愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 166 飛蓬-73 小倉百人一首:(参議篁) わたの原

2020-09-16 09:46:10 | 漢詩を読む
  (11番) わたの原 八十島(ヤソシマ)かけて 漕(コ)ぎ出でぬと
        人には告げよ 海人(アマ)の釣り舟
           参議篁(サンギタカムラ) 『古今和歌集』羇旅・407
<訳> はてしなく広がる大海原に、散在する多くの島々を目指して、
私は舟を漕ぎ出していったと、都に残してきた恋しい人に告げてくれ、
海人の釣舟よ。(板野博行)
 
oooooooooooooooo
小野篁(802~852)が、罪を得て流刑囚として発つ際に詠われた歌。「篁は確かに発ったよ」と都の人々に伝えてくれ と大音声で釣り船に訴えているようです。大海原を行くに相応しく、暗さは感じられず、むしろ剛毅な感じさえ覚える歌である。

罪を得たとて、心にやましいところはないよ、「気 自ずから纯なり」と主張しているように思われてならない。都に遺した恋人へというより、自分を罪に落とした人々に向けたメッセージでは?

このような“読み”で、漢詩にしてみました。下記ご参照。

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<漢字原文および読み下し文>  [上平声十一真韻]
 受流放之遠離島   流放を受けて遠く離島へ之(ユ)く
  序:被聘日本遣唐使副使。正要去渡唐、因遣船的状態不佳,拒絶上船。
    為此触帝的震怒,受流放刑。流放之遠離島時詠。
波浪漁舟出還没, 波浪(ハロウ)に漁舟 出でて還(マ)た没す,
汝須告訴首都人。 汝(ナンジ) 須(スベカラ)く首都(ミヤコ)の人に告訴(ツ)ぐべし。
茫茫滄海朝離島, 茫茫(ボウボウ)たる滄海(ソウカイ) 離島に朝(ム)けて,
行行開船気自纯。 行き行きて開船(カイセン)す 気 自(オノ)ずから纯なり。
 註]
  出還没:見え隠れする。     茫茫:広々としてはるかなさま。
  滄海:青海原。         朝:(…の方に)向かって。
  行行:後ろ髪を惹かれる思いを断ち切るように、敢えて前進すること。
  開船:出港する。

<現代語訳>
 流刑を受けて遠く離れ小島に行く
  序:遣唐使の副使として命を受けた。唐へ出発しようとした時、
    遣唐船に不具合のあることがわかり、乗船を断った。
    それが天皇の逆鱗に触れて、隠岐の島への島流しの刑に処された。
    遠い離れ島に行く際に詠う。
波間に釣り舟が見え隠れしてあり、
なんじ釣舟よ、必ず都の人に伝えてくれ。
大海原を沖の離れ小島に向けて、
後ろ髪を惹かれる思いを断ち切って船出をした、心は元より純なのだ と。

<簡体字およびピンイン>
 受流放之远离岛 Shòu liúfàng zhī yuǎn lídǎo
  序:被聘日本遣唐使副使。正要去渡唐、因遣船的状态不佳,拒绝上船。
    为此触帝的震怒,受流放刑。流放之远离岛时咏。
波浪渔舟出还没, Bōlàng yúzhōu chū huán mò,
汝须告诉首都人。 rǔ xū gàosù shǒudū rén.
茫茫沧海朝离岛, Mángmáng cānghǎi cháo lídǎo,
行行开船气自纯。 xíngxíng kāichuán qì zì chún.
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小野篁の父・岑守は平安前期の漢詩人、歌人。遣隋使・小野妹子の玄孫、征夷副将軍永見の第三子。52代嵯峨天皇(在位809~823)の皇太子時代から侍読(ジトウ)、近臣として仕える。最初の勅撰漢詩集『凌雲集』の編集に中心的役割を果たす。

父・岑守の陸奥守任官(815)に伴い、篁も陸奥国に赴き、専ら弓馬に興じていた。帰京後も学問に取り組む様子はなかった。「漢詩に優れ侍読を務めるほどの岑守の子がなぜ弓馬の士になってしまったのか」と、嵯峨天皇が歎かれた と。

これを伝え聞いた篁は、恥じ入り一念発起、学問を志して、822年文章生(モンジョウショウ)試に及第した。以後トントンと官位を上げていき、833年、54代仁明天皇(在位833~850)が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任じられた。

834年遣唐使の副使に任じられ、2回出帆するが、渡唐に失敗する。838年、三度目の出航の際、大使・藤原常継の船に漏水が見つかり、常継の申し出により、篁の乗る船と取り換えられた。篁は故障のある船にあてがわれたのである。

篁は、己の利の為、他人に損害を押し付ける理不尽が罷り通っては、面目なくて部下を率いることは到底できないと抗議。自身の病や老母の世話を理由に乗船を拒否した。のちに篁は、恨みの気持ちを抑え難く、遣唐使の事業、ひいては朝廷を風刺する漢詩『西道謡』を作る。

その内容に本来忌むべき表現があったようである。それを読んだ嵯峨上皇は激怒して、その罪状を審議させ、官位略奪の上で隠岐国への流罪に処した。隠岐への道筋は、大阪を発ち、瀬戸内海を西行して日本海に出る。上の歌は、大阪を発ったところでしょうか。

大阪を発つ頃には、気持ちの整理もでき、澄んだ気持ちで出発したに違いない。なお隠岐への道中に制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。ただ『西道謡』、『謫行吟』ともに散逸して現存しないということである。

2年後、許されて帰京し、翌年(841)文才に優れていることを理由に復位します。842年、道康親王(後の55代文徳天皇)が皇太子に立てられると東宮学士に任ぜられ、以後蔵人頭等、要職を歴任して、852年病を得て病没、享年51。最終官位は参議左大弁従三位。

篁は、漢詩文では白居易に対比されるなど、平安初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人とされる。白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、会うのを楽しみにしていたという。和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首入首している。

篁には多くの逸話・伝説が伝えられている。例えば、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた。愛欲を描いた咎で地獄に落とされていた紫式部を閻魔大王にとりなした と。

小野篁は、学才、文才が高く評価されている一方で、反骨の人、狷介な人と見做されているようである。彼の事績を追ってみると、剛毅・豪胆な人物像に見えるが如何であろうか?弓馬を愉しむ、身長6尺2寸(188cm)の巨漢なのである。
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