63 今はただ 思い絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな
左京太夫道雅(ミチマサ) (『後拾遺和歌集』恋・750)
<訳> 逢えなくなってしまった今となってはもう、あなたのことをあきらめよう、ということだけを、人づてではなく直接伝える方法があればいいのに。(板野博行)
ooooooooooooo
道ならぬ恋故に逢うことが叶わず、今は、せめて一言「定めと諦めます」と、人伝でなく、直接伝えたいものだと。虚構ではなく、生身の心底からの訴えでした。恋の相手は、伊勢斎宮の役目を終え、都に帰ったばかりの三条帝の皇女・当子(トウシ)内親王です。
左京太夫道雅は、名門の出で、13歳で従五位下に叙せられ、25歳で従三位・蔵人頭(クラウドノトウ)と昇進し、殿上人になりました。その矢先、当子内親王を見染めて密会を重ねるうちに露見して、三条院の逆鱗に触れて再会が叶わぬ状況となったのでした。
自分の心境を直截に詠った歌です。七言絶句にしました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [去声十二震韻]
厳禁恋愛令人苦悩 厳禁の恋愛 人をして苦悩せ令(シ)む
被懲幽会浮雲駿, 幽会を懲(コラシ)められ,浮雲 駿(ハヤ)く、
日夜心情無静鎮。 日夜心情 静鎮(シズマル)無し。
今只有懐還認命, 今は只だ還(ヤハ)り認命(サダメトアキラメ)の懐(オモイ)有るのみと,
如何伝汝非托信。 托信(コトヅテ)に非(アラ)ず 如何でか汝に伝えん。
註]
幽会:(男女の)逢い引き、密会。 認命:運命とあきらめる。
如何:どのようにして、なんとかして。
<現代語訳>
禁断の恋に苦しむ
逢い引きが露見して責められ、浮雲のごとく想いは散り散りに、
日夜、心が落ち着くことがない。
今はただ、運命かと諦める思いだけであり、
そのことを人の口を通じてではなく、あなたに直接伝える手立てはないものか。
<簡体字およびピンイン>
严禁恋爱令人苦恼 Yánjìn liàn'ài lìng rén kǔnǎo
被惩幽会浮云骏, Bèi chéng yōuhuì fúyún jùn,
日夜心情无静镇。 rìyè xīnqíng wú jìng zhèn.
今只有怀还认命, Jīn zhǐ yǒu huái hái rènmìng,
如何传汝非托信。 rúhé chuán rǔ fēi tuō xìn.
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左京太夫道雅(992~1054)は、儀同三司・藤原伊周(コレチカ)の長男、中関白道隆の孫である。叔母には一条天皇の皇后定子がいる。祖父・道隆の後ろ盾で父・伊周ともども格別に早く出世し、道雅は13歳で従五位下に叙せられ、25歳で従三位・蔵人頭(クラウドノトウ)と昇進し、晴れて殿上人となった。
その間、祖父・道隆の死去(995)、さらに内大臣・伊周の従者が花山法皇に弓を射かけるという不敬事件(996)を起こし、父が大宰権帥に左遷されるという不祥事があり、中関白家が衰退していく兆しを見せます。
1004年、従五位下に叙爵、侍従に任官(1005)、右兵衛権佐(1006)、正五位下・佐近衛少将(1008)、従四位下(1009)と、一条朝に順調に昇進します。1011年、三条天皇の即位に伴い、新春宮・敦成(アツヒラ)親王(後の後一条天皇)に仕える。1016年、後一条天皇の践祚に際して従三位に叙せられ蔵人頭と昇進した。
その頃、道雅は、伊勢斎宮を退いて帰京した当子内親王を見染め、密通を重ねた。これを知った内親王の父・三条院は激怒し、皇女に見張りの女房を付けて両者が逢えないようにした。このような状況下で道雅が詠んだのが当歌である。
なお、当子内親王は、13歳(1014)の時、卜占により斎宮に決まり、伊勢に下向します。
1016年、三条帝の譲位に伴い退下して、帰京した。三条帝の第一皇女、美貌の持ち主で帝の鍾愛(ショウアイ)の皇女でした。次のような話が伝えられている。
皇女を斎宮として送り出す際、帝は自らの手で当子の前髪に「別れの小櫛」を挿した。また野の宮で潔斎ののち、伊勢へ下向する際、別れに耐え切れず、彼女に振り返ってしまったと。送る方も、行く方も共に振り返ることは禁忌とされているというに。
道雅との交際について、世間では「現在斎宮であればともかく、内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情の声はあったようであるが、再会が叶わぬまま、当子は、悲しみのうちに自らの手で髪を切り、出家します。6年後に23歳の若さで逝去した。
此の恋路と直接関係はないが、背景に当時の政情が影を落としているように思われる。伊周と道長の権力争い、一条帝の皇后の座を巡る伊周の妹・定子と道長の娘・彰子の争い、三条帝と権力を恣にする道長の不和、後ろ盾・伊周の力の衰えに伴う道雅の不遇感等々。
当時の道雅に対する人物評は必ずしも良くない。例えば、三条帝の皇子・敦明親王の従者に重傷を負わせる(1013)、花山法皇の皇女が殺害された事件で嫌疑が掛けられる(1024)、賭博場での乱行(1027)など、乱行が絶えなかったため、「荒三位」、「悪三位」と呼ばれていたという。1054年、出家後、薨御。享年63。
道雅は、中古三十六歌仙の一人に選ばれており、和歌には巧みであった。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と、勅撰和歌集に合わせて7首入集している。また晩年、八条の邸宅にて歌合・「左京太夫八条山庄障子和歌合」を主催している。
人づてならで 言ふよしもがな
左京太夫道雅(ミチマサ) (『後拾遺和歌集』恋・750)
<訳> 逢えなくなってしまった今となってはもう、あなたのことをあきらめよう、ということだけを、人づてではなく直接伝える方法があればいいのに。(板野博行)
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道ならぬ恋故に逢うことが叶わず、今は、せめて一言「定めと諦めます」と、人伝でなく、直接伝えたいものだと。虚構ではなく、生身の心底からの訴えでした。恋の相手は、伊勢斎宮の役目を終え、都に帰ったばかりの三条帝の皇女・当子(トウシ)内親王です。
左京太夫道雅は、名門の出で、13歳で従五位下に叙せられ、25歳で従三位・蔵人頭(クラウドノトウ)と昇進し、殿上人になりました。その矢先、当子内親王を見染めて密会を重ねるうちに露見して、三条院の逆鱗に触れて再会が叶わぬ状況となったのでした。
自分の心境を直截に詠った歌です。七言絶句にしました。
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<漢字原文および読み下し文> [去声十二震韻]
厳禁恋愛令人苦悩 厳禁の恋愛 人をして苦悩せ令(シ)む
被懲幽会浮雲駿, 幽会を懲(コラシ)められ,浮雲 駿(ハヤ)く、
日夜心情無静鎮。 日夜心情 静鎮(シズマル)無し。
今只有懐還認命, 今は只だ還(ヤハ)り認命(サダメトアキラメ)の懐(オモイ)有るのみと,
如何伝汝非托信。 托信(コトヅテ)に非(アラ)ず 如何でか汝に伝えん。
註]
幽会:(男女の)逢い引き、密会。 認命:運命とあきらめる。
如何:どのようにして、なんとかして。
<現代語訳>
禁断の恋に苦しむ
逢い引きが露見して責められ、浮雲のごとく想いは散り散りに、
日夜、心が落ち着くことがない。
今はただ、運命かと諦める思いだけであり、
そのことを人の口を通じてではなく、あなたに直接伝える手立てはないものか。
<簡体字およびピンイン>
严禁恋爱令人苦恼 Yánjìn liàn'ài lìng rén kǔnǎo
被惩幽会浮云骏, Bèi chéng yōuhuì fúyún jùn,
日夜心情无静镇。 rìyè xīnqíng wú jìng zhèn.
今只有怀还认命, Jīn zhǐ yǒu huái hái rènmìng,
如何传汝非托信。 rúhé chuán rǔ fēi tuō xìn.
xxxxxxxxxxxxxxxx
左京太夫道雅(992~1054)は、儀同三司・藤原伊周(コレチカ)の長男、中関白道隆の孫である。叔母には一条天皇の皇后定子がいる。祖父・道隆の後ろ盾で父・伊周ともども格別に早く出世し、道雅は13歳で従五位下に叙せられ、25歳で従三位・蔵人頭(クラウドノトウ)と昇進し、晴れて殿上人となった。
その間、祖父・道隆の死去(995)、さらに内大臣・伊周の従者が花山法皇に弓を射かけるという不敬事件(996)を起こし、父が大宰権帥に左遷されるという不祥事があり、中関白家が衰退していく兆しを見せます。
1004年、従五位下に叙爵、侍従に任官(1005)、右兵衛権佐(1006)、正五位下・佐近衛少将(1008)、従四位下(1009)と、一条朝に順調に昇進します。1011年、三条天皇の即位に伴い、新春宮・敦成(アツヒラ)親王(後の後一条天皇)に仕える。1016年、後一条天皇の践祚に際して従三位に叙せられ蔵人頭と昇進した。
その頃、道雅は、伊勢斎宮を退いて帰京した当子内親王を見染め、密通を重ねた。これを知った内親王の父・三条院は激怒し、皇女に見張りの女房を付けて両者が逢えないようにした。このような状況下で道雅が詠んだのが当歌である。
なお、当子内親王は、13歳(1014)の時、卜占により斎宮に決まり、伊勢に下向します。
1016年、三条帝の譲位に伴い退下して、帰京した。三条帝の第一皇女、美貌の持ち主で帝の鍾愛(ショウアイ)の皇女でした。次のような話が伝えられている。
皇女を斎宮として送り出す際、帝は自らの手で当子の前髪に「別れの小櫛」を挿した。また野の宮で潔斎ののち、伊勢へ下向する際、別れに耐え切れず、彼女に振り返ってしまったと。送る方も、行く方も共に振り返ることは禁忌とされているというに。
道雅との交際について、世間では「現在斎宮であればともかく、内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情の声はあったようであるが、再会が叶わぬまま、当子は、悲しみのうちに自らの手で髪を切り、出家します。6年後に23歳の若さで逝去した。
此の恋路と直接関係はないが、背景に当時の政情が影を落としているように思われる。伊周と道長の権力争い、一条帝の皇后の座を巡る伊周の妹・定子と道長の娘・彰子の争い、三条帝と権力を恣にする道長の不和、後ろ盾・伊周の力の衰えに伴う道雅の不遇感等々。
当時の道雅に対する人物評は必ずしも良くない。例えば、三条帝の皇子・敦明親王の従者に重傷を負わせる(1013)、花山法皇の皇女が殺害された事件で嫌疑が掛けられる(1024)、賭博場での乱行(1027)など、乱行が絶えなかったため、「荒三位」、「悪三位」と呼ばれていたという。1054年、出家後、薨御。享年63。
道雅は、中古三十六歌仙の一人に選ばれており、和歌には巧みであった。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と、勅撰和歌集に合わせて7首入集している。また晩年、八条の邸宅にて歌合・「左京太夫八条山庄障子和歌合」を主催している。