4.道明寺合戦と201系ウグイス色-近鉄狭軌の完乗
昼食を喰って古市駅まで戻り、隣の道明寺まで行く。
道明寺は大坂夏の陣で「道明寺の合戦」と呼ばれる戦が行われた場所である。
駅前には「道明寺合戦記念碑」が建っていたが、
その前に工事車両が路駐していたため写真は撮れなかった。
藤井寺市の設置した付近の地図の下には道明寺まちづくり協議会が設置した説明文があり、
そこには以下のように書かれている。
豊臣方、徳川方の最後の決戦が決まった慶長二十年(一六一五年)
泉南地方や八尾・若江など各地で大きな戦が繰り広げられていた。
その中でも、大阪の関ヶ原と云われる激戦が繰り広げられたのが、
この「道明寺の合戦」である。
慶長二十年五月六日の未明、大阪城を出た「後藤又兵衛基次」は、
徳川方の出鼻をくじくため河内国分へと二千八百の兵を進めた。
道明寺に着いた又兵衛は、石川を渡り小松山(玉手山付近)に
上り河内国分を見下ろすと、きこにはすでに数万の徳川軍が集結を終えていた。
かまわず果敢に戦いを挑んだ又兵衛は、「奥田忠次三郎左右衛門」を
討取るなど戦果をあげたが多勢に無勢。八時間にわたる激闘の末、
「水野勝成」や「伊達政宗」の軍勢に圧されて自刃、隊は壊滅した。
勢いづいた徳川軍は、石川を渡って道明寺へと進軍。
そこへ、遅れて到着した「蒲田隼人正兼相」や「明石全登」が
迎え撃つも徳川勢の勢いは止まらず蒲田隼人は善戦空しく討死。
いよいよ崩れかけた豊臣方を立て直したのが「真田信繁」(幸村)であった。
幸村は、誉田八幡宮付近に布陣。これには伊達政宗の
武将「片倉重長」(小十郎)が盛んに攻め立て両者譲らず、戦いは膠着した。
そこに届いたのが、八尾・若江の戦線で、豊臣方の防衛が突破されたとの知らせであった。
(この八尾・若江の戦は、道明寺より聞こえてきた銃声が合図となりはじまったとも言われている)
この知らせを受け、戦場を縮小し大阪城の守りに転ずべしとの「毛利勝永」の采配で、
戦の舞台は道明寺から天王寺へと移された。
その際、殿軍を努めた幸村は、「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」と
徳川軍を嘲笑しながら悠然と立ち去ったと言われている。
翌5月7日、「真田幸村」は、討死、大阪城は陥落した。
予定より30分早い13:44の道明寺線で柏原まで行く。
柏原はJR関西本線と接続していて、関西本線の電化区間は大和路線の愛称があり、
201系関西ウグイス色が充当されている。
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33分の乗り換え時間で駅取材、車両取材をして14:21道明寺まで戻り、
14:32河内長野行きに乗り換える。
しかしよく考えてみたら隣の古市から長野線に入ってしまうので、
古市で吉野行きの急行に乗り換えて尺土まで行く。
6分の乗り換えで御所線に乗り終点の近鉄御所まで行く。
近鉄御所の近くにはJR和歌山線御所駅があり、歩いてここまで行って駅取材する。
これで近鉄狭軌区間の乗り潰しは完了した。
予定では橿原神宮まで行って標準軌の橿原線に乗り換え、
八木西口で下車して徒歩でJR和歌山線畝傍駅まで行って駅取材、
さらに大和八木まで徒歩移動して大和西大寺まで戻ることになっていた。
しかし24日日曜日の雨の予報で計画を変更しようかと考え始めていた。
昼食を喰って古市駅まで戻り、隣の道明寺まで行く。
道明寺は大坂夏の陣で「道明寺の合戦」と呼ばれる戦が行われた場所である。
駅前には「道明寺合戦記念碑」が建っていたが、
その前に工事車両が路駐していたため写真は撮れなかった。
藤井寺市の設置した付近の地図の下には道明寺まちづくり協議会が設置した説明文があり、
そこには以下のように書かれている。
豊臣方、徳川方の最後の決戦が決まった慶長二十年(一六一五年)
泉南地方や八尾・若江など各地で大きな戦が繰り広げられていた。
その中でも、大阪の関ヶ原と云われる激戦が繰り広げられたのが、
この「道明寺の合戦」である。
慶長二十年五月六日の未明、大阪城を出た「後藤又兵衛基次」は、
徳川方の出鼻をくじくため河内国分へと二千八百の兵を進めた。
道明寺に着いた又兵衛は、石川を渡り小松山(玉手山付近)に
上り河内国分を見下ろすと、きこにはすでに数万の徳川軍が集結を終えていた。
かまわず果敢に戦いを挑んだ又兵衛は、「奥田忠次三郎左右衛門」を
討取るなど戦果をあげたが多勢に無勢。八時間にわたる激闘の末、
「水野勝成」や「伊達政宗」の軍勢に圧されて自刃、隊は壊滅した。
勢いづいた徳川軍は、石川を渡って道明寺へと進軍。
そこへ、遅れて到着した「蒲田隼人正兼相」や「明石全登」が
迎え撃つも徳川勢の勢いは止まらず蒲田隼人は善戦空しく討死。
いよいよ崩れかけた豊臣方を立て直したのが「真田信繁」(幸村)であった。
幸村は、誉田八幡宮付近に布陣。これには伊達政宗の
武将「片倉重長」(小十郎)が盛んに攻め立て両者譲らず、戦いは膠着した。
そこに届いたのが、八尾・若江の戦線で、豊臣方の防衛が突破されたとの知らせであった。
(この八尾・若江の戦は、道明寺より聞こえてきた銃声が合図となりはじまったとも言われている)
この知らせを受け、戦場を縮小し大阪城の守りに転ずべしとの「毛利勝永」の采配で、
戦の舞台は道明寺から天王寺へと移された。
その際、殿軍を努めた幸村は、「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」と
徳川軍を嘲笑しながら悠然と立ち去ったと言われている。
翌5月7日、「真田幸村」は、討死、大阪城は陥落した。
予定より30分早い13:44の道明寺線で柏原まで行く。
柏原はJR関西本線と接続していて、関西本線の電化区間は大和路線の愛称があり、
201系関西ウグイス色が充当されている。
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33分の乗り換え時間で駅取材、車両取材をして14:21道明寺まで戻り、
14:32河内長野行きに乗り換える。
しかしよく考えてみたら隣の古市から長野線に入ってしまうので、
古市で吉野行きの急行に乗り換えて尺土まで行く。
6分の乗り換えで御所線に乗り終点の近鉄御所まで行く。
近鉄御所の近くにはJR和歌山線御所駅があり、歩いてここまで行って駅取材する。
これで近鉄狭軌区間の乗り潰しは完了した。
予定では橿原神宮まで行って標準軌の橿原線に乗り換え、
八木西口で下車して徒歩でJR和歌山線畝傍駅まで行って駅取材、
さらに大和八木まで徒歩移動して大和西大寺まで戻ることになっていた。
しかし24日日曜日の雨の予報で計画を変更しようかと考え始めていた。