(65番) 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
相模 (『後拾遺和歌集』恋・815)
<訳>( あの人のつれない仕打ちに遭い、)恨んで恨む気力もなくなり、歎く涙で乾く暇がなく、涙を拭く袖さえ朽ちてしまうのが惜しい。それなのにこの恋の浮名のために、朽ちていくであろう私の名声が惜しいのです。
ooooooooooooo
つれない仕打ちに萎えて、奮い立つ気力もなく、止め処なく流れる涙を拭く衣の袖が綻びてしまいそうだ。その上恋の浮名の為、名声が損なわれるのは何とも惜しいことである と。50歳くらいの頃の作品ということですが、半生を振り返った歌でしょうか。
作者・相模は結婚が破綻するなど、必ずしも幸せな生涯であったようではない。後朱雀・後冷泉朝の歌壇での活躍は華々しく、数々の歌合せに出詠している。また男性貴族六人組の“和歌六人党”からは師と仰がれ、能因法師と共に歌の指導に当たっていた。
当歌は、後冷泉天皇主催の「内裏歌合」(1051)に“恋”の題で出詠された歌である。七言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声十蒸・八庚韻]
抱怨人間談論 人間(ジンカン)の談論(タンロン)を抱怨(ウラ)む
怨君気力不堪興, 君を怨む気力 興(オ)こすに堪えず,
恐無乾間袖綻生。 涙で乾く間もなく 袖に綻(ホコロビ)が生ずるを恐れる。
而且艶聞伝遍後, 而且(ソノウエ) 艶聞(エンブン)が伝遍せし後、
不能容忍損名声。 名声を損(ソコ)なうことに容忍し能わず。
註]
人間:世間。 談論:噂話
不堪:とても……できない。 而且:その上。
伝遍:広く伝わる。
<現代語訳>
世間の噂話が恨めしい
君を恨む気力も萎えて、奮い起こすこともできず、
涙で乾く間もなく、涙を拭く袖に綻びが生じそうである。
その上、この恋の浮名が立ち、世間に伝わった後に、
私の名声が損なわれてしまうのは耐えられないことである。
<簡体字およびピンイン>
抱怨人间谈论 Bàoyuàn rénjiān tánlùn
怨君气力不堪兴, Yuàn jūn qìlì bùkān xīng,
恐无干间袖绽生。 kǒng wú gān jiān xiù zhàn shēng.
而且艳闻传遍后, Érqiě yàn wén chuán biàn hòu,
不能容忍损名声。 bù néng róngrěn sǔn míngshēng.
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相模の生没年は不詳であるが、998年頃に生、1061年以降に没と推定されている、摂津源氏但馬守・源頼光の娘(/養女)。初め皇太后妍子(ケンシ)に仕え乙侍従(オトジジュウ)と呼ばれていたが、大江公資(キミヨリ)相模守の妻となり(1020)、“相模”の通称で呼ばれるようになった。
夫の任地・相模国に随行したが、結婚生活は破綻し、帰京後に離別した(1025)。この頃、中納言・藤原定頼(百人一首64番、閑話休題147)との恋愛関係が表面化する。実は両者の交際は以前からあって、不本意にも大江公資に強引に妻にされたようである。
やがて一条天皇の第一皇女・脩子内親王に出仕、内親王薨御(1049)後は、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に仕えた。歌人としては1012年頃からの詠歌が知られており、1035年、関白左大臣・藤原頼道主催の「賀陽院水閣歌合」で賞賛を受けた。
以後、「一品歌合」(1938)、「源大納言師房歌合」(1038)、「弘徽殿女御生子歌合」(1041)、「六条斎院(禖子内親王)歌合」(1948)、「内裏歌合」(1049)、「前麗景殿女御延子歌絵合」(1050)、「祐子内親王歌合」(1050)、「内裏歌合」(1051)、「皇后宮寛子春秋歌合」(1056)、「祐子内親王家名所歌合」(1061)に出詠と、大活躍である。
更に能因法師(同69番)と共に、男性貴族六人組の“和歌六人党”(藤原範永、平棟仲、藤原経衡、源頼実、源頼家、源兼長)の歌道の指導に当たっていた。贈答歌などから、和泉式部(同56番、閑話休題145)、能因法師(同69番)や源経信(同71番、閑話休題196)等と交流が深かったようである。
当時、多くの女流歌人が妍を競い活躍し、王朝文化の華が開いた時代と言えるが、相模も同時代の人である。後に順徳院(同100番)は、平安中期の女流歌人として、赤染衛門、紫式部、和泉式部と並んで相模を挙げ、「上古にはじぬ歌人」の一人として賞賛したと。
相模については、書き落としてならない逸話がある。先に触れたように、大江公資との不本意な結婚を強いられ、相模国に随行したが、夫・公資は現地の女性と懇ろになり、相模の悩みはいや増すこととなった。
その悩みを百首の歌に詠んで、1024年正月、伊豆走湯権現(=箱根神社)に奉納、社に埋めた。驚いたことに、4月に権現からの返歌だと言って、百首の歌が社僧によって届けられた。歌の内容は、先に社に埋めた百首に対応するものであった。
相模の歌は、悩みや怒りを表す内容であったが、対して権現の返歌は、慰めたり、なだめたりする内容であった。相模は、帰京後、返歌を届けてくれた僧宛てに、返歌に対する返歌百首を送っています。
返歌に対する返歌百首は、相模の意に油を注いだようで、強い調子で夫を責める、あるいは夫の浮気相手に強い敵意を示すような内容の歌を含んでいる。これらの歌は、家集『相模集』に収められているが、権現からの歌の作者は、誰か未だに不明である と。
相模の詠風は、繊細にして清新、完成度が高いと評されている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。『後拾遺和歌集』(40首)以下、勅撰和歌集に110首入集されている。なお、『後拾遺和歌集』では和泉式部(67首)に次いで第2位の入集歌数である。
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
相模 (『後拾遺和歌集』恋・815)
<訳>( あの人のつれない仕打ちに遭い、)恨んで恨む気力もなくなり、歎く涙で乾く暇がなく、涙を拭く袖さえ朽ちてしまうのが惜しい。それなのにこの恋の浮名のために、朽ちていくであろう私の名声が惜しいのです。
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つれない仕打ちに萎えて、奮い立つ気力もなく、止め処なく流れる涙を拭く衣の袖が綻びてしまいそうだ。その上恋の浮名の為、名声が損なわれるのは何とも惜しいことである と。50歳くらいの頃の作品ということですが、半生を振り返った歌でしょうか。
作者・相模は結婚が破綻するなど、必ずしも幸せな生涯であったようではない。後朱雀・後冷泉朝の歌壇での活躍は華々しく、数々の歌合せに出詠している。また男性貴族六人組の“和歌六人党”からは師と仰がれ、能因法師と共に歌の指導に当たっていた。
当歌は、後冷泉天皇主催の「内裏歌合」(1051)に“恋”の題で出詠された歌である。七言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [下平声十蒸・八庚韻]
抱怨人間談論 人間(ジンカン)の談論(タンロン)を抱怨(ウラ)む
怨君気力不堪興, 君を怨む気力 興(オ)こすに堪えず,
恐無乾間袖綻生。 涙で乾く間もなく 袖に綻(ホコロビ)が生ずるを恐れる。
而且艶聞伝遍後, 而且(ソノウエ) 艶聞(エンブン)が伝遍せし後、
不能容忍損名声。 名声を損(ソコ)なうことに容忍し能わず。
註]
人間:世間。 談論:噂話
不堪:とても……できない。 而且:その上。
伝遍:広く伝わる。
<現代語訳>
世間の噂話が恨めしい
君を恨む気力も萎えて、奮い起こすこともできず、
涙で乾く間もなく、涙を拭く袖に綻びが生じそうである。
その上、この恋の浮名が立ち、世間に伝わった後に、
私の名声が損なわれてしまうのは耐えられないことである。
<簡体字およびピンイン>
抱怨人间谈论 Bàoyuàn rénjiān tánlùn
怨君气力不堪兴, Yuàn jūn qìlì bùkān xīng,
恐无干间袖绽生。 kǒng wú gān jiān xiù zhàn shēng.
而且艳闻传遍后, Érqiě yàn wén chuán biàn hòu,
不能容忍损名声。 bù néng róngrěn sǔn míngshēng.
xxxxxxxxxxxxxxx
相模の生没年は不詳であるが、998年頃に生、1061年以降に没と推定されている、摂津源氏但馬守・源頼光の娘(/養女)。初め皇太后妍子(ケンシ)に仕え乙侍従(オトジジュウ)と呼ばれていたが、大江公資(キミヨリ)相模守の妻となり(1020)、“相模”の通称で呼ばれるようになった。
夫の任地・相模国に随行したが、結婚生活は破綻し、帰京後に離別した(1025)。この頃、中納言・藤原定頼(百人一首64番、閑話休題147)との恋愛関係が表面化する。実は両者の交際は以前からあって、不本意にも大江公資に強引に妻にされたようである。
やがて一条天皇の第一皇女・脩子内親王に出仕、内親王薨御(1049)後は、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に仕えた。歌人としては1012年頃からの詠歌が知られており、1035年、関白左大臣・藤原頼道主催の「賀陽院水閣歌合」で賞賛を受けた。
以後、「一品歌合」(1938)、「源大納言師房歌合」(1038)、「弘徽殿女御生子歌合」(1041)、「六条斎院(禖子内親王)歌合」(1948)、「内裏歌合」(1049)、「前麗景殿女御延子歌絵合」(1050)、「祐子内親王歌合」(1050)、「内裏歌合」(1051)、「皇后宮寛子春秋歌合」(1056)、「祐子内親王家名所歌合」(1061)に出詠と、大活躍である。
更に能因法師(同69番)と共に、男性貴族六人組の“和歌六人党”(藤原範永、平棟仲、藤原経衡、源頼実、源頼家、源兼長)の歌道の指導に当たっていた。贈答歌などから、和泉式部(同56番、閑話休題145)、能因法師(同69番)や源経信(同71番、閑話休題196)等と交流が深かったようである。
当時、多くの女流歌人が妍を競い活躍し、王朝文化の華が開いた時代と言えるが、相模も同時代の人である。後に順徳院(同100番)は、平安中期の女流歌人として、赤染衛門、紫式部、和泉式部と並んで相模を挙げ、「上古にはじぬ歌人」の一人として賞賛したと。
相模については、書き落としてならない逸話がある。先に触れたように、大江公資との不本意な結婚を強いられ、相模国に随行したが、夫・公資は現地の女性と懇ろになり、相模の悩みはいや増すこととなった。
その悩みを百首の歌に詠んで、1024年正月、伊豆走湯権現(=箱根神社)に奉納、社に埋めた。驚いたことに、4月に権現からの返歌だと言って、百首の歌が社僧によって届けられた。歌の内容は、先に社に埋めた百首に対応するものであった。
相模の歌は、悩みや怒りを表す内容であったが、対して権現の返歌は、慰めたり、なだめたりする内容であった。相模は、帰京後、返歌を届けてくれた僧宛てに、返歌に対する返歌百首を送っています。
返歌に対する返歌百首は、相模の意に油を注いだようで、強い調子で夫を責める、あるいは夫の浮気相手に強い敵意を示すような内容の歌を含んでいる。これらの歌は、家集『相模集』に収められているが、権現からの歌の作者は、誰か未だに不明である と。
相模の詠風は、繊細にして清新、完成度が高いと評されている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。『後拾遺和歌集』(40首)以下、勅撰和歌集に110首入集されている。なお、『後拾遺和歌集』では和泉式部(67首)に次いで第2位の入集歌数である。