ちょっと前に、同じ小佐田定雄さんによる「米朝らくごの舞台裏」を読んだのですが、さすがに落語作家だけあって噺の機微にも精通しているうえに、米朝師匠とも親しかった小佐田さんの解説はとても興味深いものがありました。
ということで、今度は私の大好きな噺家さん「二代目桂枝雀」師匠をとりあげた著作を読んでみることにしました。
こちらの本でも、枝雀師匠の座付作者でもあった小佐田さんならではのとっておきの話が満載でしたが、そのいくつかを覚えとして書き留めておきます。
まずは、いかにも枝雀師匠らしい “芸談”。
(p136より引用) 演じ手である落語家が「今日は一度もトチらなかったし、テンポよくしゃべれた」と満足している時は、お客の反応はいまひとつで、ボロボロの二日酔いで舌は噛むわ、リズムは狂うわでほうほうのていで高座を降りて来た時に限って「今日の高座、良かったですね」と褒められることがある。 なんでやと思います?・・・
「自分でうまいこと行ったと思うてる時は、芸が高座の上で完結してしもうてて、客席まで届いてないのとちがいますかなあ。ところが、こっちが不調で脂汗流しながらやってると、舌かんだり、言い間違いした時に「あ、お客さん、ちょっと待っとくなはれ』という気が客席に飛んで行って芸が行きわたるんやないかと思うんです。
「芸が高座の上で完結してしまう」とか「(客席に)芸が行きわたる」とかなんとも枝雀師匠らしい言い回しですね。
もうひとつ “芸談” といえば、「宿屋仇」にまつわる米朝師匠との絡みの思い出。
(p223より引用) 『宿屋仇』が話題となって、いろんな芸談を聞かせていただいたのだが、おしまいに米朝師が、
「いろいろ言うてるけども、わしもいっぺんでええさかい『宿屋仇』をきっちりと演じてみた いと思うてんのや」とポツリとおっしゃった。米朝師がお帰りになったあと、枝雀さんはげっ
そりした表情で、
「わたしら、このネタのことが分かったような気になってましたんやけど、師匠にあんなこと言われたら、どないしたらよろしいねんな」
『宿屋仇』、絶対に一筋縄ではいかない噺なのである。
枝雀さんですら感じる、名人・上手それぞれの目指すべきところの違いです。
エピソードといえば、弟弟子の桂ざこば(朝丸)さんとの思い出話も枝雀さんの優しさに溢れたものでした。
お二人はとても仲の良い兄弟弟子だったそうです。小米・朝丸時代のこと、ある日、雨の中、捨てられていた仔犬を可哀そうに思い牛乳を買いに走った朝丸さんをみた枝雀さん。
(p95より引用) 小米はおなかの底から、「えらいやっちゃなあ」と思ったのだそうだ。
「わたしら妙に賢いというか醒めたとこがおますやろ。ついつい自分の都合のええ理屈で判断してしまいますねんけど、朝丸にはそういうところが一切おまへん。自分の心に正直な男ですねん。ほんまにえらい男です」
そう語った枝雀さんの声は泣いていた。
こういう純真さが、決して忘れられない枝雀さんの人としての魅力であり真髄です。