2008年10月13日(月・祝)
やまさんの第3回ぐるり一周葛飾探険隊に参加した。参加者は、
いずれも前回参加の6人。水元公園そばの香取神社を10時4分
に出た。
今日の探見は、葛飾区の北部、東は水元公園、北に大場川、
西の中川に囲まれた東水元から水元、西水元にかけての一帯で
ある。
新春1月4日の「東京横断66㎞ウオーク」の出発地、水元公園
にある水元大橋(上)の西に並ぶ橋を渡り、東水元三丁目の延命
寺に行く。
ご住職の話では、寺は慶長15年(1610)の創建。地元に多
い細谷姓の祖先が、現在は水元公園になっている江戸川の流れ
から拾った「流れ地蔵」と呼ぶお地蔵さんを納めて、本尊にしたと
いう。
境内に、かなりすり減った珍しい石造の三猿や、水元二十一大
師の小さいお堂があり、門前には新四国八十八箇所第三十四
霊場第三十四番の石碑が立っていた。
北側には生産緑地が残り、ビニールハウスにトウモロコシやキュ
ウリ、ホーレンソウなどが育てられている。緑地の背後には、古く
からの農家が並んでいた。
近くの三差路際に、水元二十一大師らしいお堂があり、横には
享保4年(1720)銘の宝篋印塔が立つ。背後に並ぶ五体の石像
の一つは、ほかでは見かけない妊婦のような姿の石仏だった。
東京二十三区内とは思えぬ、柿が実り梅畑の残る一角を回る
と、傾いたお堂がある。
近くの薬師堂は改築で新しいが、墓地には延宝(1673~)や
元禄年間(1688~)の古い五輪塔があり、隣には火の見やぐら
も立っていた。
東水元小の5年と3年生の四人組みと話を交わして北に進む。
閑静な住宅地の一角に洋風料理の店があった。都心・内幸町に
あるプレスセンターのレストラン「アラスカ」の料理長を経て、5年
前に開店したとか。このあたりには珍しい、しゃれた感じの店だ
った。
変わった形の石造の鳥居を入って日枝神社へ。
旧水元小合上町の産土神(うぶすながみ)だったようだが、水元
公園の誕生に伴い買収され、昭和53年(1978)に、この地に
移転したという。拝殿上に、彩色の三猿が並んでいた。
再び水元公園へ。
たくさんのグループで賑わうバーベキュー広場を抜け、小さい
水辺を眺めながら、「せせらぎ広場」で昼食をする。
公園を出てまず、そばの熊野神社に入る。境内は広くはない
が緑が豊富。鳥居の横に、樹高10.3m、幹回り3.54mという
りっぱなタブノキが枝を広げていた。
都道307号(岩槻街道)を横断して水元五丁目へ。東西南北
にきちんと区画された道が走り、東水元に比べると比較的新し
い住宅街。水元そよかぜ園の北を進み、葛飾区最古という遍照
院に入る。
和銅元年(708)または和銅3年創立と伝えられる古寺だが、
度重なる洪水や火災で、多くの寺宝や記録を失ったという。
境内には、延宝5年(1677)銘の角形水盤や、上部の面が高
く残された当地域では珍しいという「異形(いぎよう)板碑」、観音
像の線刻板碑などがあり、狭いながら形のよい松やつつじなど、
植え込みもなかなかよく整えられていた。
遍照院の北方で折れてきた都道307号を再横断し、西水元
六丁目へ。都道際に大きな社殿の水元神社が鎮座している。
昭和49年(1974)に、香取、浅間、熊野、天祖、吾妻の5社
を吸収合併してできた社のようだ。
西に進んだ西水元三丁目の角に、何十個もの植木鉢を並べた
お宅があった。狭い庭や周囲にもびっしりと植木が並ぶ。
その数や種類はどのくらいあるのだろうか…。
にぎやかな音楽と歓声が聞こえる、水元八千代幼稚園に入る。
自転車で来た家族などで校庭は人の波。徒競走で卒園生が、狭
い校庭をきゅうくつそうに回っていた。
さらに進んで中川左岸堤防へ。下流の飯塚橋に向かって調整
池や芝生広場、多目的運動場、ワンドと呼ぶ水辺(下)などが続
き、「西水元水辺の公園」と呼ばれている。
対岸に見える足立区の住宅や森、たっぷりの水量でゆったりと
流れる中川などを眺めながら橋の近くまで行く。時折モーターボ
ートが通過して、大きな波が立つ。
ワンドの先まで進んで西水元一丁目に下り、少し戻って夕顔
観音で知られるという安福寺に行く。
江戸中期の元禄時代(1688~)、安福寺の夕顔観音は、万能
薬が売られる観音様として江戸名所のひとつに数えられ、多くの
信仰を集めたらしい。
夕顔観音は、弘長2年(1262)に奉納されたものとか。現在で
は江戸の賑わいは想像できない、静かなたたずまいである。
飯塚橋東詰際にある今日のゴール、東武バス葛飾車庫に14時
40分に着いた。ここからは、JR常磐線亀有駅と綾瀬駅行きバス
がある。10分後発車の始発バスで、綾瀬駅に向かった。
(天気 曇後晴、参加 6人、地図 草加、歩行地 葛飾区)
やまさんの第3回ぐるり一周葛飾探険隊に参加した。参加者は、
いずれも前回参加の6人。水元公園そばの香取神社を10時4分
に出た。
今日の探見は、葛飾区の北部、東は水元公園、北に大場川、
西の中川に囲まれた東水元から水元、西水元にかけての一帯で
ある。
新春1月4日の「東京横断66㎞ウオーク」の出発地、水元公園
にある水元大橋(上)の西に並ぶ橋を渡り、東水元三丁目の延命
寺に行く。
ご住職の話では、寺は慶長15年(1610)の創建。地元に多
い細谷姓の祖先が、現在は水元公園になっている江戸川の流れ
から拾った「流れ地蔵」と呼ぶお地蔵さんを納めて、本尊にしたと
いう。
境内に、かなりすり減った珍しい石造の三猿や、水元二十一大
師の小さいお堂があり、門前には新四国八十八箇所第三十四
霊場第三十四番の石碑が立っていた。
北側には生産緑地が残り、ビニールハウスにトウモロコシやキュ
ウリ、ホーレンソウなどが育てられている。緑地の背後には、古く
からの農家が並んでいた。
近くの三差路際に、水元二十一大師らしいお堂があり、横には
享保4年(1720)銘の宝篋印塔が立つ。背後に並ぶ五体の石像
の一つは、ほかでは見かけない妊婦のような姿の石仏だった。
東京二十三区内とは思えぬ、柿が実り梅畑の残る一角を回る
と、傾いたお堂がある。
近くの薬師堂は改築で新しいが、墓地には延宝(1673~)や
元禄年間(1688~)の古い五輪塔があり、隣には火の見やぐら
も立っていた。
東水元小の5年と3年生の四人組みと話を交わして北に進む。
閑静な住宅地の一角に洋風料理の店があった。都心・内幸町に
あるプレスセンターのレストラン「アラスカ」の料理長を経て、5年
前に開店したとか。このあたりには珍しい、しゃれた感じの店だ
った。
変わった形の石造の鳥居を入って日枝神社へ。
旧水元小合上町の産土神(うぶすながみ)だったようだが、水元
公園の誕生に伴い買収され、昭和53年(1978)に、この地に
移転したという。拝殿上に、彩色の三猿が並んでいた。
再び水元公園へ。
たくさんのグループで賑わうバーベキュー広場を抜け、小さい
水辺を眺めながら、「せせらぎ広場」で昼食をする。
公園を出てまず、そばの熊野神社に入る。境内は広くはない
が緑が豊富。鳥居の横に、樹高10.3m、幹回り3.54mという
りっぱなタブノキが枝を広げていた。
都道307号(岩槻街道)を横断して水元五丁目へ。東西南北
にきちんと区画された道が走り、東水元に比べると比較的新し
い住宅街。水元そよかぜ園の北を進み、葛飾区最古という遍照
院に入る。
和銅元年(708)または和銅3年創立と伝えられる古寺だが、
度重なる洪水や火災で、多くの寺宝や記録を失ったという。
境内には、延宝5年(1677)銘の角形水盤や、上部の面が高
く残された当地域では珍しいという「異形(いぎよう)板碑」、観音
像の線刻板碑などがあり、狭いながら形のよい松やつつじなど、
植え込みもなかなかよく整えられていた。
遍照院の北方で折れてきた都道307号を再横断し、西水元
六丁目へ。都道際に大きな社殿の水元神社が鎮座している。
昭和49年(1974)に、香取、浅間、熊野、天祖、吾妻の5社
を吸収合併してできた社のようだ。
西に進んだ西水元三丁目の角に、何十個もの植木鉢を並べた
お宅があった。狭い庭や周囲にもびっしりと植木が並ぶ。
その数や種類はどのくらいあるのだろうか…。
にぎやかな音楽と歓声が聞こえる、水元八千代幼稚園に入る。
自転車で来た家族などで校庭は人の波。徒競走で卒園生が、狭
い校庭をきゅうくつそうに回っていた。
さらに進んで中川左岸堤防へ。下流の飯塚橋に向かって調整
池や芝生広場、多目的運動場、ワンドと呼ぶ水辺(下)などが続
き、「西水元水辺の公園」と呼ばれている。
対岸に見える足立区の住宅や森、たっぷりの水量でゆったりと
流れる中川などを眺めながら橋の近くまで行く。時折モーターボ
ートが通過して、大きな波が立つ。
ワンドの先まで進んで西水元一丁目に下り、少し戻って夕顔
観音で知られるという安福寺に行く。
江戸中期の元禄時代(1688~)、安福寺の夕顔観音は、万能
薬が売られる観音様として江戸名所のひとつに数えられ、多くの
信仰を集めたらしい。
夕顔観音は、弘長2年(1262)に奉納されたものとか。現在で
は江戸の賑わいは想像できない、静かなたたずまいである。
飯塚橋東詰際にある今日のゴール、東武バス葛飾車庫に14時
40分に着いた。ここからは、JR常磐線亀有駅と綾瀬駅行きバス
がある。10分後発車の始発バスで、綾瀬駅に向かった。
(天気 曇後晴、参加 6人、地図 草加、歩行地 葛飾区)