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ラジオと戦争: 放送人たちの「報国」 (大森 淳郎・NHK放送文化研究所)

2024-03-17 12:17:03 | 本と雑誌

 

 いつも聴いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の大森淳郎さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。

 大森さんは長年NHKでディレクターとしてETV特集等を担当していた方です。
 本書は、その大森さんが、NHK放送文化研究所の月刊誌「放送研究と調査」で連載した記事をまとめたもので、太平洋戦争当時、ラジオ放送に関わった「放送人」が何を考え、どう行動し、何をしなかったのかを貴重な証言や音源から顕かにしていくノンフィクション作品です。

 紹介された数々の興味深いエピソードの中から、特に私の関心を惹いたものをいくつか書き留めておきましょう。

 まずは、日本放送協会(1926年に設立された社団法人:1950年設立の現在のNHKの前身)のラジオ放送における「国策的ニュース編集のはじまり」

(p35より引用) 日本放送協会報道部による同盟配信記事の書き換えは、単に“書き言葉”を“話し言葉”に変換するだけではなく、国策的効果をさらに高めることを目的として行われていた。それは、報道部員の自発的な「工夫」「努力」によるものであり、やりがいでもあった。

 この目的に沿った軍とラジオ報道との連携は、「盧溝橋事件」で具体的に示されました。

(p50より引用) 盧溝橋事件を好機と捉え、全面戦争に突き進もうとする軍は、ラジオを積極的に利用しようとしていた。そして、ラジオニュースは客観性を装いながら、そういう軍に協力していた。・・・
 停戦に向けた現地の努力を無視するかのように日中全面戦争へと突き進んでいった軍・政府の姿勢を正当化すること。それがラジオニュースの「国策的意義」だった。

 こういう「国策」を支援する機能としてのラジオ放送も、当初は “報道” としての位置づけも持っていました。それが、1930年代初期満州事変勃発ごろから大きく変異していきます。
 1932年に実施された「全国ラジオ調査(逓信省電務局)」も単なる聴取者の意見を聞くアンケート調査ではありませんでした。
 「全国ラジオ調査」と「日本放送協会の機構改革」を主導した逓信省の田村謙治郎の言を大森さんはこうコメントしています。

(p184より引用) まがりなりにも報道機関であるはずのラジオから、何よりもまず「ジャーナリストの思想」が一掃されなければならないと言うのだ。「ジャーナリストの思想」とは何か、田村は説明していない。それが権力に抗してでも人々に事実を伝えることだとすれば、田村の言わんとするところは、ラジオが発信する情報は嘘でもデマでも構わない、ラジオは民衆を政治権力に「追随せしむる」ためにある、ということだ。そして民衆を「追随せしむる」ためには、ラジオが民衆の「要望に調和して」いるかのように見せなければならない。これこそが「全国ラヂオ調査」を逓信省が行った理由だった。

 戦時下のラジオ放送は、戦況の報道のほかにも、こういった国民の教化・先導という役目も担っていました。むしろその役割が急速に強まっていったのです。
 たとえば、日米開戦以降、“皇国民錬成上欠くべからざる教育のひとつ” と位置づけられた学校教育の場での「国民学校放送」。「三年生の時間」の例です。

(p264より引用) 「三年生の時間」の聴取例として挙げられているのは「音楽」の授業で、課題曲は「潜水艦」だった。東京放送管弦楽団の演奏を聴き、またそれに合わせて歌う授業で、「戦時下少国民の海事思想を鼓吹」することを目的とするものだった。
 教師は、楽団の演奏を「全身を耳にして聞き入る」ように指導した。・・・聴取後には「波をけって、太平洋のまん中で米、英のにくい艦隊をやっつけている姿が頭に浮かんだ」「兵たいさん有難うといってもいいきれないほど有難い」などの感想があったという。
 西本は「音楽のもつ感激性は、共に歌う者の心を融合して不知不識の中に全体的意識を昂揚し、国民的結合を強くするに至る」と音楽の重要性を強調しているが、それは例えばこのように具現化されていた。

 「音楽」という芸術教科においてすらもこういった様子でした。
 冷静にみれば誰もが異常だと思うような活動が、無批判にそれこそ本気で実施されていたという事実の重みは計り知れないものがあります。ちなみに、私の父母は開戦直後に国民学校の学徒でしたから、まさにこの世情の中で児童教育を受けていたんですね。

 こういった “ラジオ放送” はアナウンサーにより伝えられていましたが、その語り口も太平洋戦争突入と同時に「淡々調」から「雄叫び調」に大きく転換しました。
 1941年12月8日開戦の臨時ニュースを読んだ館野守男アナウンサーはこう語っています。

(p394より引用) アナウンサーが「宣伝者」として生まれ変わることが要求された。宣伝者たるには、第一に情熱の人でなければならない。アナウンスは人に訴え人を説得しようと云う劇しい強調の精神を持たなければならない。強調によって聴取者に訴え、情熱によって国民を捉え、其の感情を結集し、組織し、之を一定の方向 へ動員しなければならないのである。

 アナウンスそれ自体が、国民を扇動し戦争に動員するための手段とされたのです。

 しかし、こういった勇ましいラジオ放送も、隠蔽不可能なほどの戦況の悪化を受け、その役割も変化していきました。

(p432より引用) 戦局苛烈化に伴い国内の決戦体制は急速に確立され、一切を挙げて戦力増強に集結するよう着々と手が打たれているが、他面、(中略) ややもすれば陰鬱焦躁の気持ちが起こり、これが戦力増強に好ましからざる影響を与える虞れもあるので、放送は国民の慰安娯楽の機関として、国民の気持ちを明るく引き立て、明朗闊達な気持ちを盛り上げるように努めることが今日特に要請されている。
 情報局はそれまで放送を「国策の周知徹底、国論の統一、国民精神の昂揚という大目標に向かってその全機能を発揮」するべき「政治機関」と位置づけてきたが、今度は「国民の慰安娯楽の機関」だというのだ。

 虚構を流布するよりはましとは言いながらも、なんとも、ご都合主義的な方針転換でしょう。
 もちろん、この明朗闊達な放送は、ただでさえ厭世気分漂う国民を鼓舞し、最後の戦意高揚を企図したものでした。
 そして、ショッキングなことですが、

(p436より引用) ラジオは軍・政府の方針・施策を機械的に媒介する装置ではなく、もっと主体的なものであるという自負を強く持っていた。彼らが情報局の指針を実行するのは、そうするしかなかったからではない。そうすることが誇りであり、自らの存在理由だった。

 ここでいう「彼ら」とは日本放送協会のラジオ制作関係者であり、アナウンサーたちでした。

 そして、戦後、サンフランシスコ講和条約が発効した後も。

(p563より引用) 日本の政治権力は変わらなかった。放送への、とりわけ公共放送NHKへの影響力を保持しようとしてきた。そして、そういう権力に同調する勢力がNHKの内部に存在し続けたことも変わらなかったことである。すべての番組が政府協力の一線で統一されていなければならないと放送現場に通達した企画委員会の委員たちはその典型であろう。・・・彼らにとって、「公共放送」の意味するところは、戦前・戦中と変わってはいない。それは、政府と一体となった放送のことだ。

 もちろん、NHK内部にも、こういった考えとは異なる「公共放送」の意味を主張する人間もいました。
  解説委員室主管・中沢道夫さんは「放送の自由・覚書」と題する論考のなかでこう断じています。

(p564より引用) なるほど、NHKは、政府の政策を国民に徹底させることに協力すべき任務をも、もっている。しかし、それはNHKが政府の御用機関であることを意味しないことは言うまでもなかろう。政府に対する批判は 当然とりあげるべきものであり、政治的には公平でなければならない。NHKのこうした立場が尊重されるのでなかったならば、公共企業体としての生命と存在意義は、全く失われると言っても過言ではない。

 今、2024年、少し前には「忖度」という言葉を世間の其処此処で耳にしました。
 NHKに代表されるテレビ・ラジオはもとより、すべてのマスメディアの圧倒的な劣化が顕在化しているなか、本書で明らかにされた戦時下の報道・放送の実相が “デジャブ” として現れることがありませんように。

 この大森さんの丹念な取材を積み上げた力作が、広く報道にかかわる人々にとって “メディアの矜持” を思い起す起爆剤となるよう、また、そういった健全なメディアの営みを底支えをすべき人々への気づきとなることを期待します。

 

 


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