久しぶりにいわゆる “古典” と言われるものを読んでみたくなりました。
かといって、大著にトライする元気もないので、とにかく「薄めのもの」をと思い手にとったものです。ちょっと前に読んだ五木寛之さんの「折れない言葉」という本の中で、この本の一節が紹介されていたんですね。
ご存じのとおり、著者のマルクス・トゥッリウス・キケロは共和政ローマ末期の政治家・文筆家・哲学者。
本書は、古代ローマの政治家・文人大カトーが二人の若者を自宅に招き「老い」について語った対話篇という体裁です。
流石ですね、現在にも通じる興味深い話がいくつも開陳されています。それらの中から2・3、覚えに書き留めておきましょう。
まずは、老年を耐えやすいものとする要諦を語った大カトーの言葉。
(p16より引用) スキーピオーとラエリウスよ、老年を守るに最もふさわしい武器は、諸々の徳を身につけ実践することだ。生涯にわたって徳が涵養されたなら、長く深く生きた暁に、驚くべき果実をもたらしてくれる。徳は、その人の末期においてさえ、その人を捨て去ることはないばかりかーそれが徳の最も重要な意義ではあるー人生を善く生きたという意識と、多くのことを徳をもって行ったという思い出ほど喜ばしいことはないのだから。
そして、本稿で、大カトーは「老年が惨めなものと思われる理由」をあげて、それぞれについて論を進めていきます。
(p22より引用) 第一に、老年は公の活動から遠ざけるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。 第三に、老年はほとんど全ての快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから。
の四つです。
その中の「老年には快楽がない」との説の検討において、大カトーは、年齢を重ねた偉人たちの研究や学問に向かう情熱的な姿勢を示し、こう評価しています。
(p51より引用) この快楽は、思慮深くきちんとした教育を受けた人にあっては年齢と共に育っていくので、先にも述べたが、ソローンがある詩で語った例の言葉、「自分は日々多くを学び加えつつ老いていく」というのは見上げたものである。このような心の快楽にもまして大きな快楽は決してありえないのである。
いくら年老いたとしても、どこまでも学問を極めようとする探求心が“心の快楽”だというのです。学びと老いの並走です。決して“人生の下り坂”“幕引きへの準備”ではないんですね。
さて、本書、本編だけなら70~80ページほどの論考ですが、内容は大いに興味をそそられます。さすがに深い思索を求められるような指摘もあれば、いつの時代でも老人の為す様は同じだと感じる微笑ましい記述もあります。
いずれにしても、時折は、この手の著作にもチャレンジし続けたいものです。「学究として」というまでの真剣さは持ち得ないのですが、私も還暦を過ぎ、“時折”“少しでも”日頃とは異なる脳の部位を使ってみようとの “悪あがき” といったところです。