ウィレム・
かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は “名古屋”と“仙台”です。仙台には先々月、名古屋には先月、久しぶりに出張で訪れました。1つの作品で二か所をカバーです。
ネタバレになるとまずいので、内容には触れませんが、この作品では私が実際に訪れたところは登場していません。強いていえば、時間があったので足を延ばしてみた「松島」あたりでしょうか。
さて、本作品は、浅見光彦シリーズでは珍しい “暗号” 解読がひとつの柱になっています。
ただ、面白いトライだと思いますが、正直ちょっとプアでしたね。暗号と言うにはあまりにも解読にあたって無視したもの(文字)が多すぎますし、ヒントもかなり無理筋です。さらには、なぜそれを暗号にして残していたのかという点についても納得感がありません。
文庫本で400ページ程度の長編ですから、もう少しいろいろなエピソードや伏線を盛り込むことができたのではと思いますが、ボリュームの割にはミステリー本体の密度が希薄ですね。
こうやって久しぶりに何作か読んでみると、最初に浅見光彦に出会ったころの新鮮で強烈なインパクトが蘇ってこないのが残念です。
鎌田實さんの著作は今までも何冊か読んでいます。通底する考え方の方向や自然体の語り口が私の好みにあっているというのが主な理由です。
本書もいつもの図書館の新着本リストの中で目に付いたので手に取ってみました。
テーマは“孤独”。鎌田さんが勧める“孤独への処方箋”です。
まずは、鎌田さんが本書で取り上げている「孤独」とはを語っているくだりです。
(p30より引用) 「孤独」とは、いつもポツンとひとりでいることをさすのではありません。・・・ 周囲の“雑音”に惑わされずに自分が気持ちよく暮らし、自分の中に「新しい自分」を芽生えさせることです。そうやって生まれた新しい自分の力を自分の中に充満させること。それが「ちょうどいい孤独」というものであり、ソロで生きることで、この力が増幅されます。
肯定的なニュアンスですね。また、こういう説明もしています。
(p70より引用) 「孤独」とは、「単独で生きろ」という意味ではありません。夫婦でいても友人といても、お互いの距離を保って、個人としてきちんと存在し続けることが大事なのです。
本書は、鎌田流の「積極的な孤独」のススメですね。
ただ私自身意外だったのですが、今のような時期にそういったテイストの本書を読み通してみて感じたのは“大きな違和感”でした。いままでは鎌田さんの著作には首肯できるところが多くあったのですが、本書は「どうもノリが違うなぁ」という感じを抱きました。
原因は何か・・・、本書で扱われている「孤独」論には、まさに今直面している「貧困」という大きな社会課題への考察が抜け落ちているのですね。
たとえば鎌田さんは「ひとり時間の鍛え方」の項でこう語っています。
(p128より引用) 生活習慣を少し変えて、自分流のひとり時間をつくってみてください。ここから行動変容は始まります。 再三述べているように、ひとりで過ごす時間は自分を再発見するための時間であり、人生を豊かにするための糧になる時間だからです。
でも、どんなふうに「ひとり時間」を過ごせばいいのか? 結論は「やりたいことを思う存分やってみる」「自分を解放して、より自由な自分になる」ということに尽きます。
自分の思うように時間を使えるのは孤独の特権。食べたいもの、見たいもの、行ってみたい場所、誰にも気兼ねなく、思う存分やってみることをおすすめします。
確かにそうかもしれませんが、自己責任論が蔓延し人々の間に大きな分断が生まれている今の格差社会では、「働くのが精一杯で、時間に余裕がない」「お金がなくて、やりたいことなどできない」「健康を害していて、自由に動けない」といった方々が急激に増加しているのが現実なのです。
もちろん鎌田さんも、その点は承知されているのですが、この危機的状況についての言及はほとんど見られません。
確かに取り上げたテーマや視点は違います。とはいえ、「孤独」というキーワードを掲げているのであれば、“貧困”や“分断”により生まれる「望まない孤独」への言及なくして “孤独” を語るのというのは、やはり今の社会を思うとどうにも物足りない論考のように捉えてしまいます。
最終章まで読み進めると「鎌田流の“死への向き合い方”」がテーマなのだと明確になりますが、それでも、やはり“ある程度の生活水準の人々”を前提にした内容です。
だからといって、本書での読者へのメッセージとしては決して間違ったものではありませんし、鎌田さんの熱意も十分に伝わってきます。ただ、ちょっと前に大空幸星さんの「望まない孤独」を読んで受けたインパクトが大きかっただけに、鎌田さんの著作としてはちょっと残念な出来栄えだなぁと感じたということです。
いつも聞いているピーター・バラカンさんのpodcastの番組に著者の赤塚りえ子さんがゲスト出演した際に紹介していた著作です。
赤塚さんはギャグ漫画家赤塚不二夫さんの娘さん。
不二夫さん自身もハチャメチャでしたが、ご家族もかなり個性的で飛び抜けたキャラクタだったようです。当然、再婚メンバーも含め、とんでもない暮らしぶりのファミリーでした。
家族の記録として、ともかく想像を絶するエピソードが満載のこの本ですが、それらの中から、両親の離婚を経て、りえ子さんが語る “赤塚ファミリー” の姿を一言で語ったくだり。
(p120より引用) 今から思うと、うちはもともと「母子家庭に赤塚不二夫がいる」という家庭だったの かもしれない。
パパは家族というよりも、『天才バカボン』の登場人物のようだった。
晩年、赤塚不二夫さんは時折テレビの対談番組にも出演していました。その姿は「真面目にギャグを体現している」という様で、本当に純粋な方なんだなと感じ入った記憶があります。最近目につく“他人を貶めて笑いを取る”やり方とは全く別次元の「天才的エンタメ・クリエーター」でした。
さて、本書に記されている赤塚不二夫さんの人となりの中から、私の最も印象に残った “ザ・赤塚不二夫” というべきエピソードを書き留めておきます。
(p189より引用) 七三年、当時「週刊少年マガジン」(講談社)で連載していた『天才バカボン』の担当だった五十嵐隆夫さんが、できあがったばかりの原稿をタクシーの中に置き忘れてしまったことがある。タクシーには連絡できない。翌日には印刷所に原稿を渡さなければな らない。五十嵐さんは、顔面蒼白でパパのところに駆け戻って来た。
事情を話し謝罪すると、パパは言った。
「ネームが残っているから、また描ける」
そして、失態を責めるどころか、五十嵐さんを元気づけた。
「まだ少し時間がある。呑みに行こう!」
パパは酒場でも、意気消沈している五十嵐さんを気遣ってギャグを飛ばしていたという。
帰ってくると、また何時間かかけて同じ原稿を仕上げた。
「二度目だから、もっと上手く描けたよ」
そう言って、原稿を五十嵐さんに手渡した。
後日、紛失した原稿が戻ってきました。それを赤塚さんからプレゼントされた五十嵐さんは、その時以来赤塚さんが亡くなるまでの35年間、ずっと大切に保管していたのだそうです。
このあたりも、本当に“純粋”な赤塚さんですね。
久しぶりに最寄り駅のショッピングモールに入っている書店をのぞいていて、タイトルが目に飛び込んできた本です。
ここ数年、ほとんどテレビは観なくなりました。ともかく内容の酷さに閉口です。NHKもご他聞に洩れず、バラエティはもちろんニュース番組も劣化が酷いですね。何とかある程度のレベルで踏み止まっているのは数少なくなった「ドキュメンタリー番組」ぐらいでしょう。
日本の超高齢化社会は避けようもなく、かく言う私も、もうすぐリタイヤという歳になってきました。“老後破産”というワードは決して他人事ではありません。ある程度予想はしていましたが、本書で取り上げられた「高齢化社会」の実態はそれを遥かに凌駕するインパクトでした。その中からいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「第一章 都市部で急増する独居高齢者の「老後破産」」で紹介された田代孝さん(83歳)のことばから。
(p61より引用) 貧乏の何が辛いってね、それは周りの友だちがみんないなくなっちゃうことなんですよ。どこかに行こう、何かしようといってもお金がかかるでしょ。それがないために、断らなければいけない。そのうちに、誘われないようにしようとする。それが辛いんですよ」
「誘われないようになる」のではなく、自ら「誘われないようにする」というのです。結果、「友人」はもとより「社会」とのつながりを失ってしまう。そうなると「生きていること」の意味を問い始め、“生きる気力” までも失い始めるのです。
もうひとつ、立っているのもやっとの体でひとり暮らしをしている菊池幸子さん(仮名)の取材を通しての記者の思いです。
(p130より引用) 菊池さんに必要なのは、介護サービスの充実だが、その介護費用の負担が生活を追いつめている。しかし、十分に介護を受けるための制度は「生活保護制度」しかないのだ。「老後破産」を未然にくい止めるための制度―たとえば医療や介護の費用の減額や免除など―そういった事前の策をもっと拡充させなければ、「老後破産」の末に生活保護を受ける高齢者が増加し続けることは避けられないと見られている。社会保障費の抑制を前提にしても、「老後破産」に陥らせない制度の構築が待たれるのではないだろうか。
持ち家や貯蓄がある限り生活保護を受けることができない制度(注:生活保護制度適用にあたっては、例外事項を含む細かな条件が規定されています)。それらを全て手放して「老後破産」にまで至らせないと機能しない今の社会保障の仕組みですが、その手前で救いの手を差し伸べる方がトータルで捉えると「社会的コスト」を抑制することができるはずです。
家族が支えとなることを前提とした社会保障制度は、家族の形態が大きく変化した今日、機能不全に陥っています。この実態と制度のアンマッチが「老後破産」の最も大きな要因です。
以前の家族形態に戻ることはない以上、社会保障制度を今の生活実態に合わせる形に再構築し直さなくてはなりません。
とはいえ今の財源の中でという条件づきなので、日本社会が抱える様々な課題間の優先順位づけという判断が必須になります。課題解決への道は険しいのですが、超高齢化社会の到来とそれに伴う貧困独居老人の増加は不可避です。待ってはくれません。
以前に、似たような問題意識に立つ「無縁社会(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)」を読んだことがあります。“深刻な社会の課題を掘り起こし、人々の問題意識を励起させ、解決への糸口を見出す”、こういった機能は、劣化しつつあるメディアの最後に残った存在意義です。
福岡伸一さんの著作は、代表作の「生物と無生物のあいだ」をはじめとして結構読んでいます。
本書も、いつもの図書館の新着本リストの中で見つけたので早速手に取ってみました。朝日新聞に連載されたエッセイの書籍化とのことです。
お馴染みのテイストの話の中から、私の関心を惹いたところを書き留めておきます。
まずは、「偏見の源、脳が作る物語」より。
(p99より引用) 米国ロックフェラー大学の私の師にあたるB・マキュアン教授のドアにはこんな標語が貼ってある。「発見の障害になるのは無知ではなく既知である」。知っているつもりのこと、すなわち偏見が、真実を見る目を覆い隠してしまうことはよくある。
“真実を見えなくする” のは「偏見」に止まらないですね。昨今のSNSの場をはじめとした「フェイク写真」「フェイクニュース」の流布により、歪んだ印象や間違った理解が醸成されやすい環境になっていて、「知ってるつもり」の弊害はますます増加・拡散しています。
次は、福岡さんの代名詞とも言うべき「動的平衡」を扱った「作ることは、壊すこと」の中のコメント。
(p118より引用) ところで世間では、しばしば、解体的出直し、といったことが叫ばれるが、全てを解体しなければニッチもサッチもいかなくなった組織はその時点でもう終わりである。そうならないために、生命はいつも自らを解体し、構築しなおしている。つまり(大きく)変わらないために、(小さく)変わり続けている。そして、あらかじめ分解することを予定した上で、合成がなされている。
都市に立ちならぶ高層ビル群を眺めながら思う。はたしてこの中に、解体することを想定して建設された建物があるだろうか。作ることに壊すことがすでに含まれている。これが生命のあり方だ。そろそろ私たちも自らの20世紀型パラダイムを作り替える必要があるのではないだろうか。
定期的に全面的な建て替えを行う伊勢神宮と、建立以来部分的な修繕を繰り返している法隆寺。福岡さんは、生命の本質を“動的平衡” とする立場から、より生命的なのは法隆寺だと考えています。
コンクリートのビル群、特に高層マンションは、物理的にも壊すのは大変ですが、さらに建て替えとなると“居住者の意思” が立ちはだかりますね。部分的な修繕は不可能なので、ことさら厄介です。
そして、3つめは「過剰さは効率を凌駕する」より。
(p184より引用) 無作為に大過剰を作り出すことは一見、無駄に思える。コストもかかる。しかし生命はあえてそうしている。無作為は作為にまさる。過剰さは効率を凌駕する。長い目でみれば。これが想定外に対する最良の対策であったことは、過去38億年間にわたり、いかに環境が激変しようとも、一度たりとも途切れることなく生命が続いてきた事実が証明していることなのだ。
生物は、過剰に準備しておいて環境に刈り取らせるとのことです。なるほど、これは面白い指摘ですね。
最後に、本書を読んで最も印象的だったフレーズを書き留めておきます。
(p121より引用) とはいえ、植物たちは地球上に誕生した生命の先駆者としてのノブレス・オブリージュを忘れることはない。食糧、建材、エネルギー源、そして酸素。彼らの寛容さがあればこそ、あとから来た我々が生存できるのである。
「あるときは凶暴な植物」とタイトルされた小文の一節。
食糧難、自然災害、化石燃料の枯渇、そして地球温暖化・・・、現代の人類は、この「植物」の騎士道精神に最後の生存への道を託さなくてはならないようです。光のエネルギーを利用して二酸化炭素と水から有機化合物を合成し酸素を放出する、これは地球上の生命にとって「根源的な営み」ですから。
さて、本書を読んでの感想です。
興味深い切り口でフォーカスされたさまざまな日常が軽いタッチで綴られていますが、やはり福岡さんらしく“動的平衡”を定義とする「生命」がテーマとなっている小文が印象に残りましたね。
ただ、新聞連載という形式的制約からか、正直なところ、福岡さんらしい自由奔放さや小気味良さは今ひとつ感じられませんでした。際立つインパクトがなかったのは、ちょっと残念です。