このところ気分転換に読んでいるミステリー小説は、読破にチャレンジしている内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”に偏っているのですが、時折、以前よく読んでいた大沢在昌さんの作品の中から未読作にもトライしています。
定番の “新宿鮫”シリーズに加え、最近は “魔女”シリーズにも手を広げました。今回は、図書館で目についた “狩人”シリーズです。
さて、ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、本作、卓越したストーリーテラーとしての大沢さんの持ち味が存分に発揮されていて十分楽しめましたね。
ともかく、登場人物のキャラクタ設定が見事です。
個々人としてもそうですし、その面々を組み合わせたバランスもよく計算されているように感じます。(大沢さんに言わせれば、最初から緻密に設定しているわけではないということかもしれませんが・・・)今回は特にカギとなる「」つきの人物の扱いが絶妙でしたね。
これでは、続編が出たら手を伸ばさないわけにはいかないでしょう。
とはいえ、大沢さんの執筆ペースだと近々の新刊発表はないでしょうから、とりあえずは、ぼちぼちと、シリーズ第1作目に遡って読んでみたいと思います。
いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。
世界最大の人口を有する “インド”、かの地における多種多彩な人々の「生活」の様子は、個人的にはとても興味のあるテーマです。
その点を「台所」というキーワードで掘り下げた本書、著者の小林真樹さん自ら現地に足を運び、直接現場を見、その地の人々の話を聞き、そこからいったいどんな新しいことを伝えてくれるのか大いに気になります。
ということで、予想どおり目新しい発見が数多くありましたが、その中から特に私の関心を惹いたところを書き留めておきましょう。
まずは、「インド式パン文化の根源」との章から。
西インド、ゴアでのポルトガル由来の “パウ” というパンをめぐっての小林さんの思いです。
(p275より引用) パウというと一つ一つ微妙に形の異なる、素朴な手作り感が持ち味だが、やがて大規模工場で大量生産された無機質なパウにとって代わられるかもしれない。ゴアにも広大な売り場面積を持つスーパーマーケットがあり、きれいに包装されたブレッド類が売られはじめている。こうした棚に、いつ大工場製のパッケージされたパウが並ばないとも限らない。しかし幸いなことに、ゴアの街なかでいつも混みあっているのは昔ながらの小さなベーカリーやポダーである。朝夕ともなると古びた小さな店先にゴアの老若男女が集まってくるのはとても情緒のある光景だ。部外者はいつもその土地の内情も知らず身勝手な願望を抱きがちだが、願わくばこの昔ながらのゴアの光景がいつまでも続いて欲しいと思った。
この気持ちは良くわかりますね。今の日本でも、“街のパン屋さん” を訪ねるのは楽しいものです。
そして、もうひとつ、南インド、ディンディッカルという地方都市の乳製品工場の工場長宅とその従業員の女性宅を訪れたときの小林さんの感想。
(p118より引用) 片や最新機器であふれた大きく快適な台所、片や古くからある庶民の小さな台所を、まるで時間旅行のように一度に訪問して比較できたのは収穫だった。そしてこのまったく違うタイプの二つの台所が、同じ時代の同じ地域内に並存している点が、現代インドを象徴しているように思えた。
もちろん、これはまだまだ格差が小さい部類でしょう。インド全体でいえば、別の世界、別の時代だと見紛うほどの途轍もない差があるはずです。
その象徴的な風景のひとつがムンバイの中心部で見られます。
(p226より引用) 多くの旅行者は空路ムンバイに着くと空港からタクシーに乗り、ウエスターン・エクスプレス・ハイウエイを通ってホテルが集まる市内南部へと向かう。その車窓からは、大都会ムンバイを象徴する二つの対照的な景色が見えてくる。一つは躍進するインド経済を体現したかのような超高層ビル群。集まる富を束ねて無理やり形を与えたような、奇抜なデザインの造形が多い。そしてもう一つは、点在する大小様々なスラム街。すすけた黒っぽい建物の集合体をよく見ると、屋根をブルーシートで覆った小さなバラックが互いに寄りかかるようにして建っているのがわかる。このスラム街越しに見る超高層ビル群というコントラストほど現代インドの貧富の差を如実に感じさせる光景はない。
さて、本書を読み通しての感想です。
おそらく私自身、今後も気になりながらも訪れることはないであろう “インドの日常風景” を、「台所」という独創的な切り口で紹介してくれたユニークな紀行文ですね。
本書で描かれた現地の人々の暮らしぶりは、初めて知ることも多く、とても興味を惹くものでした。
願わくば、巻末の用語集での解説に加えて、それぞれの食器や調理道具の写真がもう少し豊富にあれば、もっと具体的なイメージが広がるだろうと思いました。
かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始めました。
この作品は「第30作目」です。今回の舞台は “隅田川(東京都)”。
さすがに “隅田川” に出張というのはあり得ませんね。私も23区内ではありませんが、東京住まいですから、プライベートでは隅田川あたりは何度も訪れています。
学生のころは叔母が本所吾妻橋に住んでいて、郷里にいたころも大学に入って板橋区に下宿住まいをしていたころも、しばしば遊びに行っていました。浅草の対岸、吾妻橋を渡った袂にある佃煮の海老屋總本舗本店が懐かしいですね。
この作品でも、浅草あたりの描写がありますが、内田さんが本作を書いていたころは、浅草あたりが少々裏ぶれていたころだったようです。今のインバウンド観光客が大挙して押し寄せて大いに賑わっている様子とは隔世の感がありますね。
さて、ミステリー小説ですからネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品も “量産期の乱造” に近い出来でしたね。
ともかく、犯行の動機が荒っぽ過ぎて、繊細な謎解きのプロセスが生まれようもありませんし、事実、光彦の推理も何とも独断的で発想にキレがありませんでした。さらには、このシリーズにしてはとても珍しいラストシーン。こういう幕引きには心に残るような余韻の欠片も感じられません。久しぶりに “イマ3” ぐらいの不満さ加減です。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
次は、31作目の「横浜殺人事件」ですね。
いつも利用している図書館の新着本の棚で目につきました。
“フェイクニュース” にしても “哲学(する)” にしても、とても気になるキーワードですね。
特に昨今の「選挙」では、SNSで流布された玉石混淆の情報がその結果に大きく影響したこともあり、そういった時流の背景を理解するのに大いに参考になるのではと思い手に取ってみました。
期待どおり興味深い指摘が多々ありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきます。
まずは、本書での議論に無用な混乱を生じさせないために、著者の山田圭一さんは「フェイクニュースの定義」を試みています。
(p5より引用) フェイクニュースは「情報内容の真実性が欠如しており(偽であるか、ミスリードである)、かつ、情報を正直に伝えようとする意図が欠如している(欺くことを意図しているか、でたらめである)」ものとしてひとまず定義することができる。
と整理しながら、「必ずしもその意味をひとつの定義に切り詰めて考える必要はない」とも語っています。
(p8より引用) 「フェイクニュース」という言葉は、自分と異なる相手の意見を抑圧したりその発言を無効化したりするための道具として用いられる危険性をもっている。
との指摘のとおり、現実的には、明確な言葉の定義よりも、その言葉が伝える意図や効果をしっかり認識しておくことの方が重要でしょう。
次は、「第3章 どの専門家を信じればいいのか」の中で示された “知的自律性” の論考の中での山田さんからの示唆です。
(p113より引用) つまり知的に謙虚であるためには、自分の知的な限界を広く見積もりすぎ る知的傲慢と、狭く見積もりすぎる知的隷属の中間を縫いながら、自分の知的限界を正しく見極め、その限界に対して適切な仕方で対処する必要がある (Whitcomb et al. 2017)。この点で、判断を委ねるべき場面で判断を委ねるべき相手にきちんと判断を委ねることができる人こそが知的な謙虚さという徳をもっている人であり、その判断を自律的に行える人こそが本当の意味で知的に自律している人だといえるだろう。
私たちが日々、様々な機会で接する情報の真偽を判断する際、“知的自律性に依拠した検討プロセス” を辿ることが重要ですが、その際の要諦ですね。
そして最後は「陰謀論」をテーマにした議論。
「第5章 陰謀論を信じてはいけないのか」にて山田さんが指摘している “陰謀論の社会的弊害” です。
(p174より引用) 陰謀論の脅威は、まさにこの悪循環のスパイラルにある。それは単にある特定の偽なる信念をもたらすだけでなく、陰謀論を正しい「知識」とみなす人々の認識を信頼するようになり、そうでない人の信頼度が下がり、その信頼度に基づいて新たな「知識」が獲得されていく・・・・・・という真理から遠ざかる螺旋運動をもたらすのである。
このような認識的な信頼関係の根本的な配置転換を行った人たちとそうではない人たちとの あいだには、「何を真であるとみなすのか」の分断(真理の分断)だけでなく「何を認識の基礎とみなすのか」の分断(正当化の分断)が生じる。このことは、本書でみてきたような社会のなかで知識を基礎づける構造を共有不可能なものにし、われわれの知識の土台を根こそぎ掘り崩すことになる。この意味で、やはり陰謀論はわれわれの社会にとって深刻な脅威となりうるものである。
こういったコメントのように、本書において山田さんは、昨今出現が顕著になったコミュニケーションにおける病理ともいうべき「フェイクニュース」や「陰謀論」といった現象を取り上げ、
(p179より引用) 「真理を多く、誤りを少なく」という認識目標や、「真なることを伝えるべし」「真偽を吟味すべし」といった認識的規範が機能しなくなるさまざまな状況・・・
をわかりやすく解説し、それに相対するための “知的思考プロセス” を示しています。
要は “真理への関心”を持ち、“真理を探求し続ける” こと。
そういう “知を尊ぶ姿勢(=哲学)” の大切さを伝えることを目指した著作ですが、タイトルに “哲学する” とあるように、「自律的に考えるための作法」を丁寧に紹介した良書だと思います。
ただ、本書でも言及していますが、特に昨今 “知を尊ぶ姿勢” とは次元の異なる思想に基づく現象が生じています。“真実など二の次” 、SNS上でのアクセス稼ぎを目的とした行動(投稿)です。
これは、発信者だけでなく、それに引寄せられ踊らされている受け手の存在も併せて事象を捉え論じなくてはならないのですが、考察にあたっては、そもそもの “人間の本性” という心理学的・社会学的議論にも踏み込む必要があるでしょう。
本書を嚆矢として、こういったテーマを扱った著作にもトライしてみたいですね。
かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も、以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始めました。
この作品は「第29作目」です。今回の舞台は “城崎温泉(兵庫県)”。
兵庫県の瀬戸内海側は学生時代・社会人時代をあわせもう数えきれないほど行き来していますが、日本海側はトンとご無沙汰です。印象としては冬の寒々しい海の風景を思い浮かべるのですが、実際はどうなのでしょうね。
ミステリー小説ですからネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品、浅見光彦シリーズとしては珍しくかなり荒々しいストーリー展開でしたね。
陽一郎の弟であることが判明する前の警察署内でのやりとりをはじめ、その後の関係者の動機にまつわる物言いなど、光彦の態度がいつになく強引でちょっと引いてしまいます。さらにはラストに至る “詰め” も乱暴で、犯人との対決のシーンも物証も乏しいその場しのぎ的な甘々の推理の開陳でした。まあミステリーとしての “伏線回収” はうまく仕上げていましたが・・・。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
次は、30作目の「隅田川殺人事件」ですね。