佐橋は常々、良寛の書は芸術ではないでしょ。と言っていました。
そして、つい最近、私の尊敬するお客様からもそのような意味の言葉をお伝えいただきました。
良寛は作品としての書をあまり書いていないということもその理由であると思います。
物乞いの手紙。お礼のお便り。良寛の文字を見るのは、そうしたものが殆どを占めているからです。
勿論良寛は王羲之から始まる各書家の書を熱心に臨書、研究しています。
その上で、良寛は、書の歴史を逸脱するような、世界に類を見ない書を書き、その書は現代にも通用する
大きな魅力をもち続けています。
徳川美術館さんへは軽い気持ちで午後3時ごろ入らせていただきました。
けれど、2人が作品を見終わったのは、閉館ギリギリ午後5時でした。
出口での2人の感想は、同時に「疲れたぁ〜」「何だか知らないけれど見てしまう。もっと読みたくなる。
離れられなくなる。よかったねぇ。もう一回来よう」でした。
私はすかさず佐橋に「で、良寛は芸術でない?」と聞くと
「何?それ?」
「へ?」
「あなた良寛は芸術でないと以前言ったでしょ、わたしに」
「そうだった??
あのね、、書は芸術ではないかもしれないね。」
「ほんと?
わたしもそう思った。だけど、良寛はやっぱりわたし好きだわ」
感想になっていないかもしれませんが、今回の良寛の展覧会は特に素晴らしかったと思えました。
左は良寛の父、以南が芭蕉を描き、自身で讃を書いたもの。
右は、以南の描いた芭蕉像に息子である良寛が讃を書いたものです。
以南の文字が良寛の文字に似ていてとても驚きました。
父以南も、息子良寛も共に松尾芭蕉を追慕していました。
良寛はずっとずっとお父様、お母様の事を思っていたのだと思えます。
そして、良寛の文字を見ながら、現代の書家石川九楊さんが良寛の文字について解説を書かれているものを
読ませていただいた時の事を思いだしました。
良寛の文字は細く、消え入るような線でありながら強くしなやかです。
またその線と線は交錯を嫌い、決して交わらず、距離をとり、遠回りをさせ引かれます。
人の中に生きず、生きられず、自然の中に生きようとした人の文字であり、
それに触れるとき、その深い孤独と緊張感、そしてわずかな温もりに触れるような
気持ちになれるのだろう思えます。
芸術とは何でしょうか??光太郎と同じように、良寛もいつも私に問いかけをしてくれます。
徳川美術館さんの
特別展 没後190年記念
良寛さんーその人と書
は今月31日までの開催です。
今日は佐橋が東京に出張ですし、お客様もまだいらっしゃらないので、頑張ってオススメの展覧会の
記事を三つ書かせていただきました。
ちょっと疲れましたので、お休みをいただいて、また記事を書かせていただきますね。
大寒に向かい、お寒さ極まります。どうぞみなさまご自愛くださいますようお願いいたします。
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