りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

もう、ホントにやめる、たぶん。

2024-11-21 | 家族
最初に言っておくけど、今日のタイトルは、別に仕事のことでもタバコのことでもありません(笑)

来年の年賀状のこと。

今年の正月にも何通か出したのだけれど、それらはすべて元旦にいただいた方々への返信のような年賀状だった。

来年も何通か年賀状をいただくかも知れないけれど、その返信の年賀状がおそらく最後になるかと思う。

思えば、パソコンとプリンターをフル活用して100枚前後の年賀状を作っていたのは何年前だっただろうか。

仕事柄もあって、それなりのデザインの年賀状を毎年毎年作っていた。

その中でも印象深いのは、この年賀状かなぁ↓





西暦を入れ忘れたのは、今でも反省点(笑)
その他にも、あらためて見返したら、イラストもレイアウトも拙い点が多々ありますが😅

これは子年の年賀状。
今、ネットで子年の西暦を調べたら、2008年の年賀状だったようだ。

毎年、年賀状のデザインを考えたら、制作に入る前に必ず家族に見せていた。
いわば、〈家庭内プレゼンテーション〉のようなもの。

この時はたしか、夕食の食卓でプレゼンをした。
プレゼンの結果、妻と当時小学生だった娘からはOKの承諾がもらったのだけれど、4歳の息子はなぜか不満顔だった。

その理由を息子に尋ねたら、息子は下唇を突き出して、



「みんなで一緒に歩きたい・・・」



と、眼に涙をいっぱい溜めて呟いたことを今でもよく憶えている。

そして、そんな息子の言葉に応えて妻が、

「あのね、これはね、お父さんが捕まっているから面白いのよ♥️」

と、身も蓋もないことを優しい口調で息子に説いたことも、今でもよく憶えている(笑)

そんな優しくて家族想いだった息子も、やがて声変わりをし、すね毛が生え、高校を卒業すると、当たり前のように家を出て行った(笑)

まぁ、時代に連れて年賀状がなくなるように、家族のカタチも変わってゆく、ということか😅

・・・というわけで、年賀状でのやり取りはなくなってしまいますが、皆さま、これからもよしなにお願いいたします🙇

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古い鉄アレイ。

2024-06-22 | 家族
ワタシの父は、偉丈夫な人だった。

身長も高くなく、頭髪も薄かったのだけど(この2つは見事にワタシも引き継いだ😅)、とにかく身体だけは筋骨隆々の人だった。

幼い頃に一緒に風呂に入ると、分厚い胸板や綺麗に割れた腹筋といった父のフォルムに、子供ながら見惚れてしまうこともあった。

「力こぶ見せて」

小さなワタシが浴槽の中で父にそうリクエストすると、父はその度に「これか?」と言いながら腕を折り曲げて力こぶを見せてくれた。
父の二の腕にできたその大きく堅い塊を恐る恐る触わる度に、ワタシはキャッキャッと湯船の中ではしゃいでいたことを憶えている。

当時のワタシは、5、6歳。
まだ筋肉なんて身体のどこにも付いていない。
でも最も身近な男である父親がそうなのだから、男は大人になれば誰もが自然と父のような身体つきになるのだと思い込んでいた。

当たり前のことだが、そんな事はないわけで。

父のその身体は、自身で鍛えた賜物だった。
しかし、これといったスポーツをしていたわけでもなく、鋳物を取り扱う小さな会社の営業マンだった父が、なぜそこまで身体を鍛えていたのか、その頃のワタシには分からなかったし、考えることもなかった。


「アンタのお父さんは、自衛隊に入りたかったんよ」


そんな話をしてくれたのは、叔母だった。
父が亡くなって3ヶ月後、納骨の時のことだ。

父は高校卒業後、自衛隊への入隊を希望していたそうだ。
だが規定の身長に届かなくて、泣く泣く断念したらしい。

そうか、そういうことか。

叔母の告白で、父にまつわる色んな事が氷解したような気がした。

世代的に戦争の記憶なんてほとんどないはずなのに、戦争映画が好きだったことや、レコードも軍歌のアルバムを何枚も持っていたことや、本棚の書籍も軍記物が圧倒的に多かったことや、そして、なぜあれほどまでにムキムキの身体つきだったのかも・・・。

おそらく父は、不可抗力でたやすく壊された夢のカケラを、完全には捨て切ることができなかったのだろう。



          ◆



話は変わるが、先日病院へ行ったら先生に減量するように忠告された。

もうずいぶん前から血糖値が高めで、先生曰く、ワタシは糖尿病の玄関に足を入れたり出したりしている状態らしい。

もちろん自覚症状なんて何もないのだけど、もう何があってもおかしくないお年頃なだけは確か。
なので、当面の間、〈腹八分目〉と〈適度な運動〉が至上命題となった。



          ◆



〈適度な運動〉として、以前からウォーキングはしていたのだが、それだけでは心細いので何が出来ることはないかと考えていた時、たまたま実家でこれを見つけたので自宅へ持って帰った。



古い鉄アレイ。

かつて父が使っていたモノだ。
ひとつ3kg。ふたつで、計6kg。

これを持ち上げていた父の姿を眼にしたことはなかったが、中央に貼ったグリップ代わりのカラーテープのくたびれ具合からして、けっこう使い込んでいたように見える。

先週から毎晩、これを持ち上げている。
この運動が果たして〈適度な運動〉に該当するのか分からないけれど、何もしないよりはマシだろう。
ウォーキングが下半身の運動なら、鉄アレイは上半身の運動だ、と自分に言い聞かせながら持ち上げている(笑)

これで減量ができれば御の字。
そしてそれと同時に、遠い昔の父のような逞しい力こぶがワタシにも備われば願ったり叶ったりなのだけど。

まぁ、欲を言い出したらキリがない。
二兎追うものは一兎も得ず、と言うし。


明後日は、父の命日。


明日は墓参りに行こうと思っていたが、どうやら大雨の予報なので、その代わりに実家の仏壇に手を合わせに行こうか。

もしもその時、〈どうか痩せますように〉と俺が仏前でお願いしてしまっても、父さん、怒らないでくれよ(笑)
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GSX。

2024-06-16 | 家族
今日は午後から、市内のバイク屋さんへ。

大学生の頃、バイクというか原付(初代メットインタクト)に乗っていたけど、それを購入したのは街の小さなバイク屋さんだった。
ワタシにとってバイク歴はその1台の僅か4年間だけだったので、思い返してみると、このような〈ちゃんとした〉バイク専門店へ訪れたのは、おそらく生まれて初めてだと思う。

50代半ばになったし、今から自動二輪の免許を取ってバイクを購入して、ここからいよいよ✨THE・第二の人生✨・・・いうわけではなく😅

今日、この店に訪れた目的はワタシではなく、娘。

娘は今、自動二輪の免許を取るために自動車学校へ通っている。
免許取得まではまだもう少しかかりそうなのだけど、気持ちがはやるのか、バイクを見に行きたい・・・と。
でも足を踏み入れたことがない店に行くのは不安で、ちょっと怖い・・・と。
だから父よ、一緒に行ってくれないか?

・・・まったくコイツは、大人なのか子供なのか(笑)😓

店内にはありとあらゆるバイクが陳列されていた。
ハーレー、ドゥカティ、BMWといった洋モノから、NINJYA、TZR、CBといった国産もズラリ。
重厚なバイクに埋もれて見落としそうになったけど、よく見るとモンキーやベスパも置いてある。





結局ワタシはバイクの免許は取らなかったのだけど、学生時代に周りにいた友人達は軒並み中型免許を取得して、FZRとかGPZとかCBRといったバイクに乗っていたので、バイクの名称だけはまるで洗脳されるように覚えてしまった。
だから30数年前によく眼にした名称のバイクを見つけると、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。

そんな感じで店内を一人で徘徊しているワタシと離れて、娘は親切そうな店員さんから店内のバイクを1台1台説明してもらっている様子。
そのうち、1台のバイクの前で長いこと説明を受けているようなので、ワタシも近付いてみた。






SUZUKI・GSX。
カッコいいじゃん👍
GSXといえば、ヨシダやブンさんが乗っていたな。
ヨシダは昨年ホントに久しぶりに会ったけど、全然変わってなかった。
ブンさんとは卒業以来、もう30年以上会っていない。
たしか証券マンになったはずだけど、今でもどこかで元気にしているのだろうか・・・。

昭和のGSXと比べて格段に洗練されたデザインに様変わりした令和のGSXを前にして、そんな昔の友人のことを思い出してしまった。

その後、無事に免許が取れたらまた来ます、と店員さんに告げて、娘とワタシは店を出た。

店を訪れる前は少し不安そうだった娘の表情も晴れやかになったように見える。
おそらく自動車学校の教習用ではないバイクに何台も跨ったことで、免許を取った後の自分を現実的にイメージできるようになったのだろう。

まぁ、引き続き頑張りなさい。



帰りにコンビニで缶コーヒーを購入。
娘が奢ってくれた。
そうか、今日は父の日か。
これぐらいで、十分だ。

ありがとう😊
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桜並木まで。

2024-04-06 | 家族

今日は、休日。

いつもより早めに目が覚めたので、ちょっと早いとは思ったが、至近の実家に顔を出した。

実家に着くと、ちょうど鉢植えを抱えて玄関から出てきた母とバッタリ。

「どうしたんね?今日は早う来たんじゃね」

天気も良いし暖かいので、玄関に置いているシクラメンの鉢植えを裏庭で陽の光に当てるとのこと。

母と入れ違いで玄関から入って、仏壇に線香を供えて、合掌。
その後、鉢植えを裏庭に置いて戻ってきた母と、来月行う祖母の三十三回忌と父の七回忌の法事について、お寺とのやり取りのことやら出席者のことやら食事のことやら茶の子のことやらを、もう一度確認。

おそらく祖母の法事は、これで最後。
父の法事にしても、この次の十三回忌まではしばらく時間が空くことなる。
なので、近しい親戚も来ていただくような賑やかな法事はこれが最後になるような気がする。

それらの話と段取りがひと段落して、テレビを見ながらよもやま話。
桜が咲き始めたことをワタシがポロッと話したら、そのままその流れで近所の桜並木まで母と一緒に歩いてみることになった。



          ◆



片道500m。
小学校時代の通学路でもあり、子どもの頃に数えきれないほど行ったり来たりした道。
昔は道の周りは見渡す限り畑(しかもその大半がみかん畑)だったのに、今ではほぼそのすべてが住宅地に。

そんな風景の中を、50代半ばになった息子と今年80歳になる母がとぼとぼ歩きながら取り留めのない会話。

再来週、ワタシが人間ドックに行くこと。

母が通院する開業医の先生が代替わりしたこと。

ここ数日奥歯が痛むので歯医者に行った方が良いのだけど、なんだか億劫でめんどくさいこと。

・・・年齢的なものかも知れないが、そのほとんどがお互いの身体のことや病院の話(笑)



          ◆



桜は、7分咲きといった感じだった。



ウグイスが、鳴いている。

桜の蜜を啄む蜂の羽音も、聞こえる。

近くの小さな公園で、若いママさんと小さな子どもが遊んでいる。

春が訪れたことを、実感。



          ◆



今年の桜は、例年に比べて咲くのが遅かったようだ。

思い返せば、ワタシが学生だった頃は、入学式前後に咲き誇っていた記憶がある。

しかし最近では卒業式前後に咲くのが、もう普通の感覚になっていた気がする。

これは、どういうことなのか。

開花時期が元に戻りはじめたのか?
それとも、単に今年がイレギュラーなだけなのか・・・?

まぁ、どっちでもいい。

今年の桜も、綺麗だ。
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ダルマ、じゃないけれど。

2024-03-15 | 家族
最近、ウィスキーを呑んでいる。

・・・と言っても、寝る間際に水で薄ーーーく割ったのを一杯だけ。
とどのつまり、睡眠導入剤の代わりのようなもんだ。

元々アルコールはそれほど強くないし、上記したような目的のウィスキーだから、銘柄にも別に拘りはなく。
今、呑んでるのは写真の通り、トリスのミニボトルなのだけれど、これも妻が買い物の時に買ってきたもの。
妻もワタシがお酒に対して無頓着なことは、よーーーく知っている。
適当なお酒を与えておけば良いと思っている。
だからこれは、行きつけのスーパーで一番安いウィスキーだったのだろう(笑)


          ◆



ウィスキーを口にすると、なぜか遠い昔のことを思い出す。

実家の台所。
食器棚(母や一緒に暮らしていた祖母は“水屋”って呼んでいたな)・・・その棚の隅にひとつの瓶が置かれていた。
その丸いシルエットが、子どもだったワタシが見ても可愛らしく愛嬌を感じる瓶だった。

「これ、何?」

と言いながら小学校低学年だったワタシがその瓶に手を伸ばすと、

「それはお父さんのお酒だから、触ったらダメ」

と、炊事をしていた母がワタシにそう注意した。

見覚えのあるラベルが貼られていた。
テレビのコマーシャルで流れていたので知っていた。
おそらく、映画が好きだった父と一緒に見ていた「月曜ロードショー」とか「水曜ロードショー」とかで流れていたのだろう。
商品名までは分からなかったけれど、そのコマーシャルのおかげで、それが「サントリー」というメーカーだということだけは、当時7歳前後のワタシにも分かった。

だが、父がそのお酒を水屋から出して呑んでいる姿を、ワタシは一度も眼にしたことがなかった。

父の晩酌のお供は、もっぱらキリンのラガービールだったし、その上、父もワタシと同じDNAの人だったので、瓶ビール1本空けると、「あー、酔ってしもうた」と言うほど酒に弱い人だったから、テレビのコマーシャルの中の男の人のようにカッコよくウィスキーを呑んでいる姿を想像することができなかったのだ。

ホントはお酒じゃなくて、ジュースが入ってるんじゃないか?

ある日、誰も台所がいない時に、こっそりその丸い瓶を開けたことがあった。
開けて瓶に顔を近づけたら、今まで嗅いだことがない異様な匂いが鼻腔に入り込んできて、慌てて咄嗟にキャップを閉めた記憶がある。

今思えば、それは明らかにウィスキーの匂いだったのだけれど、当時のワタシには、その匂いがとても人間が口にする飲み物とは思えなかった。

そしてもうひとつ思い返せば、その時、瓶のキャップは子どものワタシでも簡単に開けられた。

つまり、その瓶はすでに開いていたのだ。

ということは、おそらく、あの瓶は本当に父のもので、そして本当に父はその中の飲み物を呑んでいたのだ。

異様な匂いが鼻の内側にこびり付いた幼いワタシは、瓶の中身がジュースでなかったことに大いに失望し、それと同時に、あんな酷い飲み物を呑んでいる父はどうかしているんじゃないか?と、ちょっと心配になったことを今でもよく憶えている。



          ◆



その異様な匂いの飲み物が、サントリー・オールドというウィスキーで、その丸い瓶の形から「ダルマ」という通称で呼ばれていることを知ったのは、それからずいぶん年月が過ぎて、大人に近づいてからだった。



          ◆



父とのことで、今でも後悔していることが、ひとつある。

それは、一度もサシ飲みをしなかったことだ。

家族一緒の食事ならば数えきれないほどしてきたけれど、父とのサシ飲みだけは、なぜか照れ臭くて、結局父が亡くなるまで一度も出来なかった。

仕事の話、家族の話、父の若い頃の話、母と出会った頃の話、ワタシと同い年の頃の話・・・酒を交えながら、そんな話を父の口から聞きたかった。

そんな思いが、歳を重ねるに連れて強くなってきている。
きっとこの思いは、ワタシがその生涯を終える時まで、ワタシの中に残り続けるのだろう。


          ◆


上述したとおり、ワタシは父がダルマを呑んでいる姿を眼にしたことがない。
でも、今ではその理由も自分なりに分かったような気がしている。

父は、たまに一人でダルマを呑んでいたのだろう。
家族が寝静まった夜とか、そんな時に。

その時、父がどんな表情で何を考えながらダルマを口にしていたのかは、もう知る由もない。
間違っても、コマーシャルの中の俳優のように絵になる佇まいではなかっただろう。
しかし、それでもおそらく父は、ワタシや母には見せたことがない表情で呑んでいたのではないか、と勝手に想像してしまう。

そして、その時のダルマの味が嬉しい味だったのか、それとも哀しい味だったのか・・・そういったことも、もう永遠に父から教えてもらうことはできない。


          ◆


テレビを眺めながらリビングで一人で呑んでいたが、おもむろにキッチンへ行き、グラスをもうひとつ持ってきた。
そして、ワタシのグラスと同じような薄い水割りを、もうひとつ作った。

父さん、水割り作ったよ。
ずいぶん遅くなったけど、ダルマでもないけれど、今からサシ飲みをしないか?



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上書きされてゆく。

2024-01-13 | 家族
1月も、はや中旬になりまして。

そろそろ2024年も、本格的に動き出した模様で。

それにしても。

皆さんもそうだろうが、今年の正月は全くと言っていいほど正月気分がなかった。

それはもちろん、能登半島の地震や羽田空港の航空機事故が起こったことも大きいのだけれど、それ以外にも個人的な出来事があって。



1月1日の早朝、叔父が亡くなった。



叔父は父の兄で、6年前に亡くなった父とは順番が逆になってしまったのだけれど、70代で亡くなった父とは違って80代後半まで生きれたのだから、大往生と言っても良いのではないだろうか。

雲間から初日の出が現れた頃に、叔父の息子(ワタシの従兄弟)から訃報の連絡をもらうや否や、母と一緒に病院へ急行した。

正月ではあるし、葬儀は身近な血筋だけの家族葬で行うことになったのだが、息子世代で動ける人間が限られていることもあって、病院で叔父に対面した1日から葬儀を行なった3日まで、ワタシも叔父の家族と一緒に動き回った。

その間、叔母が何度も「正月なのにごめんね」「ありがとうね」という言葉をワタシに向かって繰り返していたのだが、叔父には幼い頃から本当に可愛がってもらっていたので全く苦ではなかったし、むしろこれからは、1年で最もおめでたい時期を心静かに過ごさなければいけなくなるかもしれない叔父家族が、少し気の毒に思えていたのだ。

だからかどうかは分からないが、叔母がワタシに申し訳ない気持ちを口にする度に、ワタシは呪文のように

「まぁ、いつかは笑いながら話せる時が来るよ」

と、繰り返し返事をしていた。

今思い返せば、長いこと人生を共にした伴侶を亡くしたばかりの人にかける言葉としては、あまりにも能天気な言葉だったのかもしれない。

でも、それは先に父を亡くしたワタシがこの6年間で実感していた事であったし、先立った人に対して残された人間ができる、一番の供養なのではないかともワタシは思っていた。

大事だった人が先立っても、生きている限りどんなカタチであれ人生は続いてゆくわけだし、続いてゆく限り、自身や周囲で起こるさまざまな出来事によって人生は上書きされてゆく。

だからきっと「あの年の正月は大変だったなぁ」と笑いながら話せる時がいつか来ると思うし、そうなるように生きていかなければいけないと、あらためて思う。


          ◆


そして、今は本当に大変だけれど、能登半島の方々にも、いつか笑って話ができる時が訪れますように。


          ◆

ついでに。

松本人志もダウンタウンの2人も、もうテレビで見ることは、おそらく二度とないだろう。

数十年もの長い間、あの唯我独尊のような笑いに接して来た者としてはとても信じられないことだけれど。

それでもまた、新しい誰かが唯我独尊のような笑いを生んで、当たり前のように上書きされてゆくのだろうな。
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To be contnued・・・

2023-12-30 | 家族
2023年、最後の日記です。



          ◆



今年になって、長年やりたくても出来なかった〈あること〉に、ワタシは着手した。

それは父も作りたいと思っていたモノで、生前、本人からその思いを実際に聞いたことがあった。
しかし、当時のワタシはまだ30歳になるかならないかという頃で、結婚はしていたものの、まだまだ自分のことしか眼中になく、とてもそのために時間と労力を注ぐ気にはなれなかった。

それから20年以上の年月が過ぎ、父も5年前に亡くなり、ワタシも今年銀婚式を迎え、2人の子どもも成人し、少しずつではあるが、それぞれの道を歩きはじめた。

今なら、作れるかも知れない。
直感的にそう思い、重かった腰を上げた。



          ◆



別にそれは、わざわざ作らなくていいモノなのかも知れない。
実際、世の中の大半の人々は、おそらくそんなモノは意識をせずに毎日を生きている。

しかし、作ることができるのならば、それが完璧でなくても作っておいた方が良いのではないか、仮に今すぐに役に立たなくても、作れる人間が作っておけば、いつかそれが役に立つ時も訪れるのではないか・・・50代になり、父が亡くなったことで家系のトップランカーになった長男のワタシは、そう思ったのだ。

ワタシが作ろうと決めたモノ。






それは、家系図。






いったいどこまで遡れるのか、それ以前に、手がかりとなる情報や資料をどれだけ集められるのかも分からない。

しかし当たり前のことだが、指を咥えたままでは何も作ることは出来ないので、とりあえず何かしらの情報や資料を手に入れられそうな場所・・・役所、図書館、菩提寺、お墓、ルーツのある島やその島の寺社などへ出向いたり、また昔のことを覚えている親戚に連絡をしたり直接会ったりして、とにかく手がかりとなるモノを片っ端からかき集めた。

そして先週、どーにかこーにか、家系図としての体裁を整えることができた ↓





具体的な名前については、健在の方も多々いらっしゃるので(特に半分より下部分)、アミダくじのような枠と線だけでご了承ください🙇‍♂️

不確実な箇所やどうやっても確認できない箇所もあったのだが、それでも現時点で分かる事柄は全て網羅した。

確実に実在したご先祖様では、江戸時代の〈天保(1830年代)生まれ〉まで遡ることができた。

天保といえば、大塩平八郎の乱があった頃だ。
家系図を作ろうと決めた時、願わくば明治維新くらいまでに遡れたら・・・と思っていたのだが、まさか黒船来航以前の人物を家系図に記入できるとは想像すらしていなかった。

手がかりをまとめている過程で、興味深い事柄も多々見つかった。

役所で戸籍謄本を取れたのはワタシの曽祖父までだったのだが、曽祖父の戸籍に記されていた高祖父の没年月日からはじまる各世代の生年月日、結婚離婚の年月日、没年月日・・・そういった事柄を時系列で並べるだけでも、幕末から昭和初期にかけての怒涛のような時代を生き抜いた先祖の人生が否応にも浮かび上がってきた。

例えば、曽祖父は絵に描いたような破天荒な人物だったようで、きっと今のような時代ではまともに生きてはいけない人だったこととか、そんな曽祖父を父親に持った祖父も、若い頃は何とかひと旗あげようとして、軍港時代の呉や、満州時代の大連や、日本のマンチェスターと呼ばれていた頃の大阪といった、当時経済的に沸騰していた街を転々としていたことや、そしてワタシの父は、若い頃は自衛官になりたくてなりたくてなりたくて18歳で自衛隊の門を叩いたものの、規定の身長に届いておらず、泣く泣く自衛官の道を諦めたこと・・・そんなことがあらためて分かった。

そして最もよく分かったのは、そんな波瀾万丈の人生を生き切った先達の人々の先に、今のワタシが存在している、ということ。

そのことを、あらためて実感できた気がしている。



          ◆



今回作ったこの家系図の最下部・・・つまり、ワタシの子どもや甥や姪の世代の枠の中にだけは、今現在の彼らの年齢を記し、そしてその下に英語で、〈to be continued・・・〉と添えた。

家系図の大枠が出来上がった時に一度娘に見せてみた。
すると案の定、家系図の中で唯一の英語表記であるこの部分を指摘された。

たしかに違和感がないと言えば嘘になる。

しかしその一方で、この言葉がないのとあるのとでは、この家系図の質がずいぶん変わってくるような気もしている。

この言葉は、今回様々なルートを通じて資料をかき集め、それを家系図として形作ってゆく過程で、〈書き入れよう〉と自然に思うようになった言葉だった。

一度も会ったことがない曽祖父や高祖父といったご先祖がいったいどのような人物だったのかを、少しでも知りたい。

そんな理由と動機で作りはじめた家系図だったが、もしかしたらその家系図にワタシが最も記したかった事柄は、実はそんなご先祖の詳細な生き様ではなく、最下部に載せた、この祈りにも似た言葉だったのかも知れない。

家系図がほぼ出来上がった今では、そう思うようになった。



          ◆


〈余談〉
今回、家系図を作るにあたって、ワタシ以上に情報収集や資料集めに奔走してくれたのが、ワタシの妻だった。
歴史好きということを差し引いても、嫁ぎ先の家の歴史のためにここまでやってくれるのかと、本当に頭の下がる思い。
ありがとう。
感謝しています。



          ◆



今年もこのブログに訪問いただき、ありがとうございました。
皆様にとって、来年が素晴らしい年になりますように。
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お前は、まだ来るな。

2023-11-25 | 家族
2023年も、あと1ヶ月余り。

以前よりも更新頻度は落ちたけれど、それでもこのブログには自身とその周囲で起こった出来事を出来るだけ書き記してきた。

しかし、それでも書き記せなかった出来事も多々あるわけで。
理由は色々とあるけれど、そのひとつとして、自身の中で解決していないというか、解釈しきれなかった出来事というモノがあった。

これからここに書き記す出来事は、今年の2月頃の出来事なのだが、遭遇した当初はその意味が分からず、むしろ、あまり気にしないように努めていた。

それから半年以上が過ぎたが、未だに自身の中で完全に消化しきれてないのだけれど、今年も終わるという季節になってきたし、何だかんだ言っても、今年の出来事の中で、個人的にも印象深かった出来事だったので、やはり書き記しておこうか・・・と思った次第。

というわけで、以下、ここに書き記します。




          ◆




夢を、見た。

ワタシは、河原に立っていた。

それは大河というほどではないけれど、それなりの河のようで、中流域辺りなのか、丸い石がゴロゴロとしていて、川面は夕陽を浴びてキラキラと黄金色の硝子細工のように光っていた。

季節は、冬のようだ。

背後には、背丈ほどの高さの葦の草むらが一面に広がっている。




↑写真はイメージです。

すると突然、背後の葦の草むらから音が聞こえてきた。

振り返ると、遠くの葦が揺れている。
それは葦を踏み分け、誰かがこちらへ近づいて来る音だった。
ザワザワという音と揺れ動く葦が少しずつ近づいて来て、やがて眼の前の葦が揺れはじめると、その足音の主が、眼の前に姿を現した。



父だった。



葦の草むらから河原に出て来た父は苦渋の表情を浮かべていて、ワタシから指呼の距離まで近づくと、怒りと呆れが混じったような声で、ワタシに向かってこう言い放った。



「まだ来るなと言っただろうがっ!!」



ここで、夢から醒めた。




          ◆




その翌日。
また、夢を見た。

冬の夕暮れ、キラキラ光る川面、背後に葦の草むら。
どうやら昨日と同じ河原のようだった。

二日続けて同じ夢を見るなんて珍しいな。
夢の中のワタシは妙に冷静というか、自分でそれが夢と分かっているようだった。

しかし同じように思えたその夢は、昨日の夢とふたつだけ違っていた箇所があった。

ひとつは、昨日のワタシは河原に一人で突っ立っていたのだが、今回はしゃがんで川面を見ていたこと。

そしてもうひとつは、ワタシのすぐ右側にもう一人誰かがいて、ワタシと同じようにしゃがんで川面をみつめていたこと。

ワタシは右を向いて、その人物の顔に眼をやった。



父だった。



父は、河原に体操座りのような格好で腰を下ろして、あまり力の入っていない眼で光る川面をみつめていた。
すぐ横にいるワタシの存在など気づいていないような佇まいだ。

こんなに近くに息子がいるのに、しかもずいぶん長い間会っていなかったのに、なんでそんな無気力のような態度なのだろう。

そう思いながら、父の方へ向けていた顔を川面の方へ戻した瞬間、川面をみつめていた父が、まるで独り言のようにこう呟いた。





「お前は、まだ来るな」





またそこで、夢から醒めた。




          ◆



父が亡くなって5年。
頻繁にではないが、何度か父が夢に出てくることがあった。
しかしそれらの夢は、分かりやすいというか、荒唐無稽というか、言わば〈夢らしい夢〉だった。

だが、今年見た夢は、それまでの夢と比べても格段にリアリティがあって、おまけに何かしら暗示めいていたからか、目醒めた直後はなんとも表現できない感覚に襲われたことを今でもよく憶えている。


何だったのだろう?


当時、別に事故に遭って瀕死の大怪我をしていたわけでもなく、ましてや、悩み事を抱えて死にたいと思っていたわけでもない。
至って普通に暮らしていたのだけれど(笑)




          ◆



話は変わるが、今年の夏の終わり頃から、長年手を付けたくても付けられなかった、家に関する〈ある事〉に着手した。
この10数年、頭の片隅に常にあって気にはなっていたのだけれど、あまりにも時間と手間がかかりそうだったので重い腰を上げることに躊躇していたのだ。

しかし、いざ行動を起こしたら、意外と順調に進んで、年末か来年初頭には、なんとかゴールが見える所まで行けそうな感じがしている。

今、思い返したら、今年の初めに見た父の夢も、無意識のうちに、そのきっかけのひとつになったのかも知れない。
そう思えば、夢の中で父と再会したことも、なんらか意味を持つような気がする。


家に関する〈ある事〉とは?


それは、まだ秘密(笑)

いつか、この場で報告できる時が来れば良いなと、ワタシも思ってます。
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気持ちとお金と、ポイント。

2023-11-19 | 家族
ずいぶん昔から夜にウォーキングをしている。

その時のお供に、耳元から音楽を流している。
長年USBタイプのデジタルウォークマンを愛用していたのだが、さすがに寿命が来たらしく、遅ればせながら、今年に入ってサブスクに切り替えた。

イヤホンは、ウォークマン時代からの有線のモノを使っていたのだが、先日自宅のテーブルの上に、これが置いてあった。



ワイヤレスのイヤホン。

妻に尋ねたら、家電量販店に買い物に行った娘が、一緒に購入して来たそうだ。



サブスクをはじめた、ワタシのために。



社会人になって、1年と半年。

今までも食べ物とかなら何度か貰ったことがあった(と言っても、コンビニで買ったポテトチップスとかだが)。

しかし、こういった類いの・・・つまり、自分で働いて稼いだお金での、〈プレゼント〉という言葉が当てはまるようなモノを娘から貰うのは、もしかしたら初めてではないだろうか。


さすがに、ちょっと感慨深くて、嬉しくなった。


その後、娘が仕事から帰宅してきたので、イヤホンを手に礼を言った。すると・・・

「Bluetoothだし、そっちの方が使いやすいと思うよ」

たしかに。
有線だと、歩いてる時に邪魔になる時もあったからな。
それにしても、コレ、それなりの金額がしただろう?

「別にいいよ、もらったようなモノだから」

ん⁉︎
もらったようなもの?

「ポイントだから」

ポイント?

「そう、ポイントがかなり貯まってたから、店員さんが使った方がいいって」

そう言うと、娘はこう付け加えた。

「だからお金は使ってないよ、財布出してない」

あ、そう・・・。



まぁ、気持ちはお金に勝る・・・ということにしておこう。

いや、今回の場合は、気持ちはポイントに勝る、か🥴

大切に使わせてもらいます。
ありがとう。
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日御碕にて。

2023-09-19 | 家族
おかげさまで、今日、誕生日を迎えました。

ワタシが生まれた1969年に、テレビアニメ「サザエさん」がスタート。
そして今日、波平さんと同じ54歳になりました。



感慨深いです(笑)



まぁ、やっとこさ、外見が年齢に追いついたと解釈しようと思います(笑)




          ◆




先日の連休、妻と山陰へ行ってきた。
旅行というほど大袈裟なものではなく、あえて明確な目的地は決めずに、クルマで当てもなく・・・という感じの一泊二日のドライブ。
1日目は鳥取方面をグルグル周って、2日目は、出雲へ向かい、午前中、日御碕へ。

先ほど〈あえて明確な目的地は決めず〉と書いたが、今回、この日御碕だけは必ず行こうと決めていた。






この写真に写っているのは、ワタシと父。
4歳違いの弟は写っていないので、おそらくワタシが2歳か3歳の頃だと思われる。
だからこの写真は、今から50年以上前に撮影された写真ということになる。
父に抱かれ、カメラに向かって指差しているワタシの表情から察して、ワタシと父にカメラを向けているのは、おそらく母だったのだろう。

場所は、島根県・日御碕。

もちろん、ワタシの記憶には残っていない。
しかし、この写真はワタシにとって、とても珍しい、貴重な写真なのだ。

なぜなら、母と一緒に撮った写真は数え切れないほどあるのに、父と二人で写っている写真は、どんなに探しても、この写真以外に見当たらないのである。

おそらくそれは、父がもっぱらカメラマンに徹していたからなのだと思う。
思い返せば、ワタシも子供が産まれて以来、数え切れないほど写真は撮ってきたけれど、被写体としてはほとんど写っていない。
昔のカメラは高価で機能も複雑で、機械音痴の母が使うのを怖がったことも理由かもしれない。
しかしそんなことよりも、たぶん父は、まだ生まれて間もない、自分がこしらえた家族の記録を残すことに専心していたのではないだろうか。

まぁ、とにもかくにも、自分の誕生日も近いことだし、今回山陰に行くにあたって、父と唯一、一緒に写真に写った日御碕のこの場所へ、半世紀ぶりに行ってみようと思った。





案外、すぐに辿り着いた(笑)
日御碕の沖に浮かぶ経島を望む展望台が、その場所だった。

できるだけ同じアングルで撮ってみたのだけど、どうだろうか。
50年前の写真の方が、やや俯瞰気味に撮られている気がするが、それでもほぼ同じアングルで撮れたのでは?と自画自賛。

ちなみに、今回撮った写真に写っている人物は、ワタシの妻。
父と一緒に写った写真から50数年を経て、同じ場所に今度は自分がこしらえた家族と再び訪れることが出来たことは、ちょっと感慨深かった。(こじ付けがましいかな?)

そんな妻とワタシも、明日は25回目の結婚記念日。
結婚した当時は、銀婚式なんて全く現実味がない、遥か遠くにある記念日だった。
しかし、振り返ればあっという間。
気持ちがよいほど、瞬く間の四半世紀(笑)

まぁ、それでも、良いことも悪いことも、色々あったような気がする。

自分がこしらえた家族も、それなりの年月を歩んできたということか。



         ◆



今日は、たくさんのお祝いのメッセージをいただき、本当にありがとうございました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。

最後に、両親へ。
今年も無事、誕生日を迎えることができました。
ワタシを産んでくれて、本当にありがとう。
コメント (4)
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