秋めく空を感じる昨日、茨城県陶芸美術館で開催されている展覧会「井上雅之 描くように造る」に足を運んだ。
緑豊かな広い敷地にある美術館は高台にあり、なかなか気持ちの良いロケーションだ。
芸術に向き合うための心のウォーミングアップに、最適な環境と思えた。
この展覧会は、井上雅之氏の40年に及ぶ芸術活動を振り返えられるもので、作家の変遷がわかりやすく展示され、どのようにイメージを精錬していったのか、興味深く見ることができた。
初期の作品は、陶芸、つまり器やろくろという伝統と固定概念の世界で模索している、まだ捕らわれた狭い世界の印象が否めない。
しかし、あるときから、その呪縛をとこうという兆しが見える。
そこからは、ただひたすらに己の根源にあるこだわりに忠実に、粘土という細胞壁を積み重ねていくようになる。
まるで、白蝋化した生き物の形骸、腑分けされ解体されたあとの脊髄や肋骨のようなそれらは、死を超越した存在のようにある。
きっと、粘土のセルを積み重ね増殖する行為に、えもいわれぬ喜びを見出しているのだろう。
私は、その繰り返す行為の陶酔感を支持したい。
倦むことを知らぬかのような子供が繰り返す遊びは、それによって満足と共に自分の中に経験を落とし込む機能がある。
大人になった日常の中にも、その快感を伴った行為はしばしば顔を出すけれど、どうしてそうなのか気にとめる人は少ない。
彼の作品を見ると、人のプリミティブな感覚が昇華されていて、芸術の大切な一面を再認させてくれた。
そして、概ね実用に用いられる陶芸を、こうしてここまで非実用な素材としてふんだんに使ったパワーが痛快、いやむしろ呪術の領域に入り込んでいるように感じられた。
たとえるならば、縄文スピリットとでもいえようか。
追:ほとんどの展覧会は、撮影禁止。
そのなかで、撮影許可とは、たいへんうれしかった。
作者と、美術館に感謝いたしたい。