「お前が大人になる頃、ここから四国までつながる橋が架かるんじゃ」
あれは、まだワタシが小学生になるかならないかの頃だった。
尾道大橋のたもとをクルマで走っていた時、ハンドルを握る父がワタシに向かってそう言った。
四国?つながる??橋???
しかし、当時6歳そこらだったワタシには、それは全く理解できない話だった。
フロントガラス越しに見える尾道大橋でさえ、幼児にとってはとてつもなく巨大な構造物に見えたのだから。
こんな大きな橋が、遥か彼方の四国まで何十本も連なって出来るのだろうか?
それとも、本州から四国まで、もっと超巨大な一本の橋が島や海を跨ぐように架かるのだろうか?
生まれて6年程度の人間の想像力なんて、所詮そんなものだった。
どんなに脳みそをフル回転させても、到底現実的に考えられることではなかったのだ。
しかし、その話を父から聞いた時、ワタシは妙にワクワクしたのを今でもよく憶えている。
行列のように何十本も橋が連なるにしろ、瀬戸内海に蓋をするように巨大な橋が架かるにしろ、そんなことはどっちでもいい。
とにかくなんだか、めちゃくちゃ面白そうだ・・・そんな風に思ったのだ。
具体的なことは横に置いといて、橋が架かることによって、今の生活や日常とは違う何かが起こることを、6歳児なりに予感したのだろう。
思い返せば、それは自身の現実に「未来」という言葉を重ね合わせた初めての体験だったような気がする。
キザな表現だけれど、その時「未来」は優しい微笑みをたたえて、明るく眩しい光で6歳児のワタシを照らしていたのだ。
それから、24年後。
父が言っていた通り、本州から四国まで橋でつながった。
ワタシは、30歳になろうとしていた。
前年に結婚し、その年の8月には、初めての子供も生まれる予定だった。
これまた父の言った通り、ワタシもちょうど「大人になる頃」を迎えようとしていた。
しかし橋は、6歳のワタシが想像していたものとはまったく違う姿をしていた。
それは連続した橋でも、とてつもなく巨大な橋でもなく、島づたいに7本の橋で本州と四国を結ぶという造り方だった。
「しまなみ海道」と名づけられたその橋を、ワタシが初めて家族と一緒にクルマで走ったのは、それからまた2年ほど過ぎてからだった。
しまなみ海道の真ん中辺り・・・愛媛県との県境にある多々羅大橋を走っていた時に、ワタシは6歳の時に父から聞いた「四国までつながる橋」の話を助手席の妻に語った。
四国まで橋でつながるという意味がよく分からなかったこと。
何十本も橋が連なるのだと思ったこと。
もしくは、巨大な一本の橋が海を跨ぐように架かるのかと思ったこと。
そんな想像をして、一人でワクワクしていたこと。
でも、完成した橋は島づたいに架かるという、非常に現実的な工法の橋だったこと。
未来なんて、そんなもんだ。
会話の最後に、笑いながらそんな言葉を口にしたような気がする。
当時30代になったワタシにとって、もう「未来」とは、ワクワクするものでも、優しく微笑んでくれるものでもなかった。
幼い頃に描く「未来」は、確かに明るく眩しい。だが、その代わりにおそろしく軽かった。
大人になって描く「未来」は、逆だ。
煌びやかな輝きはない代わりに、両手に伝わるようなずっしりとした質感が存在する。
とどのつまり、30代になったワタシは、6歳のワタシがあの時初めてしたように、「未来」は現実と重ね合わせることでしか見えて来ないのだと、それまでの経験から学習していたのだと思う。
しまなみ海道が開通した頃のワタシの「未来」は、助手席に座る妻と後部座席のチャイルドシートで眠る娘という「現実」の先にしか存在しなかった。
あれからさらに月日が過ぎて、娘も成長してチャイルドシートが不必要になり、そして4年後に生まれた息子も瞬く間にチャイルドシートが要無しとなり、そのうちクルマも窮屈になりはじめ、数年前に買い換えた。
そうやってその時その時の出来事を受け入れながら走り続け、そして今も、相変わらず助手席には妻が乗り、後部座席には二人の子どもが座っている。
やっぱり、「未来」なんて、そんなもんなのだ。
しまなみ海道が開通した当初は、「本州から四国に3本も橋を架ける必要があるのか」という批判があった。
その矢面に立たされたのは、3本の中でも最も通行量が少ないしまなみ海道だった。
しかし、開通から16年が過ぎた今、しまなみ海道は「サイクリングの聖地」として、連日サイクリストで賑わっている。
開通当初はサイクリングの“サ”の字もなかったのに、どうしてこうなったのか詳しい経緯をワタシは知らない。
おそらく、自転車で走りながら望むしまなみ海道の眺望と快適さが少しずつ少しずつ伝播して、気がつけば今のような状況になっていったのだろう。
あえて擬人化するならば、しまなみ海道も、自身の現実に重ね合わせた先に、「未来」を紡いでいったのだ。
きっと、ワタシの「未来」も同じなのだろう。
もう、未来に過度な期待はしない。
かといって、必要以上に悲観もしない。
ただ、その時その時の自分と周囲の「現実」を重ね合わせて、その先に自身の「未来」を紡いでいくだけなのだと思う。
「未来なんて、そんなもんだ」と、口にしながら。
今年もありがとうございました。
2016年が、皆様にとって素晴らしい年になることをお祈りしています。
浜田省吾「日はまた昇る」
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あれは、まだワタシが小学生になるかならないかの頃だった。
尾道大橋のたもとをクルマで走っていた時、ハンドルを握る父がワタシに向かってそう言った。
四国?つながる??橋???
しかし、当時6歳そこらだったワタシには、それは全く理解できない話だった。
フロントガラス越しに見える尾道大橋でさえ、幼児にとってはとてつもなく巨大な構造物に見えたのだから。
こんな大きな橋が、遥か彼方の四国まで何十本も連なって出来るのだろうか?
それとも、本州から四国まで、もっと超巨大な一本の橋が島や海を跨ぐように架かるのだろうか?
生まれて6年程度の人間の想像力なんて、所詮そんなものだった。
どんなに脳みそをフル回転させても、到底現実的に考えられることではなかったのだ。
しかし、その話を父から聞いた時、ワタシは妙にワクワクしたのを今でもよく憶えている。
行列のように何十本も橋が連なるにしろ、瀬戸内海に蓋をするように巨大な橋が架かるにしろ、そんなことはどっちでもいい。
とにかくなんだか、めちゃくちゃ面白そうだ・・・そんな風に思ったのだ。
具体的なことは横に置いといて、橋が架かることによって、今の生活や日常とは違う何かが起こることを、6歳児なりに予感したのだろう。
思い返せば、それは自身の現実に「未来」という言葉を重ね合わせた初めての体験だったような気がする。
キザな表現だけれど、その時「未来」は優しい微笑みをたたえて、明るく眩しい光で6歳児のワタシを照らしていたのだ。
それから、24年後。
父が言っていた通り、本州から四国まで橋でつながった。
ワタシは、30歳になろうとしていた。
前年に結婚し、その年の8月には、初めての子供も生まれる予定だった。
これまた父の言った通り、ワタシもちょうど「大人になる頃」を迎えようとしていた。
しかし橋は、6歳のワタシが想像していたものとはまったく違う姿をしていた。
それは連続した橋でも、とてつもなく巨大な橋でもなく、島づたいに7本の橋で本州と四国を結ぶという造り方だった。
「しまなみ海道」と名づけられたその橋を、ワタシが初めて家族と一緒にクルマで走ったのは、それからまた2年ほど過ぎてからだった。
しまなみ海道の真ん中辺り・・・愛媛県との県境にある多々羅大橋を走っていた時に、ワタシは6歳の時に父から聞いた「四国までつながる橋」の話を助手席の妻に語った。
四国まで橋でつながるという意味がよく分からなかったこと。
何十本も橋が連なるのだと思ったこと。
もしくは、巨大な一本の橋が海を跨ぐように架かるのかと思ったこと。
そんな想像をして、一人でワクワクしていたこと。
でも、完成した橋は島づたいに架かるという、非常に現実的な工法の橋だったこと。
未来なんて、そんなもんだ。
会話の最後に、笑いながらそんな言葉を口にしたような気がする。
当時30代になったワタシにとって、もう「未来」とは、ワクワクするものでも、優しく微笑んでくれるものでもなかった。
幼い頃に描く「未来」は、確かに明るく眩しい。だが、その代わりにおそろしく軽かった。
大人になって描く「未来」は、逆だ。
煌びやかな輝きはない代わりに、両手に伝わるようなずっしりとした質感が存在する。
とどのつまり、30代になったワタシは、6歳のワタシがあの時初めてしたように、「未来」は現実と重ね合わせることでしか見えて来ないのだと、それまでの経験から学習していたのだと思う。
しまなみ海道が開通した頃のワタシの「未来」は、助手席に座る妻と後部座席のチャイルドシートで眠る娘という「現実」の先にしか存在しなかった。
あれからさらに月日が過ぎて、娘も成長してチャイルドシートが不必要になり、そして4年後に生まれた息子も瞬く間にチャイルドシートが要無しとなり、そのうちクルマも窮屈になりはじめ、数年前に買い換えた。
そうやってその時その時の出来事を受け入れながら走り続け、そして今も、相変わらず助手席には妻が乗り、後部座席には二人の子どもが座っている。
やっぱり、「未来」なんて、そんなもんなのだ。
しまなみ海道が開通した当初は、「本州から四国に3本も橋を架ける必要があるのか」という批判があった。
その矢面に立たされたのは、3本の中でも最も通行量が少ないしまなみ海道だった。
しかし、開通から16年が過ぎた今、しまなみ海道は「サイクリングの聖地」として、連日サイクリストで賑わっている。
開通当初はサイクリングの“サ”の字もなかったのに、どうしてこうなったのか詳しい経緯をワタシは知らない。
おそらく、自転車で走りながら望むしまなみ海道の眺望と快適さが少しずつ少しずつ伝播して、気がつけば今のような状況になっていったのだろう。
あえて擬人化するならば、しまなみ海道も、自身の現実に重ね合わせた先に、「未来」を紡いでいったのだ。
きっと、ワタシの「未来」も同じなのだろう。
もう、未来に過度な期待はしない。
かといって、必要以上に悲観もしない。
ただ、その時その時の自分と周囲の「現実」を重ね合わせて、その先に自身の「未来」を紡いでいくだけなのだと思う。
「未来なんて、そんなもんだ」と、口にしながら。
今年もありがとうございました。
2016年が、皆様にとって素晴らしい年になることをお祈りしています。
浜田省吾「日はまた昇る」
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