2014年6月26日(木)
JR盛岡駅8時発の東北新幹線下り、はやぶさ95号で新青森へ。奥羽本線で川部(か
わべ)まで行き、五能線に乗り換える。
車中から、リンゴ畑や水田の向こうにそびえる岩木山(1,625m)を眺め、津軽半島
の中南部、五所川原駅で下りた。
駅構内には、毎年8月4日~8日に開催される「五所川原立佞武多(たちねぷた)」の
ミニチュアや飾りが並んでいる。五所川原立佞武多は、ビル7階分に相当する高さ約23
m、重さ19トンもあるという
駅前広場で接する津軽五所川原駅から津軽鉄道に乗り換える。1両のワンマンカーには
七夕の飾り付けがなされ、「津軽半島観光アテンダント」6人のひとり、Sさんが乗車し、
沿線の見どころなどを紹介してくれる。
今日の「駅からハイキング」の起点で太宰治(だざいおさむ)の故郷、金木(かなぎ)
駅には10時50分に着いた。
ハイキングの受付場所、駅から500mの太宰治記念館「斜陽館」に向かう。
駅前の通りを西へ、すぐ先のY字路を左に進むと、太宰治疎開の家という「旧津島家新
座敷」がある。太宰の長兄、文治の結婚を機に建設された離れで、太宰治親子が疎開時に
暮らした家だという。
メロス坂通りを進み、表示に従い次の五差路から細い路地へ。斜陽館通りに突き当たっ
て右折するとすぐ、国指定重要文化財の「斜陽館」である。
太宰治の父、津島源右衛門が明治40年(1907)に建てた豪邸。第二次大戦後に津
島家が手放して旅館「斜陽館」になっていたが、その後、旧金城町が買い取り、平成10
年(1998)に太宰治記念館となり公開されている。
駅からハイキングの受付を終え、この斜陽館と津軽三味線会館の共通券を求め、館内を
観覧する。
青森ヒバをふんだんに用いた和洋折衷の建物で、1階は11室278坪、2階は8室
116坪あり、太宰治誕生の部屋や廊下などを一巡した。
館を出て斜陽通りを先に進み、すぐ先の十字路際の妙乗寺へ。独特の鐘楼門を入ると、
正面の本堂は最近の再建らしく新しい。
西に延びる太宰通りに入る。妙乗寺の西は雲寺で、鐘楼門は妙乗寺に似た造り。
太宰治は幼い頃、よくこの寺に遊びに来ており、終戦後は寺を会場に「金木分科会」が
発足し、疎開中の太宰治も積極的に参加していたという。
寺は慶長元年(1596)の建立、現在の総ヒバ造りの本堂は昭和44年(1969)
の再建とか。鐘楼門を入ると左手にはイチョウの古木が、右側に樹齢500年以上という
老松が並ぶ。
本堂内の、地獄極楽が描かれた十王曼荼羅が無料で見られるようなので、庫裡(くり)
で断って本堂に回り、左手に並ぶ7枚の絵を拝観した。
道路を隔てた雲寺の南側が「津軽三味線会館」。
金木は津軽三味線発祥の地で、津軽三味線の始祖、仁太坊やその弟子たちの紹介パネル、
民謡、郷土芸能の資料などが展示されている。
津軽三味線や日本の三味線、世界の弦楽器もたくさん展示されていて、それぞれの音色
を聞くことも出来る。館内は撮影禁止だった。
13時半からは多目的ホールで津軽三味線の演奏があるというが、時間が合わず聞けな
かった。
雲寺の西側には「斜陽の詩」と呼ぶ土産店があり、地酒などを販売していた。
津軽三味線会館の西隣は金木八幡宮。創建は大永年間(1521~7)で、当時の浪岡
城主、北畠具永(きたばたけともなが)が勧請したのが始まりと伝えられているという。
赤鳥居を入ると境内右手に社殿がある。現社殿は、旧社殿が火災で焼失した3年後の明
治41年(1898)に再建されたもの。
江戸時代には境内に寺子屋があり、明治5年(1872)の学制発布で小学校になったとのこと。
拝殿前の狛犬や馬の石像は皆、ほおかむりしている。これは、氏子たちが冬の厳しい寒
さや夏の暑い日差しから神社を守ってあげたいう気持ちの表れだという。
神社の北の平屋に、「まちの記憶館」の看板が下がっていたので入ってみた。狭い館内
に金木町の古い写真や陸奥鉄道と津軽森林鉄道の写真などが展示され、木工品や置物など
の販売もしていた。
八幡宮の先には南台寺がある。寺の沿革などの説明板は無いが、本堂左前にクリの古木
らしいのが沢山の花を開いている。こんな大きな栗の木を見たのは初めてだ。
「まちの記憶館」の横のT字路を北へ、次の駅のある芦野公園に向かう。家並みが減っ
て木陰が無くなり、快晴の日差しが暑い。
中ほどまで進むと「思い出広場」と呼ぶレンガ塀に囲まれた一角があった。
昭和22年
レンガ塀には太宰治の作品名を示すプレートが、大正14年(1925)から昭和22
年(1947)まで、年代順に並んでいた。【続く】
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JR盛岡駅8時発の東北新幹線下り、はやぶさ95号で新青森へ。奥羽本線で川部(か
わべ)まで行き、五能線に乗り換える。
車中から、リンゴ畑や水田の向こうにそびえる岩木山(1,625m)を眺め、津軽半島
の中南部、五所川原駅で下りた。
駅構内には、毎年8月4日~8日に開催される「五所川原立佞武多(たちねぷた)」の
ミニチュアや飾りが並んでいる。五所川原立佞武多は、ビル7階分に相当する高さ約23
m、重さ19トンもあるという
駅前広場で接する津軽五所川原駅から津軽鉄道に乗り換える。1両のワンマンカーには
七夕の飾り付けがなされ、「津軽半島観光アテンダント」6人のひとり、Sさんが乗車し、
沿線の見どころなどを紹介してくれる。
今日の「駅からハイキング」の起点で太宰治(だざいおさむ)の故郷、金木(かなぎ)
駅には10時50分に着いた。
ハイキングの受付場所、駅から500mの太宰治記念館「斜陽館」に向かう。
駅前の通りを西へ、すぐ先のY字路を左に進むと、太宰治疎開の家という「旧津島家新
座敷」がある。太宰の長兄、文治の結婚を機に建設された離れで、太宰治親子が疎開時に
暮らした家だという。
メロス坂通りを進み、表示に従い次の五差路から細い路地へ。斜陽館通りに突き当たっ
て右折するとすぐ、国指定重要文化財の「斜陽館」である。
太宰治の父、津島源右衛門が明治40年(1907)に建てた豪邸。第二次大戦後に津
島家が手放して旅館「斜陽館」になっていたが、その後、旧金城町が買い取り、平成10
年(1998)に太宰治記念館となり公開されている。
駅からハイキングの受付を終え、この斜陽館と津軽三味線会館の共通券を求め、館内を
観覧する。
青森ヒバをふんだんに用いた和洋折衷の建物で、1階は11室278坪、2階は8室
116坪あり、太宰治誕生の部屋や廊下などを一巡した。
館を出て斜陽通りを先に進み、すぐ先の十字路際の妙乗寺へ。独特の鐘楼門を入ると、
正面の本堂は最近の再建らしく新しい。
西に延びる太宰通りに入る。妙乗寺の西は雲寺で、鐘楼門は妙乗寺に似た造り。
太宰治は幼い頃、よくこの寺に遊びに来ており、終戦後は寺を会場に「金木分科会」が
発足し、疎開中の太宰治も積極的に参加していたという。
寺は慶長元年(1596)の建立、現在の総ヒバ造りの本堂は昭和44年(1969)
の再建とか。鐘楼門を入ると左手にはイチョウの古木が、右側に樹齢500年以上という
老松が並ぶ。
本堂内の、地獄極楽が描かれた十王曼荼羅が無料で見られるようなので、庫裡(くり)
で断って本堂に回り、左手に並ぶ7枚の絵を拝観した。
道路を隔てた雲寺の南側が「津軽三味線会館」。
金木は津軽三味線発祥の地で、津軽三味線の始祖、仁太坊やその弟子たちの紹介パネル、
民謡、郷土芸能の資料などが展示されている。
津軽三味線や日本の三味線、世界の弦楽器もたくさん展示されていて、それぞれの音色
を聞くことも出来る。館内は撮影禁止だった。
13時半からは多目的ホールで津軽三味線の演奏があるというが、時間が合わず聞けな
かった。
雲寺の西側には「斜陽の詩」と呼ぶ土産店があり、地酒などを販売していた。
津軽三味線会館の西隣は金木八幡宮。創建は大永年間(1521~7)で、当時の浪岡
城主、北畠具永(きたばたけともなが)が勧請したのが始まりと伝えられているという。
赤鳥居を入ると境内右手に社殿がある。現社殿は、旧社殿が火災で焼失した3年後の明
治41年(1898)に再建されたもの。
江戸時代には境内に寺子屋があり、明治5年(1872)の学制発布で小学校になったとのこと。
拝殿前の狛犬や馬の石像は皆、ほおかむりしている。これは、氏子たちが冬の厳しい寒
さや夏の暑い日差しから神社を守ってあげたいう気持ちの表れだという。
神社の北の平屋に、「まちの記憶館」の看板が下がっていたので入ってみた。狭い館内
に金木町の古い写真や陸奥鉄道と津軽森林鉄道の写真などが展示され、木工品や置物など
の販売もしていた。
八幡宮の先には南台寺がある。寺の沿革などの説明板は無いが、本堂左前にクリの古木
らしいのが沢山の花を開いている。こんな大きな栗の木を見たのは初めてだ。
「まちの記憶館」の横のT字路を北へ、次の駅のある芦野公園に向かう。家並みが減っ
て木陰が無くなり、快晴の日差しが暑い。
中ほどまで進むと「思い出広場」と呼ぶレンガ塀に囲まれた一角があった。
昭和22年
レンガ塀には太宰治の作品名を示すプレートが、大正14年(1925)から昭和22
年(1947)まで、年代順に並んでいた。【続く】
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