今回話題にする源実朝の歌(下記)は、二所詣(ニショウモウデ)の折に詠まれたもので、東国方言を詠みこむなどユーモラスな面があるかと思えば、ウン?と、一瞬、考え込ませる面もある歌である。本歌がいつの二所詣での作かは定かではない。詞書から推して、最初の二所詣の機会ではないことは確かである。
oooooooooo
(詞書) 又のとし二所へまいりたりし時 箱根のみず海を見てよみ侍る歌
玉くしげ 箱根のみ湖(ウミ)」 けゝれあれや
二国(フタクニ)かけて 中にたゆたふ (源実朝 金槐和歌集・雑・638)
註] 〇けゝれ:当時の東国の方言で、“こころ”。
(大意) 箱根のこの湖は 心を持っているかのようである。相模と駿河の二国の間に
横たわって ゆらゆらと波が揺れ動いている。
xxxxxxxxxxx
<漢詩>
箱根湖所感 箱根の湖についての所感 [上平声七虞韻]
水光瀲灔乎, 水光 瀲灔(レンエン)乎(コ)たり,
玉匣箱根湖。 玉匣(ギョクコウ)箱根の湖(ウミ)。
疑是有情緒, 疑うらくは是(コ)れ情緒(ココロ)有るかと,
動揺相駿紆。 相・駿 (ソウ・シュン)双国に紆(マトワ)りて、動揺 (ユレウゴ)いており。
註] 〇箱根湖:箱根山上にある“芦ノ湖”; 〇瀲灔:水が揺れて光きらめくさま;
〇玉匣:美しい小箱、“匣”は四角で蓋のある小型のはこ、ここでは“箱根”の枕詞で、
特に訳すべき意味はない; 〇動揺:たゆとう、ゆれる、動揺する;
〇相駿:相模(サガミ)の国と駿河(スルガ)の国; 〇紆:掛ける、まとわりつく。
<現代語訳>
芦ノ湖についての所感
湖面の水波が揺れてきらきらと輝いており、
何とも美しい芦ノ湖だよ。
芦ノ湖には 人と同じように “こころ”があるのであろうか、
相模・駿河の両国に跨がり ともに思いを寄せて こころが揺れているかに見える。
<簡体字およびピンイン>
箱根湖所感 Xiānggēn hú suǒ gǎn
水光潋滟乎, Shuǐ guāng liàn yàn hū,
玉匣箱根湖。 yù xiá xiānggēn hú.
疑是有情緒, Yí shì yǒu qíngxù,
动摇相骏纡。 dòng yáo xiāng jùn yū.
xxxxxxxxxxx
実朝は、将軍として計8回二所詣を実施している。先に読んだ「箱根路を ……」(閑話休題284)は、『金槐和歌集』中、(雑・639)として上掲の歌の次に載せられている。「箱根路を ……」の歌は、『吾妻鑑』で建保二 (1214) 年2月1日、4回目の二所詣の折の項に記載されており、上掲歌もその折の作であろう。
鎌倉での二所詣は、朝廷で行われていた“熊野詣”に倣って、初代将軍頼朝(1147~1199)が始めたとされている。“熊野詣”とは、熊野信仰に基づいて、和歌山県熊野地方にある熊野三山(本宮、新宮、那智の3社)に参詣することである。
曽て朝廷では宇多法皇~亀山上皇の間に約100回、後白河法皇が34回、後鳥羽上皇が28回、 “熊野詣”を実施したとの記録がある。世の安寧、戦の際の加護を祈る行事で、通常年始に実施されていた。平安の世では、拝礼ののち、酒宴や演芸大会、また歌会などが催されていた と。なお、天皇の行幸はなかったようである。
参詣には、まず出発に先立って精進潔斎、すなわち酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴(モクヨク)などして心身を清める行事を行う と。頼朝は、その名の通り、箱根権現(箱根神社)と伊豆山権現(伊豆山神社)の2か所を参拝していたが、後に三島大社が加わった。
箱根権現は、将軍家の祖先・源頼義が「前九年の役」の際、武運長久を祈るなど、源氏に縁のある神社で、箱根の芦ノ湖の辺に鎮座する。伊豆山神社は、流人・頼朝が源氏の再興を祈り、また政子との逢瀬を重ねたとされる特別な神社であり、熱海に鎮座する。
三島大社は、頼朝が戦勝祈願を行った神社で、同社の例大祭の日、8月17日に挙兵を実行している。三島市に鎮座する。これら3社は、頼朝、さらに幕府にとって篤く信仰されてきた神社である。鎌倉での二所詣は、由比ガ浜で沐浴後に出発し、箱根、三島、伊豆山の順に参ることで定着した。
二所詣は、頼朝没(1199)後、しばらく途絶えていたが、1207(建永二)年1月22日実朝によって復活する。その折には、北条義時、時房、大江広元ら重鎮を伴った5泊6日の行程でった由。その後数年途絶えた後、毎年の年中行事として定着、実朝没後も幕府滅亡まで続くことになる。
歌人・源実朝の誕生 (4)
1209(承元三)年7月5日、近臣・内藤知親が上京し、実朝がこれまでに作った歌20首を住吉大社に奉納、さらに30首を選び、藤原定家に届ける所まで、先に(閑話休題302)紹介しました。
この年の8月13日、知親が京より帰参し、定家の筆になる詩歌の口伝書一巻『近代秀歌』を持ち帰った。既存の歌の手引書ではなく、定家が実朝のために書いた理論書ということである。『新古今和歌集』の評価、反省、歌の技術論、秀歌の例など載せてあるという。
実朝は、自作歌の評価ばかりでなく、定家に対して和歌に関する一般的な疑問点も問うていたようである。例えば、和歌の“六義風体”についての実朝の質問に対しても答えているという。因みに和歌の“六義風体”とは、和歌の六種の表現様式、歌風をいう。
中国の『詩経』では、詩が、内容上3種および表現上3種、計6種(“六義”)に分類されている。それに倣い、紀貫之が『古今和歌集』の「仮名序」で、和歌を六種の風体に分類して述べてあるという。その解説であろう。
1211(建歴一)年10月13日、飛鳥井雅経の仲介で、鴨長明(1155~1216)が鎌倉に下向、実朝と再三面談している。その折、雅経が実朝に歌の師として長明を推挙したが、実朝は承諾しなかったという。実朝の胸の内には、定家が居座っていたのでしょう。
なお、13日は、頼朝の月違い命日(没日:1月13日)に当たり、法華堂において読経法会が催された。その際、長明は、頼朝を偲び、懐旧の涙を流し、堂の柱に次の和歌一首を記した と。
草も木も なひきし秋の 霜消えて
むなしき苔を はらふ風 (『吾妻鑑』1211.10.13)
(大意) 草木もなびくほどの権勢を誇った頼朝も 秋の霜の如くに消えて、
今は墓の苔には空しく風が吹き払っている。