あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

『トトロのふるさと 狭山丘陵見て歩き』の新版発刊

2008-10-21 21:39:10 | Weblog
 東京都と埼玉県の境にあり、「トトロの森」で知られる狭山丘陵
は、東西約11㎞、南北約4㎞、面積約3,500haの緑豊かな丘陵
です。



 この丘陵の真ん中に、東京都民の水がめのひとつである多摩
湖(村山貯水池)と狭山湖(山口貯水池)があり、周囲を広大な
雑木林が取り囲んでいます。

 周辺には住宅地や畑が広がり、狭山丘陵はその中に残された
「緑の島」とでもいうべきところ。数多くの動植物が住み、育ち、首
都圏に残る貴重な自然の宝庫といえましょう。

 その狭山丘陵の自然や、石器時代から続く歴史を訪ね歩くのに
よいガイドブックとして、『トトロのふるさと 狭山丘陵見て歩き』の
新版が、10月18日に刊行されました。



 エリアとしては、東京都東村山市、東大和市、武蔵村山市、瑞穂
町、埼玉県所沢市、入間市の5市1町にわたり、半日足らずで歩け
る15のコースを紹介しています。

 執筆者は、この貴重な狭山丘陵の保全のために、1990年から
始まったナショナルトラスト運動に関わる、「トトロのふるさと財団」
のメンバー。それぞれが、自分の庭のように知りつくしている狭山
丘陵の魅力を、あますとこなく紹介しています。

 全頁カラーの各頁に何枚かの写真を交え、各コース5~6頁ずつ
にわたるコースガイドになっています。

 本書を片手に季節を変え、狭山丘陵の散策を楽しんでみません
か。都心から1時間余りのところに、このような豊かな自然が残っ
ているのかということを、実感できるのではないかと思います。

 ちなみに、本書の表紙写真は私が撮影したものです。

 東京都や埼玉県など、首都圏の書店で発売中です。

 書 名 『トトロのふるさと 狭山丘陵見て歩き』

 トトロのふるさと財団編、幹書房発行 A5版128頁、
 税込み1500円 

 なお、トトロのふるさと財団と幹書房のウェブサイトは、下記を
ご覧下さい。

 トトロのふるさと財団  http://www.totoro.or.jp/

 幹書房  http://www.mikishobou.com/ 


 

 

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熊野古道 伊勢路を歩く⑧<大雲取越え、熊野速玉大社>

2008-10-20 18:32:22 | 熊野古道を歩く
 5年前の今日歩いた、熊野古道伊勢路歩きの最終日は、難路、
大雲取越えと、熊野三山の最後、熊野速玉大社参拝の模様です。

===========================

 2003年10月20日(月) 第6日
 大雲取越え、熊野那智大社、熊野速玉大社
 =無事、大雲取を越える=
 


 最終日は、八鬼山と並ぶ熊野古道の難所といわれる大雲取越
えである。今日は荷物も全部持ち、時間もかかりそうなので、朝食
は5時50分と早い。

 体操後、バスで向かうOさんとWさんに見送られ、濃い朝もやの
中、19人が小口自然の家を出た。まだ明け切らず、ひんやりした
空気が気を引き締めてくれる。


 小口川の支流、東川に沿った小集落の途中から、道標に従い石
段を上がって大雲取道に入る。


 「熊野古道(大雲取越え)1」の道標が立ち、以後、500mおきに
ある。陽が差し込まない杉木立の下、薄暗い苔むす石段を上って
円座石に出た。

 大岩に、丸で囲まれた梵字(ぼんじ)が3文字記されていた。

 小雲取道と同様、この道にもところどころに歌碑が立つていた。
ガスが晴れ、木の間から青空が見えてきた。苔むす石畳が続き、
水のある休憩舎や柿の久保旅籠跡(290m)を過ぎる。


 土屋文明の歌碑の先、胴切坂で道はヘアピン状に折れた。3人
は並べるほどの幅広い石畳の急坂、りっぱな杉木立の中を、歩一
歩とゆっくり上り、今回の最高点、越前峠(870m)に着いた。

 杉木立の下に歌碑と説明板がある。小口自然の家に同宿してい
た若い女性2人が追いついてきたので、シャッターを押してもらう。


 緩やかな下りの後、階段状の急な石畳を下りると流れが現れ、
長塚 節の歌碑があった。歌碑の最初「虎杖の…」は何と読むの
か?、

 Nさんが「イタドリ」と言われ、少し先の沢沿いに生えていたのを
教えてもらう。子どものころ、若芽の茎をしゃぶったスカンポだった。

 こちらは、斎藤茂吉の歌碑である。


 沢を離れて再び上りとなる。左に緩くカーブする辺りで西側の展
望が開け、大台ヶ原方面だろうか、高い山並みが遠望された。

 石倉峠(805m)を越えて、杉落ち葉が一杯で苔むす石畳の急坂
を下り、林道の横切る地蔵茶屋跡(702m)に着く。

 小さいお堂があり、赤布をまとった石の地蔵さんがたくさん並ん
でいた。

 1㎞余り、アザミや白い野菊の咲く沢沿いの車道を進む。岩壁
にはリンドウがたくさん咲いている。

 再び山道に入り、粥餅茶屋跡を過ぎる。この先、古道と車道は
何か所かで交差を繰り返す。緩い上り下りを経て、やや急坂を上
り、無線塔横を通過すると、舟見峠(868m)である。

 勝浦辺りの海が見えるらしいが、霞んでいて確認は出来ない。
その海の方からの風が冷たい。風を避けて道路際に腰を下ろし、
自然の家のおにぎりを食べた。


 少し先の舟見茶屋跡を過ぎると、砂混じりの歩きやすい道とな
った。左手にススキの大群などが見え、冷たい風がやや強まる。

 上りも多少はあるが次第に高度を下げ、登立茶屋跡を通過し、
1㎞ほどで広い駐車場のある広場に出た。


 もう山道は終わった。ススキや色づいたツツジなど、秋色の彩
りを見せる自然公園を抜け(上の写真・Kさん撮影)、杉木立下の
石段をどんどん下って、待望の熊野那智大社に着いた。

 展望広場からは、朱塗りの三重塔の向こうに、山腹を落下する
那智大滝が見える。


 バスで回ってきたOさんとWさんが、皆を待っていた。
 色鮮やかな朱塗りの熊野那智大社に参拝し、無事到着出来た
ことに感謝する。


 そばの西国三十三番札所第1番 青岸渡寺(せいがんとじ)にも参
拝。檜皮葺(ひわだぶき)の古い本堂が、長い信仰の歴史を伝えて
いる。


 観光バスやマイカーで来た参詣人が多い。この6日間、自動販売
機やコンビニなど、近代文明から隔絶していた世界から、急に現世
に引き戻されたことを実感する。

 土産店などの並ぶ車道まで下り、太い杉木立に覆われた石段を
下って飛滝神社に参拝。祭神は眼前を垂直に落下する那智大滝で
ある。

(鳥居付近と滝とではコントラスト差が大きく、滝の色が飛んでしま
いお見苦しいですが、ご勘弁を…)

 土産店の間を抜けて、バスの始発地、那智山神社お寺前の駐車
場まで行き、バスでJR那智勝浦駅に出た。最近は、マイカーと観
光バス利用が主で、電車で来る人はわずかなのか、温泉を併設し
た神殿造りの駅は無人だった。

 普通電車で新宮駅まで行き、熊野三山の最後、熊野速玉(はや
たま)大社に向かう。

 踏切を越えて駅の西側に回り、1㎞余りで熊野速玉神社に着く。
全員無事、全行程を歩き終えた御礼の参拝をする。


 この6日間、ご親族や知人の方々を含め、大変お世話になったN
さんからご挨拶があり、全行程が終わった。


 ほとんどの皆さんは市内のビジネスホテルに向かい、私を含め5
人が新宮駅から列車や高速バスで帰途についた。

〈コースタイム〉小口自然の家6・37ー円座石7・00ー休憩舎(水場)
7・20~27ー柿の久保旅籠跡7・49ー胴切坂8・04ー越前峠9・02
~08ー石倉峠9・37ー地蔵茶屋(WC)9・50~10・02ー古道・車道
分岐10・26ー舟見峠(昼食)11・15~35ー登立茶屋跡12・09ー駐車
場(WC)12・33~40ー熊野那智大社・青岸渡寺13・01~11ー飛滝神
社(那智の滝)13・40~50ー那智山神社前バス停(WC)14・00~15=
那智勝浦駅15・23=新宮駅15・44ー熊野速玉神社16・11~25(完)

(天気 晴、距離 17㎞+3㎞(新宮市内)、地図 本宮、紀伊大野、
 新宮、紀伊勝浦、歩行地 熊野川町、那智勝浦町、新宮市)
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熊野古道 伊勢路を歩く⑦<熊野本宮大社・小雲取越え>

2008-10-19 21:58:10 | 熊野古道を歩く
 今日は、JR武蔵野線沿線を歩き続けている「カタツムリ歩行」
に参加しましたが、レポートは別途とし、5年前の今日歩いた、
熊野古道の報告を続けます。

==========================

 2003年10月19日 第5日 熊野本宮大社・小雲取越え
 =整備された小雲取道=


 
 7時半に朝食をして、8時過ぎに旅館のマイクロバスで出発。
熊野川左岸沿いに国道168号を進んで、土産物店などの並ぶ
熊野本宮大社前で降りる。

 4日連続で、荷物はYさんに運搬していただけることになった。
出発を前に、太い杉木立に囲まれた熊野本宮大社に参拝する。

 熊野本宮大社は、熊野速玉大社、熊野那智大社と合わせて熊
野三山と呼ばれ、その中心で、全国3000の熊野神社の総本山。
約2千年前の崇神天皇615年の鎮座という古社である。

 寺のような山門、檜皮葺(ひわだぶき)の神殿、神殿を取り巻く
板垣などの落ち着いた彩りに、その歴史が感じられる。

 熊野三山のシンボル、八咫烏(やたがらす)の大きな幟(のぼり)
も目についた。


 昨日1日だけ歩いたYさんがここから帰宅するので今日は20人。
そのYさんのリードで「エイエイオー」をして記念撮影後、熊野本宮
大社の大鳥居前をスタートする。


 小雲取越え道が始まる請川までは、熊野川に沿った国道168号
を3㎞ほど進む。幅広い熊野川は水が少なく河原の方が目につく。
バスの時間待ちで、結局、Yさんも請川まで一緒に来た。

 請川橋そばの和菓子屋の前でKさん手配の弁当を受け取り、少
し先の下地橋バス停横から小雲取越えの道に上がる。

 茶の花などが咲く数戸の民家を過ぎると杉林。木立の間から2、
3か所で熊野川の流れが見下ろせたが、やがて展望は無くなった。

 菅笠に白衣の巡礼姿の若い女性が休んでいた。Eさんが聞くと、
熊野三山を歩いて回っているという。熊野古道は、若い人も引き
つける何ものかがあるようだ。

 木もれ日の差し込む道に落ち葉が積もり、やわらかな足触り。
斜面をトラバースするように進んだ道は、右側の谷への分岐を
過ぎて尾根道となる。

 幅広く石畳が敷き詰められ、江戸時代、駕籠も通ったことが実
感できる。

 よく枝打ちして背の高い杉木立の中、上り道が続くので、ゆっ
くりと上る。万才(ばんぜ)峠への分岐を過ぎると傾斜がきつくな
り、やがて右に回り込んで百間ぐらに着く。

 西側の展望が開け、重畳と連なる緑の山並みの大展望である。


 加法山(609m)の西斜面、標高450m付近をトラバースしな
がら進むと、右から林道が上がってきて交差する。「皇太子殿下
行啓の地」の新しい石碑が立っていた。

 数年前、皇太子殿下が、この先のコースを歩かれたとのこと。

 杉木立の下の尾根道、ところどころにリンドウが一輪ずつ咲い
ている。たくさん積まれた小石の上に地蔵が立っていた。旅の
途中で亡くなった人の霊を慰めるために造られたものだという。


 杉木立の下に休憩舎があったので昼食とする。石堂(いしどう)
茶屋の跡で、西側の谷には水場もあるようだ。

 案内板によれば、茶屋の名は、この辺りから砥石が出たのが
語源のようで、里人は「イシンド茶屋」と呼んだようだ。

 昨日まで、古道を行き交う人はわずかだったが、今日は日曜
日なので何グループかの人と会う。食事を終わる頃、抜いてきた
10数人のグループが着き、腰を下ろした。


 茶屋の先には苔がビッシリ生え、緑のじゅうたんの上を歩くよう
な感じ。しばらくは幅広い石畳の尾根道が続き、杉落ち葉が一杯
積もった丸木の階段もあった。

 東側の山並みの展望が開け、やがて桜峠。すぐ先に明治の末
年まで桜茶屋があり、庭先に桜の大木があったとか。いまは斎藤
茂吉の歌碑が立つ。そういえば皇太子行啓碑以降、ところどころ
に歌碑が立っていた。


 茶屋跡から赤木へ下る道を分け、尾根道は赤木川に向かって
下り始める。一輪ずつ咲くリンドウや、随所に立つ歌碑、句碑を
横目に、ピッチが上がる。


 杉林が途切れて展望が利くようになり、谷筋を大きく蛇行する
赤木川や、小和瀬の集落が眼下に迫ってきた。


 石畳が終わり、いわゆる膝が笑うような急斜面が続くので、転
ばぬよう注意して下る。



 石の祠(ほこら)に納まった足切地蔵を通過して間もなく、赤木川
左岸の小集落、小和瀬に下りた。川を渡ったところにトイレがあっ
たので最後の休憩をする。

 赤木川右岸の車道を進み、支流、小口川の中の島にある小口
自然の家に15時前に着いた。よく伸びた庭の芝生で靴を脱ぎ、
ストレッチ体操をして宿に入る。

 自然の家は、小学校の跡に建てられた木造平屋建て。学校の
ような板張りの長い廊下に沿って部屋が並んでいる。

 夕食は食堂のテーブルで、地元の産物中心の家庭料理を美味
しくいただいた。


〈コースタイム〉熊野本宮大社8・55~9・19ー請川(弁当受領)
10・00~10ー小雲取上り口10・14ー南側の谷への分岐10・42ー
万才峠への分岐11・12ー休憩11・15~25ー百間ぐら11・45~53
ー林道交差地点12・05ー石堂茶屋跡(昼食)12・19~13・05ー
桜茶屋跡13・37~45ー足切地蔵14・25ー赤木川橋際の休憩所
(WC)14・31~45ー小口自然の家14・55

(天気 晴、距離 17㎞、地図 伏拝(ふしおがみ)、本宮、歩行
 地 和歌山県本宮町、熊野川町)
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熊野古道 伊勢路を歩く⑥<横垣峠~丸山千枚田~楊枝川>

2008-10-18 21:39:48 | 熊野古道を歩く
 昨日に続き、5年前の今日歩いた、熊野古道伊勢路の4日目の
レポートです。

 写真は、フイルムカメラで撮ったのをスキャナーに取り込み、退
色した色の修整もしましたが、デジカメ画像と比べると画質がいま
ひとつです。

===========================

 2003年10月18日(土) 第4日
 横垣峠、風伝(ふうでん)峠、通り峠、丸山千枚田
 =慶長の遺産、丸山千枚田=



 毎日、朝は雲一つない快晴だったが、今朝は曇って遠望は利か
ず、期待した海からの日の出も見えなかった。

 7時半過ぎ、宿のマイクロバスで御浜町神木(こうのぎ)まで送って
もらう。横浜のOさん、千葉のWさんが加わり、21人で8時10分に
スタートした。今日もYさんに荷物を運搬してもらえる。

 道標に従いミカン畑の間を西に向かう。雲が低く今にも降り出しそ
うな雲行き。ミカン畑が終わりヒノキの林に入った。風がないので、
上り坂が続くと汗ばんでくる。


 高度が上がり、樹間から展望が開けてきた。霧の向こうに熊野灘
らしいのが見える。でもこの先、最終日まで海とはお別れか…。

 ポツポツ雨が落ちてきたが、木の下なので雨具を出すほどでは
ない。水場のある地蔵さんのところで休む。ヒノキ林を緩やかに上り
下りして横垣峠(305m)に着いた。自然石の新しい峠標石がある。

 峠の先は、ゆるいカーブの続く石畳を下って車道に出た。ここで、
車道組と車道を横切る古道組に分かれた。古道は林の中を緩やか
に下り、折山地蔵の先で坂本川沿いの棚田の横に出る。

 ススキやセイタカアワダチソウを見ながら田のあぜ道を進み、折山
神社前で車道組みと合流して休憩する。周辺には、かなり前に収
穫を終えた石積みの棚田が広がる。あぜのコスモスが見頃である。

 車道を進んで坂本の集落を抜ける。柿の実が色づき、まだ緑の
夏みかんも実る静かな里道だ。

 車道は、杉木立の間や風伝窯と記された窯元の横を過ぎ、国道
311号を横切って向地から大杉の集落を抜ける。大杉には、その
名のもととなった2本の大杉が、松のような枝振りで立っていた。


 尾呂志(おろし)川を渡って川瀬集落を過ぎると国道に合し、風伝
(ふうでん)トンネルの東側に出た。風伝峠へは、トンネルの南側
(下の写真左側)に残る車道を入る。


 薄暗い杉やヒノキの木立の下を進み、最後に少しだけ車道をショ
ートカットして山道を登ると、あっけなく茶屋のある風伝峠(257m)
に出た。

 風伝峠は、我々の進む本宮道と、吉野へ向かう北山道との分岐
点。風伝とは風顛(ふうてん)の当て字で、風の良く通る峠のこと。
峠の手前の尾呂志は、峠から吹き下ろす風伝颪(おろし)が転じた
もののようだ。

 峠からの下りも、車道組と古道組に分かれ、トンネル西側の国道
に向かったが、迂回する車道に比べ、山道を真っ直ぐ下った古道の
方が早かった。

 国道を500m足らずで北側の狭い車道に入り、通り峠へ向かう。


 棚田と点在する数戸の集落の間を進んで、集落最上部にあった
トイレのところで休憩する。

 集落から峠への上り口に標識が無かったので、別の道に少し入っ
て戻った。杉林の下、苔むした石垣の道などを進んで、ほどなく通り
峠(390m)に出る。

 右手に入り、木の手すりもあるかなりの急斜面をジグザグに進み、
展望台に上がった。眼下に、地形そのままに緩やかなカーブを描く
丸山千枚田が一望できる。

 丸山千枚田は、慶長6年(1601)にはすでに、7haの水田に
2200余枚を数えたとの記録があるという。近年、550枚まで減
少していたのを、条例を制定して保存会により1340枚まで復田
したとのこと。

 全国の棚田が、減反政策や耕作者の高齢化でどんどん減ってい
る中で、復田したのはうれしいことである。

 いまは刈り入れ後で、土の見える田んぼはやや色彩に乏しい。
田植え後の水の入った時期とか、刈り入れ前の黄金田の景観を、
再訪して見たいものだ。


 道沿いに一輪ずつ咲くリンドウの間を丸山集落に下る。



 千枚田最上部を少し西に回り、水車や休憩舎のある芝生の広
場で昼食とする。

 今日の弁当もNさんの、ふる里茶屋「おかげさんで」製。高菜の
めはり寿司、サンマ寿司、ミカン汁で炊いたいなり寿司が詰めて
あった。いずれも御浜町の産物を使った郷土料理。棚田を眺めな
がらおいしく味合う。甘いミカンもまたたくさんいただいた。

 千枚田の間を下り、大栗須集落を抜けて板屋川沿いの三差路
に出た。川の左岸に沿って進み、時計塔のある新しい木造校舎
の入鹿(いるか)中前を通過し、紀和町役場の先、鉱山資料館前
で休憩する。天気が回復して青空が広がってきた。


 すぐ先の三差路を南に入った板屋川の支流に、小さい魚がたく
さん見える。一族山(800m)の山ふところに向かう集落には、
サザンカが咲き、ムラサキシキブが実を一杯つけている。

 今日はまだ先が長い。一族山の山腹、標高250m付近をほぼ
等高線沿いに走る県道780号に入ると、自然に先頭のピッチが
上がり、前後が少しずつ離れてきた。

 ヒノキや杉林の下を西から南に回り込んで行くと、西側の展望
が開け、明倫小学校跡に出た。

 沿革の説明板を見ると、2棟の校舎やプールの表示もある。

 当時は、周辺に集落もあったのだろうか。現在その面影は全く
無く、桜の植えられた一帯は、夕陽の丘公園と呼ぶ自然公園にな
っている。


 更にハイピッチで進み、大規模鶏舎の並んだ三差路を左に入り、
最後は少しだけ舗装の途切れた山道を下って楊枝川(ようじがわ)
集落に出た。

 色づき始めた山波を見ながら、楊枝川に沿って右岸を一気に進
む。日が傾いて涼しさを感じはじめた頃、熊野川との合流点に出た。

 今回の最長距離を歩き、疲れもつのる。前方に見えた三和大橋
に向かって急いでいたら、橋の手前で迎えのマイクロバスが来て
くれた。


 三和大橋を渡って左折、赤木川左岸の熊野川温泉「さつき」旅館
に17時過ぎに着いた。

 平屋建ての比較的新しい旅館。温泉に浸かって疲れをとる。夕食
は和食のコース料理。、紀州鶏のすき焼きや熊野の海の魚などを
美味しくいただいた。

〈コースタイム〉神木8・10ー横垣峠8・50ー折山神社前(WC)9・21
~30ー風伝峠上り口10・10ー風伝峠10・30~35ー通り峠上り口
(WC)11・05~10ー通り峠11・30ー展望台11・39~47ー丸山千枚
田(昼食・WC)12・18~55ーオートキャンプ場三差路13・13ー鉱山
資料館前(WC)13・53~14・09ー明倫小学校跡14・50~55ー大型
鶏舎の分岐15・22ー楊枝川集落の車道15・49ー三和大橋北詰
16・43=熊野川温泉さつき17・05

(天気 曇後晴、距離 29㎞、地図 木本、瀞八丁、大里、本宮、
 歩行地 三重県御浜町、紀和町、和歌山県熊野川町)
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熊野古道 伊勢路を歩く⑤<甫母峠・逢神峠・松本峠>(続き)

2008-10-17 17:53:50 | 熊野古道を歩く
 8月25日まで続けた、5年前の熊野古道伊勢路のレポートが、
ずっと中断したままでしたが、今日から続けます。

 続きのレポートは、偶然にもちょうど5年前の今日、10月17日
の午後からになりました。

============================

 2003年10月17日(金) 第3日(続き)



 緩やかな円弧を描く新鹿(あたしか)湾沿いに回り、今は静かな
海水浴場の休憩施設前で昼食となる。今日の弁当は、Nさんが、
奥様の店の弁当を用意して、荷物運搬のYさんと待っておられた。

 Nさんは、明日歩く御浜町にお住まいで、町の教育長をされた
方とのこと。

 眼の前180度に広がる緑の山並みと、真っ青な新鹿湾を眺め
ながらの昼食。ほかではあまり得られぬぜいたくな眺めだ。

 食後は、Nさん自家生産の甘いミカンを幾つもごちそうになる。
余ったのもどうぞと言われ、いただいてザックに入れた。

 記念撮影をして午後のコースへ向かう。


 国道311号を少し進んで、JR紀勢本線の甫本トンネル入口付近
からはトンネル上の山道と国道とを行き戻りする。


 東波田須集落では、南向きの急傾斜地に並ぶ民家の前の狭い
道をトラバースして通過、わずかに残る鎌倉時代のものという苔
むした石畳道を上る。


 中波田須町から西波田須町にかけては、集落の上を走るカーブ
の多い国道を車に注意しながら通過し、休憩舎のあるところから
大吹峠への山道に入った。

 孟宗(もうそう)竹の竹林の間を十分余りで大吹峠(205m)。
あっけなく上がったので休憩もせず下りへ。峠の先にも立派な孟
宗竹の林がある。


 やがてヒノキ林となり、石畳を下ると右側の谷間の展望が開け
てくる。


 赤い前垂れをした常夜灯と地蔵さんの前を通過し、石を切り出
して山塊が平になった石切場付近で車道に下りた。近くの路傍で
ひと休みする。
 

 再び国道311号に出て、海沿いの旧道を進んで大泊町を抜け
る。宮川の橋を渡って間もなく、右手の標識に従い今日最後の峠、
松本峠へ向かう。

 標高差はわずかだがかなりの傾斜、ビッシリ敷き詰められた石
畳を上がって竹林の中の松本峠(135m)に着いた。

 赤垂れをつけた地蔵や石塔が立っている。地蔵には鉄砲傷があ
るようだが、確認はしなかった。


 林の中の遊歩道を南に進み、展望のよい休憩舎に上がる。西側、
眼下の熊野市街から真っ直ぐに延びる七里御浜の展望がすばらし
い。その先、滝見の岡からは、大泊の湾の北側、山の中腹から落
ちる清滝と呼ぶ大きな滝が遠望できる。


 遊歩道の尽きたところは、鬼ヶ城跡。鬼の見晴台と呼ぶ展望台
があり、大泊の町並み(下)や広々とした太平洋が一望である。


 階段状の東側の遊歩道を一気に下って観光バスの駐車場に出
る。アーケードのある土産物店の間を抜けると、海岸の巨大な岩
盤が浸食された奇勝・鬼ヶ城である。



 岩をくりぬいたトンネルの先は千畳敷といわれる広い岩盤、それ
に覆いかぶさるような岩の間を半島を一周する遊歩道が続いて
いる。

 海にそぎ落ちるような岩盤に付けられた細い遊歩道、鉄製の手
すりにつかまりながら慎重に上り下りして半島の西側に出た。


 日暮れて涼しくなってきた。熊野市の中心、木本(きのもと)町
の市街地に入り、17時近く熊野市駅に着いた。


 迎えのマイクロバスで、市街地や熊野灘を見下ろす高台にある、
かんぽの宿熊野に入る。

 大浴場で汗を流す。夕食は、いつもと違うテーブルに椅子での
和食コース料理。Nさんの知人、Hさん差し入れの日本酒などを
いただき、初めてのカラオケも出て、にぎやかな晩餐となった。

〈コースタイム〉三木里バス停7・33=曽根バス停7・55ー甫母峠
上り口(WC)8・10~16ー曽根一里塚8・40ー甫母峠9・01~07ー
楯見ヶ丘9・17~33ー猪垣記念碑10・15ー新逢川橋(二木島駅
そば)10・42~53ー二木島峠11・31~35ー逢神坂峠11・54~
12・00ー湊川橋12・36ー新鹿海水浴場(昼食・WC)12・49~
13・20ー大吹峠登り口(WC)14・19~28ー大吹峠14・40ー山道下
った車道15・02~04ー松本峠登り口15・16ー松本峠15・28~34
ー鬼の見晴台15・50~52ー鬼ヶ城千畳敷16・18ー周遊路終わり
16・37ー熊野市駅16・55

(天気 快晴後晴、距離 19㎞、地図 賀田、磯崎、木本、歩行
 地 尾鷲市、熊野市)

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第3回 葛飾探見歩行(香取神社~葛飾車庫)(東京)

2008-10-16 21:48:45 | ウオーキング
 2008年10月13日(月・祝)



 やまさんの第3回ぐるり一周葛飾探険隊に参加した。参加者は、
いずれも前回参加の6人。水元公園そばの香取神社を10時4分
に出た。




 今日の探見は、葛飾区の北部、東は水元公園、北に大場川、
西の中川に囲まれた東水元から水元、西水元にかけての一帯で
ある。


 新春1月4日の「東京横断66㎞ウオーク」の出発地、水元公園
にある水元大橋(上)の西に並ぶ橋を渡り、東水元三丁目の延命
寺に行く。

 ご住職の話では、寺は慶長15年(1610)の創建。地元に多
い細谷姓の祖先が、現在は水元公園になっている江戸川の流れ
から拾った「流れ地蔵」と呼ぶお地蔵さんを納めて、本尊にしたと
いう。


 境内に、かなりすり減った珍しい石造の三猿や、水元二十一大
師の小さいお堂があり、門前には新四国八十八箇所第三十四
霊場第三十四番の石碑が立っていた。

 北側には生産緑地が残り、ビニールハウスにトウモロコシやキュ
ウリ、ホーレンソウなどが育てられている。緑地の背後には、古く
からの農家が並んでいた。


 近くの三差路際に、水元二十一大師らしいお堂があり、横には
享保4年(1720)銘の宝篋印塔が立つ。背後に並ぶ五体の石像
の一つは、ほかでは見かけない妊婦のような姿の石仏だった。


 東京二十三区内とは思えぬ、柿が実り梅畑の残る一角を回る
と、傾いたお堂がある。

 近くの薬師堂は改築で新しいが、墓地には延宝(1673~)や
元禄年間(1688~)の古い五輪塔があり、隣には火の見やぐら
も立っていた。

 東水元小の5年と3年生の四人組みと話を交わして北に進む。
閑静な住宅地の一角に洋風料理の店があった。都心・内幸町に
あるプレスセンターのレストラン「アラスカ」の料理長を経て、5年
前に開店したとか。このあたりには珍しい、しゃれた感じの店だ
った。

 変わった形の石造の鳥居を入って日枝神社へ。

 旧水元小合上町の産土神(うぶすながみ)だったようだが、水元
公園の誕生に伴い買収され、昭和53年(1978)に、この地に
移転したという。拝殿上に、彩色の三猿が並んでいた。


 再び水元公園へ。

 たくさんのグループで賑わうバーベキュー広場を抜け、小さい
水辺を眺めながら、「せせらぎ広場」で昼食をする。

 公園を出てまず、そばの熊野神社に入る。境内は広くはない
が緑が豊富。鳥居の横に、樹高10.3m、幹回り3.54mという
りっぱなタブノキが枝を広げていた。


 都道307号(岩槻街道)を横断して水元五丁目へ。東西南北
にきちんと区画された道が走り、東水元に比べると比較的新し
い住宅街。水元そよかぜ園の北を進み、葛飾区最古という遍照
院に入る。

 和銅元年(708)または和銅3年創立と伝えられる古寺だが、
度重なる洪水や火災で、多くの寺宝や記録を失ったという。

 境内には、延宝5年(1677)銘の角形水盤や、上部の面が高
く残された当地域では珍しいという「異形(いぎよう)板碑」、観音
像の線刻板碑などがあり、狭いながら形のよい松やつつじなど、
植え込みもなかなかよく整えられていた。

 遍照院の北方で折れてきた都道307号を再横断し、西水元
六丁目へ。都道際に大きな社殿の水元神社が鎮座している。

 昭和49年(1974)に、香取、浅間、熊野、天祖、吾妻の5社
を吸収合併してできた社のようだ。

 西に進んだ西水元三丁目の角に、何十個もの植木鉢を並べた
お宅があった。狭い庭や周囲にもびっしりと植木が並ぶ。

 その数や種類はどのくらいあるのだろうか…。

 にぎやかな音楽と歓声が聞こえる、水元八千代幼稚園に入る。
自転車で来た家族などで校庭は人の波。徒競走で卒園生が、狭
い校庭をきゅうくつそうに回っていた。

 さらに進んで中川左岸堤防へ。下流の飯塚橋に向かって調整
池や芝生広場、多目的運動場、ワンドと呼ぶ水辺(下)などが続
き、「西水元水辺の公園」と呼ばれている。


 対岸に見える足立区の住宅や森、たっぷりの水量でゆったりと
流れる中川などを眺めながら橋の近くまで行く。時折モーターボ
ートが通過して、大きな波が立つ。

 ワンドの先まで進んで西水元一丁目に下り、少し戻って夕顔
観音で知られるという安福寺に行く。

 江戸中期の元禄時代(1688~)、安福寺の夕顔観音は、万能
薬が売られる観音様として江戸名所のひとつに数えられ、多くの
信仰を集めたらしい。

 夕顔観音は、弘長2年(1262)に奉納されたものとか。現在で
は江戸の賑わいは想像できない、静かなたたずまいである。

 飯塚橋東詰際にある今日のゴール、東武バス葛飾車庫に14時
40分に着いた。ここからは、JR常磐線亀有駅と綾瀬駅行きバス
がある。10分後発車の始発バスで、綾瀬駅に向かった。

(天気 曇後晴、参加 6人、地図 草加、歩行地 葛飾区)
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関東百駅巡礼歩行 益子駅(栃木)

2008-10-14 21:48:12 | 関東百駅巡礼歩行
 きょうは、当日3枚の写真だけで報告した、3日前の関東百駅
巡礼歩行のレポートです。

==========================

 2008年10月11日(土)


 
 やまさんの関東百駅巡礼歩行、第48回は真岡(もおか)鐵道の
益子(ましこ)駅。参加者10人は記念撮影後、11時11分に益子
駅を出た。


 県道41号を横切り、古い虚空蔵(こくぞう)堂の先から、生い茂
った草をかき分けて行くと、地図に記された林間の細道が残って
いた。樹林下の、小さいほこらが二つ並ぶ横を通過する。

 左へ回り込んでしばらくで、地図にはない車道が下に見えた。
その道に下ると、益子小の横から南西の石並集落とを結ぶ通学
路らしく、車道際に「学道につき最徐行」の立て札が立つていた。

 「学道」という標識は、はじめて見た。

 すぐ先にあった林間の細道に再び入り、緩やかにトラバースしな
がら東斜面を進む。右から、工事を終えたばかりで未開通の車道
が現れた。

 その道を進むと西側に、ぽっかりと山をえぐった広大な砂利採取
場が見下ろせる。


 東側に見えた谷地田(やちだ)のあぜに下り、西明寺集落の車
道に出る。野菜を無人販売する建物があったので、場所を借りて
昼食にした。

 青空が広がり、日が差してきた。東側の一軒家と細い谷地田の
間を進んで東側稜線上の畑を横切るつもりだったが、そこは若木
のヒノキと杉林になっていた。

 その林に上がり稜線を越えて反対側の田んぼに向かって横断
する。ところが中ほどで、米粒くらいの小さなひっつき虫が、シャツ
やズボン、ザックなどに何千とも知れずにくっついてしまった。

 まるで着衣に模様ができたようで、ひとつひとつ手で摘まぬと
取れない。摘みながら田んぼのあぜを進むが、いつになったら取
り切れるか計り知れぬほど多い。こんなしつこいひっつき虫に遭
遇したのは皆、初めてのことだった。

 帰宅後、ネットで調べてみたら、どうやらこれはイノコズチという
草の実らしい。

 東側山腹に見えた芳賀青年の家に向かって、駐車場の横から
ジグザグに上がる。青年の家の広場では、小学生だろうか、テン
ト代わりのシート張りの訓練をしていた。

 青年の家の上が、坂東三十三観音霊場第二十番札所の西明
寺(さいみようじ)。一番下の納経所は、かやぶき屋根である。

 その前に、県天然記念物の大きなクスノキが立っていた。


 手をこまねいていたひっつき虫は、濡れティッシュでぬぐうと取
れることが分かり、寺の駐車場のトイレの水で濡らしたティッシュ
を何枚か使い、なんとか目につかぬくらいまで取ることが出来た。

 林間の石段を上がってくぐる楼門も、どっしりしたかやぶき屋根。
明応元年(1492)建築で、そばに立つ天文7年(1538)建立の
三重塔とともに、国重要文化財に指定されている。


 楼門右手の閻魔(えんま)堂もかやぶき屋根だった。閻魔堂内に
は、5体の仏像が並び、中心の閻魔大王は日本でただひとつと
いう、珍しい笑い顔の閻魔様である。


 かやぶきにトタンを被せた堂々たる本堂に参拝する。欄間(らん
ま)に紙の千社札(せんじゃふだ)がたくさん貼られ、色あせては
いるが、精巧な木彫にも目を引かれる。


 本堂右手に、「とちぎ名木百選」のコウヤマキの巨木が、複雑に
枝を伸ばしていた。

 樹高30m、周囲5.4m、承元3年(1209)に宇都宮景房が本
堂修復記念に植えたと伝えられているという。

 コウヤマキの横から背後の林に入り、関東ふれあいの道を400
mほどで権現平に上がる。権現平には展望台とベンチがあり、少
し霞んではいるが、広葉樹の間から西北方が展望できる。


 さらに先へ、県道262号を2度目に横断したところに、大日本史
に関東六城の一つとして紹介されているという、高館城跡の説明
板があった。

 関東ふれあいの道は、「益子の森」と呼ぶ稜線上の気持ちよい
遊歩道を北に向かう。途中の窯眺橋で車道の上を陸橋で通過し、
少しずつ下ってトリム施設の横を過ぎ、フォレストイン益子という
宿泊施設の前に出た。


 さらに林間を下って須田ヶ池のそばまで行ったが行き止まり。
フォレストインのそばに戻り、東側の車道から県道230号に出た。
 このあたりから益子焼きの製陶所が幾つか並んでいる。


 カモの泳ぐ須田ヶ池の西で県道に分かれて南側の旧道へ。
 小峰窯業センターの先にて広い車道を横断、丘陵に上がって下
り、田舎料理の店の横県道230号に合した。そばの道祖土(さや
ど)上バス停で時刻を確認したが、しばらく来ないので、駅まで歩
くことにする。

 益子焼きの品定めに来た人で賑わう益子焼窯元窯業センター
には、益子焼きの大ダヌキが鎮座していた。


 道路の南の広場では、幾つかのテントの下に益子焼の製品を
たくさん並べて販売している。

 窯業センターの横を北に入って益子陶芸美術館に行く。この日
まで休館中で観覧はできない。構内を先に進み、遊歩道を遺跡広
場の先まで行く。このあたりは益子古城の城跡らしい。

 幼稚園を併設した観音寺の横から県道の交差点際に下る。そば
に、かやぶき屋根のりっぱな家が見えたので回ってみた。

 県文化財の日下田邸で、藍染め工房になっている。中に入って
藍染めの窯(かま)や、水でさらす工程などを見せていただく。


 藍染製品もたくさん並べて販売していた。

 鍵の手のところで県道に分かれて南を平行する細い旧道へ。
 益子保育園のそばを通り、15時58分に益子駅に戻った。
 
(天気 曇後晴、距離 10㎞、地図 真岡、歩行地 栃木県益子
 町、歩数 20700)
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3回目の葛飾一周探見隊へ(東京)

2008-10-13 22:57:32 | ウオーキング
 体育の日の今日は、やまさんの第3回葛飾一周探見隊に参加
しました。

 今日も速報のみとし、レポートは別途といたします。

 出発地は、先月のゴール、東京二十三区内ではただ1つの自
然公園である水元公園に近い香取神社です。

 今日のメンバーは、カメラの私を含め、いずれも先月参加の6人
でした。


 香取神社境内の大イチョウは、葉はまだ緑でしたが、ギンナンは
黄色く色づいていました。

 今日の探見エリアは、水元公園の西側を西へ、東水元から水元、
西水元へと向かいます。

 午前中は東水元の寺院を幾つか回り、水元公園で昼食にしました。

 好天で連休最後の休日とあり、広い園内には、自動車や自転車
などで来たグループや家族連れ、長い望遠レンズをかかえた探鳥
会のグループなどが、あちこちに見られました。

 午後は、東西南北にすっきりと区画された道路に従い、西に進み
ましたが、昔の農家だったらしい家があちこちに残る東水元に比べ
て、比較的新しい住宅地が続いていました。


 最後は葛飾区と足立区との区境を流れる中川の左岸堤防に上
がり、西水元1丁目まで進んで、飯塚橋際の東武バス葛飾車庫が
ゴールでした。





 



 
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ところざわまつりへ(埼玉)

2008-10-12 22:58:10 | 所沢だより
 きょう、10月12日(日)は、所沢の中心市街地で開催された
「ところざわまつり」を見に出かけました。



 「ところざわまつり」は、西武線所沢駅西口入口交差点から、
東町、元町を経て金山町交差点まで、10時30分から車の通行
止めにして開催されます。



 「ところざわまつり」は、山車(だし)が中心のお祭りです。
 所沢では、明治初期から山車の曳(ひ)きまわしが行われ、
そのころは、9月15日に開催される神明社(しんめいしゃ)の
秋の祭礼に各町内から山車が集まるようになったと伝えられて
いるようです。

 ちなみに神明社は、市街地の中心、もとの市役所の背後に
あり、新年の初もうでなどでは、市の西部にある北野天神と
ともに、埼玉県内でも参拝者の多い神社です。

 祭りに欠くことのできない祭り囃子(ばやし)は、所沢では
幕末から明治初期にかけて、古屋重松(ふるやじゅうまつ)が
関わって広めたといわれる重松流(じゅうまりゅう)が用いられ
ています。

 今日は、所沢駅西口から金山町方向に向かって進みました。 
  
 最初に山車に出会ったのはダイエー前。それも3台の山車
が曳きかわせをしていました。

 曳きかわせ(あるいは「曳っかわせ」)とは、2台あるいは3台
の山車が接近して、それぞれが祭り囃子を競い合い、相手を
引きこんだ方が優位となり、進路を譲られるというもの。

 すぐ先の広場では、舞台の上で荒幡集落の囃子(はやし)連
が重松流のお囃子を演じていました。


 市内には全部で12台の山車がありますが、今年は10台が
出ているとのこと。銀座通りに入ると次々に山車が見えました。


 それぞれの山車では、おかめ、ひょっとこなどの面をつけた
踊り手が、お囃子に合わせて踊っています。




 山車の屋根や側板の彫刻、ちょうちんなどが、きらびやかさを
競っていて、見て回るのが楽しみです。


 山車だけでなく、市の西部、和ヶ原からは3年ぶりに、みこしも
参加していました。


 正月の出初め式で美声を披露する、木遣り(きやり)連も加わっ
ています。


 歩行者天国の西側、金山町の賑わい。


 地元、金山町の山車もやってきました。




 精巧な木彫に飾られた西所沢の山車。


 山車の運行するエリアの中心、元町交差点付近でも3台の
曳きかわせが始まりました。


 近くでは2台の曳きかわせも。


 私が回ったのは午後ですが、こうして祭りは午後9時まで続
きました。
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関東百駅巡礼歩行で益子へ

2008-10-11 21:34:19 | ウオーキング
 今日は、やまさんの関東百駅巡礼歩行の第48回目で、栃木県
内を走る真岡(もおか)鐵道の益子(ましこ)駅でした。

 益子は、関東ではご存じの方も多いと思いますが、益子焼きで
知られた陶器の町です。

 レポートは別途とし、写真3枚だけの速報になります。

 真岡鐵道の始発駅は、JR水戸線の下館駅と同じです。
 駅構内には、私たちが乗った10時16分発の後に運行される
SLが待機していました。


 参加メンバーは、カメラの私を入れて10人。東京、埼玉、栃木
からの参加です。


 まず目指したのが、坂東三十三観音霊場第20番札所の西明
寺(さいみょうじ)。駅から西南西に直線で3㎞ほどですが、標高
200m近い山上にあり、歩いて行く人は少ないようです。

 私たちは、山を越え田んぼを横切り、普通の人では考えられな
いような道筋をたどりました。

 途中では、過去47回の巡礼歩行中にもなかった、思いがけな
い経験もしましたが、それはレポートの時に報告します。


 西明寺の本堂です。西明寺には、納経所や山門など、重厚な
かやぶき屋根の建物が残っていました。

 後半は、「関東ふれあいの道」のルートにもなっている、「益子
の森」と呼ぶ林間の気持ちよい道をたどり、陶芸の店が並ぶ
益子の町並みに入り、16時近く、益子駅に戻りました。
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