りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

大阪市大正区鶴町。

2015-06-28 | Weblog
大阪へ、行ってきた。

昨日の朝早く、父と母と息子をクルマに乗せて、山陽自動車道を東へ。東へ。

母はずっと働きづめの人生だったので、ほとんど遠出をしたことがない。
今回、大阪へ行くにあたって、関西地方へ行くのは何年ぶりなのか尋ねたら、「万博以来」という、とんでもない答えが返ってきた。

なので・・・というわけではないが、途中、神戸に立ち寄った。



母は初めて。
ワタシと息子は、2年ぶり。
父も久しぶりだったそうだが、若い頃、神戸に本社がある会社に勤めていたので、「ワシにとって神戸は庭」だと車中で豪語していた。
だが、メリケンパークのポートタワー展望台に登ったとたん、父は無口になってしまった。

そこから見える景色に、父の知っている神戸はなかったらしい。

父にとっての神戸とは、言わば自身がバリバリ働いていた60~70年代の神戸だったのだろう。
当時の神戸はビルは低く、六甲山が近くに見えて、ポートアイランドも神戸空港もなかった。
今、ポートタワーの外に広がる神戸の街は、阪神大震災から復興を遂げた途方もない大都市だった。

メリケンパークを後にして、阪神高速湾岸線に乗った。
この高速を走れば、今回の目的地である大阪市大正区までほぼ一直線だ。
昔の神戸しか知らず湾岸線の存在を知らなかった父には、どうやらそれが不思議に思えて仕方がなかったようで、高速道路を走る車中、何度も何度も車外の景色とナビの地図を見比べていた。
バックミラー越しに後部座席の母を見ると、車窓を流れる景色を柔らかい表情で眺めていた。隣の息子が「前に来た時も思ったけど、神戸ってデッカい尾道みたい」と言うと、母はその言葉に笑っていた。

尼崎を通過し、淀川を越え、巨大なテーマパークを横目に見ながらインターチェンジを降りた。
そこから、まるで車のCMに出てくる「ベタ踏み坂」のような「なみはや大橋」で運河を渡ると、町工場と集合住宅の街並みが広がってきた。

大阪市大正区鶴町だ。

さっそく、父の記憶を頼りに通りを歩いてみる。
だが、当たり前のことだが、70年前の風景なんて何ひとつ残っていないので、手がかりを探したくても探しようがない。
空は曇天。
雨が降ってこないのが、逆に不思議なほどの厚い雲。
朝6時出発、往路280kmの運転の疲れも相まってか、否応に気力が減退してゆくのが自分でも分かった。

ふと気がつくと、父がいない。

辺りを見回すと、通りを隔てた向こう側を歩く男性に話しかけていた。
どうやら、自身がここに来た経緯を話している様子だった。
だが、その男性はどう見ても30歳前後。
戦前戦後どころか、バブル時代も知っているかどうか怪しい。
案の定、男性はどうにも困った表情で苦笑するだけだった。
だが、それだけでは申し訳ないと思ったのか、男性は別れ際にワタシたちにこう告げた。

「この先に商店街があるんで、そこの店主の人たちは長いことこの辺りに暮らしている人が多いみたいですよ」

その商店街は、「鶴町商店街」という名前の、小さな商店街だった。
だが、全国の例に漏れず見事にシャッター通りと化していて、営業している店を探す方が難しいくらいだった。
辛うじて開店しているらしいスポーツ店の前に、ぼーっと立っている初老の男性がいた。
思い切って、声をかけてみた。
事の経緯を話しはじめると、先ほどの男性と同じように苦笑。
「私は戦後生まれやから」
しかし、その後こう続けた。

「この先に文具店があるんやけど、そこの店主のおじいちゃんは、戦前から鶴町で暮らしてる人やから」

文具店に、向かった。
だが、半信半疑だった。
戦前から暮らしているということは、もう80歳は過ぎてるぞ。
会話は成立するのだろうか?
それ以前に、門前払いを食らうんじゃないか?
いやいや、もっとそれ以前に、その文具店、今も営業しているのか・・・?

小さな文具店だった。
2015年のこの現代で、よくぞ持ち堪えていると感心するような小さな、本当に小さな文具店だった。
奇跡的にも、営業していた。
古い扉を開くと文具店独特な匂いがして、奥の居間を覗くと、置物のような老人がテレビを見ていた。

ひと呼吸置いて、声をかけてみた。

「すみません」

動かない。

「あの、すみませーん」

テレビに向いていた老人の顔が、声が聞こえた店先に向かってゆっくりと回転する。

ワタシと父は、今日3度目の事の経緯を、その老人に話した。
老人の動作はゼンマイ仕掛けのようだったが、耳は達者のようで、ワタシ達の来訪の理由をすぐに理解してくれ、そして店の奥から1m四方はある大きな紙を出してきて、こう言った。

「これ、昭和10年の鶴町の地図ですわ」

父が驚嘆の声を上げた。
昭和10年と言えば父が生まれる5年前だが、その年は祖父母が大阪に居を構えた年だった。
まさか、そんな時代のリアリティ溢れる地図を当地で見ることができるなんて、想像すらしていなかった。






地図を眺めながら、父が記憶を辿る。
辿りながら、老人に確かめる。

「家の近くに氷がたくさんある工場があって、よく氷を拾って遊んだ記憶があるんですが・・・」
「それは、この製氷工場やろね。大きな冷蔵庫があったから」

「大きなため池があって、その横に穴があってそこに入った記憶があるんですが・・・」
「それは、ここでしょう。ため池は防火用で戦時中に作られました。その横に防空壕も作ったんですわ」

打てば響くとは、こういうことを言うのか。
父の記憶の断片に、老人は見事に応え続けた。
老人の記憶力もさることながら、ワタシが驚いたのは、当時4歳未満だったはずの父の記憶の正確さだった。
幼児期の経験や出来事が、その人の一生を左右する・・・という話をよく耳にするが、父の大阪時代の生活は、おそらくその後の父の人生を決定づけるのに十分な時間と出来事だったのかも知れない。

父と老人の記憶から推測して、祖父母が暮らし父が生まれた家は、下記地図の星印の場所にあったと思われる。



ワタシ達は、初めてお会いしたのに懇切丁寧に対応してくださった老人に、何度もお礼を言った。
そんなワタシ達に、老人はワタシ達に見せてくれた地図を縮小コピーして譲ってくれた。
母は、タダでいただくのは申し訳ないから・・・と、息子にノートやら鉛筆やら消しゴムやらを好きなだけ選ばせて買わせた(笑)

文具店を後にして、地図を元に家があった場所へ。



上記の写真の中、一戸建てが軒を連ねている辺りに家があったようだ。
その場所を前に、父と母と息子が地図を確かめている。

「もう、思い残すことはないわ」

帰りの車中で、父がそう言った。
「何をバカなことを」と、文具店の老人に負けないくらいの早さでワタシは応えたのだが、ある意味、それは紛れもない父の本心だったのだと思う。

「家の歴史」というものがあるとするならば、ワタシの家では「大阪時代」だけがスッポリと抜け落ちたままだった。
戦中戦後の混乱した時代だったといえども、あまりにも手がかりが少なく、調べようがないまま時間だけが流れていった。
ずいぶん前に祖父母も亡くなり、父の兄も高齢になり、父も70代半ばだ。
ワタシ自身、自分の家系や歴史を否応に意識することが最近は増えてきた。
それはきっと、ワタシ自身が子供を持ち、一丁前に人の親になったことと無縁ではないのだろう。
そしてたぶんそれは、父も45年前にワタシが生まれて人の親となって以来、同じような気持ちだったのではないだろうか。
ワタシの家のルーツのパズルがあるとすれば、今回の大阪旅行で、その重要なワンピースがやっと埋まったような気がしている。
父の「思い残すことはない」という言葉は、たぶんその気持ちを父なりに表現した言葉だったのだろう。

大正区を後にして、歴史好きな息子のリクエストに応えて、大阪城へ。



それにしても、物凄い観光客の数。
しかも、すべて見事に中国人。
大袈裟ではなく、まるでワタシ達の方が中国に訪れたような感覚になった。
いやぁ、彼の国の人達はお金持ってんだなぁ。
いつか、この国もお金で買われやしないよね?

我是日本人。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

70年前の写真とともに。

2015-06-26 | Weblog
実家の古いアルバムの中にある、この写真。

右側の凛々しい顔つきの男性は、ワタシの祖父である。
そして、所在なさげな表情で祖父に抱かれている幼児は、ワタシの父。

祖父は、42歳。父は、4歳。
撮影場所は、家の玄関前だそうだ。
昭和20年。大阪市。

この写真を撮った数ヶ月後、大阪は大空襲を受け、この家も跡形もなく焼けてしまい、一家は命からがら祖父の故郷である尾道へ逃げ帰って来た。

避難する人々でごった返す大阪駅。
背負われた祖母の背中。
その背中越しに見えた焼夷弾の明かり・・・そんな光景の断片が、父の中に残る最も古い記憶なのだという。

そんな非日常的な記憶が人生最初の記憶だからか、父は74年の人生の大半を広島県で生きてきたのに、今でも大阪出身の意識が強い。

大阪市大正区鶴町三丁目。

今から、8年前。
おぼろげな記憶を頼りに父が書き起こしたメモ書きのような地図を片手に、ワタシはこの町へ訪れたことがあった。
初めて訪れた大正区鶴町は、同じ大阪の梅田やミナミと比べてお世辞にも華やかとは言えない、小さな町工場が建ち並ぶ、まるで時代に取り残されたような寂れた大阪湾岸の町だった。
父の地図を片手に通りを右往左往し、昔のことを知っていそうな年配の人に出会うと、勇気出して尋ねたりもしたのだが、結局ワタシには、かつて家のあった場所を特定することができなかった。

明日、行ってこようと思う。

今度は、父とともに。
母と息子も連れて。
唯一の手掛かりと言っていい、この70年前の写真も一緒に。

父と一緒に行けるのは、これが最初で最後の機会かも知れない。

祖父母が必死に生き、父が生まれた場所へ。
ワタシたちの家がはじまった場所へ。

明日、ワタシは父と一緒に行ってくる。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

備忘録として。羅針盤として。

2015-06-24 | Weblog


さっき、気づいた。

このブログ、今月の18日で開設7周年を迎えていた。
開設当初はボチボチ更新していたけど、2年目くらいからはアタマのどこかに変なスイッチが入ったのか、ほぼ毎日の更新。
そんな日々が、数年間続いた。

最近は、また開設当初のようなスローペースで。
一週間に1度か2度更新すればいい有り様。

7年もやっていれば、“もういいか、そろそろ、やめよっかなぁ~”と、思ったことがないと言えば、ウソになる。

でもまぁ、これは義務ではないので。
やめようが続けようが、誰にも迷惑はかけない。
だったら、これからもこんな感じで。

世知辛い世の中に浮かぶ小さな舟の備忘録として。羅針盤として。

これからも、よろしくお願いします。


ちょうど7年前にこのブログに書いた日記を読んでみた。
映画について書いてた。
トンガって気張って書いてるわ(笑)
この人、何様のつもりなのかねぇ(^^;;↓

http://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/d1b357dc5e05bb55bb0121ccc9ab3c3a/?st=1
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また、修理 (T_T)

2015-06-22 | Weblog
会社から、帰宅。

先に仕事から帰っていた妻のクルマ(フィット)の横に、ワタシも駐車。

ふと、フィットの側面を見たら・・・



なんでも、退社時に路上のポールに巻きついてしまったらしい。
たぶん、今日は夜から地区の子ども会の会合があったので、いつもより気が急いていたのだろう。
分からないわけでもない。
ワタシが妻の立場でも、たぶん焦り気味に家路につくと思う。

ただね、今年に入って、これで2回目なんだよ(笑)

前回も同じように右側面を一人相撲。
だから、今、クルマのボディに負けないくらい、妻もメチャクチャ凹んでいる(笑)
まぁ、起こったことは仕方がない。
誰でも失敗やミスはあるから。
過度には責められない。

さて、それはそうとして、鈑金には出さなければ。
このまま放置しておくには、ちょっと・・・。
いつもお世話になっているクルマ屋さん、半年足らずで再び来店したワタシを、いったいどんな顔で迎えるだろうか(笑)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10日で1kg減。

2015-06-21 | Weblog
先月末から、ジョキングを再開した。

1年ほど前まではほぼ毎晩していたのだが、いつの間にか止めてしまっていた。
それが原因かどうか分からないけど、それとほぼ同時に体重が増加。
それまで着れていた服が着れなくなるという、非常に分かりやすい状態に陥った(笑)

なので、一念発起。
減量目的で、ジョキングを再開。

雨が降らない限り、ジャージに着替えてウォークマンを耳にして、午後9時過ぎから外出。
コースは、1年前と同じ。
ひとつだけ違うのは、iPhoneアプリの「ヘルスケア」を活用していること。
1日の歩行距離や歩数を、ちゃんとチェックするようになった。
しかも、体重を書き込めるようになっているので、毎日ジョキング後の風呂上がりに体重を計って、その数字を入力するようにしている。

で、現時点の結果は、20日で2kgダウン。

アプリに入力した体重のグラフを見ると、ちょうど10日で1kgずつダウンしている。
体重は、一気に落ちても、その後が怖い。
だからといって、全く落ちなければ、腹が立つ(笑)
まぁ、理想的な落ち方じゃないでしょうか。
私は俳優の榎本孝明さんじゃないんだから(笑)

1kg減ではあまり実感はなかったが、2kg減になると、多少軽くなった感じがしてくる。
実際、先月まで穿くのがちょっとしんどかったジーンズが、簡単に穿けるようになった。

とりあえず、ジョキングの継続。
腹八分。間食なし。

目標は、あと2kg減。
BMIでいうところの、「標準体重」の範囲内ですな。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

線引き。

2015-06-17 | Weblog
今だから話せるが、ワタシがお酒やタバコを初めて口にしたのは、10代の時だった。

それらの本当の美味しさが、最初のひと口から分かるわけが当然なかったが、それでもそれ以前の自分とは格段に大人になったと、大いに錯覚をしたものだった。

選挙権が18歳に引き下げられたそうだ。
来年の参議院選から適用されるらしい。

来年選挙権を持つことになる18歳の子たちは、これで大人になった気になるのだろうか。
それとも、“は?関係ねぇーよ”というのがホンネなのだろうか。

運転免許が、18歳
結婚も、18歳。(女性は16歳だっけ?)
嗜好品が、20歳。
納税も、20歳。
そういえば、刑事罰で刑務所に入るのは、16歳からだったな。
大卒の学歴ならば、順当に行けば、22歳。
・・・ざっと思い浮かぶだけでも、“子どもと大人の線引き”は、これだけバラバラに散らばっている。
混乱とまではいわないが、それでも、ちょっと戸惑いの感はある。
江戸時代のように“元服”の儀式を復活させれば、そんな戸惑いは一掃されるのに・・・とたまに本気で思うことがある。
日本悠久の文化を大切にされていらっしゃる安倍首相ならば、これを法制化するのは朝飯前だと思うのだけど。
少なからず、安保法制よりはカンタンじゃないですか(笑)?


そういえば、数年前に浜田省吾のコンサートへ行ったのだけど、その時、曲間のMCで、決して年齢層が低いとは言えない客席を見渡しながら、ステージの上の浜田省吾は、こんなことを言っていた。

「俺、思うんだけどさ、これからは少子高齢化がもっと進むんだから、成人は、30歳からにした方がいいと思うんだよね」

その日のコンサートで最も大きな拍手が起こったのは、「J.BOY」を歌ったあとでも「悲しみは雪のように」を歌ったあとでもなく、このMCの時だったような気がする(笑)

●<改正公選法>18歳選挙権が成立
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150617-00000017-mai-pol
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

50代前半。

2015-06-13 | Weblog
テレビで、とんねるずのノリさん、フミヤ、ヒロミの番組を見ています。

みんな、50代前半。
ワタシより7~8才ほど年上だから、ちょうどひとつ上の世代になる。

実生活でも、ワタシを可愛がってもらっている年上の人たちは、なぜかこの世代の方たちが多い。

だからワタシは、この方々を自分のリアルな近未来の羅針盤にさせてもらっているような節がある。

ワタシが50代になった時、果たしてこの人たちのように、味のある男になっているだろうか?・・・なんて自問自答してしまうのだ。

そのためには、一朝一夕の付け焼き刃ではダメなことは重々承知してはいるけれど(^^;;

しかし思い返したら、30才を迎えた時も、40才を迎えた時も、今と同じようなことを考えていたような気がする。

だから50才を迎えた時も、たぶんそんなに今と変わらない雰囲気で、まるでスライドするように50才を迎えるんだろうなぁ、と予想している自分もいる(笑)

それにしても、テレビの中の3人は、いい感じの大人の男だよなぁ。

とりあえず、俺もヒロミみたいにキャンピングカーでも買うか。←そういう問題ではない(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただでは起きぬ。

2015-06-11 | Weblog
ネットのニュースから。

ニュースを読んで最初に思ったのは、彼らが持て囃されていた当時を知らない若い世代の人たちは、このニュースを読んでどんな反応をするのだろう・・・ということ。
もしかしたら、鼻で笑うだけかも知れない。

ワタシは、笑えなかった。
唸って、感心して、そして、ちょっと元気までもらってしまった。

この、しぶとさ。
この、たくましさ。
この、したたかさ。
見習いたい。

ちなみにワタシは、天津・木村に一票(笑)

●一発屋芸人の総選挙開催へ HG「ライバル心を持ってやりたい」
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20150611/Oricon_2054166.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鏡。

2015-06-10 | Weblog
歯を、磨いていた。

洗面所の鏡の中には、いつもの顔。
俺の顔。
45歳の、俺の顔。

20歳の頃に比べれば老けたが、60歳よりは若く見える。
そんな禅問答にもならないような偏差値の低いことをぼんやりと考えながら歯を磨いていたのだが、鏡の中の自身を見て、気づいた。

俺、歯ブラシを、持っていない。

鏡の中の俺は、左手の人差し指で直接歯を磨いていた。
しかもよく見ると、口の中で泡立っている歯磨き粉の泡が、いつもと違う。
やけに、茶色い。

血か?

すぐに、そう直感した。
知らないうちに口内炎が出来たか。
それとも、歯茎のどこかから出血してんのか。どちらにしても、やっぱりもう、俺は20歳よりは60歳が近いってことか。

俺は血の出処を特定しようと、舌を探知機のように口腔内で動かしてみた。
すると前歯を覆っていた歯磨き粉の泡に舌先が触れ、その瞬間、泡の味覚が舌全体に伝わった。

「にがっ!」

思わず、声を上げてしまった。
苦い。
血を舐めると鉄の味がするというが、そんな味ではなかった。
不味いとかそんなレベルではない。
食べてはいけないモノを口にした時の味というのだろうか、まるで味自体が警告を発しているような、本能的に生命の危険を感じるような苦さだった。

まさか・・・これ、まさか、毒じゃないだろうな?

俺はそのままこうべを垂れて、焦り気味に洗面に口の中の泡をすべて吐き出そうとした。
だが、ペッペッという虚しい音が洗面所に響くだけで、苦く茶色い泡は、ほとんど口から落ちはしなかった。

「驚いたか?」

頭上からそんな声が聞こえた。
反射的に、顔を上げた。
だが、そこには誰もいない。
目の前には、鏡に映った45歳の俺の顔。

「苦いか?」

また、声が聞こえた。
しかし、今度は、その声の出どころが分かった。
声は、俺の目の前・・・つまり、鏡から聞こえてきていた。

最初は、鏡の中の俺が話しているのかと思った。
安いホラー映画でもあるまいし。
だが、どうやらそうではないらしい。

試しに、動いてみた。
俺が右を向けば、鏡の中の俺も右を向く。
俺が左を向けば、鏡の中の俺も左を向く。
うん、大丈夫。
鏡の中のこいつは、いつも素直で従順だ。

「それが何か、分かるか?」

再び、声が聞こえた。
大の男が悲鳴をあげて逃げてもおかしくないような恐ろしく異常な状況のはずなのに、なぜか俺は冷静だった。
その声の出どころを特定しようと、鏡を凝視した。
すると、鏡の中の従順な俺も、鏡の外の俺を凝視した。

「私は、鏡だ」

声を主は、呆気なく正体をばらした。

「もう一度、歯を磨いてみろ」

鏡は、そう続けた。

「指で、磨いてみろ」

しかも、念押しもしてきた。

不快を通り越して正気を失いかねないほどの苦さを知ってしまったはずなのに、俺はその言葉になぜか素直に従い、左手の人差し指を前歯に当てた。
鏡の中の俺も、やはり素直に左手の人差し指を前歯に当てている。

指を上下させる。
右側の上の歯、下の歯、奥歯・・・と順番に磨いてゆくと、案の定、また茶色い泡が口の中で生まれはじめた。
舌は泡に触れないように口腔の奥で丸めている。
せめて、あのデタラメな苦さを味あわなければ。
伊達に40数年も生きてねぇぞ。
俺は、20歳そこらの若僧とは違う。
学習能力があるのだ。

そうやって指で歯を磨いていたら、鏡の中の俺の口元から、ポロポロと何がこぼれ落ちているのに気づいた。
泡ではなくて、褐色のチョコレートの欠片のような、見方によっては長年こびり付いた錆の欠片のようにも見える。
俺は歯磨きの指を止め、鏡を覗き込んだ。

「それが、何か分かるか?」

俺は首を振った。

「それは、お前の“過去”だ」

鏡は、そう答えた。
俺は、再び指を動かしはじめた。
最初はゆっくりだったが、鏡の中の俺の口元からポロポロとこぼれる“過去”が増えるに連れて、次第にその動きは速くなりはじめ、最後には目にも止まらぬ速さにまでなってしまった。

どうする?どうするよ?止まらないぞ、止めようと思っても指が止まらないぞ、このままじゃ、過去が全部無くなっちまう、それでいいのかよ、ヤバい、マジでヤバいぞ・・・・・そんなふうに焦りが極地に至った瞬間、口腔の奥でおとなしくしていた舌先が、不意に動いて、上顎を覆っていた泡に触れた。

「にがっ!」


・・・・・・これが、夕べ見た夢です。
何かを暗示しているのでしょうか?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一度、袖を通したい。

2015-06-06 | Weblog
このライダースジャケット。



4年ほど前に古着屋で購入した。
だが衝動買いの常で、案の定、片手で数えられるほどしか着ておらず、見事にクローゼットの肥やしとなっていた。

考えてみれば、当たり前だ。
バイクに乗るならまだしも、それ以前に、ワタシは中型免許すら持っていない。
そんなアラフォーどころかアラフィーの扉が見えて来た風貌の冴えないオヤジが、いったいどこでこれを着るというのか(笑)

なので、処分することが決定。

ハーレーに乗っている友人がいるので、最初は彼にあげようかと考えた。
だが、こういうモノは好みが合わなければ単なる迷惑になるし、その公算が非常に大きいので、素直にリサイクルショップに持って行くことにした。
一品だけを持って行くのもどうかと思ったので、タンスの中を物色し、ここ数年袖を通していないシャツやパーカー類もピックアップして、ライダースジャケットの道連れに。

そうやって大きな紙袋2つ分ほどの衣類をまとめたのだが、その中で、クローゼットから取り出したものの、売るか否か迷った服が一着あった。



おそらく、ライダースジャケット以上に、もう着ないと思う(笑)
でも、30代の10月~11月頃は、このスカジャンを毎日着て過ごしたと言っても過言ではない。
家族や知り合いから“怖いよ”と言われることも多かったが、そんなことはどこ吹く風で、むしろそんな反応を楽しんでいる自分がいた。
このスカジャンを着て、いろんな場所に出かけ、いろんな人に出会った。
上手く言葉にできないが、このスカジャンを着ていた頃は、その風貌とは反比例して、モチベーションや気持ちがすこぶる健全だったような気がする。

ハンガーにこのスカジャンをかけて、しばらくの間どうしようかと考えたが、結局ワタシは、再びクローゼットの中に仕舞い込んだ。

このテの服は、その人のキャラクターによって、似合う似合わないが大きく左右される服だと思う。
きっと男なら誰でも、所ジョージさんやダウンタウンの浜ちゃんのような佇まいに憧れがあるんじゃないだろうか。
一朝一夕で、彼らのような佇まいが出来るようになるとは、さすがに思ってはいない。
価値観やらポリシーやら視点やら、何よりもそれまでの生き方が大切なのだろう。
そんなふうに考えたら、今の自分がこのスカジャンが似合うとは、ちょっと思えない。
でも、もう一度、このスカジャンに躊躇なく袖を通せる時が来たらいいなぁと思う。

そのためには、もう少しモチベーションを上向きにしたい。
あと、体重も、数kgは減らさなければ。

ちなみにライダースジャケット類は、合計720円で買い取られました(^_^;)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする