※主な人物:里中さつき(珠生の助手) 中村珠生(カウンセラー) 貴崎由香(高校教諭)
ただいま……というおかしな挨拶にやっと慣れてきた。
普通の人が普通に聞けば、ちっともおかしくない挨拶。
なんでおかしいかというと、ここは、職場。それも出勤したときの挨拶が「ただいま」なのだ。
もうちょっと具体的に言うと、私が、この春から勤めている職場が県の科学教育センター。
敷地は並の小学校ほどもあり、隣には付属の県立高校もある。県教委の指導主事やら職員らが居て、普段から教育についての研究や教職員向けの研修などをやっている。あ、高校の入試問題やら、教職員や公務員の採用試験の問題なんかも作っている。他には、研修用の資料の貸し出しとかもやっている。
他の仕事の一つに県下の子供たちや保護者の教育相談がある。地味だけど、この仕事が一番県民の役に立っている……と、私は思っている。
私の仕事は、この教育相談課の特別枠で、教職員向けのカウンセリング……の助手。
この係りには三人のカウンセラーがいるんだけど、そのうちの一番オバアチャンの先生の助手に配属された。
「うちとこは、朝の出勤とか部屋に入ってきたときは『ただいま』て言います。帰るときは『いってきます』 よろしおまっか?」
「は、はい」
とは答えたものの、つい「失礼します」や「お早うございます」になってしまい、その都度やり直しをさせられ、やっと連休明けに慣れることができた。
私の一人称は「私」だ。言葉にしたら「わたし」と同じなんだけど、微妙にニュアンスが違う。それを、うちの先生は一発で見抜いてしまった。
「そんなカミシモ着たみたいな『私』せんでもええよ。『わたし』とか『あたし』とかでええねんよ」
と、生まれ故郷の大阪弁丸出しで先生は言う。
「長い付き合いになるんやさかい、ほら、肩の力抜いて言うてごらん」
「はい、私……」
「ハハハ、まあボチボチでええわ。ウチのことは中村さんとか珠生さんがええねんけど……あんたは『先生』以外はよう言わんわなあ……まあ、それでもよろしわ。『先生』いうのは、言い方でいろいろニュアンスが変わるさかいな。『先生』……今のは、どんなニュアンスに聞こえた?」
好物の金平糖を口に放り込みながら私に聞いた。
「悪徳政治家に対する言い方みたいでした」
「ぴんぽ~ん(^0^) はい、ご褒美」
先生は、私の手の上に金平糖を載せてくださった。
「ほんなら『先生』は?」
「あ、気楽に馴染んだクラスの担任」
「ええ勘してるなあ。ほんなら『先生……』は?」
「あ……その、女生徒が、その、なんというか……関心を持った男の先生を呼ぶときの呼び方です」
「当たり、その顔つきは、先生を、そういう呼び方をしたことある顔やなあ」
「え、いや、その(n*´ω`*n)」
先生は、そんな調子で、ずっと秘密にしていた私の人生の半分以上を聞き出してしまった。
私の人生には秘密が多い。里中さつきと言う名前にも秘密があるが、それが分かるのは、もっと先の話だ。取りあえずは仕事、仕事。
「ただいま」
私は資料の袋を持って、部屋に戻った。ちょっと緊張。今日のクランケは、セクハラで研修を言い渡された三十過ぎの高校の先生だ。
「おおきにサッチャン。ほんなら、このイラスト見て、好きなん三枚選んでもらえますか」
先生は資料の袋から、数十枚のイラストを出した。自分で資料室から持ってきて、その中身が顕わになって、びっくりした。
いろんなコミックから拡大コピーしたイラスト。大半が女子高生キャラの全身像や、バストアップ。制服姿、浴衣、水着、男の子や女の子とのツーショットなどがあった」
男の先生は、じっくり見ながら三枚のイラストを選んだ。一枚は通学途中の女子高生の二人連れ。一枚はキチンと制服を着こなして、木漏れ日の中で微笑んでいる子。もう一枚はキリっとした男子の立ち姿だった。
「先生はね、言われてるようなセクハラじゃありません。スキンシップが誤解されたのね。詳しくは、再来週に言います。じゃ、お疲れ様。今日はここまで」
男の先生は、生真面目に礼をして出て行った。
「こんなもので分かるんですか?」
わたしは三枚のイラストを見て不思議に思った。
「ウチは、あの人がイラスト見る目を見てたの。そこの花瓶にアイカメラがあってね、目の動きやら瞳孔の大きさが分かるのん。あの人は、男として未熟なまま先生になってしもたんやね……あの人が一番反応したんはなんやと思う?」
「う~ん」
わたしは三枚の絵を真剣に見比べた。
「ハハ、あほやなあ。サッチャンの顔見たときや」
「え!?」
「あんた、制服着せたら、まだ現役で十分通りそうやさかいな」
「それじゃ……」
「ちょっと、あの人は時間かかりそうやね……ほんなら次の人呼んでくれる」
「はい……貴崎先生どうぞ」
「はい」
その人は蚊の泣くような声で立ち上がり、待合いコーナーからやってきた。
貴崎由香との最初の出会いだった……。