林檎乃「とほほ・・・。」ブログ

林檎乃麗の「とほほ・・・。」な日常を綴っています。 

そいや!-保存蒸機取材

2010-06-15 | 鉄道・旅行
そもそも最初に保存蒸気機関車に興味を持ったのは、
千葉公園で偶然川崎製鉄で使用されていた「NUS5」を見つけたことが始まりである。
当時はまだ千葉県がんセンターに通院中で、
たまたま昼食を喰いすぎたために千葉公園内を散歩しようと思った。
千葉公園は戦前に鉄道連隊のあった場所で、その遺構を探そうと思ったのだ。
しかし蒸気機関車の保存機があるとは思っても見なかった。
「NUS5」は戦後に川崎製鉄千葉製鉄所で構内の資材運搬用に使用されたもので、
廃車後に千葉市に寄贈された様である。
そのあと色々と調べてみたら、川崎製鉄で使用されていた“NUSシリーズ”が、
まだ幾つか保存されている様で、
6月12日土曜日に残りの「NUS6」と「NUS7」の取材を企画したのである。
事前にネットで調べたところに寄ると、
「NUS6」は蘇我駅北口から直線で370mの距離にある菰池公園で静態保存されている。
因みに「菰池公園」は「こもいけ…」と読む。
「NUS7」は京葉線稲毛海岸駅近くの稲岸公園で静態保存されていて、
これは仕事中に目撃していて、何時か取材に行きたいと予てから思っていた。
それに薬園台の公園で保存されているD51型125号機を含め、
3か所の保存蒸機取材を決行したのだ。

当日、何時も会社に行く時間にJR幕張駅に行き、そこから千葉に行く。
下り電車に乗ろうとしたら快速の側線に「華」が入線してきた。
「華」はJR東日本大宮支社小山車両センターに所属するジョイフルトレインである。
千葉に行って「そば処 万葉」でかき揚げうどんを喰い、
内房線のホームに上がると「華」が停まっていた。



臨時列車「お座敷さくらんぼエクスプレス」に充当されている様で、
甲府行きになっていた。
ここから蘇我に行き、北口を出て菰池公園を目指す。
ここに「NUS6」が静態保存されている。



屋根のある場所に保存されているが、悪戯書きが多いのが残念である。
更に説明書きも悪戯されて読めなくなっている。
しかし千葉公園にあるのと同じC型タンク飽和機関車である。
これを取材して蘇我駅まで戻り、京葉線に乗り換えて稲毛海岸まで行く。
ここは仕事の担当エリアでもあり、小さなタンク車があるのは前から知っていた。
駅から歩いて10分くらいの距離に稲岸公園がある。



ここは民間の練習飛行場があった場所で、
そのことを記念したモニュメントもあり、
そこには以下の様に書かれている。

 1912年5月奈良原三次氏
 この海浜に初めて練習飛行場を創設
 教官白戸栄之助氏により飛行士の養成をはじめた
 この地がわが民間航空発祥の地である

 1971年7月
      伊藤音次郎 記
      航空振興財団

今は埋め立てられて海まで少し距離があるが、
かつてはこの場所も海岸の一部であった場所である。
何故この場所に「NUS7」があるのかは謎だ。
蘇我に関しては近くに川鉄病院もあり、この公が選ばれたことは分かる。
稲岸公園では屋根はないが、保存状態はいい方だ。



ここで「NUS7」を取材して、「地雷屋」で昼食を取り、
徒歩で京成稲毛駅まで移動する。
京成千葉線は新京成と相互直通運転されており、
松戸行きと津田沼止まりが交互にやってくる。
松戸行きを待って習志野まで行き、そこから薬園台公園に行く。
この中にある船橋市郷土資料館にD51型125号機が静態保存されている。
この機関車も屋根の付いた場所に保存されており、保存状態はいい。



またここは習志野という地名の発祥の地として、その記念碑が建てられている。
記念碑の場には説明文があり、以下の様に書かれている。

 習志野地名発祥の地 附 明治天皇駐ひつ之処の碑

  現在の船橋市習志野台・習志野付近一帯は、かつて、大和田原あるいは正伯原ともいわれ、
 江戸時代には幕府の牧(馬の放牧場)の一部でした。
 その後、明治7(1874)年から昭和20(1945)年までは陸軍の演習場でした。
  明治6(1873)年4月29日、明治天皇は徳大寺宮内卿・西郷隆盛・篠原国幹ほか
 多くの供奉者を従え、薩摩・長州・土佐の兵からなる四個大隊2800人の近衛隊を率いて、
 県下に初めて行幸されました。
 午後には船橋宿九日市村に到着し、櫻屋で昼食をとられました。
 その夜は荒天にもかかわらず、演習地の幕舎に野営されました。
  翌30日は近衛兵の演習をご覧になり、5月1日皇居へ還御されました。
 同13日天皇より勅諭をもって、この原に「習志野ノ原」の名を賜わり、
 その後、陸軍の演習場として定められました。
 これが現在の「習志野」の地名の由来です。

このD51型125号機には休日には説明員が付いており、色々と話を伺った。
実際にSLの運転の経験がある方であるようで、面白い話が聞けた。
今までいくつもの保存蒸機を見てきたが、その中で疑問に思っていたことがある。
それはどうもリアリティーに欠けるということ。
実際に線路の上を走ってきた機体とは思えない気がしていた。
それは塗色の問題だという。
このD51型125号機もそうだが、
管理する船橋市は入札で塗り替えの業者や塗料を決めてしまう。
そこには鉄道の知識や経験は問われないので、
金属の部分は全て同じ色の塗料で塗ってしまうとのこと。
実際にD51型125号機も船に使用する塗料で塗られているため、
毎日SLを見てきた自分にとっては物凄い違和感を覚えると仰っていた。
この後国道296号を歩いて薬園台駅まで行き、
上野に用事があったため、駅取材のあとに新鎌ヶ谷経由で北総線に乗り換える。
ここで新型スカイライナー用AE形を見かける。



テレビでも既にCMが流れているが、現物を見るのは初めてである。
今までスカイライナーは京成本線経由で上野、日暮里と成田空港を結んでいたが、
新型スカイライナーは北総線経由で成田空港を結ぶ。
そのためカーブの多い本線経由よりスピードも出て、距離も近いため36分と時間短縮になる。
新AE形はそれに合わせて山本寛斎氏にデザインを依頼した新型車で、
それまでの京成電鉄のどちらかといえば鈍臭いデザインからは脱却している。
しかも試運転のため、意外と頻繁に見かける。



むしろ開業前の方が多く見かけるかも知れない。
写真は撮れなかったが、3050形も既に営業運転に入っている様で、
7月17日が楽しみである。
上野で用事を済ませて京成で帰宅すると、JR幕張駅の側線から「華」が幕張車両センターに帰るところだった。
コメント
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