りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

陽のあたる場所。

2021-06-23 | Weblog
3年前の今日。

自宅で介護生活を続けていた父の容態が急変し、病院へ救急搬送された。
予断は決して許されず、その日の夜、誰かが病室で付き添うことになったのだが、高齢の母にさせるわけにはいかないので、長男のワタシが付き添うことにした。


覚悟は、出来ていた。


もしかしたら、父と過ごす最後の夜になるかも知れない。
心のどこかに、そんな気持ちが生まれていた。

付き添いをする前にいったん帰宅して、1日分の着替えと財布と携帯、そして、1冊の本を本棚から引っ張り出してバッグに入れると、ワタシは再び病院へ向かった。

家族や近しい親戚が帰宅し、日付が変わった頃、ベッドに横たわる父と二人きりになった病室で、ワタシは家から持って来た本をバッグから取り出し、父の横でページをめくりはじめた。

それから、約6時間後。
2018年6月24日 午前6時20分。
朝の訪れとともに、父は永眠した。
静かな、まるで眠るような旅立ちだった。

夜通し読んでいたその本は、主人公の誕生前後から物語が始まり、やがて上京してミュージシャンとなり、悪戦苦闘の末に大成して、デビューから10年目に行われた代々木オリンピックプールでのコンサートを、癌で闘病中の父が車椅子で観賞する場面まで読み進んでいた。





その本・・・「陽のあたる場所」は、浜田省吾のサクセスストーリーであると同時に、昭和という時代を広島と東京で必死に生き抜いたひと組の父子の物語だ。

病院へ向かう時、何故咄嗟にこの本を選んでバッグの中に詰め込んだのか、あの時は自分でもよく分からなかったのだが、今なら自分なりに理解できる。



ワタシは、怖かったのだ。



覚悟していたと言いながら、すでに意識がなく、命の輪郭がおぼろげになり始めた父の姿を受け入れることが怖くて怖くて怖くて、まるで聖書のように、この本に救いを求めたのだと思う。



           ◆



あの日以来、「陽のあたる場所」は読んでいない。

20代の時に購入し、それ以降、何度も読み返した本なのだが、あの日病室で読んで以来、表紙を眼にしただけで、父の間際を思い出すようになってしまった。

しかし、そんな心持ちも時間を経て変化しはじめたのか、最近になって、またページをめくってみたいと思うようになった。

父が鬼籍に入って3年が過ぎ、ワタシだけでなく、母や弟をはじめ、家族みんな、すでに「父のいない日常」を受け入れて日々を暮らしている。

そしておそらく父も、あちらの世界での暮らしに、もう慣れた頃ではないだろうか。

同じ本であっても、ワタシがまだ「父の子」だった3年前と、もう完全にそうではなくなった今とでは、また違った景色に出会えるような気がする。

久しぶりに枕元に置いて、眠りにつく間際に、またページをめくってみようか。


お父さん、そっちはどうね?
もう、天国には慣れたかいね?
こっちは、みんな元気じゃ。
うん、元気にしとるよ。
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今宵も君を抱きしめて。

2021-06-16 | 
眠れない日々が続いている。

こう書くと、“ここ数日”のように思われるかも知れないが、否々。

かれこれ、もう数年間。

4年ほど前だっただろうか、布団に潜り込んでもなかなか瞼が重くならず、不眠の状態が数日続いたことがあった。
ストレスなのか何なのか原因はサッパリ分からないが、さすがにこれはマズいと思い、薬を服用することにした。

といっても、睡眠薬や睡眠導入剤などをいきなり服用することは躊躇したので、とりあえず、ドラッグストアで“睡眠改善薬”という、ちょっとランクが下っぽい薬を購入して。

以来、毎晩、睡眠改善薬を2錠飲んで布団に入る・・・というのが習慣になってしまった。

しかし、人間の“慣れ”とは怖いもので、当初は効果テキメンで、服用すれば速攻で深い眠りに入ることができていたこの薬も、最近ではあまり効かなくなってきていた。

どうしよう。

このまま今までどおり同じ薬を服用し続けるか、それとも、ちょっと怖いけど、もっと強い薬にランクアップさせるか、どっちにするべ?・・・と迷っていたある日、妻がこれを買ってきた。



抱き枕。

あのなぁ、不眠だからと言っていい年したおっさんがこんなモノ抱いて寝れるかよっ⁉︎
仮に抱いて寝ても、変な姿勢で肩や腕がカチカチに凝ってしまうのが関の山だろ⁉︎

・・・とかなんとかブチブチ言いながら、半信半疑&騙されたつもりで、試しに抱き枕片手に布団に入ってみた・・・








恐ろしいほど、爆睡(笑)








こんなに眠れたのは、ホントに何年ぶりだろう?と思うほどの深い睡眠を経験してしまった。

それ以来、ワタシの布団の傍らには、この抱き枕が置いてあるのだが、最近になって考えてしまうことがある。

何故この枕があると、あんなに眠りやすくなるのだろう?

感触だろうか?
それとも、抱いて寝る時の姿勢だろうか?
それとも、この枕の形状だろうか?

そういえばこの枕の形って、なんだか胎児のフォルムを連想させる。

哺乳類にとって最も快適で幸福な空間は、産まれる以前の、母親の子宮にいた時なのだそうだ。
だから、案外それと関係があるのかも知れない。

・・・まぁ、どうでもいいや。
考え過ぎると、また眠れなくなる(笑)

そんなわけで、今宵もワタシはこの抱き枕に添い寝してもらいます。

みなさん、おやすみなさいませ。
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エミリー

2021-06-01 | 短編小説


      【プロローグ】

 郊外に建つコンビニエンスストアにとって真夜中という時間帯は、ただ〈開いているだけ〉でよかった。
 店員はカウンターの中で立っているか、次々とトラックで配達される弁当や雑誌を手際よく陳列棚に並べるだけでいい。勤務時間は午前0時から午前8時まで。時給1,000円。日給8,000円。月給16万円弱。
 それだけではない。賞味期限の切れた弁当やパンは帳簿の上では破棄したことになっていたが、実際は、店員の胃袋に収まっていた。
 真夜中のコンビニのアルバイト。それは世間の底辺を這いずるように生きる人間にとって、あまりにもおいしすぎる仕事だったのだ。
 ろくに学校にも行かず、真夜中のコンビニのアルバイトに精を出している、見事に何もその手に持っていない、大学生という肩書きの二十歳のチンピラ。それが、僕だった。
 1989年。
 この国の元号が変わり、ドイツで壁が崩れ、天安門広場では僕らと同世代の学生が戦車と対峙していた。



       【熱帯魚】

 それは木曜日の深夜だった。平成最初の夏が終わろうとしていた。
 僕が働くコンビニは、大きな川に架かる橋のたもとにあった。地方都市の郊外の、しかも夜と朝に挟まれた谷折りのような時間帯の店内には、有線から泡沫の歌謡曲が流れるだけで、客は一人もいなかった。
 そんな店に、突然、彼女は現れた。
 ほろ酔いの千鳥足。歩く度に膝上のスカートの裾がひらひらと揺れる。その姿は、水槽の中を気ままに回遊する熱帯魚のように見えた。彼女はスナック菓子と缶ジュースと石鹸とシャンプーを一つずつ買い物籠に入れると、レジカウンターに立つ僕の元までやってきた。
 小さな女の子だった。
 華奢な身体つきと小麦色の肌。そして、ショートボブというヘアスタイルが、中学生の頃に好きだった同級生を、一瞬、僕に思い出させたが、それと同時に、彼女の身体から漂う噎せ返るような甘くぬるい香りが、明らかに彼女が僕と違う国籍なのだということを痛感させた。
 商品を入れた袋を手渡して、ありがとうございました、と僕が言うと、「アリガトウ・・・」と棒読みの小さな声で彼女は応え、そして俯いたまま、再び店外へ出て行った。
 彼女が出ていった後も、噎せる香りはしばらくの間、迷子のように店内を浮遊していた。その香りに背を向けるようにカウンターに凭れると、壁の時計をぼんやりと眺めた。
 午前3時過ぎ。
 時間を確認すると、僕は隣の控室に戻り、煙草の先端に火を点けた。

 近所にフィリピン人が住むアパートがあるらしい。
 そんな話を店の控室ではじめたのは、高校生の伊藤だった。彼は午後7時から午前0時までのシフトだ。入れ替わりに出勤した僕は、あ、そう、と伊藤の話に素っ気無く応えた。
「最近、引越してきたらしいんですけど、その女って、どう見てもジャパゆきにしか見えないんですって!」
 思春期まっただ中の伊藤は、興奮を抑え切れない様子でまくし立てた。
「もしそうだとしても、その女が自分で借りたわけじゃないだろう?その部屋は」
「え?・・・あ、まぁ・・・そうでしょうね」
 僕の冷静な一言で、伊藤の思春期の熱は一気に下がった。
「たぶん、コレが借り上げたんだと思います・・・」
 伊藤は少し声を落として、右手の人差し指で頬を切る仕草をした。
「先輩が働いてる時間には、来ませんか?」
「その女か?」
「はい。僕の時間帯には全く来ないんですよ。まだお店で働いてるみたいで・・・どうです?見たことあります?」
 伊藤の熱がまた上がりはじめる。
「いや・・・見たことないな」
「ホントですかぁ?」
「何だ? 俺が嘘でもついてるっていうのか?」
「いやいや、そういう意味じゃないですよぉ」
 伊藤は団扇のように手を振って、自分で自分の熱をまた下げた。
「あいつらって、いつも監視されてるんだ。だから、買い物も自由に出来ないらしいぞ」
 僕は適当な嘘をつくと、お疲れ、と伊藤の肩を軽く叩いて、カウンターの中に入った。
 今になって、思う。
 僕が伊藤に言ったことは、実は本当だったのではないか・・・と。自由を奪われた彼女にとって、唯一、あの時間だけが、特別に許された〈日常〉の時間だったのではないか・・・と。
 木曜日の午前3時過ぎ。
 あの日以降も、彼女は必ずその日、その時間になると店にやって来た。それ以外の曜日、時間には一切来なかった。来店した千鳥足の小さな熱帯魚は、毎回スナックコーナー→缶ジュースコーナー→生活雑貨コーナーを回遊し、そして最後に僕が待つカウンターにたどり着くと、強烈な異国の匂いを僕の鼻腔へと詰め込んだ。

 9月の下旬、〈おでんと肉まんのケースを所定の位置に出すように〉という連絡が本部から入った。
 僕はそれらの器具を控室の奥から引っ張り出すと、カウンターのコーナーに設置し、おでんの具材や肉まんやあんまんをケースに入れた。たったそれだけのディスプレイの変化で店内が冬の様相に一変したような気がした。
 しかし、おでんも肉まんもあんまんも全く売れなかった。つい先週まで半袖で過ごせたのだから、当然といえば当然のことだった。
 そんな冬を先取りしすぎた週の木曜日の午前3時過ぎにも、彼女は現れた。いつものように千鳥足で。スカートの裾を緩やかに揺らせて。コンビニという水槽の中を、小さな熱帯魚はゆっくりと回遊した。
 柔らかい景色だ。
 心の中でそう呟く。彼女が来店している間だけ、時間の流れも緩慢になっているように感じる。だがその一方で、大海から隔離されて小さな水槽の中でしか泳げない彼女への同情の種も、心の片隅に芽生える。
 その日も彼女はスナック菓子と缶ジュースと歯ブラシを購入した。僕は、彼女が財布から代金を出そうとしている隙に、ショーケースから肉まんを2個取り出し、紙袋に入れると、素早く彼女に手渡した。その途端、彼女の表情が変わり、紙袋と僕の顔を交互に眺めた。
「あげるよ」
 僕はそう言った。しかし彼女の顔から不審の表情は消えなかった。いや、それは不審の表情というよりも、戸惑いの表情といった方がよかった。
 これ、肉まんっていう饅頭。元々、中国の食べ物なんだけど、日本では冬に食べるんだ。これはもうすぐ賞味期限が切れるけど、まだ大丈夫だから君にあげるよ・・・ということを日本語で説明しても、おそらく彼女が理解できないことをその表情から察した僕は、彼女に向かって、
「プリーズ・フォー・ミー」
と言った。
 言い終わると、カウンターの上をおそろしく奇妙な沈黙が流れた。彼女はキョトンとした表情で、丸くクッキリと縁取られた二重の瞳を何度も瞬かせながら、僕を見ていた。
「・・・あ、間違えた!プリーズ・フォー・ユー!」
 僕が慌ててそう言い直した途端、彼女は相好を崩した。

「エミリー」

 袋を手にして、カウンターから離れる間際、彼女はそう口にした。

「ワタシ、エミリー」

 甘くぬるい香りと少し照れの混じった柔らかい微笑みを残して、彼女、エミリーは真夜中の店外へと出ていった。
 
 それからもエミリーは、必ず週に一度、毎週木曜日の午前3時過ぎに現れた。
 僕は、賞味期限が切れたばかりの肉まんやおでんを彼女にあげるのがお決まりになった。
「コレ、美味シイネ、好キ」
 彼女は殊の外、肉まんが気に入ったらしい。
 エミリーもすぐには帰らなくなった。買い物が終わった後も、彼女の時間が許す限り、カウンターを挟んで、カタコトの日本語とデタラメな英語で僕と言葉を交すようになった。
「名前・・・ハ?」「学生・・・カ?」「何歳・・・カ?」
 エミリーは判で押したような質問ばかりを僕に投げかけた。テープレコーダーのようだった。まるで誰かに吹き込まれたセリフをそのまま再生しているかのようだ。しかし、彼女が僕に語ってくれたことも片手で数えられる程度だった。名前は、エミリー。出身は、フィリピンのナントカカントカ島。家族は、タクサン。年齢は、アナタト、オナジ・・・・・以上。
 どうして日本に来たの?どうやって来たの?いつからいるの?・・・僕がそんな質問をしてみても、エミリーは不器用に作った微笑みを、その小さな顔に浮かべるだけだった。
 そんなふうにして、平成最初の秋は、少しずつ冬へと移りはじめていた。



      【水槽の中】

 それは、11月中旬の火曜日だった。
 僕は珍しく午後7時から出勤していた。高校生のアルバイトの一人が風邪で休んだのだ。僕はカウンターと商品の陳列棚を何度も何度も何度も往復し、深夜勤務では到底考えられない程の労働力を発揮した。
「忙しいでしょ?」
 一緒に働いている伊藤が接客の合間に小声で僕に訊く。僕はしかめっ面で肩をすくめた。
 確かに、忙しい。
 僕が働く深夜のコンビニと同じ店とは思えなかった。店の前にバス停があるので、バスが停まると、バスから吐き出された帰宅途中のサラリーマンやOLや学生が一斉に店に入ってくる。そして弁当やパンやカップラーメンを片手にカウンターに並ぶのだ。おでんや肉まんも飛ぶように売れた。いくら補充しても、次から次へと売れていった。「この店は、夜のラッシュでもっている」と、面接の時にオーナーが自慢気に僕にそう語っていたが、それは本当だったようだ。
 客の波がひと段落ついたのは、11時過ぎだった。それは見事にバスの最終便の時刻と呼応していた。店内には雑誌コーナーに立ち読みの客が二人ほど。僕は控室に戻って一服した。伊藤も客足が落ち着いたことを確かめると、控室に戻ってきた。
「少しは僕のこと見直しました?」
 伊藤は得意気に僕にそう訊いた。
「ああ、お前はスゴイよ、スゴイスゴイ」
 唇をすぼめて煙草の煙を細い筒のように吐いた後、僕はわざと棒読みの口調でそう答えた。それでも伊藤は僕の返事に満足したのか、嬉しそうにデスクに置いていた飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。
「先輩は、今日はこのまま朝までですか?」
「ああ、そうなるな」
 僕がそう答えると、伊藤はヒョエーと、わざとらしく戯けたような声を出して、缶コーヒーを飲み干した。
「何なら、変わってやってもいいんだぞ」
「えー、勘弁して下さいよぉ、期末試験が近いんスよ。勉強勉強。高校生は勉強が第一!」
「ったく・・・都合のいい時だけ、そんなこと言いやがって」
 そう言って僕が笑うと、伊藤も連られて笑い、そしてこう続けた。
「相変わらず、あのアパートの女は来ないんでしょ?」
 伊藤は僕が言ったことを信じていた。
「もし来るんなら、喜んで先輩と変わるんだけどなぁ」
 喉の奥にゴロリとした異物が詰まっていた。それが溶けるまで、僕は息が出来なかった。
 午前0時になった。
「お先でーす」とタイムカードを押すと、伊藤はさっさと帰っていった。すると店は、いつも僕が働いている、いつものコンビニへと、まるでグラデーションをかけたように戻っていった。
 午前1時過ぎ。
 店の自動ドアが静かに開き、一人の女性を迎え入れた。 
 エミリー、だった。
 だが、いつもと様子が違っていた。いや、それ以前に、今日は木曜日でもなければ、今は午前3時過ぎでもない。
 服装もひらひらと舞う膝上のスカートではなく、くたびれたグレーのスウェットだった。エミリーはいつものように緩やかに店内を回遊せず、俯いたまま、とあるコーナーへ小走りで向った。そして、そのコーナーの商品を素早くひとつ手に取るとすぐに踵を返し、僕の方へ一直線に向かって来て、そしてその商品を慌ただしくカウンターの上に置いた。


 避妊具、だった。


 エミリーは俯いていた。頬は紅潮し、何度も鼻を啜っていた。それは泣いた痕のようにも見えたし、見方によっては、誰かに思いっきり殴られた痕のようにも見えた。
 彼女のすぐ後ろに、中年の男が週刊誌を持って並んだ。彼女の香りが鼻を突いたのか、男は露骨に顔を歪め、そして明らかに侮蔑を込めた視線で、背後から彼女の全身を眺めた。
 冷静を装った僕が素早く商品を紙袋に入れると、それに呼応するように、即座にエミリーも避妊具の代金をカウンターの上に置いた。
 クシャクシャの、千円札だった。
 手に取ると、少し湿った感触が指先に伝わった。彼女はその千円札だけを手にして店へやって来た。クシャクシャになるほど強く握りしめていたために、きっと彼女の掌の汗が染みてしまったのだろう。
 いや、違う。
 指先に伝わったその淋しい感触に、僕はそう直感した。
 これは汗ではない。本来ならば、これは涙腺から流れるべき水分だったのだ。それが何かの間違いで、彼女の掌の汗腺から滲んでしまったのだ。


 これは、泪だ。エミリーの、泪だ。


 エミリーは会話どころか、一度も僕と目を合わさなかった。そして避妊具の入った紙袋を手にすると、再び俯いたまま、小走りで店の外へ出て行った。
 中年男の精算を済ませ、店内が無人になると、僕はカウンターから飛び出した。しかし、店外に出ようとした僕の足は、自動ドアの前で、床に貼り付いたようにピタリと止まった。 

 自動ドアの向こう。そこには、暗闇が広がっていた。

 全く灯りのない、漆黒の世界だった。そんな夜の闇に呑み込まれるように、エミリーは独りぼっちで避妊具を手にして消えていった。自動ドアには僕の顔が映っていた。青白く頬が痩せこけ、精気のカケラもない歪んだ顔。そしてその向こうには、エミリーを呑み込んだ暗闇。
 僕は気づいた。いや、気づかされてしまった。
 暗闇のど真ん中の、まるで忘れ物のようにポツンと存在するコンビニで、情けないほど貧相な顔をぶら下げて、僕はたった独りで生きていたことに。そして、小さな水槽の中に閉じ込められていたのは、エミリーだけではなかったことに。途端に怖くなった。悲しくなった。悔しくなった。虚しくなった。惨じめになった。
「エミリー・・・」
 視界に映る景色がぼやけてくる。右手が小刻みに震える。今まで何も手にしたことがなかった右の掌の中に、クシャクシャの千円札があった。エミリーの泪が染みた千円札。その泪に、僕の掌に滲んだ泪が重なってゆく。
「エミリィィィィーーーーーーーーーーー‼︎」
 身体中の総てのエネルギーを放出するかのように、僕は名前を呼んだ。しかし暗闇は、咆哮のようなその叫び声さえも、当たり前のように静かに呑み込んでいった。
 その週の木曜日の午前3時過ぎ。僕はエミリーを待った。
 しかし、彼女は現れなかった。次の週もその次の週も、エミリーは現れなかった。 



    【メリー・クリスマス】

 そのうち暦は12月になり、有線からはクリスマスソングが流れるようになった。
 カウンターの上には、クリスマスケーキの予約を承るチラシや、少し気が早いおせち料理の予約のチラシも並びはじめた。
 時間は確実に流れていた。
 未来は現在になり、そして過去になる。その繰り返しの中で僕は生きている。たとえそれが時間の止まったような真夜中のコンビニであっても、だ。
 エミリーは依然として店には現れなかった。止まった真夜中の時間を緩やかに動かせる彼女の不在が、僕に時間という概念を必要以上に意識させていたのかもしれない。 

 それは、クリスマスムードが最高潮に達していた12月中旬だった。
 木曜日の午前3時過ぎ。
 まるで忘れ物でも取りに来たかのように、ひょっこりと、エミリーが店に現れた。あの夜から1ヶ月が過ぎていた。
 エミリーは相変わらず膝上のスカートを穿いていたが、その細い脚は黒いストッキングに包まれ、上半身は黒のタートルネックのセーターを着て、その上に同じく黒のハーフコートを羽織っていた。
 似合っていた。しかし全身黒尽くめのその格好は、南国生まれの彼女には、ちょっと着心地が悪そうにも見えた。
 違っていたのは、服装だけではなかった。
 ひとつは、ほろ酔いの千鳥足ではなかったこと。そしてもうひとつは、三十歳くらいの厳つい体躯をした、一見しただけで堅気ではないと分かる男が一緒だったことだった。
 エミリーは今までと同じようにスナック菓子と缶ジュースを買い物籠に入れると、レジカウンターへやってきた。そして僕も今までと同じようにレジを弾いて、彼女から代金を受取り、商品を袋に入れて手渡そうとしたその時、彼女が僕にこう告げた。
「今日デ、来ルノ、最後」
 え?
「サヨナラ・・・」
 この時間帯には珍しく、エミリーの後ろに若い男の客が弁当を持って待っていた。僕は彼女に袋を渡すと、彼女の言葉にろくに返答もできないまま、次の客の応対をした。
 エミリーは、袋を持つとカウンターから一歩下がり、接客する僕を見ていた。
 柔らかな微笑みを浮かべていた。
 その表情は、僕が初めて彼女に肉まんをあげた、あの夜の笑顔に変わりそうにも見えたし、避妊具を購入しに来た、あの夜の泣き顔に変わりそうにも見えた。
 突然、雑誌コーナーから大仰な咳払いが聞こえた。
 それと同時に、エミリーの顔から微笑みが消え、こわばった表情で踵を返した。
 雑誌コーナーで咳払いをした男は、咳払い以上に大仰なガニ股で、店の外へ出て行こうとしていた。そして、その男に付き従うように、エミリーがその後ろをついてゆく。
 僕は、次の客のチキン南蛮弁当をレンジで温めている間に、カウンターのショーケースの扉を開け、急いで肉まんを2個取り出し、それを素早く紙袋に入れると「エミリー!」と、店の入口に向って声を投げた。小さな背中を僕に向けて店を出ようとしていたエミリーは、突然届いた僕の声に、自動ドアの前でにわかに振り返った。
 僕はカウンターを飛び出し、エミリーの元へ向った。自動ドアは先を歩いていた男をセンサーが感知し、既に開いていた。12月の乾いた冷気が全開の自動ドアから暖房の利いた店内に流れ込む。男は、突然エミリーを呼び止めて彼女に近づく僕を、開いた自動ドアの外側から鋭い眼光で睨んでいた。
「フォー・ユー・・・いや、プリーズ・フォー・ミー」
 肉まんの入った紙袋を差し出しながら、僕はエミリーにそう言った。
 僕が差し出した紙袋を目にして、エミリーは一瞬、戸惑いの表情を見せた。初めて肉まんをあげたあの時と同じように。だが、その後
「アリガトウ・・・」
 と、声にならないような小さな呟きと、相変わらず不器用な微笑みを僕に見せると、そっと紙袋を受け取り、店を出て行った。
 店の外には白いオンボロの商用ワゴンが停まっていた。男は運転席に乗り込み、エミリーは後部座席に乗り込んだ。スライド式のドアが全開になった時、車内にエミリーと同じような異国の女性の顔がいくつも見えた。 
 エンジンが、かかる。
 濁声のような排気音を店頭の駐車場にまき散らしながら、エミリーを乗せたワゴンは、まるで全てを振り切るかのように橋に向かって猛スピードで走り出した。そして橋を渡り切ると、瞬く間に暗闇に呑み込まれ、消えてしまった。
 それが、最後だった。
 その夜を最後に、エミリーが現れることは、もう二度となかった。

 12月24日。
 僕はいつもどおり店にいた。そして午前3時過ぎになったら、無人の店内から外へ出た。
「コノ街ハ、雪、降ル?」
 以前、エミリーが僕にそう訊いたことがあった。たしか11月上旬の木曜日だった。その数日前、この街はこの秋一番の寒さを記録していた。僕は頷いて「Sometimes」と答えた。
「クリスマス・・・ハ?」
 今度は僕は首を横を傾げて「Maybe・・・」と答えた。エミリーは僕の答えに何かを期待したのか、とても嬉しそうな表情を浮かべた。
「やっぱり雪、降らなかったよ・・・」
 クリスマス・イヴの真っ暗な夜空を見上げて、僕は独り言のようにそう呟いた。
 メリー・クリスマス。
 こうして、僕の1989年は終わりを告げた。


      【エピローグ】

 その店は影も形もなくなり、代わりにマンションが建っていた。
 二十年という年月が長いのか短いのかは分からないが、少なからず、一軒の小さなコンビニエンスストアを鉄筋7階建てのマンションに変えてしまうだけの長さなのだということは、僕にもよく分かった。
 一階は英会話教室になっていた。僕はマンションを見上げながら、右手を軽く握りしめた。握った掌の中にもうひとつ、小さな掌があった。
「ここで働いてたの?」
 小さな掌の主が僕にそう尋ねた。
「いや、ここにあったお店で働いてたんだ」
「そのお店は、どうしたの?」
「なくなっちゃったみたいだね」
「どうして?」
「さぁ・・・それはお父さんにも分からないよ」
 僕と息子はマンションを見上げたまま、そんな会話を交していた。
「・・・何カ、ゴ用デスカ?」
 その声に振り向くと、女性が立っていた。
 異国の人だった。
 二十代半ばだろうか。淡いグリーンのスーツに身を包み、その毅然とした佇まいがやけに印象的だった。きっとこの英会話教室の講師だ。
「すみません。昔、ここにあったコンビニエンスストアで働いていたんです」
 と僕が英語で答えると、女性は目を丸くした。
「てっきり入校したいのかと思ったわ。でも、そんなに流暢な英語を喋れるなら、生徒じゃなくて講師の方が向いてるわね」
 と女性も英語で応え、そして、笑った。
「二十一歳の時に大学を辞めてアメリカに渡ったんです。ニューヨークで暮らしていました。ずっと暮らしていくつもりだったけど、8年前に帰って来たんです。摩天楼に飛行機が突っ込んだ直後に・・・」
 僕の話に、女性は顔を曇らせ小さく頷いた。
「今は遠くの街で暮らしているんですが、たまたま用事でこちらに来ることになって・・・で、昔働いていた店に寄ってみたんです。せっかくだから息子を連れてね。だけど、あの小さな店の跡地に、まさかこんな大きなマンションが建っているだなんて・・・想像すらしていなかった」
 そう話すと、僕はもう一度マンションを見上げ、そして、隣にいる息子へと顔を向けた。
「How old are you?」
 女性は両膝を曲げて視線を落とすと、息子にそう尋ねた。息子は僕の後ろに隠れるようにして、僕と女性の異様な言語のやりとりを不安そうに見ていた。
「“何歳ですか?”だって・・・ほら」
 僕がそう促すと、息子は僕の後ろから恐る恐る指を四本突き出した。
 女性は、フフフと微笑みながら「早くお父さんのように話せるようになれたらいいわね」と息子に優しく語った後、両膝を元に戻すと、僕に会釈し、英会話教室の中へ入って行こうとした。
 その時、だった。
 女性の後ろ姿を眼にした僕の脳裏に、ふと、ある一人の、まったく別の女性の姿が蘇った。その瞬間、僕は思わず反射的に、教室に入りかけた女性に向かって「失礼ですが」と、英語で問いかけていた。
「貴女は・・・貴女は、どちらのご出身ですか?」

「Philippines」

 女性は振り返り、僕の目を真直ぐみつめて、そう答えた。その口調は力強く、言葉には誇りが溢れていた。
 僕は礼を言うと、黙って女性を見送った。

「さっきの人、誰?」
 バス停でバスを待っている時、息子が僕にそう尋ねた。バスがやって来る方向と、目の前の英会話教室を交互に眺めながら。
「あの学校の先生だよ」
 僕は顎をしゃくりながら、目の前に建つマンションの一階を左手で指差した。
「ふーん・・・名前は?ねぇ、先生の名前は何て言うの?」
 息子の予想外の質問に、僕は答えに窮した。だが、しばらく考えて、こう答えた。
「エミリーって、いうんだ」
 
 空港に着いたら売店に行こう。
 橋の向こうから、空港行きのリムジンバスが近づいて来るのをみつめながら、僕はそう思った。
 東京で待っている妻への土産を買って、搭乗手続きを終えたら、この街を離れる前に、ホカホカの肉まんを買って、息子と一緒に食べよう。
 心の中でそう決めると、僕は息子の小さな手を、右の掌で優しく握りしめた。

(終) 〈2009年作〉
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