輩と奥様に10数年ぶりの再会を果たしたのが、その時でした。

この小説について語る時、僕が思い出すのは、徳島で見たまっ赤な夕日です。

先輩にご焼香して、家路をたどる時、もう辺りはすっかり夕暮れで。
クルマで訪れていた僕は高速道路のインターチェンジへ向かうために、吉野川の橋を渡ったんです。
吉野川って、「四国太郎」って呼ばれるほどの大河で、ものすごく雄大な河なんだけど、
その河の上流の方に、まっ赤な、本当にまっ赤夕日が、今まさに、沈んでいこうとしていたんです。
空も街並も空気もすべて黄金色に包まれていて、本当にキレイな景色でね。
橋を渡り終えた僕は、思わず河川敷にクルマを止めて、しばらくその景色をぼんやりと眺めていました。
後にも先にも、あんなにキレイで幻想的な黄昏は見たことがない。
おそらく、その時の僕自身の心境とか、あまりにも刺激的なことが多かった1年の締めくくりが、先輩との
そういう出来事だったこととか、そういうメンタルな理由もあって、普通以上に幻想的に見えたのかも知れません。
だけど、きっと僕は死ぬまで、あの徳島で見た夕日とその風景を忘れることはないと思います。

そんな最初に書いた当時の自身の状況と、徳島での出来事をベースに執筆したのが、「中古家族」なんです。

小説の紹介文にも書いていますが、30代後半のどこにでいる普通の男の物語。
家族を持ち、仕事をし、日々小さな迷いや不満を抱えながらも生きている男性なら、たぶん共感して
もらえるんじゃないか・・・そんなふうに思いながら執筆しました。

物語の構成は、3章から成り立っているんだけど、すべて“道”に関係する言葉を付けています。
第1章が、「バイパス」。
第2章が、「路肩」。
第3章が、「家路」。
これは、僕がクルマ好きということもあるけど、人間をクルマ、人生を道に例えてみたんですね。
そうすることで、この小説の目的や存在意義が、より明確になるような気がしたんです。

電子書籍にするにあたって、装丁をどうしようかと迷いました。
他の書籍と同じように僕自身がデザインすることも出来たのだけど、この作品だけは、ある人が
撮った写真をどうしても使いたかったんです。

ある人・・・それは先輩の奥様です。

奥様は以前から、デザイナーとして先輩と一緒に夫婦で仕事をされていたんですが、その頃には、先輩の
遺志を継がれて、先輩が立ち上げたデザイン会社の代表に就任し、日々多忙な毎日を過ごされていました。
奥様は、経営者でもあり、デザイナーでもあり、そして、優秀なフォトグラファーでもあるんです。

ちなみにその奥様とは、僕のこのブログでリンクも貼っている“sugarlessゆ~こ”さんです。
http://blog.goo.ne.jp/sugarlessyou

僕は奥様に連絡をし、この小説を事前に読んでもらって、その後、電話で装丁についてのこちらの要望を
正直に伝えました。
その時、奥様が涙声で快く承諾してくださったことを、今でもよく憶えています。

後日、奥様からメールで写真が送られてきました。
キレイな、本当にキレイな、朝焼けの写真でした。
表紙の装丁に使っているのは、その写真です。
添付写真と一緒に、その写真を撮った時の心境や状況を、奥様はそのメールで詳しくで綴ってくれていたのだけど、
それを読んでるだけで、こちらの胸が熱くなってきて・・・。
“あぁ、この二人は本当に愛しあっていたんだなぁ、だからこんな写真が撮れるんだなぁ”って、思いましたね・・・。

小説にしろ、イラストにしろ、写真にしろ、“モノを創る”という行為は、本当はとてもしんどい行為なんですよね。
どこをどうやっても、最終的には自分の身を削らなきゃ、絶対に良いものは創ることは出来ない。
それに周りの環境や人間というものにも、絶対的に左右される。
奥様からいただいた写真はそれを如実に語っていたし、僕自身もこの小説の執筆を通じてそれを痛感しました。

余談ですが、この小説を執筆していた時、僕の頭の中では浜田省吾の「家路」がずっと流れていました。
もし映画になるなら、主題歌はあの歌が一番フィットすると思います。特に物語のラストのシーンとか・・・。
この小説は、そんな物語ですね。

「中古家族」の電子書籍サイト→http://wook.jp/book/detail.html?id=208209
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