OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

絶望の精神史 (金子 光晴)

2008-01-19 16:19:41 | 本と雑誌

 金子光晴氏(1895~1975)は、愛知県生まれの昭和期の詩人です。

 本書は、以前、坂口安吾氏の「日本文化私観」を読んでから、似たような系統の本として、ちょっと気になっていたものでした。

 さて、本書のテーマ、金子氏の抱いている問題意識です。

 
(p32より引用) これからの日本人の生き方はむずかしい。一口に、東洋的神秘とよばれていた不可解な部分を、日本人もたしかにもっていた。・・・それに、なにかの実用価値か芸術価値があるにしても、それ以上に神秘な、深遠なものと解釈し、日本人の精神的優位を証明する道具に使われたりすることは、日本人自身としても警戒を要することだ。それは、日本人を世界からふたたび孤立させようとする意図にくみすることにほかならない。日本人の無気味な微笑とか、わからぬ沈黙とか、過度な謙譲とか、淫酒癖とか、酒のうえのことを寛大にみるへんな習慣とか、それがみな島国と水蒸気の多い風土から生まれた、はかない心象とすれば、日本人がしっかりした成人として生きてゆくために、自ら反省し、それらの足手まといを切り払い、振り捨てなければならないのだ。
 そのためにこそ、日本人の絶望の症状を、点検してみなければならない。

 
 本書は、明治から戦後期に至る日本に対する批判的エッセイです。

 同時代をエトランゼ的に生きた著者自身の経験から、鋭い切り口の痛烈な言葉が次々と発せられます。

 たとえば、明治期の教育環境が生んだ悲劇に関して。

 
(p75より引用) 階級制の社会では考えも及ばなかった新しい機会均等の自由競争が、明治の親たちの心に、子どもに対して高望みを期待するようになったなりゆきを、加算しなければならないのだ。

 
 また、関東大震災が顕かにした「日本人の原型」について。

 
(p122より引用) この災害によって、何かが大きくこわれた。その何かをはっきりさせることが、重大なことなのだ。
 わずか、無秩序混乱の幾十時間のあいだに、大正人のきれいなうわっつらがひんめくられ、昔ながらの日本人が、先方から待っていたとばかりに、のさばり出てきたのだ。それは、僕ら自身のなかから、拘束し、干渉するものがいないとわかって、無遠慮に、傲慢に、鎖をはずされたならず者のように、口笛をふきながら、あたりをしり目にかけて出てきた、ほんとうの日本人なのだ。

 
 著者は、明治から終戦後までの日本近代史を、ザックリとふたつの対照的なコンセプトで概括します。

 
(p188より引用) 明治維新から終戦までの、紆余曲折にみちた日本のありかたを、人びとは、ほぼ二つの相反する立場からながめている。
 列強のあいだにあって、その餌食とならないためには、先進国にならって、実力をもって列強と競争してゆくほかなかったので、勝ちぬいたあとの終盤で敗けたのは、本懐と言うべきであるという見方が一つ。つまり、「明治百年」をよしとする見方である。もう一つは、日本は、列国のあとにくっついて帝国主義をおしすすめ、朝鮮を併合し、満州やモンゴルから北中国を侵略しようとして泥沼に落ち、太平洋とビルマで惨敗して、城下の誓いをさせられ、百年の野望が破れた。それを幸いとして、その後は平和設計に切りかえた、それからの日本のありかたこそ、正しいものであるという、「戦後二十年」をよしとする説とである。
 僕としては、この明治百年説にも、戦後二十年説にも、手放しで賛成することはできない。そのどちらにも、警戒すべき点が多いからである。

 
 どちらの考え方にせよ「右向け右」で全員そろって一気に右に向いてはまずいのです。
 明治の富国強兵期、戦後の復興期といった一時の繁栄に過度に傾倒してはだめなのです。

 
(p190より引用) 日本人の誇りなど、たいしたことではない。・・・世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。

 
 著者のいう「絶望」は、現実を受け止めた「大いなる反省」なのかもしれません。
 

絶望の精神史 絶望の精神史
価格:¥ 987(税込)
発売日:1996-07


クチコミblogランキング TREview

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする