りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

壁紙。

2012-07-31 | Weblog
iPhoneに換えて半月が過ぎまして。
何とか操作にも慣れてきました。

そういえば、以前の携帯の時は液晶画面にアップした写真のことを
“待受”と呼んでいたけど、スマホの場合は“壁紙”って言うんですね。

PCと同じ呼称を使うということは、やっぱりスマホは、もはや電話ではなく
極小のPCなんだなぁ・・・とあらためてそんな年寄りみたいなことを思ったり
しております(爆)

で、ちなみに、今現在のボクのiPhoneの“壁紙”は、娘が描いたボクの似顔絵です。
ちょっと前の日記にも書いたように、最近、娘がボクをゆるキャラ扱いして
おりまして・・・(-_-;)
何枚も書いた父親ゆるキャラのイラストの中から、ひとつ写メして壁紙にしました。

娘曰く、この絵は、iPhoneを手に入れた日のボクとのこと。
どこをどう触って扱えば良いのか分からず、七転八倒&暗中模索している様子。
たしかにあの日は、こんな感じでした。
悔しいけど・・・似てる(笑)↓



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何もなくなった風景。

2012-07-30 | Weblog
先日の山陰旅行の際に宿泊した施設。

そこはいわゆる公共の宿で、素泊まりで格安の施設だったのだけど、
部活の合宿や企業の研修にピッタリの施設で、実際にボクらが宿泊したときも、
どこかの小学校の合唱団が合宿で利用していて、施設内はさながら修学旅行状態だった。

そんな施設で、とある男性と知りあった。

2階の客室フロアの隅っこに、申し訳程度に設けてある喫煙コーナーでタバコを吸っていた時に、
その男性と出会った。
還暦を過ぎたくらいの痩身の男性で、ハッキリとは言われなかったが、どうやら会社を経営され
ているようだった。
ボクはどこから来られたのか、尋ねた。
すると男性は、岩手県の盛岡から夫婦で来た、と答えた。

あまりにも遠い地名を口にされたので、思わず驚きの表情を浮かべてしまったが、その後、
話は必然のように東日本大震災の話になった。

昨年の3月11日盛岡市内も大いに揺れたそうだが、比較的被害は少なかったらしい。
しかし、やはりその方も三陸地方で暮らしていた知人や友人をたくさん失われたそうだ。

「何もないんです」

男性は、そう言った。

「あるべきモノが何ひとつなくなってしまったんです。それはね、もうスゴい風景ですよ。
根こそぎ何もなくなった風景というのは」

震災後、男性は数え切れないほど被災地をまわられたという。
ある時は、捜索のために。
ある時は、ボランティアのために。
ある時は、仕事のために。

「その代わりと言ってはなんだけど、今までは見えなかったモノが、すぐ目の前に見えたり
してるんです。遠い海の向こうにあったはずの島とか。ビルとか家とか、遮るものが全部
なくなったから」

この話を聞いて、ボクは子どもの頃に祖父から聞いた原爆の話を思い出した。
被爆から1ヶ月ほど過ぎて、祖父は広島に訪れたという。
広島駅で汽車を降りた時、遠く広島湾に浮かんでいて絶対に広島駅からは見ることが出来なかった
似島という島が、駅の目の前に見えたという。

その話をボクは男性にした。
男性は、分かりますよ、という感じで何度も何度も深く頷いていた。

「神戸は2、3年で復興しましたけど、あれは日本の中枢都市だからなんですよね。岩手は違いますから。
岩手は日本の総生産の6%としか占めていないんです。だから復興にはほど遠い。10年・・・、いや
もしかしたら、50年かかる場所もあるかもしれません」

東北の被災地の風景は、原爆が投下された後の広島や長崎の風景とよく似ていると、実際に原爆に遭われた
方々がそう口にする。
しかし今回の震災では、原発事故まで起こってしまったために、単に風景だけでなく、そこで暮らす人々の
心情や身体的影響までも、広島や長崎とよく似た状況になってしまった。
広島や長崎には、そのことに対してとても悲しい思いを抱いている人が多いということを、ボクは
男性に伝えた。

「もしよろしければ、一度、東北へ来てください。どんなに言葉を重ねても表現しきれないモノも
あるんですよ。」

タバコを吸い終わってそれぞれの部屋に戻る時、男性は静かな口調でそう告げた。
ボクは一礼して、男性と別れた。

今回の旅行で、子ども達にとっては日本海の雄大さに触れたことが一番の思い出になったようだが、
ボクにとって最も印象的だった出来事は、この男性と出会ったことかもしれない。
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名もない海岸。

2012-07-29 | Weblog
昨日の日記にも書いたように、この休日は山陰へ家族で旅行に出かけました。

最初は、息子が最近日本史に興味を持ちはじめたので、出雲大社で開催されて
いる「神話博しまね」にだけ行くつもりだったのだけど、せっかくなら・・・と
いうことで、そのままなし崩し的に島根~鳥取を縦断する旅行になってしまった。
相変わらず、無計画な家族です(笑)

土曜日の早朝に、まず出雲大社にお参りして、その後、東隣の古代出雲博物館へ。

日本の古代史を塗り替えた、神庭荒神谷遺跡出土の358本の銅剣と加茂岩倉遺跡出土の
39個の銅鐸を見学した後、せっかくならそれらが出土した場所へ行こうということで、
神庭荒神谷遺跡へ行き、それから道なりに東へ走り、鳥取県へ。

娘が大好きな「名探偵コナン」の作者の出身地にあるコナンの博物館(資料館?)へ行き、
その夜は鳥取市内で一泊。

翌朝(今日ですね)、鳥取砂丘へ行き、灼熱の砂漠のような砂丘を彷徨い(笑)、
そこから今度は、中国山地を越えて、旧出雲街道の宿場町・岡山県勝山町へ。
連日猛暑、2日間で全走行距離・600km(しかも運転はずっと私)の
ちょっとハードな旅でしたが、いい気分転換になりました。

上述した立ち寄った場所では、それぞれ写真を撮ったので、この日記にも
それらの写真を1枚ずつ載せようかと思っていました。

でも、やめた。

なんだか、やぼったくなりそうだし、なによりも、めんどくさい(笑)
その代わりと言ってはなんだけど、今回の旅で最も印象深かった写真を
1枚だけUP。



この写真は、出雲から鳥取に向かう途中、休憩がてら何気なくクルマを停めた、
名もない海岸で撮ったもの。

どこまでも続く砂浜。
海と空を真っ二つに分ける水平線。
背後には、雄峰・大山の裾野が緩やかに広がっている。
ビルや工場はもちろん、民家も少なく、ボクが知る限り、この辺りは、おそらく
中国地方で唯一大陸的な風景が広がっている場所だと思う。
ボク自身、山陰地方で最も好きなエリアのひとつで、何度来ても心が洗われる。
子どもたちも、そんな雰囲気を心で感じ取ったのか、ふだん見慣れている瀬戸内海とは
まったく違う風景の中で、少し興奮気味に波打ち際でその風景を体感していました。

スケールのでかい観光施設や楽しいイベントが目的の旅行に出かけるのも悪くはないし、
ボクも今まで何度もそんな旅行に出かけたことがある。
でも、本来の「旅」在り方は、こうなんじゃないか?と、日本海で戯れる子どもたちを
眺めながらおぼろげに思った。

ナビに頼ったり、高速道路の標識ばかりを気にしていたら、とても素敵な場所を見過ごして
しまうこともあるのではないだろうか。
高速道路を下りて、自分の五感だけを頼りにクルマを走らせれていれば、途中、ちょっとした
偶然と感が働いて、名もないような場所で、忘れられない出来事と遭遇するかもしれない。

考えてみれば、旅も人生も同じだ。
ナビゲーションの付いている人生なんてないのだから。

家路をたどる時、子どもたちに「どこが一番おもしろかった?」と尋ねたら、2人とも
迷わず「海!」と答えていた。

やっぱり、思いつきで旅に出て、よかったです。
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山陰路。

2012-07-28 | Weblog
突発的衝動で、家族で山陰に来ています。

ただいま、出雲大社。
さて、これからどこへ行こうか。

それにしても、凄まじい暑さだ(;´Д`A
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父親ゆるキャラ化計画。

2012-07-27 | Weblog
どうも、うちの娘は私のことを「ゆるキャラ化」したいらしい・・・(-_-;)
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悲しみのJODY

2012-07-26 | Weblog
今日も暑い日になりそうです。

地球温暖化やら節電やらで、今までのような方法では
暑さをしのげないこのご時世。
せめて音楽でも聴いて、気持ちだけでも涼しくなりたいものです。

ボクの場合、そんな音楽はこれかな。

あぁ、ビールが飲みたくなってきた(笑)



♪山下達郎「悲しみのJODY」

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僕の走れなかった道。

2012-07-25 | Weblog
今では誰も信じてくれないけど、ボクは昔、陸上部だった。

子どもの頃のボクは、あまりスポーツが得意ではなく、野球とかサッカーとかバレーとか、そういった団体競技は、
もう本当に苦手で、そんなことをするくらいなら、一人で家でテレビや本を見ている方が好きな子どもだった。
今になって思えば、おそらく当時のボクには“協調性”というものが、少し(かなり)欠けていたのだと思う。
余談だけど、そのDNAは、そっくりそのまま、見事に息子に受け継がれている。

そんなボクが、スポーツの中で唯一と言っていいほど熱中したのが、陸上競技だった。
その中でも短距離走は本当に好きだったし、得意なスポーツだったと言ってもいいと思う。

陸上競技の良いところは、たったひとつ。
競う相手が自分自身、というところだ。

そんなところが、僕のこの少し屈折した性格とも相性が良かったのだろう。
成長期を迎えた小学6年生から突然足が速くなったボクは、中学入学後は陸上部に入部した。
中学時代の今ごろは、夏休み返上の部活で、炎天下の中、朝から汗だくになってトラックを何周も回っていた。
あの頃のボクにとって陸上は、大げさかもしれないが、ある意味“自分が生きている証”だったような気がする。

このCMを視て、そんなはるか昔のことを思い出した。

それと同時に、もうひとつのことも。
今のボクは陸上競技を遠く離れて、“広告のデザイン”という、まったく違うフィールドで生きている。
しかしフィールドは違えど、やはり今の僕にとっては広告のデザインが“自分が生きている証”なのかもしれない。
この仕事に就いた20年前、周りにはたくさんのデザイナーの卵がいた。
ボクもその中の一人だった。
それから時間が過ぎるに連れて、一人また一人と周りから仲間の姿が消えていった。
あるヤツは、卵のまま。
あるヤツは、幼いひな鳥のまま。
あるヤツは、成鳥になって飛び立ったのに、風にうまく乗れず、そのまま落ちていった。

そんな中、ボクはまだ走っている。
それが幸運だったのか、それともそうじゃなかったのかは、当事者のボクには分からない。
なぜなら陸上競技と同じで、ここで競う相手は誰でもない、自分自身なのだから。

走るしかない。
これからも、このトラックを。
それしか、ボクにできることはないのだから。

読売新聞CM「僕の走れなかった道」篇 90秒
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新天地。

2012-07-24 | Weblog
プロ野球選手なら誰でもいつでもあり得ることだと、見ているコチラ側の人間も、
今までもおぼろげに考えたこともあったと思う。

でも、いざ、それが現実になると、やっぱり驚いたな。

う~~ん・・・今までのユニフォーム姿に見慣れ過ぎていたのだろうか。
ヤンキースのユニフォームには、さすがにまだ違和感を覚えてしまう。

でも、がんばって欲しい。
どこへ行っても。
どこまでも。どこまでも。
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河口の対岸。

2012-07-23 | Weblog
オスプレイが、米軍岩国基地に陸揚げされた。

一昨日あたりから、オスプレイを載せて航行するマッコウクジラのような巨大船の
所在地が、テレビニュースで逐一報道されていた。
その一方、船が到着する岩国で陸揚げに反対運動をしている人たちの模様も詳しく
報道され続けていた。

反対運動をしている人々は、当初、岩国市役所前で運動していたようだ。
しかし、船が基地の岸壁に着岸した今朝になって、人々は市役所前から、基地の至近の
場所へと移動していた。

その光景をテレビニュースで視た瞬間、思わずハッとした。
その場所は、ボクもよく知っている場所だったからだ。

広島で暮らしていた20代前半の頃、初めて手に入れたオンボロ車で、ボクはよく
岩国までドライブに出かけた。
国道に沿って広がる石油コンビナート群や岩国市街を走り抜け、大きな河を渡ると、
今度はその川岸の道をひたすら走る。

そして、しばらく走ると、河口にたどり着いた。

間違っても、狭い河口ではない。
幅が数百メートルはある、まるでちょっとした海峡のような河口だ。
そこは岩国市街からも離れていて、民家もなく、夜になると人ひとりいない、
寂しいのを通り越えて怖くなるほど、まったくの漆黒の暗闇に包まれる場所だった。

そんな闇の向こう、河口の対岸に、米軍基地があった。

基地は、敷地内の照明によってオレンジ色に浮かび上がっていた。
クルマを停め、その灯りをぼんやりと眺めていると、その柔らかい灯りの中に吸い込まれそうな
錯覚を覚えるのと同時に、その灯りと比べ、自分を取り囲んでいる周囲の闇がどれほどまでに
深いのかを、否応に教えられたものだった。

灯りは見えても、基地の中は見えない。
微かに見える鉄条網の向こうに、数棟の建物と監視台。
肉眼で認識できるのは、その程度だ。
数え切れないほど訪れたが、その場所から、人や車、まして戦闘機の姿などを見ることは一度も
なかった。

基地は、いつも目の前にありながらも、大きな河口と暗闇に隔絶された、決して近づくことが
できない遥か彼方に存在していたのだ。

今朝、人々がオスプレイ陸揚げ反対のシュプレヒコールをあげていたのは、まさにその場所だった。
テレビニュースに映った基地の南側のその河口は、海に向かって大きく開かれ、夏の強い日差しに
霞んでしまったのか、河口の向こうに見えるはずの基地までは、テレビ画面を通して目にすることは
できなかった。

何も、変わっていないじゃないか。

朝のテレビニュースを視ながら、まだ完全に目覚めていない頭の片隅で、ボクはおぼろげにそう思った。
きっと、河口にいる人々の声が基地の中まで届くことはないだろう。
どんなに目の前に見えたとしても、基地と我々の間には、今も広大な河口と漆黒の闇が横たわっている気がしてならない。
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夏祭り。

2012-07-22 | Weblog
昨日は地元の神社、「天神さん」の夏祭りでした。

夕方、歩いて神社まで。
境内にたどり着くまでに、すれ違う人何度か会釈。
引っ越して来た時は、地区内に親戚も友達も、
知り合いなど一人もいなかったのに、それから7年
が過ぎて、その間に知り合いばかりになってしまった(笑)

鳥居の前では、地区子供会の役員の保護者が焼き鳥やビールを販売。
去年は、僕もここで焼き鳥を一心不乱に焼いてたのだ(笑)

「お疲れ様です」と保護者の親御さん方に労いの言葉をかけて、
僕もビールと焼き鳥とフランクフルトを買った。

境内はそんなに広いわけではないけど、本殿までの参道では
いくつかの露店が並んでいて、アイスクリームや金魚すくい。
その横の簡易のステージでは、老人会主催のカラオケ大会。
ゴザに座って、おじいちゃんやおばあちゃんのちょっと(いや、かなり…かな)
音程のはずれた演歌を聴きながら、さっき買ったビールと焼き鳥に
舌鼓。

こんな夏の過ごし方も、悪くない年齢になりはじめました(笑)。
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