新聞の書評欄をみて興味をもったので読んでみました。
ともかくタイトルに強烈なインパクトがありますね。“心は数学”、一体何のことだろうと思ってしまいますが、こういったシンプルなテーゼで表される「概念」を著者は重視しています。
(p216より引用) 概念は、ある意味現代における「絶滅危惧種」かもしれません。脳科学においては特に実証のほうが重んじられる傾向にある。でも、新たな概念が生み出されれば、そこでは見方が変わりうる。今までまったく分からなかったことに道筋がついていく、ということがある。だから概念の多様性を守っていくことはきわめて大切だと思います。
たとえば、「脳と心」について。この関係については、古来、一元論・二元論というふたつの論陣が張られていたのですが、現代の脳神経科学の論調を著者はこう総括しています。
(p52より引用) すなわち、エピキュロスやホッブスがとった、心は脳の物理的状態に還元でき、物理学の概念で説明できるとする還元的唯物論、あるいはダーウィンがとった、心は進化するにつれて新たな性質を持つようになる脳の諸活動の集合である、とする創発的唯物論の立場です。
こういった「心は何らかの脳の活動状態である」という考え方に対して、著者は「心が脳を表している」との仮説を掲げています。
胎児のころから生まれ出て以降、初期の脳神経系の形成過程においては周りの人々たちの行動や言葉がインプットされて行きます。そういった意味で著者は「赤ん坊時点での脳は他者の心によって構築されているのはないか」と考えているのです。
この考え方を進めていって、
(p55より引用) 他者の心からなる「集合的な心」のようなものがあって、それが個々の脳を通して「私の心」として表現していく・・・「脳とは集合的な心を個々の心に落としこむための生物学的な器官である」
とても興味深い説ですね。
そして著者は、「心とは何か」を解くためには「脳科学だけでは不十分」という結論に至ります。そこで登場するのが「数学(数学的マインド・純粋数学)」です。あらゆるものに思いを致すことができるのが「人の心」であり、そこに、「数学の定理が持つ普遍性」を重ね合わせているのです。
本書では、こういった「概念(コンセプト)」をスタートに新たな発見に向けた議論を紹介しています。
(p132より引用) エピクロスの原子のイメージがちょうどカオスの本質と一致するように、古代の中国や古代ギリシャ時代に当時の人々が概念的に考えていたことを我々は現代科学としてやっている。そこが科学の面白いところでもあるし、実証に先立つ概念というものの奥深さを知るきっかけでもあります。
と、全編を通じてこういった調子で著者の解説は進んでいくのですが、正直なところ、本書は私にはかなり手強かったです。
高校時代も、思考の方法論という程度の「数ⅡB」までしかやっていなくて、いわゆる「学問としての『数学』」の素養は全くないわけですから、こればかりは致し方ありません。
(p172より引用) 脳がエピソードを記憶するときにも、この縮小写像が使われているのではないか。つまり、無限個のエピソード記憶がありうるわけですが、それを有限の領域に記憶させることが、カントル集合を介在させることで可能になるのではないかと考えているのです。
とか論じられても、情けないことに「???」。さらに、
(p119より引用) カオスは・・・数学的には超越的な性質を持っています。つまり、カオスの中には可算無限個(数え上げられるが無限個)の周期軌道と非可算無限個(数え上げることができない無限)の非周期軌道が存在し、また自分自身に繰り返し任意に近づくような稠密軌道が存在しています。これらは有限の計算や観測では、その真の姿を捉えることができないような複雑なものです。
といった記述を読んでもチンプンカンプンで、ただ確実なことは「私の頭の中が“カオス”状態になった」ということでした。
結局「心は数学」という著者の興味を惹く主張は、残念ながら私には理解できずじまいで終わったようです。もっと、基本的な「数学」を学んでおかないと・・・、残念です。
心はすべて数学である | |
津田 一郎 | |
文藝春秋 |