養老氏のブツブツは、まだまだ続きます。
どのブツブツも、かなり過激な言いぶりです。意図的に強調している面もあるのでしょうが、氏の本音が、結構そのままストレートに表れているような気もします。
ものごとをバクっと掴み、ザックリと割り切った評価を下すことはなかなかできないものですが、養老氏ほどのキャリアを積むと、それはそれ自然体で踏み出せるのでしょう。
そういうザックリ系のコメントのなかで、私としても、なるほどと首肯できたものを2・3ご紹介します。
まずは、「自由」と「規制」の相対的な関係について。
(p72より引用) 自由が正しいわけではない。規制が正しいわけでもない。規制によって自由の、自由によって規制の、メリットが生じただけである。
その根本には、なにがあるか。秩序はかならずそれだけの無秩序を生み出す。熱力学の第二法則といいかえてもいいであろう。・・・規制は等量の自由を生み出し、自由は等量の規制を発生させる。人間はそれ以上のこともそれ以下も、おそらくできない。論理的にできないのである。
また、「誤解」と「正義」について。
(p77より引用) 誤解で損をするのは、誤解している本人である。誤解された方ではない。相手を間違って見れば、間違えた方が損をする。山で道を間違えれば、遭難するのは本人である。その意味で私は「正義」を信じている。正義という抽象的なものがあるのではない。当たり前を認めなければ自分が害を受けるだけである。その当たり前を正義と呼ぶ。
最後は、よく言われることですが、「客観を装うデータの不信」についてです。
(p142より引用) そもそも私は、データに基づいた議論を信用しない。現代人が逆の常識を持っているのは知っている。にもかかわらず、私は逆を信じている。データは考えていることを確認する材料に過ぎないのであって、じつは考えのほうが優先するのである。・・・データはつねに本人が持っている仮説を支持するものとして使われる。だからインチキが発生しやすいのである。或る目的に沿ってデータを出したら、強いバイアスがかかるに決まっている。
まったくニュートラルに収集されたデータから何らかの結論を導き出すことは、現実的には極めて稀です。
仮に最初はそうでないにしても、ある段階からは、仮説に沿ったデータの取捨選択が始まるのが常です。
(p146より引用) 考える労を惜しむ人が悪しきデータ主義に陥る。データを取るには手間ひまがいるが、考えるのはタダである。だから本当の能率主義は考えることにある。
中途半端なデータ信仰は危険です。
それよりも、養老氏は、「自分の頭で考え切ること」を薦めるのです。
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