かなり以前によく読んでいた内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は “広島” です。
ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品の舞台は広島といっても出張先のある「広島市内」ではなく、県の東部の「尾道市」や県北の「三次市」周辺ですから、馴染みの場所は登場しませんでした。
それでも今回手に取ったのは、この作品が記念すべきシリーズ第1作目だというところにあります。
最初は「単発もの」のつもりだったとのこと、それだけに内田さんの筆も結構“前のめり感”が強いですね。
謎解きの舞台は芝居がかっていますし、光彦自らが“兄の威光”をかざす行動をとるのも少々強引に感じました。また、登場人物の外形的特徴が今ならちょっと避けるであろう表現で繰り返されています。このあたり時間の流れを感じますが、正直、読んでいて気持ちのいいものではありませんね。少々残念です。
しかしながら、その正統派推理小説としての緻密な構成力・論理展開力は流石に秀逸である点は揺るぐものではありません。
本作の評価が高かったのでシリーズ化が検討されたとのことですが、そうなると「第二作目」がどんなトーンで記され、その出来栄えはいかなる程度だったのか確かめてみたい気がします。
執筆順では「平家伝説殺人事件」になるようで、図書館にあれば借りて読んでみようと思います。
ちなみに、最初は、陽一郎さんの役職は「警察庁警備局公安部長」なんですね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
編者の村上陽一郎さんの著作は、最近の「エリートと教養-ポストコロナの日本考」をはじめ、いままでも何冊か読んでいます。
本書は、「専門家」をテーマに、科学・歴史・メディア等さまざまな分野の“専門家”による論考を採録したものです。
流石に“素人”である私には、なかなか議論についていくことが出来なかったところもありましたが、それでも数多くの気づきがありました。そのいくつかを覚えとして書き留めておきます。
まずは、メディア史・大衆文化論を専門とする京都大学大学院教授佐藤卓己さんによる「『ネガティブ・リテラシー』の時代へ」とタイトルされた論考の中から、メディア社会の本質を指摘しているくだり。
(p80より引用) 今日のメディア社会は、情報社会 (information society) というより情動社会(affective society) と呼ぶべきものなのである。 情動社会において客観的ニュースよりも感情的ツイートが重視されるのは当然であり、現実政治を駆動させているのは客観的な情報でも合理的な論理でもない。
最近の「フェイクニュース」も、事実ではなく、“愉快犯”的な動機による意図的なものだという点では「感情的ツイート」の亜流としても数えられますね。
そしてまた佐藤さんは、「客観的ニュース」と位置づけられがちな「世論調査」も必ずしも“輿論(公的意見)”の表明ではなく、“国民感情調査”といったものだと指摘しています。
さらに、佐藤さんの論考では、アメリカのジャーナリスト・政治評論家ウォルター・リップマンの「輿論」という著作から、“大衆民主主義に対するペシミズム”についての興味深い議論が引用されています。
(p92より引用) 「民主主義の無能力に対する救済を、いつもの教育に訴えることは不毛である。・・・教育への月並みな訴えは失望しかもたらさない。現代世界の諸問題は、教師たちが把握し、その実質を子どもたちに伝えるより速く現れ、変化するからである。その日の問題をどう解決するか、子どもたちに教えようとしても学校はいつも遅れてしまう」
そこで、そういう歪んだ民意形成プロセスを修正する情報システムとして「専門家」の存在を位置づけるという考え方をリップマンは提起しています。
そして、佐藤さんは自らの思索をこう結んでいます。
(p98より引用) 私は世論調査の民意よりも専門家の意見により大きな関心を抱いている。もちろん、大衆の感情と専門家の意見をすりあわせ、世論を輿論にまとめあげることが、成熟したデモクラシーには求められる。その意味でも、デモクラシーの理想型は「輿論主義」であり、デモクラシーが大正期にそう訳されていたことを心に刻んでおきたいものである。
なかなか面白い論考ですね。
次に、科学技術社会論を専門とする千葉大学大学院教授神里達博さんによる「リスク時代における行政と専門家:英国BSE問題から」とタイトルされた論考の中から、リスク認識における事実認識の歪みの発生を指摘したいるくだり。
(p156より引用) 技術的に把握が難しいリスクについて、もしそのリスクが明らかになることを望まない人たちが存在し、かつ、当該リスクの認識を担う専門家が、そのような人たちとなんらかの関わりがある場合、どのような事態が起こりうるか、ちょっと「思考実験」をしてみてほしい。行政判断の基礎となる科学的な事実の認識自体が歪んでしまったり、それに伴って政策判断もねじ曲げられてしまうような、そんな危うい事態が目に浮かぶのではないか。
これは、まさに今回の新型コロナウィルス感染症に対する専門家・行政・政治が絡んだ対応検討の場において生じた悪態です。
ただ日本の場合は、専門家の発言を起点にして、リスクを軽んじる動きと、リスクを増幅させる動きの双方が生じました。これはいずれも“ニュートラルで冷徹な事実認識”とは相容れない“科学軽視の反応”だったと言えるでしょう。
もうひとつの問題は、行政や政治による判断がなされる前に“専門家が、自らの専門範囲を越えて「政治的配慮」を行った”ことです。
その点から、神里さんは、
(p159より引用) どの専門家を選ぶかで、私たちの未来が変わってしまう―、これは、決して誇張ではないのだ。
と語っています。
そして、日本の場合は「審議会のアジェンダ決定及び運営、専門家の選定」は行政(=官僚)が担うのが通例です。シナリオはそこで作られるというわけです。
さて、本書を読み通しての感想です。
最初のほうに配されている「専門性」「専門家」の定義に類する哲学色の濃い論考は私の理解力をかなり越えているものでしたが、半ば以降の「専門家」と「社会」との関わりを論じたあたり、たとえば大阪大学名誉教授小林傳司さんの「社会と科学をつなぐ新しい『専門家』」で紹介された「臨床の専門家」「基礎研究の専門家」「媒介の専門家」といった類型整理とかは、私でも腹に落ちる解説でした。
その意味では、私の場合、本書での「専門家の論考」のうちのいくつかを理解するには、親切な“媒介”が必要だったようですね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
内田樹さんの著作は今までも何冊か読んでいます。本書は、映画作家の想田和弘さんとの対談を書き起こしたものです。
私にとっては、少々哲学的、抽象的な議論もありましたが、なかなか興味深い気づきを与えてくれました。お二方ならではといったコメントも含め、そのいくつかのくだりを覚えとして書き留めておきます。
まずは、「今回の東京オリンピック」について。
広告代理店による「感動の商品化」と位置づけた内田さんに続いて、想田さんの本質を突く指摘です。
(p50より引用) 東京オリンピックの招致が決まった頃に、「おめでとう、東京」とか「2020年、東京」といった言葉は、IOCの権利を侵害する恐れがあるからスポンサー企業以外は自由に使っちゃいけないという記事を読みました。その時「本質が露呈したな」と思ったんです。オリンピックはみんなのものじゃなく、IOCとスポンサー企業の私物だということですよね。私物なのに莫大な公金を使って行うということが起きた。
そして次は「新型コロナウィルス禍」により明らかになったことについて、内田さんはこういった点を挙げています。
(p72より引用) コロナでは世界中の政府が、同時期に同じ問題に直面したわけですから、指導者の能力差が歴然となった。・・・
世界中の政府の対応能力が、単一の問題に対する解答によって査定可能になった
この新型コロナ禍に対する政策を進めるうえで、現政権の“マーケット的価値観”を重視する「新自由主義的姿勢」が垣間見られました。
この風潮の中、内田さんと想田さんは改めて「デモクラシーの本来的思考」を解りやすい例示を示して説いています。
(p92より引用) 選挙で51対49で勝ったときに51の側が要求できるのは、自分たちの政策を優先的に実施することだけであって、「自分たちの政策が正しかった」と言う権利ではありません。
(p94より引用) 「民意を得た」という言い方がよくされますけれど、これはきわめて不正確な言葉づかいだと思います。51対49で勝った場合、その差はわずか2ポイントです。100対0で勝った場合と、51対49で勝った場合は、そこに託された民意を同一視するわけにはゆきません。でも、この「民意の程度差」に配慮するということを彼らは決してしません。
と内田さんは語ります。現実は、そこに「低投票率」という要素も加わります。そうなると51は過半数かどうかも怪しくなり、「民意を得た」とは到底言えない状況なのが実態でしょう。
(p92より引用) デモクラシーとは本来、共同体の構成員人ひとりを尊重し大切にするという思想であり、政治体制だと思います。ですから51対49で勝ったなら、49の事情や利益に配慮しながら、政策を実施するという公共性が政治家には求められます。
たとえば友達同士10人で食事をしようというときに、焼肉に行きたい人が4人、インド料理に行きたい人が3人、イタリア料理に行きたい人が2人、肉を食べられないベジタリアンが1人いたとします。・・・
・・・そういう場合、たとえ焼肉派が最大多数だったとしても、肉食にもべジタリアンにも対応可能なインド料理に行こうと提案するのが、本来のデモクラシーのリーダーだと思うんです。それが「一人ひとりを尊重し大切にする」ということだからです。
と想田さんは話します。まさにそのとおりですね。
こういった“民主主義”や“多数決”の基本的な考え方を、本来であれば、初等教育のなかでしっかりと理解させるべきなのですが、今の世情をみると永田町あたりで授業をした方がよさそうです。なんと情けない状況でしょう。
さて、本書の内容に戻りますが、お二人の対話は「時間」をテーマにした思索にも進んでいきます。“直進する時間”と“循環する時間”です。
想田さんは牛窓(岡山県)での暮らしで“循環する時間”で生きることを実体験しています。
(p218より引用) 想田 やはりこれからの「下り坂」の時代を生きる上では、時間の転換が 重要だと改めて感じます。
一直線に進んでいく時間をゼロにはできないにせよ、そのスパンを引き伸ばしつつ、循環する時間の比率を高めていく。そしてできれば、循環する時間をメインの時間感覚にしていく。地方移住、里山構築などにおいても時間のイメージを転換していくことが前提になると思います。・・・
そして、その時間感覚の転換が「いいこと、かっこいいことなんだ」と多くの人に感じてほしいですね。
この話を受けて、
(p218より引用) 内田 定常経済を「非現実的だ」と批判する人がよくいますけれど、定常経済に行き着くことはもはや歴史的必然だと思います。もう地球上には資本主義が収奪すべき資源が残っていないんですから、エンドレスの経済成長から定常的な循環への切り替えの時期が来ていると思います。循環というのは停止のことではありません。定常経済システムを維持するためには、それなりに活発な経済活動が必須です。
と、内田さんは“定常経済”への移行は、今に生きる人類にとっての歴史的ミッションだとも語っているのです。
とても面白い刺激的な議論だと思います。
このところ “脳みそに優しい”エンタメ的な小説を手に取ることが多かったので、やはり時折はこういったテイストの本を読むのもいいですね。
「オリエント急行殺人事件」「ナイル殺人事件」と、このところアガサ・クリスティーの作品が原作となっている映画を何本か観ていて、その流れで小説にもトライしています。
今回は「そして誰もいなくなった」。これもアガサ・クリスティーの代表作ですね。
小説なので、ネタバレになるような引用は避けますが、流石に、とても評価の高い作品だけのことはありました。
物語の柱はとてもシンプル、さらにタイトルがまさに示しているとおり“結末も明示”されています。そのうえでしっかりとサスペンスとして読者を楽しませるのですから素晴らしいですね。
場面展開も子気味よく、情景描写にも無駄がありません。それでいて、島に閉じ込められた招待客たちが受けるピリピリした緊迫感はしっかりと伝わってきます。
最近の日本のサスペンスには、奇抜なプロットや複雑怪奇な物語を作り上げて、いかにも「どうだ、よく考えてあるだろう」とアピールしているような作品が数多く見られますが、この作品はひと味もふた味も違います。
原作がしっかりしていると映像作品になっても見応えがありますね。
もちろん「原作」には及ぶべくもありませんが。
2021年第19回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作とのこと。
私は、最近の流行作家の方の小説はほとんど読まないのですが、テレビドラマ化された番組の評判も結構高いようなので、原作を読んでみることにしました。
テレビの方は観ていません。素直に「ミステリー小説」としての感想です。
主人公は “バリバリの若手女性弁護士”。作者の新川さんご自身も弁護士なんですね。ディーテイルにリアリティがあるのも当然です。
さて、「タイトル」がキャッチーな本作品ですが、それに加えて「主人公」がとても個性的なキャラクタで、このプロットが本作の魅力の源泉になっているように感じました。
まあ、小説そのものについての正直な感想としては、登場人物が多くて目くらましが過ぎるように思いましたし、エピソードの内容や配置も必要以上に複雑で、私にはちょっと「合わないな」との印象でした。
特に、最後の最後になって、それまでの伏線を回収しつつも、さらに新たな縺れた糸を示しながら謎解きを語るといった“まどろっこしい構成”はいかがなものかと思います。
「どうだ、ここまであれこれ考えているんだぞ」という気概は感じますが、そこは、“過ぎたるは及ばざるが如し”、もう3割ぐらいあっさりした仕上げに留めておいた方がスマートでしたね。
せっかくシリーズ化しても耐えられそうな「エッジの利いた主人公」を登場させたのですから、ちょっと残念です。