りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

2018-11-28 | 短編小説


(2003年作・第35回中国短編文学賞 最終候補作)


【親父の死】

 厄介な電話というものは、受話器を取る前から大体分かるものだ。
「先輩と同じ名字の人からなんスけど」
 と出社早々、入社一年目の後輩が取次いだその電話もその類いの電話だった。不審な表情を浮かべて俺が出ると、
「朝からすまんな」
 と籠った男の声が受話器から聞こえてきた。それが兄貴だとは、すぐには気づかなかった。
「珍しいな、何かあったのか?」
 肉親からの突然の電話に、俺は奇妙な違和感を感じていた。
「親父が、死んだ」
 兄貴の口から出たその言葉を耳にした後も、俺の中の奇妙な違和感は消えなかった。

「先輩の親父さんって、いくつだったんスか?」
 と後輩は片手でハンドルを廻しながらそう言った。
 朝が始まってまだ間もないというのに、駅へと続く幹線道路はすでに渋滞がはじまっていた。四方をバスやトラックにガッチリ囲まれた会社のポンコツ営業車は減速する度に、プスンプスン、と頼りない排気音を響かせて車体を細かく震わせた。
「たしか、七十四・・・いや、五かな」
 と後輩の問いに俺が答えると、後輩は、エエッッ!!!と、ポンコツの屋根が吹き飛ぶかと思うほどの大声を上げた。
「・・・っるせぇなぁ、何だよ?」
 俺は大袈裟に右耳に人指し指を突っ込んで後輩を睨んだ。
「だって、先輩って、まだ三十前でしょ?」
「ああ、晩婚だったからな、たしか、結婚した時は四十を過ぎてたはずだよ、俺は、親父が四十九の時の子だから」
「へぇ・・・あ、だったら、親父さん、七十七歳じゃないっスか、先輩、今、二十八でしょ?」
 と、紛いなりにも四流ながら理系大学卒の後輩は、即座に親父の年齢の算出した。
「あ、そうか・・・」
「しかし親父さん、どうしてその年まで結婚しなかったんスか?仕事一筋っスか?」
「さあな、あんまり昔のことは話さなかったからな・・・大人しいし、病弱だったから」
「病気だったんスか?」
「ああ、原爆に遭ってるからな」
「へぇ、そうなんスかぁ」
 原爆という言葉を口にしたのに、後輩は普通の合の手を入れるだけだった。後輩を一瞥した後、俺は渋滞の列に視線を移した。
「だから身体が弱くてな、死因は聞いてないけど、たぶんそれだろう」
 親父が死んだことに対して、俺は自分でも驚くほど動揺はしていなかった。
 理由は、解っていた。
 それは今の俺が、家族というモノから遠く離れて生きているからだ。フロントガラス越しの風景を眺めながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。
 十八歳で家を出た俺は、生まれた場所から遠く離れ、十年もの間、このいつまでたっても実体が掴めない、途方もなく巨大な街で生きてきた。しかし振り返ると、その年月はまるでこの街と呼応しているかのように実体を伴わない、単に一年という時間を十回繰り返しただけの、怠惰な時間の滞積に過ぎなかった。
 仕事も、変わった。
 最初に就いた仕事は、中堅の水道工事会社だった。
 作業服を着て、毎日毎日あらゆる形のバルブを締めたり緩めたりし続けた。そして気がつくと、まるで風に漂う鳥の羽のように俺は転職を繰り返し、十年が過ぎた今では、社員が十人にも満たない小さな印刷会社の営業社員に収まり、毎日毎日安物のネクタイで頸を締め、今にも潰れそうな小さなスーパーや個人商店のチラシの印刷受注に奔走していた。
 ポリシーもプライドも、ない。
 ふと自分の経歴を振り返る時、そのあまりの一貫性の無さに、俺は自身を嘲笑してしまう。そして、そんな毎日をこの街で過ごしていれば、誰だって、故郷とか家族といった存在は、おのずと稀薄になってゆく。
 だから、いつもの日常の中で突然、父親の死を告げられても、俺の中に胸が潰れるような悲痛な切迫感はカケラさえも生まれるわけがなく、ただただ奇妙な違和感だけが靄のように身体の周りを纏わり漂うだけだった。そしてそれは、この巨大すぎる街の中で、突然〈原爆〉という言葉を耳にしても、何も現実感を掴めない後輩と、きっと同じようなものなのだろう。だから正直に今の本心を吐露すれば、仕事を放り投げてまで帰りたいとは思っていなかった。
「彼女は、連れて帰らないんスか?」
 前方をみつめたまま、後輩がそう尋ねた。連れて帰らない、と俺は答えた。
「いいんスか?お腹に子どもがいるのに」
「お前、何で知ってるんだ?」
「何、言ってるんスか、この前飲みに行った時、そう言ってたじゃないっスか、いやだなぁ、憶えてないんスか?」
 まったく、憶えてなかった。
 しかし後輩の言っていることは事実だった。俺は呆然と後輩の顔を眺めるしかなかった。
「まあ、先輩もかなり酔っぱらってたしなぁ、親になる自信がないとか、まだ自由でいたいんだとか、こんなご時世にどうやって養うんだとか・・・半分泣いてましたよ、先輩」
 数日前の出来事だった。
 部屋にやって来た彼女は、俺に妊娠を告げた。それはまるで予定されていた出来事を報告するかのような、奇妙な冷静さに包まれた口調だった。
 しかし、俺は違った。突然つきつけられたその事実に狼狽し、気がつくと俺は《中絶》という言葉を口にしていた。その言葉を耳にした彼女は、まるで汚物でも見るような侮蔑の視線を俺に向けた。それ以降、空虚な空気が俺と彼女の間を流れはじめていた。
 離別。頭の中にその二文字が浮かんでは消えていた。
「誰にも言うなよ」
「言いませんよ、こんなカッコ悪いこと、三十前の男が泣いただなんて」
「バカ、そっちのことじゃない!」
 駅前で車を降りると後輩は「土産はもみじ饅頭でいいっスからぁ〜」と脳天気な台詞を残して会社へ戻って行った。
 ホームへ上がると、携帯電話を取り出した。メール機能に切り替え、父の死と、それに伴って数日間帰郷する旨を、無表情な文章で入力し、そしてしばらくその画面をみつめた後、俺は、送信ボタンを彼女に向けて、押した。



【帰郷】

 黄金山に屹立するテレビ塔が視界に入ると、それを合図にタクシーは静かに停車した。
 久しぶりに眼にした広島は、やけに田舎臭く感じた。タクシーの車窓を流れる街並みを眺めながら、いったいこれが何年ぶりの帰郷になるのかを思い出そうとしたが、六年前の記憶まで遡ったところで面倒になってやめた。
 実家は、吹き出してしまうほど何ら変わっていない風景の中に佇んでいた。そこには、おそらく日常とまったく同じと思われる、生温い空気が漂っていた。
 静かだ。
 市街地からさほど離れているわけではないのに、穏やかな初夏の陽射しの中、聞こえてくるのは、名も知らぬ小鳥たちの柔らかい鳴き声ぐらいだ。深呼吸をすると、微かに新緑の噎せる匂いを含んだ空気が、両の肺に満ちていった。
〈騙されてんじゃないだろうな?〉
 一瞬、そんな疑念が身体の中を流れた。
 俺は眼の前の古びた家屋を怪訝そうに見回すと、何かに導かれるように静かに玄関へ向った。
「おじゃまします」
 玄関で靴を脱ぐ時、そう口にしていた。自分の口から出たその言葉に、俺は思わず苦笑した。
 懐かしさなんて、なかった。
 故郷に対するそんな感情は、パソコンのデスクトップのゴミ箱に投棄してしまったかのように、俺の中から完全に削除されていた。
 玄関から続く廊下を進み、客間に入ると、兄貴とお袋と見知らぬ初老の男が輪になって座っていて、その横に白い布で顔を覆った人物が横たわっていた。
「おう」
 俺に気づいた兄貴はたった一言そう言った。まるで昨日も会ったかのような口調だった。
 初老の男と話し込んでいたお袋も、兄貴の声で俺の存在に気づいた。お袋は例えようのない表情で俺を見上げた。
「いつだ?」
「今朝早くだ、突然だった」
 まあ座れ、と言う兄貴に促されて、俺は眼前に横たわる人物の前に座った。
 しばらく見ない間に、兄貴は老け込んでいた。
 公務員という職業はそれほどまでに激務なのだろうか。兄貴は三十を越えてまだ間もないはずだ。しかし今眼の前にいる兄貴は不惑の年を越えたような風貌だった。白髪が増え、眼尻はどす黒く変色し、安物の白いワイシャツが、中年太りがはじまったようなその体躯に哀しいほど似合っていた。
 兄貴は俺の横に座り、横たわる人物の顔を覆っていた白い布を静かに捲った。すると、そこに一人の老人の死顔が現れた。
 親父には見えなかった。
 眼窩は深く落ち込み、頬はこけ、固く閉じられた口は、まるで彫刻刀で彫った浅い溝のように俺の眼には映った。血色の失せた肌は、死人のそれ特有の黄ばんだ鑞のようだ。
 今朝の・・・と背後でお袋が語りはじめた。
「今朝の六時ぐらいじゃったかねぇ、手洗いの方から、ガタン、っていう音がしたけぇ、行ってみたら、お父ちゃんが倒れてたんよ」
 その後を兄貴が続けた。
「すぐに救急車を呼んだが、遅かった、臨終は、午前七時十二分だ」
「死因は?」
 親父の顔をみつめたまま、俺は尋ねた。
「分からん」
「分からん?」
 ぶっきらぼうな兄貴の返答に、俺は思わず兄貴の方へ顔を向けた。鸚鵡返しだったが、久しぶりに広島弁を口にしていた。
「一応、心不全ということになっとるが、実のところは先生にも分からんそうだ、解剖すれば分かるかも知れん、と言われたが……」
 その後を、今度はお袋が続けた。
「断ったんよ、お父ちゃんは身体のことでは苦労したけぇね……死んでからも痛い思いはさせとうなかったけぇ……」
 俺は合掌し、そして自らの手で、白い布を親父の顔の上へ戻した。
 弟です、と兄貴が男に俺を紹介した。初老の男は葬儀屋だった。
 葬儀屋は、俺が現れる前に三人で打ち合わせた内容を俺に説明した。事務的なロボットのような喋り方だった。その口調に、俺は少し苛立った。
「うちは親戚も少ないけぇ、通夜はやらんことにした、親父は大人しい人じゃったけぇ、静かに送ってやろうや」
 事務的な葬儀屋の説明に、兄貴はそう言って遺族の心情を補足した。
 その後、俺たちは葬儀の準備に取りかかった。時間が経つに連れて、数少ない親戚たちも駆けつけはじめ、家はにわかに騒がしくなっていった。
 客間のテーブルを裏の物置きに運び終えた時、お袋が俺を呼び止めた。少し背が丸くなったお袋は、「元気じゃったんじゃね」と眼を細めてそう言った。



【紫煙の向こう】

 事務的な葬儀屋のおかげで、翌日の葬儀は滞りなく終わった。
 夕刻、小さな箱になった親父とともに、俺たちは帰宅した。客間に入ると祭壇が設けられていて、俺はその上に親父の骨壷を静かに置いた。
 お世話になったけぇ、と兄貴は町内会長の家へ出かけて行った。俺が一緒に行こうとすると、「これから家に来る人がおるかも知れん」と兄貴は言い、家に居るよう俺に命じた。
 しかし来客はなかった。家の外はすでに夕暮れの薄紫に支配されはじめていた。黄金山に聳えるテレビ塔の赤いランプが、この街の人々に夜の訪れを告げている。
「疲れたじゃろう」
 そう言って、お袋が湯呑みに緑茶を注いで俺に差し出した。眼尻に無数の細かい皺が刻まれたお袋の両眼は、力なく瞬きを繰り返していた。
 お袋と二人きりになったのは、何年ぶりだろうか。ぎこちない空気が二人を包み、それが煩わしかった。しかし、それはお袋も同じだったようだ。お袋は向こうでの食事や仕事の事を俺に尋ね、俺はその都度、適当な返事を繰り返した。煩わしさが増す気がした俺は、話題をすり替えた。
「兄貴の仕事は忙しいの?相当疲れてるみたいだけど」
「どうなんじゃろうねぇ、家では、ほとんど仕事の話はせんけぇね」
 この二日間、俺は兄貴の傍にいて、奇妙な違和感を兄貴に感じていた。
 そこには、かつて俺が慕っていた快活で優しい「お兄ちゃん」はいなかった。そこにいるのは、すべてのモノを醒めた眼で見ているような男だった。燃料計の針がエンプティを指しているかのように、人間のエネルギーというものが、兄貴からはまったく感じられなかった。エネルギーがなければ、老け込むのは当然だ。リタイア寸前のような兄貴を眼にした俺の中の違和感は、気づかぬうちに嫌悪感へと変わりはじめていた。
「あんた…お兄ちゃんのこと、嫌い?」
 突然、お袋がそう尋ねた。とっさに俺は嘘をついた。すると、
「嘘は言いんさんな、顔を見れば分かるよ」
 と言葉とは裏腹に、お袋はそう言って笑った。それは、帰郷して初めて眼にしたお袋の笑顔だった。
「誰だろうと、疲れた人間を見るのは、嫌だ」
 俺は俯いてそう答え、湯呑みを口にした。口の中に緑茶の味が広がった。それは昔のままの暖かく柔らかい味だった。でもね、とお袋は言葉を続けた。
「お兄ちゃんも、あんたも、一緒よ」
「一緒?」
 お袋は頷いた。
「昨日からお兄ちゃんとあんたを見ようて思うたんよ、ああ、やっぱり兄弟じゃなって・・・あんたはどう思うとるか知らんが、お兄ちゃんとあんたはよう似とる、性格も仕草も笑い顔も、それに、疲れた顔も」
「何を言ようるんよ・・・」
 俺は返答に困ってそう言った。それは帰郷後、はじめて能動的に発した故郷の言葉だった。俺はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「あんたも、向こうで色々あったんね?」
 お袋のその問いに、俺は答えなかった。
 紫煙とともに奇妙な沈黙が漂いはじめた事を察した俺は、その狭間を埋めるように、頭の中で引っ掛かっていたことをお袋に尋ねたた。
「親父の死因、元を質せば、やっぱり原爆なのかな?」
「さあ・・・どうかねぇ、お父ちゃんは身体がボロボロじゃたけぇ・・・もうどれが原爆で、どれがそうじゃないんか、自分でも分からんかったみたいじゃったけぇね」
「親父が原爆に遭ったことは知ってるけど、俺、詳しい話は聞いた事ないんだよ」
 そう言うと、途端にお袋の顔が曇った。
「やっぱり、他の被爆者と一緒で、話したくなかったのかな?」
 お袋は俺の問いには答えなかった。ただ、皺の増えた両の掌で手元の湯のみを包み込むようにしたまま、じっと視線を落としているだけだった。そして、そのまま俺もその後の言葉を紡がなかったために、瞬く間に俺とお袋の間の空気は黙り込み、その間を俺の吐き出す煙草の煙だけがゆらゆらと彷徨った。
「・・・そうじゃないんよ・・・」
 しばらく続いたその沈黙を破るようにお袋はそう呟いた。紫煙の向こうに見えるその顔には、明らかに何かしらの意志が感じられた。
「話したくなかったんじゃのうて、話さない、って決めたんよ」
「話さない?」
 お袋は静かに頷いた。そしてしばらく思案の表情を浮かべた後、ゆっくり視線を移して、
「少しだけ、この子に話してもええかね?」
 と俺の背後の遺影に問いかけると、一息置いて、静かに話しはじめた。



【お前はワシの子】

「あの日、たしかにお父ちゃんは原爆に遭うた・・・そりゃあ惨い、この世とは思えん地獄を見たそうじゃ・・・でも、その事は・・・原爆の事は、もう話さんって、お父ちゃんは決めたんよ」
「じゃけぇ、何で?」
 自然に広島弁を口にしていた。
「それは、お兄ちゃんとあんたが、生まれたけぇよ」
 俺を真直ぐにみつめて、お袋はそう言った。
「俺らが?・・・俺らがどういう関係があるん?」
 湯呑みに一度口をつけ、お袋は続けた。
「原爆に遭うてから、お父ちゃんは本当に苦労した・・・家族も親類もみんな死んで、助かったいうても、お父ちゃんも身体がおかしゅうなって・・・すぐだるうなったり、あちこちが痛んだり・・・ずっとそんな調子じゃけぇ、心もおかしくなって・・・何にもやる気が起きんなって・・・何とか学校を出たけど、若いのに働きもせんと、ゴロゴロゴロゴロしとったそうじゃ・・・」
 社会見学ではじめて原爆資料館へ行った日、小学生だった俺は、その事を無邪気に食卓で話題にした。親父はしばらくして箸を置き、
「お父ちゃんも、原爆に遭うたんど」
 と告白した。笑顔だったが、その眼は笑っていなかった。自分の父親が被爆者だと知ったのは、この時だった。
「肉親が死んで、身体を壊されて、お金ものうて・・・苦しみながら、悩みながら、お父ちゃんは生きとったんよ・・・《自分には生きる資格はない》・・・お父ちゃんはずっとそう思いながら、生きとったそうじゃ・・・じゃけえ、ずっと結婚もせんかったんよ」
 物心がつきはじめた頃、親父はすでに初老だった。どうして、お父ちゃんは“おじいさん”なんだろう・・・そんな素朴な疑問が俺の中には常に存在していた。しかしその疑問を親父にぶつけることはなかった。
 《言ってはいけない》
 幼い俺は、なぜかそう直感していたのだ。
「縁があったんかねぇ・・・お父ちゃんが四十四歳の時、お母ちゃんは、お父ちゃんと一緒になった・・・そして一年後に、お兄ちゃんが生まれ・・・四年後に、あんたが生まれた」
 十代になると、親父は俺の中で劣等感へと変質した。高齢で、身体が弱く、物静かな親父は、俺にとっては侮蔑の対象以外の何ものでもなかった。
 《こんな男には、絶対になりたくない》
 心の中でそう呟き続け、高校を卒業すると同時に、俺は躊躇する事なく、家を捨てた。
「お兄ちゃんが生まれた時に、お父ちゃん、“こんなワシにも、生きる資格があるんじゃのう”って言うて、涙をこぼしてね・・・」
 お袋は涙声になった。
「そして、あんたが生まれた時、お父ちゃんこう言うたんよ、“ワシは原爆に遭うた・・・それは事実じゃ、忘れる事はできん、忘れられるわけがない・・・じゃけど、もうワシは誰にも話さん、誰に何を聞かれても、ワシの口から話すことはせん・・・ワシは・・・ワシは、二人も子どもを授かった・・・これは神さんが、《生きろ》と、ワシに言うとるような気がするんじゃ・・・原爆に遭うて、ワシの人生はワヤになった、普通に生きる資格なんかないと思うとった・・・じゃが、《女房や子ども達と、もう一度人生をやり直せ》と・・・神さんがのう、ワシにそう言うとるような気がするんじゃ・・・こんなワシでも、もういっぺん・・・じゃけえ、ワシはもう、原爆の事は誰にも、誰にも話さん”って・・・」
 話し終えると、お袋は涙を拭い、腰を上げた。そして、奥の居間から小さな箱を手にして戻ってきた。
「落ちついたら、渡そうと思っとったんじゃけど」
 と言うと、掌に乗るほどのその箱を俺に手渡した。蓋を開けると、中には黒く歪な数個の物体が転がっていた。見憶えはあったが、頭の中で上手く像を結べなかった。
「何か、分かる?」
 俺は首を傾げた。
「お父ちゃんの…」
 お袋のその言葉が、瞬時に像を結んだ。
 それは、親父の爪だった。
 親父の右手の、薬指の爪だ。褐色で、異常にぶ厚く、緩やかに彎曲しているその爪は、いわゆる一般的な人間の爪とはあまりにも程遠い姿をしていた。
 肉体から離れ、小さな箱の中に転がるその物体を瞬時に爪と認識するのは難しい。腐った竹細工のようにも見えるし、古生物の化石のようにも見える。
 親父の薬指から生え続けたその爪は、ぶ厚く硬質な為に爪切りを受け付けなかった。その為、数年の間伸びるままに放っておくと、やがて根元に亀裂が入り、ポロッと自然に指先から落ちた。しかし、爪が取れた指先からは、まるで当たり前のように、クローンのような異形の爪が、再び生えてきたのだった。
 幼い頃、親父にその爪の理由を尋ねた事があった。穏やかな昼下がりの縁側で、親父は新聞を読んでいた。「これはのう、昔、仕事で怪我をしてからこうなったんよ」と親父はその指先を摩りながら優しくそう答えた。
「これが・・・親父の・・・この爪が・・・?」
 お袋の意図が分からなかった。
 俺は眉間に皺をよせ、爪とお袋の顔を交互に眺めるしかなかった。そしてお袋は、そんな俺を憐れむような表情でみつめながら、ゆっくりとその口を開いた。
「“ワシが死んだら、原爆の話の代わりに、この爪を子どもらにやってくれ”って…」
 お袋のその言葉が、頭の片隅に微かに残存していたある記憶を、突然蘇らせた。
 それは、原爆資料館を訪れた小学生の時の記憶だった。俺は、とある展示物の前でその足を止めた。それを眼にした小学生の俺は、そのあまりの醜さに思わず息を飲み、その異形の展示物を網膜に焼き付けた。
 その展示物。
 それは、指先に突き刺さったガラス片によって爪の細胞組織が破壊されたという、被爆者の爪だった。
 その爪は異常に彎曲し、黒と灰色が混濁していて、とても人間の身体の一部には見えず、まるで鷲の嘴のように俺の眼には映った。そこには、当たり前のモノが、ある日突然、当たり前ではなくなるという、剥き出しの恐怖が存在していた。

 嘘、だった。

 仕事の怪我の痕なんかではなかったのだ。あの、親父の薬指から生え続け、そして今は小さな箱の中に転がる、この異形の爪は、親父が八月六日に体験した、剥き出しの恐怖の痕だったのだ。
 親父はその一切を隠し、ひたすら子供たちの前では親父なりに普通の父親であろうとした。それは年老いた彼にとって、再び自分の手元に人生を取り戻すための、たったひとつだけ残された最後の手段だったのだろう。

 知らなかった。

 親父の爪をみつめながら俺はそう痛感した。
 後輩は俺の親父の過去に興味を示さなかった。しかしそんな後輩を侮蔑する資格など、俺自身もどこにも有していなかったのだ。
 箱の中からひとつ、爪を手に取ると、俺は掌の中で何度か軽く転がしてみた。歪な爪は、幼児が覚えたての“でんぐりがえし”をするように、俺の掌の中で不器用に横転した。
 何度か転がすと、俺は爪を軽く握り、そして無意識にズボンのポケットに仕舞い込んだ。
 すると、ふいにあの日の縁側の光景が蘇ってきた。朧げな記憶の中の親父は、幼い俺を膝に乗せて、こう言っていた。

 ・・・この爪は変じゃけど、他の爪は綺麗じゃろうが?・・・見てみいや、お前の爪と形がそっくりじゃ・・・お前は、ワシの子じゃけぇのう・・・。

 日付けが変わる頃、昔の自分の部屋に布団を敷き、窓の外の夜景を眺めていると、「煙草あるか?」と、突然、兄貴が襖を開けて入ってきた。
 煙草を差し出すと、兄貴は持っていたライターで火を点け、そして俺と同じように窓の外の夜景に眼を向けた。
「こんなに明るかったかな?俺たちがガキの頃は、もっと暗かったような気がするけど」
 夜景を眺めながら独り言のように俺はそう言った。しかし、本当に独り言だと思ったのか、兄貴はそれには答えなかった。
 横目で兄貴を一瞥して、俺も煙草を取り出し口にくわえた。すると兄貴が持っていたライターで、煙草の先端に火を灯してくれた。俺は手を上げて兄貴に応えた。
「一度、お袋と遊びに来いよ、はとバスツアーも捨てたもんじゃない」
 最初の煙を吐き出すのとほぼ同時に、俺は兄貴にそう言った。すると、兄貴は口許を微かに緩めた。それに、と俺は続けた。
「ええ女が、ぎょうさんおるで」
 そう言うと、兄貴は声を出して笑った。その笑顔は、かつて俺が大好きだった「お兄ちゃん」の顔だった。気がつくと、俺も連られて笑っていた。
「明日も頼む」という言葉を残して兄貴が部屋を出ていった後、俺は携帯電話を取り出し、電話をかけた。
 彼女は、家にいた。
 明日いっぱい葬儀の後片付けをし、明後日には帰る旨を、ぎこちない彼女に向って告げ、そして深呼吸一回分の間を置いて、再び受話器に向かって話しはじめた。
「明日、朝一番の新幹線でこっちへ来ないか?」
 返事はなかった。
「お袋と兄貴、それに死んじまったけど、親父にも会ってくれないか?」
 彼女は答えない。気にしないふりをして、俺は続けた。
「お袋にとっては初孫だ、孫を抱かせる前に姑と顔を合わせておくのが、筋だろ?」
 そう言い終えると俺は返事を待った。しかし返事は一向に耳元に届かず、その代わりに、消え入るような小さな嗚咽が、受話器から漏れてきた。
 受話器から漏れるその声に少し困惑した俺は、手持ち無沙汰から無意識に片手をズボンのポケットに突っ込んだ。すると、チクッと小さな痛みが指先に走った。それは親父の爪だった。その痛みが、まるで親父からの祝福のように俺は感じた。
(終)
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バスルームから愛をこめて〈3〉 〜佐々木ヨシエさん〜

2018-11-24 | 短編小説


最近。
 娘と一緒に風呂に入る事は、皆無になった。だから、風呂は息子と二人きりで一緒に入っている。 

 ある日。 
息 子「どうして、お姉ちゃん、一緒に入らないの?」 
ワタシ「さぁ・・・恥ずかしいんだろうな」 
息 子「何が?」 
ワタシ「何がって・・・一緒に入るのがだよ」 
息 子「何で一緒に入るのが恥ずかしいの?」 
ワタシ「う〜ん・・・裸になるのが恥ずかしいのかもしれないな」 
息 子「何で?だって、お姉ちゃん、おチンチンないじゃん」 
ワタシ「いや・・・おチンチンがあるとかないとかじゃないんだよ」 
息 子「おチンチンがないのに、何で恥ずかしいのかな」

 子どもっていう生き物はどうして・・・・。
 しかし、ここで調子にのってコイツの言動にノッてはいけない。 例えば、ここでバカ正直にワタシが・・・ 
「それはな、女の子はおチンチンの代わりに・・・」 
・・・なんて答えようものなら、先に上がった息子が妻に風呂での話を事細かく喋ってしまい、何も知らずに風呂から上がったワタシには、脱衣場で地獄が待っている。 
「とにかく、お姉ちゃんは一人で入るからいいんだよ!」 
 ワタシは強引にこの話を、止めた。その後、しばらくの間、バスタブに無言の空気が流れる。しかし、その空気を破ったのも、息子だった。 

息 子「ねぇ、お父さん」 
ワタシ「あ?」 
息 子「前から気になってたんだけど、アレ、何?」 
 息子はそう言って、バスタブの前方を指さした。息子の指の先には、壁に付けられた給湯器のリモコンがあった。 
ワタシ「何って、お前、あれでお湯を沸かしてるんだよ。最初から付いてただろ」 
息 子「いや、そうじゃなくて・・・あの機械、喋るでしょう?アレ、誰?」 
 何度も書くが、まったく、子どもって・・・。どうして、こうもニッチェ的な疑問を真正面からストレートに大人にぶつけてくるのだろう?しかも、仕事や色んなことで疲れている時に限って・・・。 
ワタシ「それはな、あれはコンピュータで作られていて、ボタンを押したらその声が出るようにインプットされていて・・・」 
 ・・・という感じで、子どもにも分かるように説明する気力は、もう僕の中にはほとんどなかった。 
ワタシ「お前の通ってる幼稚園のすぐ近くに散髪屋があるだろ?」 
息 子「うん」 
ワタシ「あの散髪屋の裏に佐々木さんていう家があってな。そこのオバさんが喋ってくれてるんだよ」 
息 子「え〜〜?ウソだぁ〜!?」 
ワタシ「ホントだって。佐々木ヨシエさんっていうオバさん」 
息 子「ホントにぃ〜?」 
ワタシ「ああ。今年五十三歳。去年までヤクルトも配ってた」
息 子「へぇ〜〜」 

 信じはじめやがった。 
 そうなると、逆にヤバい。本来、妄想大好きなのワタシの勝手気ままなストーリーは止まらなくなる。 

息 子「でも、どうやって佐々木さんが喋ってくれるの?」 
ワタシ「ここ(リモコン)から線が出てて、佐々木さんの家までつながってるんだよ。で、リモコンのボタンを押したら、佐々木さんの家に付けた鈴がなるようになってるんだよ。チリンチリンって。そしたら、佐々木さんがマイクの前で喋るようになってる。“オ風呂ガ、沸キマシタ”、とかな」 
 ダメだ・・・自分で喋りながらも笑いを抑えるのに必死なるワタシ。 
息 子「じゃあ、佐々木さんは毎日喋ってくれてるの?」
ワタシ「そうだよ。ちゃんとお金を払ってるもん。一日20円」 
息 子「ふ〜〜ん・・・佐々木さん、すごいねぇ」 
ワタシ「ああ、毎日毎日な・・・そうだ、お前、佐々木さんに“ありがとう”って言っておけ」 
息 子「どうやって?」 
ワタシ「リモコンに向かって。たぶん、佐々木さんに聞こえるから」 
 半信半疑の表情でゆっくりと給湯器リモコンに近づく息子。バスタブの中を給湯器の前まで移動すると、ワタシと給湯器を交互に見ながら、口を近づけ、そして意を決したように給湯器に向かってこう言った。
息 子「佐々木さん、ありがとう〜〜〜!!」 
 し、し、死にそう・・・笑い死にそうだ。もう、ダメ。限界。 
ワタシ「なぁ・・・もういいから、お前、あがれ」 
息 子「うん」 
 息子が上がったあと、ワタシは声を殺して笑った。息子に悪いことしたなぁ。 
 でももっと悪いことをしたのは、幼稚園の裏で暮らす架空の人物・佐々木ヨシエさんだ。 
 しばらくして、ワタシも風呂から上がった。 
 脱衣場から出てリビングに行くと、妻が呆れたような顔でワタシを見てこう言った。 
「もう・・・なにバカなことを教えてるのよ!!」 

 ・・・結局、どうやっても、風呂上がりに怒られるんじゃねぇか。

(終)〈2007年作〉
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バスルームから愛をこめて〈2〉 〜ナイチンゲール〜

2018-11-24 | 短編小説


先日。 
息 子「ねぇ、お父さん」 
ワタシ「ん?何だ?」 
息 子「何でボクにはおチンチンがあって、お姉ちゃんにはおチンチンがないの?」 
 まただよ・・・またはじまった。
 ここで良いパパぶって「それはな、子どもを産むためなんだよ」とかなんとか言って、直球勝負の答えを返してはいけない。ゼッタイに。
そんなことをした日には、息子の好奇心に思いっきり火を点けてしまい、かつての“注射器事件”の二の舞になってしまう。
 そこでワタシの口から出た答え。 
「だからぁ〜、それはお前が男で、お姉ちゃんは女だからだよ」 
 ・・・我ながら情けないほど、見事に何の答えにもなっていない。
 今、最も好奇心旺盛な時期を迎えている四歳の息子が、こんな低能な答えで納得するわけがないじゃないか。 
息 子「ふ〜〜ん。そうか」 
 納得しやがった。 
 しかし、これはまだプロローグに過ぎなかった。この直後・・・ 
息 子「ねぇ、ねぇ、お父さん」 
ワタシ「あん?(もういい加減にしてくれよ)」 
ワタシは少し面倒くさそうに答えた。すると息子は、間髪入れずに僕に向かって発射した。 
息 子「男の子はおチンチンって言うけど、女の子はおチンチンないけど、何て言うの?」 
ワタシ「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
息子が発射した質問は、明らかに核弾頭だった。この例えはちょっと不謹慎だっただろうか。ならば、例えを変えよう。 息子が発射した質問は、明らかに関東直下型の大地震だった。いや、この例えも不謹慎か?・・・・いやいや、最も不謹慎なのは、息子よ、お前のその質問だっ!!
 何も言葉が、出て来ない。 
 風呂の中で、石になる。 
 風呂に入っているのになぜか汗が大量に流れはじめているのが、分かる。 
 そりゃあ、ワタシだってもうすぐ四十路だもの。当然、〈その言葉〉は知っている。 
 友達と居酒屋に行ってビール二〜三杯でも飲んでほどよく酔えば、メロディー付きで連呼している。(それはそれで考えモノだが) 
 だけど当然の当然の当然だが、その言葉を子どもに教えるわけにはいかない。 そんなことをした日にゃ、息子が風呂から上がって妻に報告したとたん、 ワタシは、全裸のまま勝手口から放り出されるのは必至だ。 
ワタシ「う〜〜〜ん、何て言うのかなぁ・・・」 
 ワタシはとぼけたフリをした。 
 この時の僕の芝居を見れば、きっと今は亡き浅利慶太も“ぜひ、劇団四季に入ってくれ”とワタシに懇願したことだろう。 
息 子「ねぇ、何て言うの?」 
 こういう場面で“知らない”とは言えないし、言ってはいけない。ワタシはそう思っている。 
 子どもにとって、親に質問をして“知らない”と言われた時ほど失望することはないからだ。 
 ワタシが、そうだった。 
 子どもの頃、ワタシも素朴な疑問をよく親にぶつけた。しかしその度に、親は“よく分からない”と言って、ワタシの質問をよく誤摩化した。 
 息子は、明らかにそんなワタシのDNAを受け継いでいる。だから、なおさら“知らない”とは口にできない。でも、悲しいかな、何も言葉が出て来ない。 
 息子は、ワタシは中々答えないことに痺れを切らしたのか、湯船に立ってシャボン玉に興じていた娘の方を向いて「ここ、ここ」と指差した。 
 こら、こら、お姉ちゃんの股間を指差すんじゃない!

「・・・ナイチンゲール・・・」 

 無意識に自分の口から出たその言葉に、ワタシは自分で自分の耳を疑った。 
「ナイチンゲールぅぅ〜〜???」 
 息子は声をひっくり返して僕が言った言葉を繰り返した。息子の“ナイチンゲールぅぅ〜〜???”が、気持ちがいいほど浴室に響き渡る。 
 その言葉に、今度は娘がシャボン玉を中断して反応した。
「ナイチンゲール、知ってるよ。看護婦さんよね?」 
 さすがワタシの愛娘だ。娘は格好の助け舟を出してくれた。その言動にワタシは淡い期待を抱いた。ここで話題の方向が変わるかもしれない。 
ワタシ「お、おぉ、そうそう、よく知ってるな。どうして知ってるんだ?」 
愛 娘「学校の図書室に本があった」 
ワタシ「へぇ〜、お前、読んだの?」 
愛 娘「うん、少しだけ。でも、おチンチンの話じゃないよ」 
 娘の助け舟には穴が開いていたらしく、あっという間に浴槽に沈没した。 
 しかし、それでワタシの疑問も氷解した。
 ワタシも小学生の時、男女の身体の違いを表現する時に、ただただ“ナイチンゲール”という語感が面白いというだけで、そう言っていたのだ。そのナイチンゲールが白衣の天使だったことをワタシが知ったのも、娘と同じように学校の図書室の本だった。その時の記憶が、とっさに思い浮かんだのだ。たぶん。 
「お父さんが子どもの頃、そう言ってたような気がする」 
 ワタシはこの期におよんで、まだ少しとぼけた。この時のワタシの芝居を見れば、佐藤B作ならば東京ボードビルショーに入れてくれたかもしれない。 
「でも、でも、でも、ナイチンゲールって看護婦さんなのに、なんでおチンチンの女なの?」 
 息子は少し興奮して支離滅裂な尋ね方をしたが、息子が言いたいことはよく分かった。 
「うん・・・まぁ、でも、それでいいんだよ」
ワタシはそう言いながら、心の中で、クリミア戦争で負傷した兵士を必死に看護した看護師の鑑であるナイチンゲールに、平身低頭で謝った。まさか、ナイチンゲールもこんなカタチで約三十年ぶりに僕と再会するとは、予想だにしていなかっただろう。 
 他にも、子どもに説明する適切な表現はあったと思う。実際に、それが教育の現場でも課題になっていることはおぼろげに知っている。 
 しかし、僕にはもう限界だった。早く湯船から上がりたかった。のぼせる寸前、すでにゆでダコ状態だったのだ。
 いつもと同じように、息子、娘、僕の順番で風呂から上がった。きっと息子は風呂から上がると、いつものように素っ裸のまま、浴室での出来事を妻に報告しているはずだ。 
 僕も風呂から上がった。脱衣場でバスタオルで身体を拭いていると、リビングから息子の甲“高い声が聞こえて来た。
「お母さん、女の子はねぇ〜、ナイチンチンゲールなんだよ!」 

 ・・・・・・勝手にアレンジするんじゃねぇよ。

(終)〈2007年作〉

●バスルームから愛をこめて〈3〉 〜佐々木ヨシエさん〜 → https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/63b4f1478cb9ef07dd16d09a5d056963
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バスルームから愛をこめて〈1〉 〜注射器〜

2018-11-24 | 短編小説


「ねぇ、お父さん、これ、何?」
 と息子が突然、 自分の股間を指差しながらそう訊いてきた。
 ある日の夜。僕は八才の娘と四才の息子の三人で入浴していた。
 はぁ?こいつ、今さら何を尋ねてんだ?
僕「何って、おチンチンだよ」
息「違うよ、おチンチンじゃないよ、その後ろに
あるコレ」
僕「あ・・・こっちか」
 息子の言葉で気づいた。そういえば、そっちは今まで説明してなかったな。
息「ねぇ、何、コレ?何?」
僕「これはなぁ・・・玉が二つ入ってるんだ」
息「ふうん」
ここで、やめておけばよかったのだ。
僕「でな、お前が大人になったら、ここに小さい
小さい“子どもの種”が生まれるんだ」
 このひと言だった。
 このひと言に息子だけでなく、娘まで反応してしまった。
娘「違うよ、子どもは女が産むんだよ。男は産ま
れないよ」
僕「あ・・・うん・・・そうだね・・・」
息「ねぇ、僕も子ども産むの?産んじゃうの?
ねぇここで産むの?」
 僕と娘の言葉に、袋を指差しながら動揺する息子。
僕「いや、だからね・・・その・・・あの
ね・・・あげるんだよ」
息「あげる?」
僕「そう、男の人からあげるんだよ、女の人に」
 自分で自分の言葉に、少し安堵した。
息「何を?」
僕のささやかな安堵は、息子の質問で秒殺された。そりゃ、そうだ、当たり前の疑問だ。 
僕「いや・・・だからぁ・・・なんつーのか
な・・・」
 言葉が詰まる僕の視界に、ポンプ式のシャンプーが目に入る。 あれを押して“こんなの”って言えたら、どんなに楽だろう。
僕「だから、“子どもの種”だよ」
 結局、開き直った。
娘「じゃあ、どうやって?どうやってもらうの?」
 今度は、そうきたか・・・。
息「うん、どうやってもらうの?」
僕「お前はもらわないよっ!お前はあげるんだよ
っ!」
息「じゃあ、どうやって?」
 オレ、自分で自分のクビ締めてるよ・・・
僕「だから・・・そのな・・・」
息「(お湯の入った洗面器を持って)これで?」
僕「バカッ!そんなのにいっぱい入れてどうする!死んじゃうよ!」
息「死ぬって、誰が?お父さんが?」
僕「え、あ・・・そうね、お父さんっていうか、
小さいお父さんというか・・・まぁ、 いろん
なものがな・・・」
 ここで僕の頭の中に、突然電球が灯った。
僕「注射器だよ、注射器!」
娘&息「注射器ぃ?」
僕「そう、注射器であげるんだよ」
 うん、これはいい例えだぞ!僕は心の中で自画自賛した・・・が、話がそんなに上手く進むわけがなかった。
娘「私、注射器でもらうの?」
僕「・・・」
娘「いつ?」
僕「いつって・・・そんなの分からないよ・・・」
娘「私、イヤ!痛いのイヤ、怖いからイヤ!」
僕「うん。お父さんも、イヤ(別の意味で)」
息「ねぇ、僕は誰にあげるの?」
 まだ、こっちの坊主がいた。
息「誰?」
僕「誰って、それも分からないよ」
息「何で?」
僕「そりゃあ、大きくなってお前が好きな人に出
会ったら分かるよ」
 いいねぇ、これが理想の親子のお風呂での会話じゃん。 
息「好きな人?」
僕「そう、好きな人」
息「じゃあ、お姉ちゃんにあげてもいいの?」
僕「ダメダメ!お姉ちゃんは姉弟だからダメだって!」
息「じゃあ、バァバは?」
僕「ギャハハハハ!それもダメダメ!ワハハハ
ハ!」
 親を飛び越えるなよ。跳び箱じゃないんだから。 
息「何で、そんなに笑うの?」
僕「いや・・・お前、面白いからだよー」
息「じゃあ、お父さんは、お母さんに注射した
の?」
 きた。いきなりの核心。
僕「うーーん・・・まぁ・・・そうねぇ、そうな
んだろうねぇ」
息「いつ?」
僕「いつって・・・憶えてないよぉ」
 もう勘弁してくれ・・・。 再び、僕の視界にポンプ式のシャンプーが入りやがる。
僕「もういいから、2人とも先に上がりなさい」
娘&息「はぁーい」
 子どもが上がった後、 脱衣場からリビングに向けて息子の大声が響く。
「お母さぁーん、お父さんに注射されたのぉ?」
 その質問を耳にした瞬間、 風呂の栓を抜いて、お湯と一緒に流れようかと思った。

(終)〈2007年作〉

●バスルームから愛をこめて〈2〉 〜ナイチンゲール〜 → https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/f201955b23159190cf0dcfffdb60f913
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もう、初冬。

2018-11-23 | Weblog
釣れん(笑)

今朝眼にした朝刊で、たまたま正午前が満潮だと知って勢いで来ただけだからな。

まぁ、そんな思いつきの散歩感覚ですぐに釣りに行けるところが、島暮らしの利点ではあるけれど。

先々週に来た時は、1時間ちょっとで小さな鯛を4〜5匹とキスが2匹ほどが釣れたけど、その時はまだ季節は辛うじて“秋”だった。

今日の海は、波が荒いし風も強い。
対岸の山も紅葉というよりは、枯葉が散りはじめていて、もう初冬だ。

持って来たのは、釣り竿2本と、スマホとポップコーンとコーラと、本棚から久しぶり引っ張り出した重松清の「ビタミンF」。
さながら、屋外に読書しに来たようなもんだ(笑)

今年の釣りも、今日が最後かも。
もう一投くらいして手応えがなかったら、今日は帰るとします。
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うつ病893〈待合室編〉

2018-11-13 | 短編小説


〈2008年作〉

 月に一度の割合で、心療内科に通院している。
 別に重度の精神障害を患っているわけではない。仕事でストレスや疲れが溜まって、判断力や気力が萎え “ あれ?俺、ちょっとヤバイかも・・・”と感じると、とりあえず通院して先生のカウンセリングを受けて、相応の薬を1ヶ月分処方してもらっているのだ。そうなると、必然のように1ヶ月に一度の通院というリズムが出来上がってしまった。そんな感じで、僕はここ三年くらいを過ごしている。
 その病院は先月から診療システムが変わった。完全予約制になったのだ。裏を返せば、完全予約制でないとさばけないほど、精神的な理由で来院する人が増えたということなのだろう。
 僕も先月から事前に予約するようになり、今回も予約した時間の10分ほど前に訪れたのだが、完全予約制になってからというもの、アポなしの急患がいなくなって、以前なら受診待ちの患者でひしめき合っていた待合室は、驚くほど閑散としていた。


 そんな待合室に、二人の先客がいた。


 一人は、ソファーに座った五十代半ばぐらいの男。もう一人は、その横で直立不動の二十代とおぼしき男。待合室に入り、その二人の姿が視界に入った瞬間、僕は凍った。
 たとえば、街で100人に“この二人の職業は何でしょう?”とアンケートを取ったら、きっと100人中150人が"や●ざ!"と答えるほど、見事な893様だったからである。
 僕は、待合室の受付に診察券を提出すると、本棚から適当な雑誌を選んで、ちょっとその二人から離れた椅子に座った。
 ここだけ一足先に冬がやってきたのか?と錯覚するほど待合室は、寒く、そして静かな、本当に静かな空気が漂っていた。


 待合室に男三人。


“俺の次の患者、早く来い、早く来い”と僕は念仏を唱えるように心の中で繰り返しながら、本棚から持ってきた3ヶ月前の週刊誌という、今さら読んでもまったく意味も価値もない雑誌の記事を必死に読んでいるフリをした。


「あんちゃん!あんちゃん!」


 そんな掛け声が、冷たい待合室に響き、僕の鼓膜を突き破った。 〈日本の景気はどんどん回復する!〉という3ヶ月前の能天気を通り越えてもはや哀愁さえ漂っている記事を真面目に読んでいるフリをしていた僕は、恐る恐る顔をあげてその声が聞こえて来た先客の方に目を向けた。するとソファーの御仁は、僕の顔を見るや否や、"オウ!"とオットセイのような声をひと声上げて、手招きをした。
 僕はその言動を見て、とっさに、「さっきから、俺のことを“あんちゃん”って呼んでたみたいだけど、俺には親からもらったちゃんとした名前があるんだ、失礼じゃないか!それに初対面で手招きをするなんてどういうことだ!普通ならば、用事があるべき貴男の方から俺の元へ来るのが礼儀だろう、君の方から来なさい!」
 ・・・とは口が裂けても言うわけがなく、ちょっと目を丸くして "へ?あっしのことで?"というような表情をすると、
「ほうよ、他に誰がおるんなら」
 と、床を這うような野太いダミ声と天使のようなしわくちゃの笑顔で僕にそうおっしゃったので、僕は即座にソファーの御仁の横のイスにスライドした。 移動するや否や、御仁は僕に尋ねた。
「あんちゃんは、どこが悪いんな?」
「僕は、ストレスをためやすい性格なんです。だからちょっと心身に変調を感じたら、酷くなる前にこうやって通院をして先生に診てもらって予防しているんです。酷くなったら、仕事はおろか、私生活もまともに過ごせなくなりますからね。そうなると、とても厄介ですから」
 ・・・ということを滑舌よく喋られるはずもなく、
「ええ・・・まぁ、これで・・・」
 と僕は、精一杯の作り笑顔で、ブレイクダンスの下手なウェーブのように片手を上下させただけだった。
「ほうか・・・大変じゃのう・・・」
 とソファーの御仁は、僕の動作を見て、明らかに理解できない表情を浮かべながらも納得したフリをした。
 生まれてこのかた、こんなに低能なコミュニケーションの取り方を僕はしたことがない。この時点で、確実に一年ほど寿命が短縮。
「あんちゃんは結婚しとるんか?」
 御仁は二発目のミサイルを僕に発射した。
 これは別に答えに窮することもない。僕は「はい」と答えた。
「ほおか・・・そりゃあ、たいそうベッピンさんなんじゃろうのう」
「いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ・・・」
僕は、手のひらが団扇になるくらいの勢いで手を振り、そして一生分の“いえいえ”をここで使い果たした。
 でも御仁の言葉にちょっと嬉しかったのも事実だから、タチが悪い。 この時点で、2ヶ月ほど寿命が回復。
「子どもは、おるんか?」
 寿命が回復したところで、つかさず三発目を放つ御仁。
「はい」
 と答えると、
「何人な?」
 と御仁。
「二人です」
 と答えると、
「ほうか・・・可愛いんじゃろうのう」
 と御仁は口にした。
 しかし僕は子どもの数は言ったけど、年齢も性別も言っていない。 何で可愛いって分かるんだ?あんた、千里眼でもあるのか?それともエスパー893なのか?・・・なんて、これまた尋ねることなどできるわけがなく、
「あ、ありぐろてれっす」
 という絶対に広辞苑に載っていない言葉で感謝の意を伝えた。
 妻の時は否定して、子どもの時は肯定する。
 世の中、必要なのは何事もバランス感覚なのだと、この時知った。
「わしはのぉ・・・」
 どうも僕への興味が尽きたらしい御仁は、今度は自分の話をはじめた。そして待合室全体に響き渡るような声でこう言った。
「あんちゃん、わしはうつ病になってしもうてのう」
 その言葉を聞いた僕は、思わず手にしていた週刊誌を落としそうになった。
 そして、
「オッサンよぉ、うつ病ってのは、人と話したり、日常生活ができなくなったり、酷い時には記憶力もなくなるほど辛い病気なんだぞ、僕も前に罹ったことがあったけど、二度とあんな症状はごめんだって思うほど嫌な病気なんだ!あんたみたいに初対面の俺と堂々と喋れる人間のどこがうつ病 なんだよ?全国の本当のうつ病患者に、今すぐ土下座して謝れっ!」
 ・・・という言葉を真正面からぶつけられるわけもなく、
「そ、そうなんですか・・・それは大変で・・・」
 と同情するような言葉を口にした。できれば涙の一滴でもこぼしてやろうかと思ったが、さすがに泣けなかった。涙腺は正直である。
「食欲ものうなってしもうてのぅ・・・じゃけぇ、最近は顔色もすぐれん」
 と、松崎しげると見間違えるほどの褐色の頬を指差しながら、御仁はそう言った。
「Aさぁ~ん」
 そうこうしているうちに、看護師が診察室から名前を呼んだ。僕の名前ではなかった。
 しかしその名前は耳にした御仁は“オウ!”とまたまたオットセイの声をあげると、スクッと立ち上がり、僕と御仁が話している間、ずっと直立したままだった若い男性を引き連れて、診察室に入っていった。


 しばらくすると、分厚い扉で仕切られていて、普段なら、絶対に中の声も音も聴こえないはずの診察室から “・・・わしはうつ・・・”とか、“顔色・・・なんじゃ!” という御仁の声が漏れ聞こえてきた。
 診察は15分ほどで終わり、御仁たちは診察室から出てきた。入れ替わるように僕の名前が呼ばれ、診察室に入ると、いつもの先生が診察室のデスクに座っていた。 真っ青な顔をして。
 うつ病かと思った。 〈待合室編につづく〉

●うつ病い893〈待合室編〉→ https://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/9630437aa8fd56d4cc5f9fb68d756b45

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うつ病893〈薬局編〉

2018-11-13 | 短編小説


〈2008年作〉

 うつ病さながらの表情になった先生の診察が終わり、受付で診察料金を払うと、僕は病院を出て、至近のいつもの薬局へ向った。
 その薬局に行くと、案の定、御仁一行もいた。
「おう、あんちゃん、また会うたのう」
 薬局に入ってきた僕に気づくと、自称・うつ病患者のその御仁は、"元気ハツラツ"な声で、僕に向ってそう声をかけた。
「また会ったも何も、同じ病院で受診したんだから、同じ薬局で薬をもらうのが当たり前でしょう。それが一般人の常識ってやつですよ・・・そう、 いい機会だ、この際、極道のあなたもそういう事も少しは学習しときなさい」
 ・・・と、御仁に言える勇気があったならば、僕も心療内科に通う必要なんかない。それどころか、僕は御仁の言葉に対して 「はい」と答えるべきか、それとも「ええ」と答えるべきか、一瞬迷った挙げ句に、反射的に、


「ホエ。」


 という、まったく意味不明の言葉を口から飛び出させてしまい、大いに焦って、脇汗が大量発汗してしまった。誰か、制汗剤を貸してください・・・。
 
 薬局には周辺の他の病院からやって来た数人のお年寄りの患者が、整然と並んだ長イスに座っていて、カウンターの奥では、三人の薬剤師が薬の調合にせっせと動いていた。
 3年間、1ヶ月に一度の割合で通院している僕は、薬局にしてみれば常連の一人らしく、一番奥にいた同世代の薬剤師は、薬局に入ってきた僕に気づくと、笑顔で軽く会釈してくれた。でも、なぜかその笑顔は少し引きつっていた。
 僕は、処方せんを薬剤師に渡すと、二列三段の長イスの一番後ろに座り、名前を呼ばれるのを待った。
 御仁一行は、最前列の長イスを陣取り、足を大袈裟に組んで薬の調合を待っていた。 端から見ると、御仁一行が、必死になって動き続ける薬剤師の仕事っぷりを監視しているように見えないこともない。
「Aさ~ん」
 御仁の名前を薬剤師が呼んだのは、僕が本棚のタウン誌を手にして、イスに座り直したのとほぼ同時だった。
 名前を呼ばれた御仁は、“オウ”と、またオットセイの鳴き声をあげて立ち上がり、カウンターに向った。カウンターの向こうには、“今春、薬学部を卒業したばかりでぇ~す☆”といった感じの、若い女性の薬剤師が立ってた。ガッチガチの表情で。

 御仁は無言でカウンターの前に立ち止まると、その若い薬剤師を見下ろして、ゆっくりと首を左右に動かした。どうやらカウンターの上に並んだ数種類の薬を眺めているようだった。
 つかさず薬剤師が薬の説明をはじめた。だがその説明は、まるでどこかのマニュアルブックにでも書いてあるかのような棒読み全開の説明だった。
 感情がまるで入っていないのだ。早く終わらせたいという気持ちが、見え見えだった。
“やばいぞ、やばいぞ、やばいぞ、やばいぞ、やばいぞ・・・・” その薬剤師の説明を聞きながら、なぜか僕は心の中でそう唱えていた。いや~~な予感が、背中一面に覆い被さってきていた。


「おい、ちょっと待てや」


 予感は、的中した。
 御仁は、野太いダミ声でそう言って、薬剤師の説明を遮った。
「あ・・・はい・・・何でしょうか?」
 薬剤師が緊張した面持ちで、そう答えた。
 奥で他の薬の調合をしていた同世代の薬剤師も、御仁のその言葉に作業の手を止め、カウンターに立ちすくむ後輩を心配そうに見ている。長イスに座った、他の病院からやって来た年寄りの患者たちも、心配そうにその行く末を眺めていた。
「今、この薬は朝飯の後に飲めって言うたのう?お?」
「は、はい・・・」
「わしゃ、この30年、朝飯いうもんは食うてないんど、朝飯食わんのに、どうすりゃあ~ええんな?」


小学生の質問だった。


 この御仁、怖そうに見えるけど、案外純情な性格なのかもしれない・・・と僕は最後列のイスに座ったまま、少し表情を緩めた。そして“あ、だったら、無理して飲まなくてもいいですよ~”という薬剤師の軽やかな返答を予想していた・・・が、僕の予想は見事にはずれた。
「じゃあ薬は、こちらの薬を飲む時に一緒に飲んで下さい。朝じゃなくてもいいです。でも絶対に飲んでください。こちらの薬には胃酸を弱める効果がありますから、一緒に服用すれば朝でなくても構いませんから・・・・」
 と、御仁の想定外の質問に、完全にテンパった新米薬剤師は、まるで御仁の発言を打ち消すように、専門用語を交えながら必死になってそう説明した。いや、それは説明ではなく、説得に近い口調だった。しかもその口調は、話が進むに連れて、説得から命令口調へと変わりはじめていた。
 これは・・・・・マジで、やばい。


「○◆×☆◇・・・・よろしいですね!」
 薬剤師の命令口調の説明が終わると、薬局は、水を打ったように静まりかえった。
 “やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ・・・” 僕は、薬剤師の説明の最中、ず~~~~っと、その言葉を心の中で繰り返していた。
 御仁は仁王立ちのまま、まるで薬剤師の説明が終わるのを待っているようだった。表情はここからは見えないが、きっと顔は怒りで紅潮しているはずだ。
 カウンターを挟んで、対峙するやくざと薬剤師。カタカナで書けば、ヤクザとヤクザイシ。数字で書けば、893と89314
 似て非なる二人が今、カウンターを挟んで対峙していた。薬局内にいたすべての人間が、二人のやりとりを見つめていた。
 “やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ、やばいぞ、知らんぞ・・・”僕は相変わらず長イスの最後部で呪文のようにそう唱えていた。
「ねぇちゃん・・・おどりゃあ、わしの言うたことが聴こえんかったんか? わしはこの薬は飲めん言うとるんじゃ!なんで、おどれみたいな小娘に偉そうに説教されなぁ~いかんのならっ!おどれ、殺されたいんか⁉︎ コラッ!」
 ・・・気の毒だが、これぐらいの脅し文句を言われるのは覚悟しなければ・・・と僕は今にも泣きそうになっている若い薬剤師を眺めながらそう思った。長い人生、経験が必要だ。世の中にはどうやっても理解し合えない人もいるのだ。そういうことを早めに経験することは、むしろ良いことだと僕は思う。


「・・・まぁ、よう分からんが、ねぇちゃんが飲め言うんなら、飲むわい」


 御仁は純情なのではなく、本当に小学生だった。
 その後は、薬剤師が軽い問診をした。
「お身体の具合はどうなんですか?」
「いかんわ」
「いつ頃から?」
「ここ一年くらいかの・・・母ちゃんが愛想尽かして家を出て行ってからじゃ」
 御仁は冗談のつもりだったのかも知れないが、大声で言ったそのセリフには、見事に誰も反応しなかった。


 薬局に、ひとあし早く、冬が来た。


 そして問診の最後に御仁は、僕に言った時と同じように
「顔色がすぐれんけぇのう」
 と薬剤師にツヤツヤの肌の頬を指差した。小指のない手で。
 そして“それ、今どき、どこで売ってるんだよ?”とツッコミたくなるようなセカンドバッグの中に、もらった薬を無理矢理つめ込みながら、
「それにしても・・・薬も高こうなったのう、今日病院とここだけで、これだけ金を取られたど」
と御仁はそう言いながら、片手の手のひらをパッと広げた。きっと五千円を意味していたのだろうけれど、誰が見ても四千円だった。
「ねぇちゃん・・・・負けるわけにはいかんかいのう?」
 と、御仁は、突然、甘えたような丸く柔らかい声を出した。
「え?・・・は?」
 薬剤師は、意味が分からないような表情をして、うろたえ、そして一瞬後ろを振り返った。きっと、もはや彼女の限界点も近づいてきて、どうしようもなくなって、奥の先輩に助けを請うたのだ。
「冗談よ!のう、冗談じゃ!ガハハハハハッ!」
 薬剤師の態度を見た御仁はそう言って、薬局が揺れるかと思うほどの大声で笑った。薬の代金を真正面から値切った人物は、有史以来、きっとこの御仁が初めてのはずだ。
 あんたもある意味“クスリ屋”なんだから、値切れないことぐらい分かるだろう・・・なんてことは、この時、口が裂けても言えなかった。
 指定重要文化財のようなセカンドバッグに薬を詰め込み、お金を払い終えると、御仁は再び若い衆を連れて出ていった。出ていく時、最後列に座っている僕に再び気づいた御仁は、
「おう、あんちゃん、早う、治せよ!」
 と言って、僕の肩をポンッと叩いて出ていった。
 その途端、
 「大きなお世話だ、この野郎!見てみろ、みんな、お前の言動に迷惑してるだろう!謝れ謝れ!今すぐみんなに謝れ!!」
 ・・・もうすでにお分かりだと思うが、そんな事を口にするぐらいなら、自分で自分の舌を噛み切って自害した方がいいと思っている僕がそんなことを言うはずもなく、

「あ、ありがるしとれせ」

 と、またまた広辞苑に載っていない感謝の言葉で答えてしまった。ここでも涙を流してやろうかと思ったが、やはり泣けなかった。涙腺は、やはり正直者である。
 
 御仁一行が出ていった薬局は、一瞬で、いつもの薬局の風景に戻った。但し、応対していた若い薬剤師が、俯き加減の小走りで奥の控え室に向ったことを除いては。
 そして、薬局内の酸素の濃度が、御仁がいた時よりも上昇した感じがした。
 でも、何か、一抹の寂しさを感じる自分がいた。
 何だろう?これは。
 いつかどこかで感じたことのある空気・・・。
 思い出した。
 運動会の後の空気。文化祭の後の空気。
 祭りの後の空気だ。
 そんなことを考えていたら、同世代の薬剤師がカウンター越しに僕の名を読んだ。
「お待たせしました」
 と薬剤師は言い、そして薬の説明や問診をする前に、僕に慎重にこう尋ねた。
「さっきの方・・・・お知り合い・・・なんですか?」
 普段、あまり私語を話さない薬剤師が、いきなり僕にそう尋ねてきたので、僕は少し驚き、そして反射的にこう答えた。

「ホエ。」

(おしまい)
※この物語は、フィクションです(笑)

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ホーム・スウィート・ホーム 〜今宵、ワインで。〜

2018-11-08 | Weblog
【今宵、ワインで。】

 晩秋のある日。
 仕事から帰宅すると、妻と子どもたちはすでに夕食中だった。
 メニューは煮込みラーメン。鍋だ。 
「お、今夜は寒くなるそうだから、鍋はいいねぇ」 
 と、僕。 
 子どもたちはラーメンやつみれを鍋から取るのに夢中で「おかえり」の言葉もなく、僕の言葉も存在も無視状態。
 妻も僕を無視・・・というよりも、なんだかちょっと様子がおかしい。 

 部屋着に着替えて、あらためて僕が食卓に座ると、それと入れ替わるように子どもたちが食べ終え、隣のリビングへ向かった。きっと、夕方に録画した子ども番組でも視るのだろう。 
 必然的に食卓には、僕と妻の二人きり。
 会話なし。 
 聞こえるのは煮込みラーメンがその名の通り煮込まれる音だけ。グツグツグツグツ・・・。 
 とりあえず、僕は鍋からラーメンとか豆腐や白菜を適当に取ると、小皿に入れて口にした。熱い。でも、美味い。 

 相変わらず無言の食卓。 
 おかしい。ゼッタイに、おかしい。 
 いつもなら、今日自分に起った他愛もない出来事を僕に話す妻が、ひたすら俯いて、黙々と鍋をつついている。
 何があったんだ?
 僕が何かしたのか?
 もしかして、先月、携帯電話で話し過ぎて、その料金明細が届いてそれに怒っているのか?それとも、今週末に僕が友人と飲みに出かけることを勝手に決めてしまったがために、妻が大ファンのスターダスト・レビューのコンサートに行けなくなったことを、今になってもまだ怒っているのか?それとも、先日“お、カッコいい!”とひと目惚れしてジャケットを衝動買いしてしまったのだが、それを妻に見せたら“こいつ、意外とヘソクリ持ってんじゃねぇか?”と思われたらイヤなので、こっそりとクローゼットの中に隠しておいたのがバレたのか?・・・とりあえず、自分で自分の埃を叩いてみたが、どれも当てはまるとは思えない。 

「あの・・・」 
 先に口火を切ったのは、僕だった。 
「あの・・・何か、あったんですか?」 
 24時間365日の中で、妻に敬語を使う時ほど緊張する時はない。 
 こんな時、僕はいつもこう思う。 
 敬語とは、相手を敬うための言葉ではない。 
 敬語とは、相手の内情を探るための言葉だ。 

 そうすると、俯いたまま妻はこう言った。 
「別に」 
 我が家にエリカ様が現れた・・・今頃になって。
「いや、おかしいよ、絶対に何かあったでしょ?」
 その後、僕は今秋、最大の勇気を振り絞ってこう言った。 
「お、お、俺・・・?」 
 男には、自分の身を削ってでも嵐に立ち向かわなければいけない時がある。そうしなければ、問題を打破できない時があるのだ。骨を立って肉を断つのだ。火中の栗を拾うのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。俺は何を言ってるんだ。 

 しかし僕の一大決心の質問に、妻はこんな返答をした。 
「・・・ワイン、あったよね?」 
 意外だ。 
 妻がアルコールを自分から求めることなんて、ほとんどない。 
 もしかしたら、初めてかも知れない。 
 子どもたちも食事は終わった。鍋だから片付けもそんなに時間はかかりそうもない。今夜は寒くなりそうだ。たしかに、アルコールを口にするにはもって来いの状況だ。
「いいねぇ!ワイン、ある、ある!」
  と僕はまるで妻の太鼓持ちにでもなったように、食器棚からワイングラスを、冷蔵庫からワインを素早く取り出し、グラスに注いだ。 
「じゃあ、ルネッサァ〜〜ンス!」 
 数年前に居酒屋で頻繁に耳にしたのに、 最近ではまったく聞かなくなったこの言葉を、僕は思いっきり口にしてグラスを妻に差し出した。すると、 
「ハイ」 
 と、妻は棒読み口調でそう言って、グラスを持っただけだった。妻のその言動に、なぜか無性に髭男爵が恨めしく思えた。早く消えてしまえ、髭男爵・・・あ、そんなことを思わなくても、今じゃ、もう半透明状態か。 

 しばらく二人でワインを口にしながら、鍋を突ついた。久しぶりだ。こんなの。 
 最近家で飲む時は、必ず夜中にDVDを見ながら一人でだった。しかも、発泡酒・・・。
 ワインの酔いがまわりはじめたのか、妻の顔がほのかに赤みを帯びてきた。心なしか目尻も下がったような気がする。今だ。 
「なぁ、何があった?」
 僕はもう一度、妻に尋ねた。すると、ワインのせいで心も柔らかくなった妻が、ついに口を開いた。 

 妻が言うには、夕方、息子の幼稚園の友達が3人、家に遊びに来たそうだ。そのうちの2人はよく遊びに来る子だったが、残りの1人は、新規の友達だったらしい。 
 結論を先に書くと、妻の不機嫌の原因は、その新しい友達だった。 
 この新参の友達、妻がおやつに出したお菓子を「これ、キライ」とハッキリと言い、そう言いながらも菓子に手を出し、しかも何度注意をしても立ったまま食べ、そして勝手に家の中を歩いて他の部屋を覗き、その合間合間に「ここ、つまらな〜い」と独り言のように言っていたのだそうだ。 
 話を聞いた限り、妻が立腹して機嫌を悪くするのも分かる気がした。そしてそれと同時に、自分が原因ではなかったことに、僕は安心した。 
 それは、途方もないほどの安堵感だった。 今にも喉から飛び出そうだった心臓が、スーーーーーっと降りて定位置の胸を通り越し、そのまま下腹部にまで至って、身体の内部から男の大事な部分に“こんにちわ!”と挨拶するくらいの安堵感だった。 

 僕は妻の口からこぼれる愚痴を聞きながら、妻のグラスにワインを注ぎ足した。
 そのうち妻は、 
「どういう躾してるんだよ!」 
「座って食べろよ!」 
「勝手に押し入れ開けるなよ!」 
 ・・・と、次第に男言葉に変わっていった・・・。
「まぁ、いろんな子どもがいるよ」 
 僕はそうとしか言えなかった。そしていつの間にか、敬語もやめていた。 

 ワインが、空になった。 

 僕と妻は、隣のリビングに移った。 
 子供たちは、先週末に録画したらしい「クレヨンしんちゃん」を見ていたが、僕と妻を見て、唖然とした表情になった。
「よぉ〜、今日もしんちゃん、ケツ出したかぁ!?」 
「お母さん、酔っちゃったよ〜」 
 僕の知る限り、妻が子どもたちに酔った姿を見せたのは、これが初めてのはずだ。
 子どもたちが唖然としたのは、僕にではなく妻の酔っ払いぶりだったのだ。そんな妻を心配して娘がこう言った。 
「お母さん、酔ってるの?大丈夫?お母さんでも、酔うの?」 
 “お母さんでも”って・・・それ、どういう意味よ? 
 そしてその横では、息子が即興の歌を歌っていた。 
 
♪お父さんは、真っ赤っか〜。お酒を飲んで、プチトマト〜♪

(終) 〈2009年作〉
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弱気は最大の敵。

2018-11-03 | Weblog
先月から、週末はほぼ実家で過ごしている。

実家の裏に古い物置があって、来春をめどに取り壊すことを決めたので、その準備と片付けをしているのだ。




亡くなった父から聞いていた話では、この物置は家を建てる前からあったそうで、それが本当ならば、築年数はおそらく70年近いはず。


↑ 祖父が使っていたらしい真鍮製(?)火鉢。
たぶん石油ストーブさえ稀少だった頃の代物だろう。


↑ 釜。
上記の火鉢と同じ頃のモノか?


↑ ワタシの子供・・・ではなく、ワタシや弟が使っていた赤ちゃん用のイス。

当たり前だが、これらは物置の中のほんの一部。
他にも、50年以上は過ぎていると思われる代物があるわあるわ・・・。
しかし、素人目に見ても「なんでも鑑定団」に出せるようなモノはないので、ひたすら分解→処分を続けた(笑)

今日の作業は、昼前に終了。
日頃慣れないノコギリでの切断やバールでの解体で、たった数時間で全身がクタクタになってしまったが、晩秋の晴天の下、母と取るに足りない会話をしながらの作業は、悪いものでもない。
まぁ、来春まで時間はあるから、のんびりと進めていくとします。

さて、今夜は日本シリーズ第6戦。
「弱気は最大の敵」
今は亡き津田恒実も、ボールにそう書いて投げていた。

大丈夫。
頑張れ、カープ!
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