りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

みかん畑。

2011-11-30 | Weblog
この季節になると、自宅の周囲のみかん畑で、みかんがたわわに実っている。

山の斜面に並ぶ木々に、橙色の点々が広がっている。
山の斜面だけではない。
道端の平地、手を伸ばせばすぐみかんが獲れるような場所にもみかん畑がある。

子どもの頃、学校の帰り道に、通学路のすぐ横にあるみかん畑のみかんを
たま~~に、拝借することがあった。
すると、それを見ていた同級生の女の子や下級生の子たちが、
「♪い~~けないんだぁ~、いけないんだぁ~~♪」と囃し立てることが
あったが、その度に「うるせー」とか「お前もいるか?」と言って、まったく
悪びれることがなかった。
罪悪感がなかったわけではないが、自分を取り囲む風景の360°すべてがみかん畑
という中で生活していたから、農家のおじさんおばさんが丹精込めて作ったみかん
が1個や2個なくなることよりも、僕の中では、帰り道に手に入れたみかんの甘さや
瑞々しさの方がはるかに勝っていたのだ。

しかし、そんな思い出も、完全に過去の話になってしまった。

子どもの頃、みかんに覆い尽くされていた僕が暮らす島も、今から20年ほど前から
一気にみかん畑が激減した。
初冬には橙色の斑点が広がっていた山の畑はそのほとんどが荒れ果て、平地の畑は
次々と宅地化されていった。

直接の原因は、80年代後半のオレンジ自由化だった。

安価で美味しいオレンジが海外から輸入されはじめるのと同時に、廃業に追い込まれた
みかん農家は全国で数え切れない。
僕が暮らすこの島も例外ではなかった。

それ以来、初夏のみかんの花から漂う香りや、初冬のたわわに実ったみかんが、日常の
風景からずいぶん遠ざかってしまった気がする。
たまたま僕の住む地区にはみかん畑が残っているが、島全体で考えれば、オレンジ自由化
以前の半分くらいにまで減ったのではないだろうか。

近所のみかん畑で、今に落ちそうなほど豊かに実ったみかん。
子どもたちが道端でもの欲しそうな目をすることがあるが、決して獲らないように注意
している。昔の自分のことは棚に上げて。

もうこれ以上、みかん畑がなくなってしまうのは、あまりにも寂しいから。
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マラソン大会。

2011-11-29 | Weblog
僕の子どもたちが通う小学校では、来月マラソン大会がある。

昨日も小6の娘と小2の息子は、体育の時間はマラソンの練習だったそうだ。
マラソンについて僕が2人に尋ねると、途端にいつもより声が低く暗くなり、
そして一丁前に深いため息をつく。
その言動を見る限り、どうやら2人ともマラソンは苦手のようだ。
そんな2人の姿を目にしながら、僕は苦笑いを顔に浮かべる。

今では自分でも信じられないが、僕は中学時代は陸上部で、小学生の時も短距離
走はクラスでもトップクラスの速さだった。

しかし、その反動かどうか分からないが、マラソンは苦手だった。
短距離はトップクラスでも、長距離になると順位でいえば真ん中あたり、下手を
すれば下位争いに参加することもあった。
ちなみに妻に訊くと、彼女も子どもの頃はマラソンが苦手だったそうだ。
もっとも、妻はスポーツ全般が今も昔も苦手なのだが(^_^;)

まぁ、とにもかくにも、うちの子どもたちは、マラソンに関しては親のDNAを
しっかりを受け継いでくれたようなのである。

そんな僕であったが、小学校6年生の時のマラソン大会だけは、今でもハッキリと
覚えている。

それには理由があった。

マラソンのコースは、まずグラウンドを1周し、そこから校外へ出て、ひたすら
海岸に沿った道路を走り、そして1kmほど走った先に防波堤があって、そこが
折り返し地点となっていて、そこでUターンしてまた小学校へ戻る・・・という、
距離にして往復約2km弱程度だった。

これが小学校最後のマラソン・・・ということを意識したのかどうか、今では
よく覚えていない。
しかし、折り返し地点にたどり着いた時、最下位から数えた方が早かった僕は、
なぜかそこから猛ダッシュをしたのだ。
何人抜いたか、分からない。
しかし、“ごぼう抜き”という言葉はあのようなことを言うのだろう、と思う
ほど、僕は先を走る同級生たちを次々と抜いていった。

結果、12位だった。

同級生の男子は30余名だったはずだから、そんなに上位というわけではない。
それでもその順位は、僕にとっては過去最高位だった。

しかし、今でもハッキリと覚えている理由は、それだけではなかったのである。
なぜ僕がこの時のマラソン大会の順位を今でも覚えているのか、その本当の理由
を、これから下に書く。

12月12日、12歳、12番、12分、12位。

日付、年齢、出席番号、タイム、順位、すべて“12”だったのである。
これを知った時、まだ子どもだった僕も、さすがにちょっと背筋が寒くなるモノ
を感じた。
折り返し地点の突然の猛ダッシュといい、この数字の偶然といい、大人になった
今でも、何か神がかったモノを感じざるを得ない。

そんな経験をしたから、それ以降、マラソンが大好きになった・・・と書けば
この日記もキレイに終わるのだろうが、残念ながらそれからもマラソンや駅伝
は苦手なままで、大人になった今では、そんな長距離を走ることはなくなった
が、それでも苦手かどうかと尋ねられれば、やっぱり苦手だ(笑)

子どもたちには、別に高順位になって欲しいとは思っていない。

しんどくなったら歩いてもいい。
最後まで諦めずに、ちゃんとゴールしてくれれば、それでいい。
結局、マラソンの目的というのは、そういうことなのだと、僕は思う。
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夜のお伴。

2011-11-28 | Weblog
最近の我が家にはビール(発泡酒含む)がない。

ずいぶん前に「金麦(強制的)卒業」をしたことが、
直接の原因ではあるが、その代わりに他のお酒類が
冷蔵庫を占拠しはじめた。

チューハイ関係とカクテル類。

最近は、いろんなチューハイやカクテルがあるんだねぇ。
今夜は“いちごミルク”のカクテル。
口にしたら、たしかにカクテルなんだけど、よくもまぁ、
いちごミルクと合体させたもんだ。
その他にもミックスジュースのチューハイとかもあったり。

冷蔵庫の中で最も多いのが“ほろよい”シリーズ。
カルピス、みかん、りんごのチューハイが我が物顔で冷蔵庫
の中で並んでいる。

元々、僕はそんなにお酒を飲まない。
飲んだとしても、寝る間際、テレビでニュースやDVDを
見ながら・・・という感じ。

外に飲みに出ても、最初はビールを飲むが、それも中ジョッキ2杯も
飲めばいい方で、その次からはアルコール感が弱いチューハイに
変えることが多い。

だから、“夜のお伴”は、こんな限りなくソフトドリンクに
近いアルコールで十分満足だし、十分酔えるのである。

さて、明日の夜は何を飲もうか?
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マイ・ホーム・タウン。

2011-11-27 | Weblog
昨日は午後から広島に行ってきた。

いろんな人に会った。

再会もあれば、新しい出会いもあった。

1日に会う人の数としては、僕の中ではちょっと許容量を

超えるくらいの人数だったかもしれない。

別に人疲れをしたわけではないけど、

夜、帰る時、妙にテンションが上がったままだった。

少しヒートダウンさせて帰った方がいいな・・・。

そう思ったけど、どうすればいいか分からない。

しかも勝手なもんでたくさんの人に会って、いきなり

帰り道は1人になったからか、妙に人恋しい気持ちもある。

・・・・そんなわけで、帰る前に広島の流川に寄った。

祭りでもないのに、溢れるような人ゴミでごった返す、

中四国随一の歓楽街を1人で徘徊。

きらびやかなネオンと人並みの中をブラブラしながら思った。

僕にとって広島は、たぶん故郷になっているんだろう・・・と。

20歳前後の6年間を過ごしたこの街。

人生で最も多感で感受性が強い時期をこの街で過ごした。

辛い出来事や悲しい出来事や惨めな出来事も、数えきれないほど

この街で経験した。

でも、今ではそんな出来事の記憶はスッポリと抜け落ちるように

消えて、楽しかった記憶しか残っていない。

結婚して以来、家族で訪れることも多くなった。

しかし、妻や子どもたちには申し訳ないが、この街には今回のように

1人で訪れた方が僕は落ち着く。

もしかしたら、それは妻や子どもたちと出会う前の、若く無知で

意味のないプライドしか持っていなかったあの頃の僕が、今も街の

いたる所にひっそりと息づいているからかも知れない。
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流星ワゴン、再読。

2011-11-26 | Weblog
この1週間ほど、重松清の「流星ワゴン」を久しぶりに読んでいた。

以前に読んだのは、今から4年ほど前だったと思う。
当時、僕は主人公とほぼ同い年だった。

それから4年が過ぎて、僕は主人公よりも年上になった。
しかし、物語に登場してくる主人公の息子は12歳。
そしてもう一人の登場人物の少年、健太くんは8歳。
奇しくも、僕の子どもは、今年この二人と同い年になった。
もっとも、これについては、読みはじめて気づいたのだが。

先日読んだ荻原浩の「あの日にドライブ」にしろ、
今回の「流星ワゴン」にしろ、書かれているテーマはほとんど
同じだと言っていいと思う。

人生のやり直し。

自分の思い描いていた人生があっけなく崩壊したごく平凡な
40男の後悔と未来。
それについて、それぞれの筆致で綴られている作品だ。

この「流星ワゴン」には、様々な人間関係が描かれている。
しかし、それらは複雑な人間関係などではない。

ひと言でいえば、親子だ。
この物語は、それを様々な視点・立場から描かれている。

前回読んだ時には、主人公と妻の美代子の関係の行く末が
最も心に残った。
主題の「親子」よりも、物語においては傍流の関係である
「夫婦」の関係の方が僕には気になったのだ。

今考えれば、その頃の僕は、まだ子どもも幼かったためか、
親子のつながりよりも夫婦のつながりの方に重心を置いて
いたのかも知れない。

今回読んで、最も心に残ったのは、美代子との夫婦関係ではなく、
やはり親子の関係だった。

人の親となって12年。
大仰かも知れないが、この4年間でやっと僕もこの小説に
追いついたのかもしれない。

僕はたしかに2児の父だが、それと同時に、両親が健在なので、
両親の長男でもある。
つまり、まだ誰かの子どもなのだ。

読み進むうちに、そのことをあらためて思い出した。

たった2kmほどしか離れていない僕の実家。
そこには、最近やけに年を取ったように感じる両親が2人で
暮らしている。
徒歩でも帰れるその実家に、しばらくゆっくり帰っていない。

年末年始も近いが、その前に、理由はないけど、泊まりがけで帰ろうか。
自分の子どもたちを連れて・・・。
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PTA会長。

2011-11-25 | Weblog
ちょっと前の話。

我が家に小2の息子の同級生のお母さんから電話があった。
僕は不在だったので電話には妻が出たのだが、帰宅後、
その内容を妻から聞いて、僕は自分の耳を疑った。

「小学校のPTA会長を、あなたにお願いしたいって」

絶句した。
はぁ~?
何言ってんだよ??
なんで???
なんでーーーーーっ????

妻(正確には電話の向こうの同級生のお母さん)の話によると、
そのお母さんは今年の役員らしく、来年の役員を決めるにあたって、
会合を開いた時に、僕の名前を出たらしく、その後何人かの方が、
僕を推薦したらしい。

妻曰く、昨年、一昨年の2年間、学校ではなく地区の役員をしていた
ので、その時の動きっぷりが印象に残った保護者がいたのではないか?・・・と。

たしかに。
ちょっと僕も思い当たるフシがあった。

地区の会長と社協の役員を2年連続でしていたので、学校の行事には
関係しなかったが、地区の子どもたちの行事には、積極的に参加した。
・・・というより参加せざる得なかった(笑)

性格上、一度引き受けたら、よっぽどのことがない限り手を抜いたり、
怠るようなことはしたくないのが、僕の長所であり短所なのだと思う。
だから、ある意味、動き過ぎて目立ってしまったのかもしれない・・・・。

「どうする?」

と、妻が尋ねた。
どーするもこーするもないだろう!
断るよ!!
絶対に断るよ!!!

2年間、地区の役員をしていた時は、日曜日も祝日もなかった。
おかげで、2年間は小説やポスターのデザインといった、仕事とは別の
個人的な創作活動が事実上ストップしてしまった。
今年はそれらから解放されたぶん、もう2年分の溜まったモノを吐き出す
ように創作活動に力を注入しまくった。

それなのに。
これでまたPTA会長になった日には、ただでさえ少ない自分の時間が
さらになくなってしまう。

それにもうひとつ大事なこと。

僕はリーダーの器ではない。
これは謙遜でも何でもなくて、本当にそう思う。
僕は、2番手3番手の人間なのだ。
カッコよく言えば、参謀タイプなのだと思う。
リーダーの横や裏で動く方が性に合っている。
ちなみに好きな戦国大名は、豊臣秀長や小早川隆景だ。
歴史好きな人なら、分かってくれるだろう(笑)?

だからPTA会長の一件は、後日、再度電話がかかってきた時に、丁重に
お断りした。

しかし・・・・誰が僕を推薦したんだろう?

憤るような、でもちょっと嬉しいような・・・こんな感覚は初めてだ(笑)
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季節が変わる。

2011-11-24 | Weblog
今日は北風が冷たい。

季節がまた変わろうとしている。

しかし、今年は秋がなかったような気がする。

でも、季節は明らかに変わろうとしている。

知人のブログに、こんな日記が書いてあった。

以下、ちょっと拝借して、一部修正して転載した。

(YABUさん、ごめんなさいね)

---------------------------------------------------------------------

妻は、季節の変わり目を俺で計っているみたいだ。

就寝時、フローリングの上にはみ出さないでちゃんと布団の上で寝るようになったら…秋。

風呂上り、Tシャツの上にカーディガンを羽織るようになったら…初冬。

食後、アイスコーヒーじゃなくホットコーヒーを飲むようになったら…冬。

----------------------------------------------------------------------

こういう季節の感じ方。

そして、こういう間柄。

読むうちに、暖かい何かが身体に染みてくる。

やっぱり、季節が変わろうとしているらしい。
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川柳。

2011-11-23 | Weblog
娘が学校の宿題で、川柳を作らなければいけないらしい。


お題は、「今年最も印象に残った出来事」。


例に漏れずに、というか、やはり娘も今年最も印象に残った出来事は、
東日本大震災だったようで、「震災」や「原発」を題材に作ろうと
思っているようだ。
しかし、中々上手くまとまらないようで、苦闘している。

それを雑談がてら何気なく相談された。
こちとら、これでも文学賞で受賞したり電子書籍で作品を発表して
いるアマチュア作家の端くれだ。
一緒に川柳を考えた。
しかし敢えて「震災」や「原発」を避けて考えてみた。


以下が僕が作った作品。


●野田首相/よくよく見れば/上島だ
●野田首相/来年あたり/何してる?
●エリエール/今日から我が家は/スコッティ
●このテッシュ/いくらになるの/カジノでは
●澤穂希/よくよく見れば/寛平ちゃん

・・・もちろん、すべて娘には却下されました(笑)
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キャスケット。

2011-11-22 | Weblog
先日の日曜日、キャスケットを購入した。

僕は頭が丸坊主だ。
だからか、何を着ても、どうしても全体のバランスが悪くなってしまう。
そして季節的にも、これからは丸坊主のままで外出すると、凍死してしまう可能性もある(爆)
そんなわけで、僕にとっては帽子は必須アイテムのひとつとなっている。

気がつくと、帽子が増えた。

ハンチングは、4つ。
キャップは、2つ。
ニット帽は、3つ。
ハットは、どうも似合わないから持っていない。

そんな僕にとって、キャスケットはどうしても手に入れたい帽子のひとつだった。
別に今、流行っているわけでもないのに、どうして欲しかったのか?

それは映画の影響が大きいかもしれない。

僕が大好きな映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」や「アンタッチャブル」
の世界。つまり、1920年頃のアメリカを舞台にした映画には、必ずと言っていいほどキャス
ケットを被った人物が登場する。

キャスケットに白いシャツに股上の深い褐色系のパンツにサスペンダー。

時代遅れもヘッタクレもない。
一度でいいから、こんな格好をしてみたい。

しかし。

今までどこでどう探しても、ピッタリと来る「あ、コレだ!」というキャスケットと
出会わなかった。
どうしても、何かが違うのだ。
結局、僕の顔があまりにも東洋人だからかなぁ、とか、頭がデカイからピッタリの
サイズのキャスケットはこの世にないのかなぁ・・・と、半ば諦めていた。

だが、見つけてしまった。

頭のサイズにピッタリ過ぎて、ちょっとキツい気がするけど、なかなか悪くない。
色や柄も飽きない気がする。
購入前に側にいた妻に被った姿を見せたところ、
「うん・・・ま、別にいいんじゃないの?」
・・・と、あまり興味のなさそうな反応も僕を後押しした(笑)

というわけで、念願のキャスケットをついに購入した。

今冬、どこかで出会うであろう皆さん、たぶんその時は、いつもこのキャスケットを
僕は被っていることだろう(笑)
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叔父さん。

2011-11-21 | Weblog
夕べ、夢を見た。

母の弟、つまり僕の叔父さんが出てきた。
母と7歳違いで、幼い頃から僕を可愛がってくれ、長男だった僕にとっては、
まるで年の離れた兄貴のような存在だった。
人生の節目節目で、僕は叔父の世話になったり相談をした。
進学、就職、帰郷、転職、そして、結婚・・・。
叔父はそんな僕の節目に直接的間接的に関わらず、いつも僕を助けてくれた。

実際、結婚して最初に借りた新居は、叔父の家のすぐ近くの借家だった。
隣に住む大家さんも、近所づきあいのある人の甥ということで、格安の家賃
にしてくれた。

それから家が近所になったということもあって、僕と叔父は頻繁に一緒に
出かけるようになった。
クルマ好きな叔父は、40代後半なのにスポーツカーに乗っていた。

余談だが、僕が幼い頃から今までずっとクルマが好きなのは、この叔父の影響
である。
2~3歳の僕を助手席に乗せ、国道の対抗車線を走るクルマの名前を次々と言う
のだ。脳みそがまだ柔らかい僕は、否応にそのクルマの名前を覚えてしまう。
2歳ちょっとで、「ブルーバード」と「コロナ」と「カローラ」の違いが
分かっていた幼児は、当時の日本できっと僕1人くらいだっただろう(笑)

とにかくそのスポーツカーに乗って、僕と叔父は夜中にドライブをした。
広島へ行ったり、岡山へ行ったり・・・。
時には、突然「おい、明石焼きを食いに行こう」と誘われ、平日の夜中に
200km近く離れた兵庫県の明石市まで高速をぶっ飛ばして明石焼きを食べに
行ったこともある。

叔父は牡蠣の加工工場を経営していた。
32歳の時に立ち上げて、絶対に失敗すると周囲が冷ややかな目で見る中で、
必死に働いて働いて働いて、従業員10人足らずの会社なのに、売上十数億円の
会社にまでにした。

ドライブの道中、僕と叔父はいろんな話をした。
叔父の会社のこと。僕の会社のこと。仕事のこと。家庭のこと。親のこと・・・。
当時、僕は30代前半、叔父は50歳になったばかり。
まだまだ人生の羅針盤が頼りなかった当時の僕には、叔父の口から出る言葉や
存在そのものが、大きな安心感になっていたことは否めない。

しかし、その叔父は、もうこの世にはいない。

2002年の初め、心筋梗塞で亡くなった。
長年、糖尿病を患っていた叔父は、最後は目が見えなくなり、指先が壊死し、
全身がむくみ、そして正月気分がやっと抜けはじめた冬の朝、就寝していた
布団の中で冷たくなっていた。
52歳だった。

上述したように直接の死因は心筋梗塞で、その原因は糖尿病だったが、
その元を質せば、過労だったことは誰もが否定しなかった。
働いて働いて働き続けた叔父は、ろくに健康診断も受けなかったし、
糖尿病と分かっても、適切な処置を怠ることが多かった。
インシュリンよりも仕事、という人だったのだ。

亡くなってしばらくは、僕は胸に大きな穴が開いたような、それまで経験を
したことがなかったような喪失感に襲われた。
30代がはじまったばかりで、家庭を持ち、父親になり、本当にこれから相談を
したいことが山ほど出てくる時に、最も近くで支えてくれていた人を失ったような
気がして、僕の羅針盤は本当に迷い狂ったようにクルクルとまわり続けた。

そんな僕も、なんとか30代を無事にクリアし、42歳になった。
そんな時に、叔父が夢に出てきたのだった。

夢の中の叔父は、濃紺のスーツを着ていた。
赤いネクタイをしていて、まるで就活中の学生のような出で立ちだった。
風貌は、亡くなる直前のようなむくんだ体型でも、糖尿病でガリガリに痩せていた頃の
体型でもなく、僕がクルマの助手席に乗せられてクルマの名前を覚えさせられていた頃、
おそらく20代前半の頃のような若々しい風貌だった。
そんな叔父が僕の前に突然現れた。
「おう」と、懐かしい笑顔で僕に声をかけて。

以下は、夢の中での叔父と僕の会話である。

「叔父さん・・・?」
「元気そうじゃの」
「うん、なんとかね・・・叔父さんは?病気、治ったん?」
「おう、なんとかなったわ、心配かけたのう」
「会社は?仕事はまたはじめたの?」
「いや、もう辞めた」
「辞めた?」
「ああ、もう辞めた。会社は人に譲ったわ」
「え?」
「今は◯◯◯(地元の食品会社)で働いとる」
「ホントに?」
「あぁ・・・もうええんじゃ、今は営業マンよ。また一から出直しじゃ」
叔父は、そういうと鼻で笑い、そして
「◯◯◯◯(僕の名前)」と呼びかけ、こう言った。

「・・・お前も、気をつけぇよ」

そこで、目が覚めた。
最近は夢を見ても、ハッキリと覚えていることが少なくなったのに、
今回の夢は、烙印を押されたようにハッキリと目覚めた僕の頭の中に残った。

10年ぶりに再会した、叔父さん。

いったい、僕に何を伝えたかったのだろう・・・。
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