大阪へ、行ってきた。
昨日の朝早く、父と母と息子をクルマに乗せて、山陽自動車道を東へ。東へ。
母はずっと働きづめの人生だったので、ほとんど遠出をしたことがない。
今回、大阪へ行くにあたって、関西地方へ行くのは何年ぶりなのか尋ねたら、「万博以来」という、とんでもない答えが返ってきた。
なので・・・というわけではないが、途中、神戸に立ち寄った。
母は初めて。
ワタシと息子は、2年ぶり。
父も久しぶりだったそうだが、若い頃、神戸に本社がある会社に勤めていたので、「ワシにとって神戸は庭」だと車中で豪語していた。
だが、メリケンパークのポートタワー展望台に登ったとたん、父は無口になってしまった。
そこから見える景色に、父の知っている神戸はなかったらしい。
父にとっての神戸とは、言わば自身がバリバリ働いていた60~70年代の神戸だったのだろう。
当時の神戸はビルは低く、六甲山が近くに見えて、ポートアイランドも神戸空港もなかった。
今、ポートタワーの外に広がる神戸の街は、阪神大震災から復興を遂げた途方もない大都市だった。
メリケンパークを後にして、阪神高速湾岸線に乗った。
この高速を走れば、今回の目的地である大阪市大正区までほぼ一直線だ。
昔の神戸しか知らず湾岸線の存在を知らなかった父には、どうやらそれが不思議に思えて仕方がなかったようで、高速道路を走る車中、何度も何度も車外の景色とナビの地図を見比べていた。
バックミラー越しに後部座席の母を見ると、車窓を流れる景色を柔らかい表情で眺めていた。隣の息子が「前に来た時も思ったけど、神戸ってデッカい尾道みたい」と言うと、母はその言葉に笑っていた。
尼崎を通過し、淀川を越え、巨大なテーマパークを横目に見ながらインターチェンジを降りた。
そこから、まるで車のCMに出てくる「ベタ踏み坂」のような「なみはや大橋」で運河を渡ると、町工場と集合住宅の街並みが広がってきた。
大阪市大正区鶴町だ。
さっそく、父の記憶を頼りに通りを歩いてみる。
だが、当たり前のことだが、70年前の風景なんて何ひとつ残っていないので、手がかりを探したくても探しようがない。
空は曇天。
雨が降ってこないのが、逆に不思議なほどの厚い雲。
朝6時出発、往路280kmの運転の疲れも相まってか、否応に気力が減退してゆくのが自分でも分かった。
ふと気がつくと、父がいない。
辺りを見回すと、通りを隔てた向こう側を歩く男性に話しかけていた。
どうやら、自身がここに来た経緯を話している様子だった。
だが、その男性はどう見ても30歳前後。
戦前戦後どころか、バブル時代も知っているかどうか怪しい。
案の定、男性はどうにも困った表情で苦笑するだけだった。
だが、それだけでは申し訳ないと思ったのか、男性は別れ際にワタシたちにこう告げた。
「この先に商店街があるんで、そこの店主の人たちは長いことこの辺りに暮らしている人が多いみたいですよ」
その商店街は、「鶴町商店街」という名前の、小さな商店街だった。
だが、全国の例に漏れず見事にシャッター通りと化していて、営業している店を探す方が難しいくらいだった。
辛うじて開店しているらしいスポーツ店の前に、ぼーっと立っている初老の男性がいた。
思い切って、声をかけてみた。
事の経緯を話しはじめると、先ほどの男性と同じように苦笑。
「私は戦後生まれやから」
しかし、その後こう続けた。
「この先に文具店があるんやけど、そこの店主のおじいちゃんは、戦前から鶴町で暮らしてる人やから」
文具店に、向かった。
だが、半信半疑だった。
戦前から暮らしているということは、もう80歳は過ぎてるぞ。
会話は成立するのだろうか?
それ以前に、門前払いを食らうんじゃないか?
いやいや、もっとそれ以前に、その文具店、今も営業しているのか・・・?
小さな文具店だった。
2015年のこの現代で、よくぞ持ち堪えていると感心するような小さな、本当に小さな文具店だった。
奇跡的にも、営業していた。
古い扉を開くと文具店独特な匂いがして、奥の居間を覗くと、置物のような老人がテレビを見ていた。
ひと呼吸置いて、声をかけてみた。
「すみません」
動かない。
「あの、すみませーん」
テレビに向いていた老人の顔が、声が聞こえた店先に向かってゆっくりと回転する。
ワタシと父は、今日3度目の事の経緯を、その老人に話した。
老人の動作はゼンマイ仕掛けのようだったが、耳は達者のようで、ワタシ達の来訪の理由をすぐに理解してくれ、そして店の奥から1m四方はある大きな紙を出してきて、こう言った。
「これ、昭和10年の鶴町の地図ですわ」
父が驚嘆の声を上げた。
昭和10年と言えば父が生まれる5年前だが、その年は祖父母が大阪に居を構えた年だった。
まさか、そんな時代のリアリティ溢れる地図を当地で見ることができるなんて、想像すらしていなかった。
地図を眺めながら、父が記憶を辿る。
辿りながら、老人に確かめる。
「家の近くに氷がたくさんある工場があって、よく氷を拾って遊んだ記憶があるんですが・・・」
「それは、この製氷工場やろね。大きな冷蔵庫があったから」
「大きなため池があって、その横に穴があってそこに入った記憶があるんですが・・・」
「それは、ここでしょう。ため池は防火用で戦時中に作られました。その横に防空壕も作ったんですわ」
打てば響くとは、こういうことを言うのか。
父の記憶の断片に、老人は見事に応え続けた。
老人の記憶力もさることながら、ワタシが驚いたのは、当時4歳未満だったはずの父の記憶の正確さだった。
幼児期の経験や出来事が、その人の一生を左右する・・・という話をよく耳にするが、父の大阪時代の生活は、おそらくその後の父の人生を決定づけるのに十分な時間と出来事だったのかも知れない。
父と老人の記憶から推測して、祖父母が暮らし父が生まれた家は、下記地図の星印の場所にあったと思われる。
ワタシ達は、初めてお会いしたのに懇切丁寧に対応してくださった老人に、何度もお礼を言った。
そんなワタシ達に、老人はワタシ達に見せてくれた地図を縮小コピーして譲ってくれた。
母は、タダでいただくのは申し訳ないから・・・と、息子にノートやら鉛筆やら消しゴムやらを好きなだけ選ばせて買わせた(笑)
文具店を後にして、地図を元に家があった場所へ。
上記の写真の中、一戸建てが軒を連ねている辺りに家があったようだ。
その場所を前に、父と母と息子が地図を確かめている。
「もう、思い残すことはないわ」
帰りの車中で、父がそう言った。
「何をバカなことを」と、文具店の老人に負けないくらいの早さでワタシは応えたのだが、ある意味、それは紛れもない父の本心だったのだと思う。
「家の歴史」というものがあるとするならば、ワタシの家では「大阪時代」だけがスッポリと抜け落ちたままだった。
戦中戦後の混乱した時代だったといえども、あまりにも手がかりが少なく、調べようがないまま時間だけが流れていった。
ずいぶん前に祖父母も亡くなり、父の兄も高齢になり、父も70代半ばだ。
ワタシ自身、自分の家系や歴史を否応に意識することが最近は増えてきた。
それはきっと、ワタシ自身が子供を持ち、一丁前に人の親になったことと無縁ではないのだろう。
そしてたぶんそれは、父も45年前にワタシが生まれて人の親となって以来、同じような気持ちだったのではないだろうか。
ワタシの家のルーツのパズルがあるとすれば、今回の大阪旅行で、その重要なワンピースがやっと埋まったような気がしている。
父の「思い残すことはない」という言葉は、たぶんその気持ちを父なりに表現した言葉だったのだろう。
大正区を後にして、歴史好きな息子のリクエストに応えて、大阪城へ。
それにしても、物凄い観光客の数。
しかも、すべて見事に中国人。
大袈裟ではなく、まるでワタシ達の方が中国に訪れたような感覚になった。
いやぁ、彼の国の人達はお金持ってんだなぁ。
いつか、この国もお金で買われやしないよね?
我是日本人。
昨日の朝早く、父と母と息子をクルマに乗せて、山陽自動車道を東へ。東へ。
母はずっと働きづめの人生だったので、ほとんど遠出をしたことがない。
今回、大阪へ行くにあたって、関西地方へ行くのは何年ぶりなのか尋ねたら、「万博以来」という、とんでもない答えが返ってきた。
なので・・・というわけではないが、途中、神戸に立ち寄った。
母は初めて。
ワタシと息子は、2年ぶり。
父も久しぶりだったそうだが、若い頃、神戸に本社がある会社に勤めていたので、「ワシにとって神戸は庭」だと車中で豪語していた。
だが、メリケンパークのポートタワー展望台に登ったとたん、父は無口になってしまった。
そこから見える景色に、父の知っている神戸はなかったらしい。
父にとっての神戸とは、言わば自身がバリバリ働いていた60~70年代の神戸だったのだろう。
当時の神戸はビルは低く、六甲山が近くに見えて、ポートアイランドも神戸空港もなかった。
今、ポートタワーの外に広がる神戸の街は、阪神大震災から復興を遂げた途方もない大都市だった。
メリケンパークを後にして、阪神高速湾岸線に乗った。
この高速を走れば、今回の目的地である大阪市大正区までほぼ一直線だ。
昔の神戸しか知らず湾岸線の存在を知らなかった父には、どうやらそれが不思議に思えて仕方がなかったようで、高速道路を走る車中、何度も何度も車外の景色とナビの地図を見比べていた。
バックミラー越しに後部座席の母を見ると、車窓を流れる景色を柔らかい表情で眺めていた。隣の息子が「前に来た時も思ったけど、神戸ってデッカい尾道みたい」と言うと、母はその言葉に笑っていた。
尼崎を通過し、淀川を越え、巨大なテーマパークを横目に見ながらインターチェンジを降りた。
そこから、まるで車のCMに出てくる「ベタ踏み坂」のような「なみはや大橋」で運河を渡ると、町工場と集合住宅の街並みが広がってきた。
大阪市大正区鶴町だ。
さっそく、父の記憶を頼りに通りを歩いてみる。
だが、当たり前のことだが、70年前の風景なんて何ひとつ残っていないので、手がかりを探したくても探しようがない。
空は曇天。
雨が降ってこないのが、逆に不思議なほどの厚い雲。
朝6時出発、往路280kmの運転の疲れも相まってか、否応に気力が減退してゆくのが自分でも分かった。
ふと気がつくと、父がいない。
辺りを見回すと、通りを隔てた向こう側を歩く男性に話しかけていた。
どうやら、自身がここに来た経緯を話している様子だった。
だが、その男性はどう見ても30歳前後。
戦前戦後どころか、バブル時代も知っているかどうか怪しい。
案の定、男性はどうにも困った表情で苦笑するだけだった。
だが、それだけでは申し訳ないと思ったのか、男性は別れ際にワタシたちにこう告げた。
「この先に商店街があるんで、そこの店主の人たちは長いことこの辺りに暮らしている人が多いみたいですよ」
その商店街は、「鶴町商店街」という名前の、小さな商店街だった。
だが、全国の例に漏れず見事にシャッター通りと化していて、営業している店を探す方が難しいくらいだった。
辛うじて開店しているらしいスポーツ店の前に、ぼーっと立っている初老の男性がいた。
思い切って、声をかけてみた。
事の経緯を話しはじめると、先ほどの男性と同じように苦笑。
「私は戦後生まれやから」
しかし、その後こう続けた。
「この先に文具店があるんやけど、そこの店主のおじいちゃんは、戦前から鶴町で暮らしてる人やから」
文具店に、向かった。
だが、半信半疑だった。
戦前から暮らしているということは、もう80歳は過ぎてるぞ。
会話は成立するのだろうか?
それ以前に、門前払いを食らうんじゃないか?
いやいや、もっとそれ以前に、その文具店、今も営業しているのか・・・?
小さな文具店だった。
2015年のこの現代で、よくぞ持ち堪えていると感心するような小さな、本当に小さな文具店だった。
奇跡的にも、営業していた。
古い扉を開くと文具店独特な匂いがして、奥の居間を覗くと、置物のような老人がテレビを見ていた。
ひと呼吸置いて、声をかけてみた。
「すみません」
動かない。
「あの、すみませーん」
テレビに向いていた老人の顔が、声が聞こえた店先に向かってゆっくりと回転する。
ワタシと父は、今日3度目の事の経緯を、その老人に話した。
老人の動作はゼンマイ仕掛けのようだったが、耳は達者のようで、ワタシ達の来訪の理由をすぐに理解してくれ、そして店の奥から1m四方はある大きな紙を出してきて、こう言った。
「これ、昭和10年の鶴町の地図ですわ」
父が驚嘆の声を上げた。
昭和10年と言えば父が生まれる5年前だが、その年は祖父母が大阪に居を構えた年だった。
まさか、そんな時代のリアリティ溢れる地図を当地で見ることができるなんて、想像すらしていなかった。
地図を眺めながら、父が記憶を辿る。
辿りながら、老人に確かめる。
「家の近くに氷がたくさんある工場があって、よく氷を拾って遊んだ記憶があるんですが・・・」
「それは、この製氷工場やろね。大きな冷蔵庫があったから」
「大きなため池があって、その横に穴があってそこに入った記憶があるんですが・・・」
「それは、ここでしょう。ため池は防火用で戦時中に作られました。その横に防空壕も作ったんですわ」
打てば響くとは、こういうことを言うのか。
父の記憶の断片に、老人は見事に応え続けた。
老人の記憶力もさることながら、ワタシが驚いたのは、当時4歳未満だったはずの父の記憶の正確さだった。
幼児期の経験や出来事が、その人の一生を左右する・・・という話をよく耳にするが、父の大阪時代の生活は、おそらくその後の父の人生を決定づけるのに十分な時間と出来事だったのかも知れない。
父と老人の記憶から推測して、祖父母が暮らし父が生まれた家は、下記地図の星印の場所にあったと思われる。
ワタシ達は、初めてお会いしたのに懇切丁寧に対応してくださった老人に、何度もお礼を言った。
そんなワタシ達に、老人はワタシ達に見せてくれた地図を縮小コピーして譲ってくれた。
母は、タダでいただくのは申し訳ないから・・・と、息子にノートやら鉛筆やら消しゴムやらを好きなだけ選ばせて買わせた(笑)
文具店を後にして、地図を元に家があった場所へ。
上記の写真の中、一戸建てが軒を連ねている辺りに家があったようだ。
その場所を前に、父と母と息子が地図を確かめている。
「もう、思い残すことはないわ」
帰りの車中で、父がそう言った。
「何をバカなことを」と、文具店の老人に負けないくらいの早さでワタシは応えたのだが、ある意味、それは紛れもない父の本心だったのだと思う。
「家の歴史」というものがあるとするならば、ワタシの家では「大阪時代」だけがスッポリと抜け落ちたままだった。
戦中戦後の混乱した時代だったといえども、あまりにも手がかりが少なく、調べようがないまま時間だけが流れていった。
ずいぶん前に祖父母も亡くなり、父の兄も高齢になり、父も70代半ばだ。
ワタシ自身、自分の家系や歴史を否応に意識することが最近は増えてきた。
それはきっと、ワタシ自身が子供を持ち、一丁前に人の親になったことと無縁ではないのだろう。
そしてたぶんそれは、父も45年前にワタシが生まれて人の親となって以来、同じような気持ちだったのではないだろうか。
ワタシの家のルーツのパズルがあるとすれば、今回の大阪旅行で、その重要なワンピースがやっと埋まったような気がしている。
父の「思い残すことはない」という言葉は、たぶんその気持ちを父なりに表現した言葉だったのだろう。
大正区を後にして、歴史好きな息子のリクエストに応えて、大阪城へ。
それにしても、物凄い観光客の数。
しかも、すべて見事に中国人。
大袈裟ではなく、まるでワタシ達の方が中国に訪れたような感覚になった。
いやぁ、彼の国の人達はお金持ってんだなぁ。
いつか、この国もお金で買われやしないよね?
我是日本人。