梅雨の晴れ間の真っ赤な太陽 2015-06-25 22:12:06 | 空・雲・星・太陽たち 今日も真っ赤な太陽が、西に沈んでいった。 赤さの程度なら、昨日のほうが熟れたトマトのようで勝っていたが、今日は空を飾る雲がいい塩梅に浮かんでいて、その雲を縁取るサーモンピンクのリボンが彩りを添えて絵にしていた。
6月の花こもごも 2015-06-24 22:10:19 | 植物たち ねじ花 ねじ花によってみた 梅雨でも花は負けない。 我が家の芝生には、ピンクの小花を螺旋状に咲かせるねじ花が、そこここに咲いている。 種がこぼれて増えるのか、地味に増え続けて、気がつけば芝のいたるところにあるのだ。 私がねじ花とであった小学生の頃、母が知人に山野草の一種との触れ込みでもらい鉢植えで大切に育てていた。 それが今の我が家では、雑草化だ。 でも、青い芝生にピンクの花がよく映えて美しいから歓迎している。 アジサイは、言わずもが雨が似合う花。 生き生きと咲くアジサイは豪華で存在感があるけれど、枯れるまで置いたアジサイの花は重厚で哀愁を帯びシックである。 小さなひまわりのような花は、雨がちなこの時期にお日様を思い出させてくれる。 子供や若い娘たちのアクセサリーや服の模様のような、記号化された花のその姿は単純な美しさを持っている。 どんよりとした梅雨を打ち消すような花の美しさ、じっくりと楽しもうか。 貴婦人のドレスのようなアジサイ 青空はここに 二つの太陽
たわわ、たわわブルーベリー&ラズベリー 2015-06-23 14:32:42 | ベリー類の栽培 たわわなブルーベリー 地植えになって勢いを増すブルーベリーは、枝がしなるくらいにたわわに実をつけた。 さすがに500円玉級ではないけれど、50円くらいのぷんぷんに太った大きなものだ。 黒っぽく熟したものは、みずみずしくて甘い。 これをプレーンヨーグルトとともに食べると、口の中にさわやかな酸味と甘みが広がり、楽園にいる気分になる。 食べてもいいけれど、実の生っている景色もすばらしい。 淡い緑色からほんのりピンクがかって、そしてパープル、青味がかった黒へのグラデーションと、丸い実が押し合いへし合い細い枝をしならせて生るなんともかわいらしいその姿よ。 ラズベリーは、梅雨と相性が悪い。 その花と実の形状が、カビやすくさせるからだ。 だから、軒下の庇のあるところにプランターを置いて育てている。 けれど今年、このあたりでは雨が多くない。 カビに侵されることなく、ぷちぷちと輝く真っ赤な実をつけられる。 目立つ実の色の割にラズベリーは恥ずかしがり屋だ。 たいがい実は、葉の陰に隠れているのだ。 だからワタシは、葉の裏側にある実を探し当てるために、葉を掻き分けたりしゃがみ込んで下から覗き込んだりする。 実をとるとき気をつけなくてはならないことは、茎にびっしりと赤く細かいとげが生えていることだ。 ラズベリーの必死な護身装備。 もしかしたら、ラズベリーは万人向けの味ではないかもしれない。 イチゴとは違う、すっきりとさわやかかな強さのある味と香り。 ワタシはその香りが、とても好きなのだけれど。 我が家にいるベリーたちに、身も心も癒される毎日を送れる幸せ。 ぷちぷちラズベリー
放っておいて置いてごめんなさい、ブッラクベリーちゃん 2015-06-22 22:51:40 | ベリー類の栽培 ブラックベリー 天気が悪かったのと、ポンコツ度が増して足の立て付けががたぴしいっているために、放って置かれたブラックベリー。 今日は意を決して馳せ参じる。 よっこらよっこら・・・ ニョキニョキグーンと伸びるシュートが何本も、身の置き所がなく宙を彷徨っていた。 まず、麻紐を数本切ってきて篠で作った柵に茎を固定する。 柵から逃走するかのように遠くへ伸びようと必死な茎は、柵への軌道修正補助装置を取り付けてやんわりと促した。 挿し枝で作った新入り株の植え付け時に、一番伸びていた茎を家人がぼっきっと中折した枝もそうっと支柱に結わえ付ける。 こうして今年延びた茎は、拠り所を与えられた。 今年実をつけるはずの茎には、花はまだちらほら咲いていて、結実したものたちはぴかっと艶やかな小豆色の実を太らせながら、その名の通り黒い実になる準備をしている。 一週間ぶりの対面を果たした感想は、荒れた土地でもまともに育つブラックベリーはえらい!とうこと。 そして来年は、さらに見事な実をたくさんつけるだろう予感で思わず笑みがこぼれてしまう。 ブラックベリーのジャムの美味しさといったら・・・ さあ、ともにがんばってブラックベリーの楽園を作ろうか。 これからもよろしくね、ブラックベリーちゃん! ブローチ? ぐいんと伸びるよ
ベン・シャーン、時代は廻っている 2015-06-21 16:38:32 | アート Second Allegory Miners' Wives, Ben Shahn (1948) ベン・シャーンの展覧会に行ってきた。 素描中心の、ベン・シャーン特有の線を堪能できるものだった。 削ぎ落とされた画面は一見イラスト的だが、鋭く重いパンチのようにずっしりと内面に響いてくる。 彼は絵筆を通して、激動の時代の中で懸命に生きる人々の姿に光を当て、正義の行方に冷静なまなざしを向けた。 そして今、時代は廻り、世界に荒波が押し寄せつつある。 民族宗教間での争い、営利を求めてイナゴのように世界を食い尽くそうとする一部の企業、世界的な貧富の格差、とめどない人口爆発、さまざまな災厄がささやかに生きている人々を苛んでいる。 もしもまだベン・シャーンが生きていたならば、どのような絵を描くだろうか。 それとも、一向によくならない人間に愛想を尽かし、筆を折るだろうか。 人種・民族・宗教・文化・地域の別なくみなが少しずつ譲り合い、優しさを分け与えながら生きられる世界はつくれないととすでに悟っていたと思わせる、そんな晩年の作品傾向のように思えた、かえしのついた小さな棘が刺さる鑑賞後であった。 Memories of Many Nights of Love