あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

JR東日本駅からハイキング③ 木の都 能代の今昔を巡る(秋田)(続き)

2014-07-06 14:36:55 | JR東日本駅からハイキング
 2014年6月28日(金)【続き】

 そばのイオン能代店東側の通りに入って東にすぐ、国登録有形文化財の旧料亭「金勇
(かなゆう)」がある。

 金勇は明治23年(1890)の創業で、現在の建物は2代目金谷勇助が昭和12年
(1934)に建て替えたもの。

 木都能代の象徴ともいえる秋田杉をふんだんに使った建物で、当時の営林署でも後世
に残る建物をと、資材の提供に全面的に協力したという。

 各種団体の会合、宴会、茶会、商談、冠婚葬祭などに利用され、県内屈指の老舗料亭
として親しまれたが、平成20年(2008)8月で閉店して翌年能代市に寄贈され、
現在は無料で公開されている。

        
 1階の廊下を進むと、左手に「川風の間」↓や「有明の間」などがあり、「有明の間」
には料理に用いられた器が並べられていた。
    

 有明の間


    

 右手中ほどは、1階で一番広く「満月の間」と呼ぶ中広間。天井には、現在では入手
困難という1本の秋田杉から採った、長さ9.1mの天板5枚が使用されている。


 天井に下がるのは、竹を用いた繊細な照明器具


 満月の間からは、南側の庭園が一望である。




 満月の間の上座側



 奥の畳敷きのホール↑には、夏の能代の祭り「ねぶながし」のミニチュアや、昭和41
年(1966)に大平正芳官房長官来館時の献立表、能代春慶塗の食器などが展示されて
いた。

    

    

 ホールの展示で特に目をひかれたのが、「松陰風光」と呼ぶ組子(くみこ)入り仕切戸。
    

    
 ライトの反射などあり、写真では大きさも技巧も分かりにくいが、下のような数えきれ
ぬほどの細かい組子を組み合わせて造られた精巧なもの。
    
 制作された武田木工の武田久雄さんは、「現代の名工」に選ばれている。

 能代市の観光ガイドブックの表紙も、武田さんの組子細工の写真である。


 そばに並ぶ「日入る」と呼ぶ組子のついたても、同じ武田さんの作品。


 2階の大部分を占めるのが、110畳敷きの大広間である。

 格天井(ごうてんじよう)には、畳1畳分という柾目(まさめ)の秋田杉板を卍型に
配している。
    

    

 大広間からは、南側の庭園が見下ろせる。


 西側の床柱(とこばしら)は、十和田湖畔から切り出されたイタヤカエデのどっしり
とした古木で、丹念に磨き上げられていた。
        

 大広間の西側、小さい方の床の間に飾られていた花籠は、竹と木の根で編んだ珍しい
もので、花籠とは思えぬ大きさ。当主自ら京都で探し求めたものだという。
    


 七つの入母屋(いりもや)が交差しているという外観も、ほかでは見られぬもので、
金勇を観覧できたのは、能代を訪ねた一番の収穫であった。

 東に接するのが、能代の鎮守、八幡神社。斉明天皇4年(658)に阿倍比羅夫が鎮
座したという古社。江戸時代は歴代の藩主佐竹氏の崇敬篤く、元禄元年(1692)に
現在地に遷座したという。

 拝殿前に、茅の輪(ちのわ)が残されていた。

 手前の2本のクロマツは樹齢200年以上と推定され、1本は幹の中間が太く、「逆
さ松」と呼ばれて親しまれているようだ。


 境内のケヤキの古木には、顔のデザインが施されていた。


 南進して「風の松原通り」に出て、ゴールの能代駅に向かう。駅までは700mほど。



 駅前の交差点に戻ってそばの能代駅前市場に入り、海産物売り場などをのぞく。


    



 能代観光案内所には13時55分に着いた。ゴールチェックをして完歩賞をもらい、
能代駅発14時14分の五能線上り列車に乗る。

 次の東能代は、奥羽本線への乗換駅。五能線のホームの列車スタイルの待合室際には、
五能線の起点を示す標識があった。
    

 東能代からの奥羽本線下り電車を大館と弘前で乗り継ぎ、今日の宿泊地である青森駅
に17時43分に着いた。

(天気 晴、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 能代、歩行地 秋田県能代市、歩数
 10,600) 




アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR東日本駅からハイキング③ 木の都 能代の今昔を探る(秋田)

2014-07-05 16:27:15 | JR東日本駅からハイキング
 2014年6月27日(金)

 JR弘前駅7時51分発奥羽本線上り電車を大館で乗り継ぎ、東能代(ひがしのしろ)
で五能線下りに乗る。次の能代駅には10時58分に着いた。

        
 改札のあるホームには、能代が「木の街」と「バスケットボールの街」であることを示
す飾り付けがある。
    

    

 駅前の能代観光案内所で、今日の「駅からハイキング」の「能代の春満喫コース」の受
付を済ませ、11時7分にスタートした。


 駅近くの交差点を右折して県道205号、畠町通りを北に向かう。

 幅広い歩道は歩行車道と自転車道とに区分され、ところどころに置かれた木製植木鉢に
鉢花が咲き、木製のベンチも置かれている。
    

     
 まず、次の信号のある交差点近くの「能代バスケットミュージアム」に入る。能代市は
「バスケでみんなが元気になれる街」を目指して、「バスケの街づくり」を推進している。

    
 わずかなスペースだが、バスケの強豪・能代工高関係のもの↑をはじめ、国内やNBA
選手のグッズ、国内随一という豊富なバスケ関連図書、トロフィーやユニフォーム、年譜
などが展示されていた。
    



 隣接する建物のシャッターも、バスケットボールのデザインである。


 さらに進むと、文禄元年(1592)創業という能代名物 翁飴の店、桔梗屋が目に付く。
          


 柳とイチョウの街路樹が並ぶ東西の通りを横断し、米代川(よなしろがわ)の能代橋ま
で行く。


 川幅いっぱいに流れる米代川は、西側を走る国道101号の能代大橋の先で↓日本海に
入っている。


 能代大橋の手前には、毎年5月に開催される高校バスケの全国大会「能代カップ」の会
場という、能代市総合体育館が望まれた。


 橋の近くの歩道では、「無散水消雪道路」と呼ぶ舗装内に放熱管を埋設する工事が行わ
れていて、雪国であることを実感する。


 橋から500mほど戻り、柳とイチョウの街路樹の通りを西へ。市役所の四つの庁舎前
を通過し、国道101号との交差点まで進む。


 左折して南に向かうと、次の交差点際の「けやき公園」に、ケヤキの古木が何本も残っ
ていた。

 昭和63年(1988)に移転した西光寺などの跡地を整備して、平成5年(1993)
から公園として公開したという。

 公園内東側には、寛文6年(1666)に西光寺がここに移転してきた際に植えたと思
われ、樹高10m、樹齢300年以上と推定され、江戸時代後期の旅行家で植物学者、菅
江真澄(すがえますみ)が文化3年(1806)に記した「霞むつきほし」に、それらし
い風景が描かれているという大ケヤキがあり、「能代の古木・名木」に選定されていた。
     

 気温が上がりむし暑くなってきたので、木の下のベンチで小休止して水分補給をした。

 公園の北西端の交差点で国道を離れ、西に延びる通りを突き当たりのT字路まで行く。
左折して南に向かう緩やかな「五智(ごんじ)の坂」を上がりきったところが、今日のコ
ースポイントの一つ、能代公園の入口である。


 石段を上がった辺りに、石のふたに覆われた標高23.7mの三角点があった。
    

 西方に延びる丘陵上には、クロマツや桜、ツツジなどが多く、樹間から能代の市街地や
米代川などが望まれる。


    
 地形図上に記されていた公園にある三つの記念碑マークは、時計塔↑、「忠魂碑」、
「武嶋栄君頌徳碑」で、頌徳碑のそばには比較的新しい「平和の碑」も立っていた。


        
 その先の石灯ろう付近からは、日本海沿いに東西約1㎞、南北14㎞にわたり約700
万本の松に覆われ、日本最大級という砂防林「風の松原」の一部が望まれる。



 そばの高みの緑陰に東屋があったので、ザックを下ろして昼食とする。今日の弁当は、
乗り換え待ちの大館のスーパーで求めた、わっぱ飯である。
    

 東屋の近くには、「能代の古木・名木」に選定されている、胸高周囲3m、樹齢100
年くらいと推定されるエノキがあり、幹が数本癒着した独特の幹を見せていた。
    

 公園入口に戻って南へ進むと、県立能代工高の正門前に出る。

 能代工高はバスケットボールの強豪校として知られ、国体やインターハイなど、全国三
大大会での優勝は58回を数えているという。

 隣接する淳城西小の前から広い通りを東進して、国道との交差点を越える。次の交差点
際の菓子店・松風堂が今日のチェックポイント。カウンターでチェック印を押印を押して
もらったが、菓子は求めずに出た。



 東に延びる柳町商店街には、多雪時の市民の足を確保するアーケードが続いている。
                                    【続く】



アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR東日本駅からハイキング② 太宰治ゆかりの金木へ(青森)(続き)

2014-07-03 18:11:06 | JR東日本駅からハイキング
 2014年6月26日(木)【続き】

 さらに先へ、国道339号に合する手前が金木小学校。校門の近くに「明治高等小学校
之跡」碑が立ち、『太宰治ゆかりの地「思ひ出」』の表示もあり、昭和11年作品「思ひ
出」に登場していることがうかがえる。
        


 国道に入り、400mトラックもある学校の広い校庭沿いの歩道には、ソメイヨシノの
古木が続き、よい緑陰となっていた。


 国道が右からの車道に合し、大きく左カーブした両側が芦野公園。左手、豊富な木々に
囲まれた池の周辺で、ヤマボウシが咲いていた。



 国道の右側が芦野公園駅↑。駅に接して津軽鉄道が開通した昭和5年(1930)から
使用していた、旧芦野公園駅舎を活用した喫茶「駅舎」に入る。

 この辺りは太宰治が子どもの頃に遊んだ場所とか。

 ここが今日のチェックポイント。チェックのスタンプをもらい、12時48分になって
いたので昼食もすることにした。ここの人気メニューの一つ、金木特産の馬肉を使った
「激馬(げきうま)カレー」を頼む。
    
 馬肉入りカレーライスは初めてだが、美味しかった。

    
 「駅舎」では土産物の販売もしており、古い看板や電話機が飾られ、太宰治作品「津軽」
の一部を記した木版のパネルもある。
    


 30分後に「駅舎」を出て現用の無人の駅に入り、当時と変わらぬと思われる周辺の豊
富な緑陰を眺める。
        

 駅の東側、飲物などの売店が数店並ぶ前を通過して踏切を渡り、線路の北側一帯の広い
エリアに広がる芦野公園に入った。

 約2,000本あり「日本さくら名所100選」に選定されているという、桜並木の下を
線路沿いに進む。

    
 さらにクロマツの林を抜けて右に回り込むと、再び桜並木となる。


 樹間から「芦野湖」と呼ぶ大きな藤枝溜池の一部が見え、「津軽三味線発祥之地」碑が
立っていた。
        

    
 近くには、同じ金木出身の歌手、吉幾三作詞の「津軽平野」歌碑↑などもあり、少し先に
は太宰治の銅像が、芦野湖を渡る吊橋際には、りっぱな「太宰治文学碑」もあり、6月19
日の生誕の日には全国のファンがここに集まるという。
        

        

    
 広大な池を眺めながら桜松橋と呼ぶ吊橋を渡った。




 橋の先を右折して、芦野湖の一部が枝分かれ状に細い池となって南に伸びた部分の、林間
に設けられた遊歩道を南進する。
      


 池の南端近くで木橋の「太宰橋」を渡る。樹間から、先に渡った桜松橋が望まれる。


 芦野公園駅東の踏切に戻り、東側の「こども広場」に回ると、昭和46年(1971)
に初飛行したという、超音速高等練習機「Tー2」が展示されていた。

 2人乗りの操縦席をのぞいてみたら、やっと座れるだけのスペースで狭い。

 往路をゴールの斜陽館に向かうが、金木小のそばの信号で左折するのを忘れ、少し迂回
になる国道を500mほど進む。標識に従い太宰通りに入り、斜陽館に14時15分に戻
った。


 コース地図にゴール印をもらい、道路を挟んだ金木観光物産館「マディニー」を少しだ
けのぞく。
    
 太宰治の著書を販売するコーナーもある。
    


 金木駅には14時29分に戻った。
    

 14時41分発のワンマンカーに乗り、津軽五所川原駅に15時ちょうどに着いた。

 13分後発車のJR五能線下り列車は、弘前行き直通で全席指定の快速「リゾートしら
かみ3号」である。

 急ぎ駅のみどりの窓口で指定席券を確保し、3編成あるというリゾートしらかみのひと
つ、「橅(ぶな)」号に乗る。
    

 奥羽本線への接続駅、川部駅ホームの標識。
    

 今日の宿泊地、弘前駅には15時51分に着いた。


(天気 快晴、距離 6㎞、地図(1/2.万) 金木、歩行地 青森県五所川原市、 
 歩数 11,700)


 文学にうとい私は、太宰治の作品を読んだ記憶が無い。これを機会に、津軽を舞台にし
た「津軽」や「思ひ出」くらいは読んでみたいと思う。




アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR東日本駅からハイキング② 太宰治ゆかりの金木へ(青森)

2014-07-02 22:58:28 | JR東日本駅からハイキング
 2014年6月26日(木)

 JR盛岡駅8時発の東北新幹線下り、はやぶさ95号で新青森へ。奥羽本線で川部(か
わべ)まで行き、五能線に乗り換える。


 車中から、リンゴ畑や水田の向こうにそびえる岩木山(1,625m)を眺め、津軽半島
の中南部、五所川原駅で下りた。


 駅構内には、毎年8月4日~8日に開催される「五所川原立佞武多(たちねぷた)」の
ミニチュアや飾りが並んでいる。五所川原立佞武多は、ビル7階分に相当する高さ約23
m、重さ19トンもあるという

 駅前広場で接する津軽五所川原駅から津軽鉄道に乗り換える。1両のワンマンカーには
七夕の飾り付けがなされ、「津軽半島観光アテンダント」6人のひとり、Sさんが乗車し、
沿線の見どころなどを紹介してくれる。
    

 今日の「駅からハイキング」の起点で太宰治(だざいおさむ)の故郷、金木(かなぎ)
駅には10時50分に着いた。


 ハイキングの受付場所、駅から500mの太宰治記念館「斜陽館」に向かう。

 駅前の通りを西へ、すぐ先のY字路を左に進むと、太宰治疎開の家という「旧津島家新
座敷」がある。太宰の長兄、文治の結婚を機に建設された離れで、太宰治親子が疎開時に
暮らした家だという。



 メロス坂通りを進み、表示に従い次の五差路から細い路地へ。斜陽館通りに突き当たっ
て右折するとすぐ、国指定重要文化財の「斜陽館」である。

 太宰治の父、津島源右衛門が明治40年(1907)に建てた豪邸。第二次大戦後に津
島家が手放して旅館「斜陽館」になっていたが、その後、旧金城町が買い取り、平成10
年(1998)に太宰治記念館となり公開されている。

 駅からハイキングの受付を終え、この斜陽館と津軽三味線会館の共通券を求め、館内を
観覧する。
    



 青森ヒバをふんだんに用いた和洋折衷の建物で、1階は11室278坪、2階は8室
116坪あり、太宰治誕生の部屋や廊下などを一巡した。
    

    

    
 館を出て斜陽通りを先に進み、すぐ先の十字路際の妙乗寺へ。独特の鐘楼門を入ると、
正面の本堂は最近の再建らしく新しい。


 西に延びる太宰通りに入る。妙乗寺の西は雲寺で、鐘楼門は妙乗寺に似た造り。
    

 太宰治は幼い頃、よくこの寺に遊びに来ており、終戦後は寺を会場に「金木分科会」が
発足し、疎開中の太宰治も積極的に参加していたという。

 寺は慶長元年(1596)の建立、現在の総ヒバ造りの本堂は昭和44年(1969)
の再建とか。鐘楼門を入ると左手にはイチョウの古木が、右側に樹齢500年以上という
老松が並ぶ。


 本堂内の、地獄極楽が描かれた十王曼荼羅が無料で見られるようなので、庫裡(くり)
で断って本堂に回り、左手に並ぶ7枚の絵を拝観した。
    


 道路を隔てた雲寺の南側が「津軽三味線会館」。


 金木は津軽三味線発祥の地で、津軽三味線の始祖、仁太坊やその弟子たちの紹介パネル、
民謡、郷土芸能の資料などが展示されている。

 津軽三味線や日本の三味線、世界の弦楽器もたくさん展示されていて、それぞれの音色
を聞くことも出来る。館内は撮影禁止だった。

 13時半からは多目的ホールで津軽三味線の演奏があるというが、時間が合わず聞けな
かった。

    
 雲寺の西側には「斜陽の詩」と呼ぶ土産店があり、地酒などを販売していた。
    

 津軽三味線会館の西隣は金木八幡宮。創建は大永年間(1521~7)で、当時の浪岡
城主、北畠具永(きたばたけともなが)が勧請したのが始まりと伝えられているという。

 赤鳥居を入ると境内右手に社殿がある。現社殿は、旧社殿が火災で焼失した3年後の明
治41年(1898)に再建されたもの。

 江戸時代には境内に寺子屋があり、明治5年(1872)の学制発布で小学校になったとのこと。

 拝殿前の狛犬や馬の石像は皆、ほおかむりしている。これは、氏子たちが冬の厳しい寒
さや夏の暑い日差しから神社を守ってあげたいう気持ちの表れだという。
    


 神社の北の平屋に、「まちの記憶館」の看板が下がっていたので入ってみた。狭い館内
に金木町の古い写真や陸奥鉄道と津軽森林鉄道の写真などが展示され、木工品や置物など
の販売もしていた。
    


 八幡宮の先には南台寺がある。寺の沿革などの説明板は無いが、本堂左前にクリの古木
らしいのが沢山の花を開いている。こんな大きな栗の木を見たのは初めてだ。


 「まちの記憶館」の横のT字路を北へ、次の駅のある芦野公園に向かう。家並みが減っ
て木陰が無くなり、快晴の日差しが暑い。


 中ほどまで進むと「思い出広場」と呼ぶレンガ塀に囲まれた一角があった。


    

         昭和22年  
        
 レンガ塀には太宰治の作品名を示すプレートが、大正14年(1925)から昭和22
年(1947)まで、年代順に並んでいた。【続く】



アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR東日本駅からハイキング① 遠野物語の舞台、遠野を巡る(岩手)【続き】

2014-07-01 15:40:07 | JR東日本駅からハイキング
 2014年6月25日(水)【続き】

 大手橋のところで川を離れ、南側の鍋倉城跡に向かう。独特の造りの遠野市立図書館と
博物館の合同建物の先が、鍋倉城跡を整備した鍋倉公園。

 石段を上がって行くと中腹に南部神社があった。

 南部神社には、遠野南部氏の祖、南部実長から8代政光までが祭られているとか。


 境内の一角には、5年前に奉納されたという「遠野南部七福神」が並ぶ。境内からは、
遠野市街の町並みが一望でき、そばの図書館と博物館の建物も望まれる。




 社殿の左手手前から、今日のウオーキングのチェックポイント、鍋倉展望台に向かう。

 城跡らしい面影の残る斜面に付けられた遊歩道を緩やかに上がり、最後は自然石の石段
を上がると、ふるさと創生事業で造られた鍋倉展望台がある。



 2階の展望台に上がると、南部神社より一層展望が広がり、遠野盆地が一望である。

 ゆっくりと展望を楽しみ、1階にあったチェック用のスタンプをコース地図に押す。


 展望台の辺りは鍋倉城の三の丸跡。周辺に沢山あるヤマボウシが、一斉に花を見せてい
た。
    

 ちなみに、鍋倉城は当初は横田城と称し、天正年間(1573~91)阿曽沼氏の築城
と伝えられ、阿曽沼氏の没落後の寛永4年(1627)、八戸から南部直善(直栄)が入
部し、以後240年余りにわたり遠野南部氏の居城となり、明治2年(1869)に廃城
になったという。現在は豊富な広葉樹に覆われた鍋倉公園として、市民に親しまれている
ようだ。

 大手橋まで戻り、北側の中央通りを左折して「とおの昔話村」に隣接した伊藤家に入る。

 伊藤家は、この通りにあった遠野町家(まちや)の典型的な住宅兼店舗で、建築年代は
江戸時代末期と推定されているという。伊藤家は半商半農で、酒類や缶詰などの卸売りを
行っていたが、平成7年(1995)に遠野市に寄贈され、3年前に復元工事を行ったと
のこと。

 現在は「お食事処 伊藤家」として活用されており、ここで昼食をすることとし、評判
という「石炭風カレーライス」を注文する。
    
 食用の竹炭を使用しているのでカレーは真っ黒だが、美味しかった。


 食事を終え、伊藤家と「とおの昔話村」の間の「赤羽蔵」と呼ぶなまこ壁の建物にあっ
たお土産処を少しだけのぞいたみた。



 通りを隔てた伊藤家の向こう側は「とおのまちなみギャラリー」。中では「遠野まんが
原画展」を開催中で、著名画家が描いたカッパの原画が沢山展示されていた。
 
 ちなみに、カッパ(川童)は「遠野物語」の55話から59話に登場している。

    
 中央通りを東へ。マンホールのふたにカッパが描かれ、通りには古い土蔵造りなどの建
物が幾つか見られる。


 両側の歩道には、きれいな生花が飾り付けられていた。


 通りの左側、池端精米所の入口に「池端の石臼」の標柱が立つ。ガードをくぐり庭に回
ると、小さい社殿の石臼神社が祭られている。

 「池端の石臼」は、「遠野物語」の第27話という。

 信号のある交差点際の松田酒店は現代風の建物だが、「遠野物語拾遺」第225話の酒
飲みのゴンボの舞台のようだ。


 その交差点を左折して北に向かう。この通りには、馬の頭を形どった飾り付きの木製の
ベンチが幾つもある。この馬も「遠野物語」に登場するのだろうか…。
        

 二つ目の交差点際では、「大徳屋」と呼ぶ こうじ味噌を商う商店の建物が目に付いた。


 交差点を左折して最初に寄ったショッピングセンター前を通過し、14時35分に駅前
の観光協会にゴールした。



 行くときには気付かなかったが、駅前交番はカッパの顔立ち。
        
 駅前のポストにもカッパの木像が飾られ、駅前ロータリーの池には、4匹のカッパがそ
れぞれのポーズで配置されていた。




    
 観光協会でカッパのデザインの完歩賞をもらい、遠野駅に入る。15時8分発盛岡行き
直通の快速列車はまゆり6号に乗り、今日の宿泊地盛岡駅には16時40分に着いた。

 (天気 晴、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 遠野、歩行地 岩手県遠野市、歩数
  11,400) 

【付記】
 日本民俗学の黎明を告げた名著という柳田国男著の「遠野物語」と、「遠野物語拾遺」
は読んだことが無かった。この機会に読みたいと思い、6月30日(月)に所沢駅そばの
芳林堂書店に入ってみたら、「遠野物語」(岩波文庫)があったので、さっそく購入した。

 物語は1話から119話まであるが、短文の話も多いのでページ数にして60頁ほど。
「遠野物語拾遺」は299話まであるようなので、何れこちらも読んでみたい。




アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする