いつも利用している図書館の新着本リストで目につきました。
橋本治さんの著作は、「「わからない」という方法」「思いつきで世界は進む」等いままでも何冊か読んでいて、そこで開陳されているとても素直な “正論” を楽しんでいました。
本書は、橋本さんが様々なジャンルの6人の方々と語り合った対談集とのこと。
興味深いやりとりが満載でしたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「日本美術史を読み直す」とタイトルされた批評家浅田彰さんとの対談の中のフレーズ。
和漢混淆文を取り上げ、漢意とやまとごころという概念の成り立ちとその後の文化面での派生の様子を “融通無碍に展開してきた日本文化史” と語る浅田さんの議論を受けて、橋本さんはこうコメントしています。
(p63より引用) そういう議論について言うと、ルーツについて、一個わかるとそのキイによって全部がわかるという考えかたは、あまりにも単純すぎないかっていうふうに私は思うんですよ。ある部分ではAというタームを持ち上げ、別のところにくるとAを否定しつつBというタームを持ち上げ、とそれでいいんじゃないか。
そして、同じ対談からもう一ヵ所、浅田さんが近現代の日本美術の “幼児性” を指摘しているところです。
(p103より引用) 浅田 まさにその通りだと思うけれど、そういう意味でいうと、やっぱり大阪万博の岡本太郎の《太陽の塔》が転換点だったのかもしれない。丹下健三・磯崎新組の「お祭り広場」のプランは、弥生的なものを暗黙のベースに、情報化社会にふさわしい「見えない建築」(当時の言葉でいう「サイバネティック・エンヴァイロンメント」)をつくろうというものだった。そこへ岡本太郎が大屋根をぶち抜いて《太陽の塔》を建ててしまった。そちらの方が「キャラ立ち」してしまって、丹下・磯崎組は敗北を喫したわけですよ。幼児化が顕著になるのは最近のことだとしても、源泉はそこにあったのかもしれませんね。とにかく、橋本さん風の大人の職人としての常識をかなぐり捨てて、「女子供」が喜べばいいだろうというポピュリズムの方向にとめどもなくすり寄っていく…。
以前、岡本太郎さんの著作で「大屋根」をぶち抜く「太陽の塔」のエピソードを読みましたが、立ち位置が異なるとこれほどまでに評価が一変してしまうのですね。
大きな二つ目は、「紫式部という小説家」という章での国文学者三田村雅子さんとの対談でのやりとりから。
(p199より引用) 橋本 平安時代の人は悲しい、寂しい、辛いとは言わずに、そこにどんな花がどう咲いているという言い方をするでしょう。
三田村 感情語は絶対使いませんね。
橋本 だからそこにどういう情景があるかということが一番重要であって、情景を語ることが実は感情を語ることなんです。
なるほど、面白い指摘ですね。
恥ずかしながらこういったことも初めて知りましたし、知っていれば、ド素人の私の平安文学の読み方もほんの少し深まっていたかもしれません。
三つ目は、コラムニスト天野祐吉さんとの対談からです。
「2009年の時評」と銘打たれた章ですが、このころに既に “メディアの劣化” が語られています。
橋本さんのコメントです。
(p296より引用) 橋本 「もっとみんなで考えよう」と呼びかける能力は、マスメディアにはもうないと思う。メディアの仕事とは、より多くの人たちに何かを考えさせるようにすることなんだと思うけど、小学校の勉強と同じで、簡単に分かる答えを与えすぎるのね。
ともかく、“自分の頭で考えなくなった” ということですし、 “考える方法” を身に着ける機会が極めて少なくなってしまった、あるいは、そもそも “考える方法” を身に着けようという動機を持つ人が少なくなってしまったのが今でしょう。自らの判断を外部からの情報に無批判に委ねる姿勢の蔓延です。
さて、最後は、「「リア家」の一時代」という章での劇作家宮沢章夫さんとの対談でのやりとりから。橋本さんが書く “小説の手法” を開陳しているくだりです。
(p314より引用) 橋本 私は考えに考えて文章を生み出す人ではないんです。・・・自分の頭で人間を造型しておくのではなくて、こういう状況に置かれた静の眼に事態がどう映っているか、だったらどうするのかを、彼女に全部決めさせたんですよ。私は小説を書くときは基本的に自分で決めるよりも登場人物に決めさせます。
とはいえ、最終的には物語をラストに向けて収斂させていくのでしょうから、そこに導く作者の意思が必須のように思います。橋本流は、最後まで登場人物の主観で進め切るのでしょうか?
本書に収録された7つの対話、それぞれのジャンルで橋本さんの作品を読み込んでいないと対話者間で交わされるやりとりを理解することはできません。
その点では、私の場合、本書をほとんど楽しむことができなかったようです。残念ですが、ベースとなる堆積物がなかったわけですから如何とも仕方ありませんね。
かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “シリーズ全作品制覇” にトライしてみようと思い始ました。
この作品は「第28作目」です。今回の舞台は “隠岐(島根県)”。
隠岐はもとより島根県は仕事関係で立ち寄ったことはありません。プライベートでは、あまり定かな記憶ではないのですが、幼いころ「松江」には旅行にいったことがあるのと、社会人になってから「津和野」を訪れたぐらいです。
ミステリー小説ですからネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、シリーズの中では比較的力作といえる部類の作品でしょう。
最後の手段・方法についての謎解きはかなり強引ではありますが、“源氏物語絵巻” をモチーフにしたエピソード設定にはオリジナリティを感じました。
さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”です。
次は、29作目の「城崎殺人事件」ですね。
いつも利用している図書館の新着本の棚で目につきました。
“哲学” はキチンと学んだことがないので興味だけが先行し、今までも「入門書」的な本は何冊か読んだことがあるのですが、どれも容易くはね返されてしまっています。
多分本書もそうなるだろと思いつつ読み始めたのですが、著者の青山拓央さんの優しい語り口にもかかわらず、やはりそこで解説されている内容にはまったくついていけませんでした。
そういった消化不良の理解の中で、とはいえ、私の関心を惹いたところをひとつだけ書き留めておきましょう。
本書の「おわりに」で青山さんが読者への期待を語っているところです。
(p221より引用) でも、本書にとって何より重要なのは、〈哲学をするとはどのようなことか〉を、本書を通して実際につかみ取る読者が現れることです。・・・
速読力のある読者のなかには、本書の二四の文章を、二、三時間で読み終えてしまえる方もいるはずです。でも、一つひとつの文章で提示されている問いを本気で受け止め、読者が自分自身のなかで丁寧な問答を続けるなら、真の意味で本書を読み終わるまでに、二、三年かかってもおかしくありません。著者としては、そのような素晴らしい「遅読力」を持った読者がいることを期待していますし、また、私自身も、大学での授業で学生たちとの対話を経ながらこの本を何度も読み返していくつもりです。
そうですね、ただ私自身についていえば、何度も読み返したとしても、書かれている1割ですら理解できないでしょう。
本書は、哲学の入門書といっても、過去の有名な哲学者の主張や説、思索の過程や結果を噛み砕いて紹介しようとしたものではありません。哲学に関する “知識の付与” が目的ではなく、読者が “哲学が求める思考の方法・作法” を身に付けるための手引きを企図したものです。
私の場合、そもそもの “考える訓練” に加え、「基本的な構文の理解力」や「哲学的思考に必要な基本概念の習得」も必要なので、本書を読み返すスタートラインに立つまでですら長い道のりになるのは間違いありませんね。